農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
カテゴリー「■ のふう草」の記事一覧
- 2025.04.18
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- 2010.04.03
菜の花とれんげの風景
- 2009.10.10
「秋」終えて
- 2009.10.04
新米農婦のサツマイモ堀
- 2009.09.19
赤だつ芋育てて、美味の酢炒り
- 2009.08.09
近況を知らせる手紙(下)
- 2009.08.02
近況を知らせる手紙(上)
- 2009.04.26
こじきねぶか
- 2009.01.17
くさぎのこと
菜の花とれんげの風景
昨年の秋に、わが集落の休耕田6枚に菜の花とれんげの種を播きました。面積にしたら10アール切れるほどです。菜の花は、今、黄色く咲き、一昨日のおぼろ月夜の夜には、童謡「朧月夜」に歌われるような風情がありました。
地域では、昨年の秋ごろから「景観づくりワークショップ」とか「まちづくり協議会」、「地域資源保全隊」など、急に地域見直しが市の各課主導で始まりました。その各課は都市計画課、地域振興課、農政課です。
「伊深親子文庫」という読書サークルで、「伊深めぐり」や「涙笹のかご編み」「くさぎを食べる」を進めていたので、その実績を買われたのか、3つの活動の委員に任命されました。
まず、自分たちでできることから始めようと考えてとりかかったのが、「休耕田に菜の花とれんげを咲かそう」ということでした。
資源隊の役員さんに休耕田をトラクターで起こしてもらい、資源隊に来ている農水省の補助金で種を買ってもらい、地域で、各小字ごとに女性部を結成して、その女性部で交代に種まきしました。
種をまいた休耕田は、草は生えてくるものの、少しも菜の花やれんげが姿を見せず、心ない人たちからの嘲笑もあって、失敗だったのかとしょげていましたが、3月に入り、暖かくなってきた途端、菜の花がすくすく伸び出して、ぽつぽつとはなも咲き始め、今や満開となりました。きっとれんげも来るべき時を見定めて、花を咲かせるだろうと思っています。
そんな折、文庫の仲間で、3つの活動の委員も一緒に務めているAさんから、古めかしい本を見せて貰いました。昭和19年発行、柳田國男著「火の昔」という本です。その中に「麦の青、菜の花の黄、れんげの紅が、春の風景であった」と記されていました。昔、灯火の油が魚油から菜種油に替わっていった時代に、農村では菜種を作る農家が次々増えていった、そのことを述べているくだりでした。嬉しい嬉しい。
「この秋には麦も播こう」 大麦ならうどんを打って、小麦なら「えんねパン」を焼こう。早くも、青い麦畑から一足飛びに食べものへと志向を嗜好させているのです。
福田美津枝
地域では、昨年の秋ごろから「景観づくりワークショップ」とか「まちづくり協議会」、「地域資源保全隊」など、急に地域見直しが市の各課主導で始まりました。その各課は都市計画課、地域振興課、農政課です。
「伊深親子文庫」という読書サークルで、「伊深めぐり」や「涙笹のかご編み」「くさぎを食べる」を進めていたので、その実績を買われたのか、3つの活動の委員に任命されました。
資源隊の役員さんに休耕田をトラクターで起こしてもらい、資源隊に来ている農水省の補助金で種を買ってもらい、地域で、各小字ごとに女性部を結成して、その女性部で交代に種まきしました。
種をまいた休耕田は、草は生えてくるものの、少しも菜の花やれんげが姿を見せず、心ない人たちからの嘲笑もあって、失敗だったのかとしょげていましたが、3月に入り、暖かくなってきた途端、菜の花がすくすく伸び出して、ぽつぽつとはなも咲き始め、今や満開となりました。きっとれんげも来るべき時を見定めて、花を咲かせるだろうと思っています。
そんな折、文庫の仲間で、3つの活動の委員も一緒に務めているAさんから、古めかしい本を見せて貰いました。昭和19年発行、柳田國男著「火の昔」という本です。その中に「麦の青、菜の花の黄、れんげの紅が、春の風景であった」と記されていました。昔、灯火の油が魚油から菜種油に替わっていった時代に、農村では菜種を作る農家が次々増えていった、そのことを述べているくだりでした。嬉しい嬉しい。
「この秋には麦も播こう」 大麦ならうどんを打って、小麦なら「えんねパン」を焼こう。早くも、青い麦畑から一足飛びに食べものへと志向を嗜好させているのです。
福田美津枝
