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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

カテゴリー「■ のふう草」の記事一覧

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雪と籾とすずめ

yuki2.jpg 1月半ばから数日間続いた寒波で、雪の少ないわが地域でも、毎朝数センチから、多い時には20センチの積雪があり、あたり一面雪に覆われてしまいました。
 めったに積雪しないところなので、白菜や大根、ねぎ、ほうれんそうなどは、使う度に畑に採りに行っていたのが、雪に覆われてしまい、仕方なく、冷たさをこらえて雪をどけながら、凍った野菜を採りに行く羽目となりました。
 雪雲が去って、陽射しが戻り、庭や畑に積っていた雪が少しずつ融けだし、地面があらわれてきました。離れの東の壁際に、大根やさき干し、干し柿を吊るす竿が2本かけてあります。その下の雪も融けて、そこにもみ殻が散らばっていました。不思議に思ってよく見ると、竿の端っこに稲わらが掛けてありました。その稲わらは、昨年秋に、地元の小学校で「自然と農業」というタイトルで、なかよしクラブ(小学生の縦割り学習グループ)にお話しをした時に使った籾のついた稲わらで、その後、そこに掛けたままにしてあったのでした。
 そういえば、まだ雪の積もっていた朝の起きたてに、生ごみを畑に持っていこうとして、離れの東に出たところ、すずめが5~6羽、サーっと飛び立ったことを思い出しました。すずめたちも、あたり一面の雪で食べる物がなく、籾のついた稲わらを見つけたのでしょう。これはごちそうと、仲間でやって来てチュンチュンついばんだようです。この稲わらは、正直なところ、どうしようかと思っていたものなので、すずめたちが食べてくれるのならよかった、よかったと思いました。
 このもみ殻に義母も気がついて「あんなところにもみ殻をかけとくで、すずめに食べられたやないか。あの稲束は祈願祭に使って貰うとええと思っとったで、すずめの来んところにしまっとかなあかんで」と言われてしまいました。祈願祭とは、2月中旬に集落で行うもので、その年の豊穣を願って、集落の代表者が、氏神様にお供えをして祀る行事です。
 義母はやはり根っからの農婦でした。田んぼに稔っているうちから稲を食い荒らすすずめに同情するどころか、大事な祈願祭の稲束をも食ってしまうすずめから、稲束を守らなければいけないのです。すずめが一時の空腹を満たせてよかったと思う私などは、まだまだ足元にも及ばない農婦の心構えです。
 そして私にはまだ、「雪が降るようなら、早めに野菜を採っておかなあかんで」ということも抜けていました。そんなところもすずめと同じなので、同情心が沸いたのかもしれません。稲わらは、祈願祭に必要な分だけをしまって、後はそのまま掛けて置くことにしました。祈願祭は大切な行事で、豊穣を祈る気持ちはあるのだけれども、有り余る米、売っても安い米の時代の農婦なのです。