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「秋」終えて
「秋」というのは収穫の秋、その中で「稲の収穫」のことを言います。それで言えば、我が家も「秋」は終わりました。正確には、3反の半分はJA出荷なので、JAの大型コンバインが来て、あっという間に刈り取って、カントリーエレベーターに持って行き、残りの半分は近所の小さなコンバイン持ちの方に刈り取ってもらい、それを遠縁の家に運んで、今、乾燥・籾擦り中なので、「終えてもらいました」という事です。
この冬には、公民館講座で「背中蓑作り」を行う予定なので、その材料であるわらを確保しなければなりませんでした。コンバインで刈ってもらうと、わらそのままの長さでは確保できないので、近所の人に刈ってもらう田んぼのくろ刈りをしたわらを、切断しないで、そのままに残して脱穀をしてもらいました。くろ刈りしたわらを縛ってから、脱穀にかけたのですが、すでに何年か前からコンバインのお世話になっているので、縛り方を忘れてしまっていました。ようやく思い出して縛ったのですが、ゆるくて、脱穀の間にほどけてしまったものもありました。
わらを干さなければならないのですが、はざがないので、そのまま田んぼの畦に載せておきましたが、2日後に雨模様、あわてて納屋に取り入れて広げる…。
コンバインは便利ですが、わらの確保は大変。鎌で刈り取り、はざにかけ、1つ1つ脱穀して、米と同時にわらも産物として確保する。そのわらで生活品を作り出す、他に梳きこむ、畑の野菜作りに使う(敷きわら、豆類の手など)、そして畳屋さんや酪農家に売る。そんな仕事を、昔は嫌でたまらなかったですが(嫁に来た頃)、今は懐かしく、貴重な仕事として再現したくなりました。
さつま芋は、大味で、あまりおいしくはないかと思いますが、食べていただければ嬉しいです。
じゃが芋は、我が家も春先に芽を出させてしまうくらい、毎年作っています。今年は、皮が赤くて、中身が黄色いじゃが芋を少し作りましたら、もう8月の末から芽が出てきました。それで、その芽の部分を切り取って、畑に植えましたら、芽が出て、葉が出て、10センチくらいに育っています。秋じゃがとして収穫できるかと、今、楽しみにしているところです。
これからは、里芋も掘らなければなりません。「稲の秋」は終わっても、「収穫の秋」はまだまだ続きます。新米農婦は、今日も畑へ出かけ、腰をさすりつつ、慣れない鍬をふるいます。
福田美津枝
新米農婦のサツマイモ堀
鎌でつるを切りはらって、備中ぐわで掘っていきます。ところが、そんな鍬を日ごろ持ったことがない私には、鍬を振り上げるだけで精いっぱい。狙いをつけて振りおろすのですが、よろよろなので、狙いが外れてグシャッ。肝心の芋の上に鍬がおろされるのです。結局、満足に掘り上げたものはほとんどなく、半分にちぎれているものや、ちぎれていなくても鍬の先がかすったものばかり。それでも小さな芋もちぎれた芋も、掘り起こしたものは1つ残らずかごに入れて持ち帰り、早速洗って茹でました。
この芋がおいしいこと、おいしいこと。鍬を使った腹ペコの分を差し置いてもおいしく、昼ご飯に戻ってきた母もおいしいとたくさん食べました。
芋を掘ったら分けてほしいと頼まれたUさんに、いい芋少しを届け、茹でた芋で味見をしてもらいました。今度は上手に掘り上げて、たくさん差し上げます。さつま芋作りは、鍬使いが一番大切だと言うことが身にしみました。
福田美津枝, 『日々の暮らし日々の食べ物』より転載
赤だつ芋育てて、美味の酢炒り
9月のある日、いよいよだつに鎌を入れました。「赤だつの酢炒り」を作るためです。まだ発育途中のだつを切るのは忍びない気がしましたが、このために作ったのだからと思い切り、10数本刈り取りました。
うちへ持ち帰って皮をむき、5センチくらいの長さに切って塩をしたのち、水気が出てきた頃良く揉み、水で洗ってから、念のため、もう1度塩をして揉み込みました。以前、この塩もみが足らなかったので、エグ味が残ったことがあったからです。鍋に油を熱し、よく絞った赤だつを入れ、炒めます。砂糖、塩、酢を入れるのですが、私はらっきょうを漬けた酢を酢のものに使っているので、そのらっきょう酢を入れ、さらに梅干しを食べ終わった後に残る梅酢も少し入れました。どす黒かった赤だつが、パーっと鮮やかな赤色になりました。あとは砂糖も塩も酢もそれぞれ足しながら、塩梅して出来上がり。自分で育てた赤だつの酢炒りは、また格別の味でした。
うちへ持ち帰って皮をむき、5センチくらいの長さに切って塩をしたのち、水気が出てきた頃良く揉み、水で洗ってから、念のため、もう1度塩をして揉み込みました。以前、この塩もみが足らなかったので、エグ味が残ったことがあったからです。鍋に油を熱し、よく絞った赤だつを入れ、炒めます。砂糖、塩、酢を入れるのですが、私はらっきょうを漬けた酢を酢のものに使っているので、そのらっきょう酢を入れ、さらに梅干しを食べ終わった後に残る梅酢も少し入れました。どす黒かった赤だつが、パーっと鮮やかな赤色になりました。あとは砂糖も塩も酢もそれぞれ足しながら、塩梅して出来上がり。自分で育てた赤だつの酢炒りは、また格別の味でした。
福田美津枝, 『日々の暮らし日々の食べ物』より転載
※ 赤だつ(あかだつ)
岐阜県
自家用につくられてきた赤ズイキをとるさといも
■分類:いも類
■食べたい料理:酢炒り(炒め煮)・漬物・乾燥だつの煮物
■調査地:岐阜県 中濃地域
■調査団体:岐阜―食を考えるみんなの会参考: 『故郷に残したい食材』 (社)農山漁村文化協会
近況を知らせる手紙(下)
もう1つの草は、田んぼの畦草。田植え前とその後、そして2週間前にと、もう3回刈りました。30aの5枚の田んぼの畦は、刈り払い機で刈りだせばそう大変ではないけれど、少し刈り遅れると、刈り払い機に巻きついて、歯の回転が止まってしまうので、しょっちゅう巻きついた草を取り除かなければなりません。
畦の斜面は刈ることはなかなかつらい。畦の上からと下からと2段構えで草を刈るのですが、刈り払い機を大きく振り上げ、振り下げ、そのために足に力を入れて踏ん張らなければならない。山の中の1つの田んぼは、畦ののり面が大きく、3段構えで刈らなければならない。それも急斜面であるから足場も十分でない。ここでずり落ちて、しかも回転している歯の上に落ちることにでもなったら…。まったく命がけです。母が隣の田んぼの畦の刈り跡と比べて、いつも「(隣の田んぼの)嫁さんは上手に刈らっせる」と言うのですが、刈り払い機を使ったことのない母には、この命がけを分かってもらえないのです。
そして、刈って散らばった草を寄せたり、溝に落ちた葉を引き上げたりして、3~4日後には、枯れた草を燃やさなければならない。これも大変。風のない夕方、熊手で枯れ草をかき集め、ライターで火を付ける。さっと火がついて燃えてくれればいいけど、生乾きだったりするとなかなか火がつかない(雨が多い今時分は、表面は枯れていても、内側はまだ枯れ切っていないところが多い)。ブスブスくすぶる火に手こずり、やっと出てきた煙に燻られ…。でも、この草が燃えるにおいは、郷愁をくすぐられ、嫌いではなく、夏の夕方、日が沈み、夕飯のために家に急ぐ若いころの切ない心持が甦ります。
ところで、このような思いをして畦草刈りをしているというのに、わが夫は、やれ刈り手が確保できたとばかりに、手を出さなくなったのですよ。夫は、こちらが痺れを切らすまで、なかなか刈ろうとはしないので、たまりかねて私が刈るのをしめたと思っているのです。畦が草ぼうぼうなのは許せないという私の美意識が、この草刈り戦の敗因となっているのです。
3つ目の草は、屋敷周りの草。母は自分の畑の手入れや草引きに往生しているので、いつの間にか、屋敷周りの草引きは私の仕事になりました。(屋敷と言っても大きなお屋敷ではなく、この辺りでは家の周辺のことを、どんなに小さなあばら家でも屋敷周りというのですが、誤解のないように)これもあっという間に生えてきて、洗濯物を干したりとり込んだりした時に気がついて引き出すと、あっちもこっちもと目につき、始末に負えません。裏庭は、あまり日が当らずに、生えてくる草もヒョロヒョロで引きやすいですが、表の庭は良く日が当り、人に踏まれるところなど、葉は地面に広がり、しっかり根をおろしているので、草引き鎌で掘り起こさなければなりません。でも、除草剤をまかれてはならないと、これから盆前には心して取り除くべく、覚悟をしています(あまり草がひどいと、母は除草剤をかけるのです。もっとも最近は噴霧器を背負う元気がなくなったのですが、夫や隣人に頼むこともあるので、油断できない)。
以上この3つが草との闘いであると思っていたら、もう1つ手ごわい相手が現れました。田の草です。田植え直後に除草剤を振るのですが、今年は除草剤散布後の水管理が悪くて、家の裏の田んぼ2枚にひどくたくさんの草が出現しました。そうなると義母が黙っていません。「田の草をとれ」「そのままでいい、減収しても大したことない」(嫁の私ではなく、息である夫との応酬です)すったもんだの挙句、とうとう田の草取りをする羽目になりました。"泣く子と地頭ならぬ(姑)には勝てぬ"です。こちらが泣きたい!