福田美津枝
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さき干し大根のこと

 秋の終る頃、わが家では大根を抜き、川から引いている水路で洗って、4本ずつを藁で束ねて、竿に干します。
 その大根の半分くらいは、数日後に沢庵として2つの桶に漬けこみます。
 残りの干し大根はさき干しにします。大根の皮を剥いて、横に寝かし、包丁で1センチくらいの厚さになるようにへいでいきます。大根を1センチ幅の縦切りにするわけです。その1枚ずつをまな板の上に寝かし、とがった包丁の先で1センチ幅に切っていくのですが、この時、大根の根の先の方を切り離さずにつけておきます。つまり、大根の先がつながったすだれ状のものになります。この大根の先のつながったところにひもを渡して、竿にかけて干していくのです。大根の首のところがつながった状態にして干すと、すだれがチリチリになってしまうので、必ず大根の先をつなげて干すことから『さき干し大根』というのでしょう。
 県西部に住む友人にこのさき干し大根を送ったところ、「手で裂くからさき干しと言うのか」と聞いてきました。どうやらこの干し大根は、わが地域特有のものらしいです。初冬の冷たい風が吹き始めると、干した大根の甘みが増していきます。
 このさき干し大根は、あい(日常とか普段とか言う意味)のおかずです。保存がきくので、野菜物が少ない時や、忙しい時には助かったようです。「大鍋一杯にさき干しを煮ておけば、おかずの心配がいらなんだ」と言い、特に田植えの時には、とても重宝したおかずでした。
 また、わが家ではさき干し大根の味ご飯も炊いていました。さき干しを水にほとべて戻し、そのほとべた汁とたまりで煮て、炊きあがったご飯に入れて、蒸らした後に混ぜるというものです。「煮干しか油揚げが入れば上等だった」と義父から聞きました。義母が炊いたことがありますが、日向くさいのが嫌われて、今では炊かなくなりました。
 さき干し大根の煮物は桃の節句の時、雛に供えるおかずでもありました。あずきご飯とつぼ(タニシ)とねぎの味噌和えに、さき干し大根と地芋(里芋)の煮付けを供えたのです。この頃には、煮て供える野菜物がさき干し大根の他にはなかったからでしょうか。
 最近、さき干し大根のうまさが身にしみるようによくわかって来たのは、おお年(大晦日)の「年越しのおかず」です。毛こぶのおかずなどとも言いますが、大根、ごぼう、にんじん、里芋、しいたけなどの野菜を適宜に切って鍋に入れて煮て、良く煮えたら油揚げの角切りと毛こぶ(昆布)の水でさっと洗ったものを鍋一面に広げ、その上に豆腐の薄く切ったものを広げて醤油をまわしかけ、味が凍みるまで煮たものがそれです。わが家では、このおかずにさき干し大根を5センチ程の長さに切ったものをたくさん入れるのです。この時、さき干しは水で戻さずに、さっと洗ったぐらいにします。そうすると、煮ているうちに他の野菜や油揚げ、毛こぶのうまみをすべて吸い取りながら柔らかくなり、ものすごくうまい(おいしいのではなく、うまい!)のです。
 1月7日には七草がゆを食べるのですが、この辺りでは『七日(なのか)正月』になり、その前の日は『六日(むいか)年越し』。1月15日は『あずき正月』とも『15日正月』とも言うので、その前日の14日は『14日年越し』。この年越しの度に、昔は『毛こぶのおかず』を煮ていました。今ではおお年のおかずでさえも作り過ぎると、食べ尽くすに辟易してしまうので、6日も14日もパスしてしまいました。大晦日にさえも作らないうちも増えたようです。
 でも、今年は少なめに作ったら、すぐになくなってしまったので、むいか年越しにもう一度作ってみました。こういうもののうまさがわかる年代になって来たのだとしみじみ思いながら味わいました。ちなみに昔は大鍋一杯にこのおかずを作って、正月のうちはそれを煮かえしては煮かえしては食べていて、まさにこれが『おせち』だったとか。そしてその「昔」も義母が語る話なので、昭和20年から30年の頃のことだったのです。
 この頃では、このさき干し大根を作るのも、年寄りがいる家だけになってきました。わが家も毎年、義母が暖かい日を選んで、軒さきにまな板と包丁を持ち出してさき干し大根を作ります。その姿は、わが家の初冬の風物詩ですが、そう遠くない先には、そこに座ってさき干し大根を作っているのは私ではないかと思えるのです。

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初冬の風に干されるさき干し大根はあいのおかず。
桃の節句のお供えや田植えの時のおかずにもしました。

福田美津枝

手間と工夫の収穫祭

yasai05.jpg まちづくり協議会が始めた野菜づくり講座の野菜が、収穫時期を迎えました。その収穫を祝うためと、講座に参加してくださった町の人々と、まちづくり協議会のメンバーが交流するために、12月16日に「収穫祭」を行いました。
 当日は10時に集まって、まず、収穫祭に使う野菜を採りました。収穫時期を迎えたと言っても、畑の土はやせ、しかも播き時が適期ではないものが多かったので、見た目は貧弱でしたが、大根も紅と白のかぶも、春菊も充分食べられるもので、近くの自治会館の調理場へ持ち込んで、みそ汁を作りました。
 紅かぶはさっと塩もみにして漬物代わりに。講師のAさんが自分の畑で作られたサラダ菜やサニーレタスはサラダに。持ち寄りのお漬物もたくさんあって、豪華な食卓です。
 お米は、地域の資源保全隊女性部が、休耕田で、小学5年生と一緒に田植えや稲刈りをして収穫したものを提供していただけたので、私特製の梅干しを入れたものと、しそを混ぜ込んだものをみんなでおにぎりにしました。
 お茶も自家製のものでということで、Sさん手摘みの番茶でした。
 講座生12人を含め総勢20数人が、畑の近くの駐車場を会場にして収穫祭が始まりました。まず、講師のAさんに、講座生代表がお礼の言葉を述べ、ママと一緒に何時も畑に来る坊やが花束を渡しました。その後は、お手製のお茶で乾杯をし、みんなで作ったおにぎりやみそ汁で楽しく会食です。野外での、畑仕事の後の食事の美味しいこと。おにぎりを平らげ、みそ汁は3杯もお代わりする人もあって、笑いを誘っていました。
 野菜づくり講座の畑には『びぎなーずファーム』という名前がつきました。講座生の方が名付け親です。その名を記した看板もその日に建てることになっていました。看板は、まち協のメンバーのIさんが、手近にあった端材を使って作ってくださったので、私と市のYさんとで、事前にニスを塗っておいたものを、この日にペンキで書き、どこからもよく見える場所を選んで、畑に建てました。
 食事の後には、看板の除幕式です。端材の木目が浮き出た板に、こげ茶色のペンキで書いた文字が、地域の風景にマッチして、とてもいい感じです。みんなで看板の周りに集まって記念写真をパチリ。とてもいいお顔の写真でした。
 その後、それぞれ家へ持ち帰る野菜を収穫して、大満足で収穫祭が終りました。
 まちづくり協議会は、住民が自らの手で町を良くしていくための活動を進めています。市から、会や行事の運営などの支援はしてくださいますが、お金は1円も出ません。でも、それだからこそ、みんなが知恵と技を出し合っています。今回も、そんな姿勢で収穫祭を行うことができました。そして、地域へ来て下さる人達を、手間と工夫でもてなそうという気持ちも大いに発揮しました。
 講座生の方々が、野菜づくりを通して、地域を知り、馴染んでいただきたいと思っています。

福田美津枝

まちづくり協議会で野菜づくり

yasai1113.jpg まちづくり協議会は、執行部会、自治部会、地域部会の3部会で構成され、私は地域部会の一員です。地域部会は10人のメンバーで、地域の様々な団体の代表者で構成されています。女性が3人、男性が7人。年代構成は、男性の半分が70代以上、後の半分は40代以下。女性は50代2人と70代1人。
 地域部会はこの女性中心で進められています。日頃、地域のことをよく見聞きしているのです。70代以上の男性は何かと言うと「昔は良かった」。40代以下の男性は働き盛りで欠席しがち。いきおい、女性が発言し行動することになります。
 そんな中で始まったのが「野菜づくり講座」です。地域の田畑は転作政策や高齢化で荒れ始めて来ました。それに歯止めをかけることと、農業を暮らしの中に位置づける、すなわち、農のあるくらし、野菜やお米は自分の手で作ろうという目的で、地域内外から希望者を求め、畑で一緒に野菜づくりをしようと言うことで始めました。
 幸い、地域の目立つ場所の空き畑を借りることができ、12人の方たちと10月初めに冬野菜を播き、苗を植えました。アドバイスをするのは、メンバーと、畑近くに住む80代の女性Aさんです。Aさんは苗も用意して、毎日畑を見に来て、苗を補充したり虫をとったりしています。
 地域の方たちも興味を持ってみてくださっています。小さな畑での小さな取り組みですが、野菜づくりが少しずつ広がって行くように、この講座を進めていくつもりです。

福田美津枝

野菜づくり講座

yasai1023.jpg 地域のまちづくり協議会で進めている野菜づくり講座は、昨日、講師の先生(地元のおばあさん)が育てたキャベツ、ブロッコリー、レタスの苗を植えに来た人のために、ミニ耕運機で起こしてあげたり、畝を立ててあげたりして、何とか農園らしくなってきました。
 借り受けたその畑は、ずっと休耕していて、草刈りと耕運はマメにしてあったものの、やはり土の状態が悪く、ゴロンゴロンの土塊状態です。
 それでも12人の参加者のみなさんが家族連れで来たりして、楽しんでおられます。
 わたしもその苗を貰い、マイ畑に植えました。遅まきながら、かぶとにんじん、春菊も播きました。
 講座の方にかかりきりで、自分の畑仕事が大幅に遅れました。
 でも、お百姓の先輩方がよく口にされる、「種も苗も土に預けりゃ、きっと芽が出る、苗が立つ」の言葉に従って安心しています。
 今年は米の出来は悪く、里芋もさつま芋も悪いです。小さな芋もていねいに掘り取って食べています。
 菜っ葉類は元気で、抜き菜が楽しめますし、暑さが長引いたおかげで、ゴーヤーもいんげんもナスもまだ採れます。畑に作物を育てていれば、何かでおかずができるというありがたさをつくづく感じたこの秋です。

福田美津枝

子供たちに伝えたいふるさと伊深

 子供たちに伝えたいふるさと伊深
-「伊深をめぐる路~語り継ぎたい暮らしの風景」のマップづくり-

 近くのお年寄りから「井上村長は、その昔、伊深のためにいろいろな事業を起こしてくだれて、それで今、伊深はうるおっとるが、その頌徳碑は忘れられてしまっとるなあ」という嘆きの声が聞こえてきました。
 それで、私たちの読書サークル「伊深親子文庫」では、井上太十郎村長の経歴や取り組まれた事業、頌徳碑の場所などを文庫便りで紹介しました。
 紹介はしたものの、私たち自身も頌徳碑に行ったこともなければ、遺跡である灌漑池のありかも知らなかったので、一度私たちでその場所を歩いて確認しようということが始まりでした。
 サークルのメンバーに、伊深公民館の運営委員がいて、「遺跡巡りをするなら、公民館講座として開催して、地域の人にも呼び掛けてみよう、きっと、興味を持つ人もいるはずだから」と助言してくれたので、早速その手続きをして、地域の人に、回覧版で呼びかけました。
 「伊深めぐり」と名付けて計画した講座は、半日では巡りきれない程各所に巡りたいところが見つかり、結局3回に分けて行い、その都度、地域以外からも参加者がありました。その中に、毎回、市役所の方々がおいでになりました。その中の都市計画課のみなさんは、伊深を「里山のある景観地域」としてとらえ、市の景観モデル地域の1つに上げておられました。
 公民館講座の直後に、計画した私たちは「伊深地域景観ワーキング」の会合に呼び出されるようになり、そこで、景観保全の話し合いや、現地調査を行いました。その中で出て来たのが、伊深の自然や文化、遺跡の場所を示す地図作りでした。ワークショップの人達、専門家の先生がたを交えて、再度伊深めぐりを行い、それぞれの場所や景観スポットを確認して、地図=マップを作り上げました。
 マップの裏面には、私たちが伊深めぐりをしたときに、参加者にお渡しした、それぞれの場所のいわれなどを書きいれました。もちろん、この中には、当初の目的だった井上村長の残した灌漑池や、柴田長七さんが自費で掘った用水の取入れ口も説明してあります。
 講座を計画する中で、私たちは、伊深の自然や文化、遺跡などをきちんと子どもたちに伝えることにより、伊深に生まれ育ったことに誇りと自信を持ち、伊深を大切にしてほしいと思いました。その願いのこもったマップです。このマップにより、子どもたちと、さらに「ふるさと伊深」の姿を見つけていきたいと思っています。

福田美津枝

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「伊深をめぐる路~語り継ぎたい暮らしの風景」
(クリックするとPDFファイルが開きます。)
※ 「伊深をめぐる路~語り継ぎたい暮らしの風景」のマップは若干はありますので、希望される方にお分けします。農と人とくらし研究センターnouhito@rircl.jpへご連絡ください。郵送料80円でお送りします。

田の草取り

 このところ、田の草取りに追われています。田植え直後には、水を見に田んぼを回っていたのですが、苗が落ち着いて、水回りも落ち着いてきたので、しばらく行かずにいて、数日前に畦草を刈ろうと、田んぼに行ってびっくりです。田植え後に、規定通りの除草剤をまいたというのに、びっしりと草が生えていました。
 畦草刈りもそこそこに、田の草取り開始です。家の裏にある3枚の田んぼは、どれもこれも草だらけ。義母に言わせると「隣の田んぼから、種が流れてきたに違いない」。確かに、この田んぼは、昭和30年代に耕地整理をしただけの、今や、歴史的遺物の感がある田んぼです。用水と排水が分けられていなくて、田んぼのそばにある溝には、隣や上の田んぼから水が流れ出て、それを次の下の田んぼに引き入れるのです。でも、見渡せば、隣の田んぼも上の田んぼもそれほど草がひどくない。そこから流れ出たものとすれば、その田んぼも草が多いのではないか。
 次に考えられるのは、除草剤散布後の水管理が悪かったこと。夫はこの季節になると、スイートコーン栽培に魂を奪われています。田植えが終われば、後のことは上の空で、暇を作ってひたすらスイートコーン畑に日参します。「田んぼの水見といて」「ああ・・・」てな具合で、全く当てにできないので、仕方なく私が見て回るのですが、どのくらい入れていいものやら、抜いていいものやら、俄か農婦の悲しいところです。おまけに水口も、水尻も、石を置いたり、泥で固めたりする原始的な方法。その加減がむつかしく、まさに「いい加減」だったようです。
natsu4.jpg 仕方なく、田の草取りを始めました。小さい草なら田んぼの中へ押し込めばいいのですが、もはや大きくなってきている「いも葉(こなぎ)」や「ホタルイ」など、とても押し込めるものではありません。プラスチックの「レジかご」を株の間に滑らして、その中にとった草を入れ、一杯になったら、畦に捨て置きに行きます。その重いこと。
 腰は痛いし、手は疲れるし、レジかごは重いし…。1回に2時間ぐらいが限度。朝少し、夕方少し。その合間にいろいろな用事で出かけることもあって、約20a、4枚の田んぼに1週間もかかりました。
 始めの頃は、何の因果でこの私がこんなことを…と、恨みタラタラでしたが、そのうち、取り終ったあとの奇麗な株間が誇らしく、また、目の前にある草だけをとっていく、何も考えなくてもいい仕事。なかなかいい時間だなあと思うようになりました。
 この春に、仲間と作り上げた「ていねいな暮らしがあった頃・伊深の百姓仕事」という昭和30年代の伊深の暮らしをまとめた冊子。この時代はみな、このようにして、来る日も来る日も田の草取りが夏の仕事であったという。そのことを聞き取り、書き記したのでしたが、実際に自分で「田の草取り」を体験して、この仕事が初めて、自分のものになった気がします。
 草取りを終えて一段落したら、もう、田んぼには次の草「ヒエ」が目立ち始めました。これからは「ヒエ切り」が「ていねいな百姓仕事」になります。

福田美津枝

農作業暦から生まれたもの

 昨年秋から始まった「伊深」を様々な視点から考える活動で、どこからでも出てくる話は、「田んぼも畑も荒れていくなあ」という言葉です。このような活動に携わる委員が、70~80代の男の人が多いこともあります。伊深ばかりではなく、どこの地域も同じようなものですが、荒れた田畑を増やさないようにすることくらいは、私たちでできることではないかと、まだうら若き女たちは立ち上がりました。
 休耕田に菜の花やれんげの花で、ずっと前の里の風景を作ることもその一手ですが、もっと積極的に田畑を利用してもらうように、田畑での野菜づくりを進めることにしました。団塊の世代のリタイア問題をマスコミなどは扱っていますが、それは男の問題としているのに対し、農村ではパート勤めをリタイアした女性も、次の仕事を探っています。そこに着目して、野菜づくりに引き込む作戦です。自分の食べ物は自分の手で作るようにと。
 今の時代、女は姑から物を教わりたくないのです。そこには古めかしい、嫁とはこうあるべきなどという教訓が必ず含まれているからです。姑に替わる野菜づくりの参考書を作ろうと、地域の姑世代から、現代の野菜づくりの方法を聞き取りしました。
 さすがに他人には教訓めいた話は出ませんでしたが、その代わりに、昔のいろいろな野良仕事の方法、それにまつわる行事の様子などが次々出てきました。それはとても興味深く、この地域だけにあることや、その人の暮らしのありようや人生を思わせるものなど、ぜひこのことを記録しておきたいと思いました。
mino_s.jpg それで、農作業暦「わが家の食べ物はわが家の田畑で~美濃加茂上切・大洞の農作業暦」と併せて、「ていねいな暮らしのあった頃 伊深の百姓仕事~美濃加茂上切・大洞昔の農作業暦」の2冊を、3月に発刊しました。
 現代版の暦「わが家の・・・」は、月ごとのカレンダー方式にして、余白を十分取り、メモを書きいれ、10年後には自分の暦としていただくように。昔の暦「伊深の百姓仕事・・・」は、読んで保存していただくようにとしました。
 今後は、この現代版暦を使って、「野菜づくり講座」として地域の休耕田で実習する講座を開くつもりです。また、「百姓仕事」のほうは、これからも聞き取りを続けて、書き足す改訂版を次々に出していこうと思っています。
 こんなことで、休耕田対策が解決するとは到底思えませんが、「田んぼも畑も荒れる」「若いもんは百姓もやらん」と嘆くだけよりは、話のタネにもなるし、とりわけ、当人たちが次々に夢や行動を広げて、楽しんでいるのですから、よほどいいと思います。

福田美津枝

※ 上記で紹介したものは、希望される方にお分けします。農と人とくらし研究センターnouhito@rircl.jpへご連絡ください。郵送料210円で送ります。
◆わが家の食べ物はわが家の田畑で~美濃加茂上切・大洞の農作業暦(A4版 12枚)
◆ていねいな暮らしのあった頃 伊深の百姓仕事~美濃加茂上切・大洞昔の農作業暦(A4版 28ページ)
 
次の項目をご記入の上、ご連絡ください。
1.郵便番号
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5.ご希望の農作業暦及び部数
「わが家の食べ物はわが家の田畑で~美濃加茂上切・大洞の農作業暦」 _部
「ていねいな暮らしのあった頃 伊深の百姓仕事~美濃加茂上切・大洞昔の農作業暦」 _部
 
尚、ご希望部数によりまして、郵送料が変わることがあります。ご了承ください。

農と人とくらし研究センター

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