草との闘い、まだ始まったばかり。あと2カ月は、本格戦になる模様。草刈り鎌を振り上げる右腕・右肩がいつまで持つかが心配です。
ところで、お隣の富加町で梨園を始めた人がいます。今年はオーナー制を売り出したところ、50人のオーナーができて、8月中ごろの日曜日に収穫祭をされます。その梨園の奥さんはJAの元生活指導員さんで、娘さんは、3月まで一緒に仕事をしていた普及員さんです。そういう縁があって、収穫祭には、梨カレーをオーナーさんに振る舞う手伝いをすることになりました。というか、こういうことをして楽しんだらいかが?と持ちかけたら、乗ってこられたのですけど。梨カレーは、昨年「現代農業」誌で見て、やってみたら結構よかったので、いつかどこかでやってみようと思っていたのです。
○子さんのところがもっと近かったら、作って持って行ってあげたい。今が一番忙しく、食事の準備もままならないとか。今採れ始めたブラジル野菜は、煮込む料理に適しているようなので、たくさん作って届けてあげたい。だけど私も今は暇がなく、一刻でも多く畑に出て、草引きをせねばならない身の上なので、食事を届けて上げられないのですが、いつか、何か送ることができるかもしれません。
体もあまり酷使しないように、ひざや首の痛みが再発しないように、十分心がけてください。くれぐれも無理しないように、食べるものも食べて。ではまた。岐阜へ行くことがあったら寄ります。ありがとう! 7月3日書く
『ひぐらし記』No.22 2009.7.20 福田美津枝・発行 より転載
近況を知らせる手紙(上)
岐阜市の西で、ハウストマトとスイートコーン、梨と柿の果樹園を経営している○子さんから、トマトとスイートコーンに添えて近況を尋ねる手紙がきました。これからは野菜つくりを始めると宣言したので「野菜苗は育っているか」「草との戦いには負けていないか」などと書かれていた、その手紙への返事です。私の近況をごっそり書いたので、皆様にも近況をこの返事でお知らせします。
たくさん、トウモロコシとトマトを送っていただいて、ありがとうございました。
わが家のトウモロコシは、昨日、夫が、第1回播きのものを、2つだけ色んでいるから、採って茹でるようにと言いましたが、たった2つばかり茹でてもしょうがないと思って、そのままにしていました。その後播いたもののヤングコーンがかごにたくさん採ってきてあるので、今日はその始末(剥いて茹でておく)をするつもりでした。だから、今日は送ってもらったトウモロコシをゆでて食べます。ありがとう。トマトもまだ色んでいないので(雨が多いせいか、なかなか色まない)、嬉しいです。今、早速1個かぶりつきました。ああおいしい。夏の香りがします。今、一番忙しいという時なのに、お手数をかけて申し訳なくも、ありがたく戴きます。
一般の野菜は、母が作るので、私はブラジル野菜(トマト、ナス4種類くらい、ズッキーニ、ピーマン2種類、カボチャ、オクラ、レタス、つる菜みたいなもの)を育てています。その他には山クラゲ、バジル。これらは、ブラジル野菜を種から育てている可児市の方に貰った苗です。ナス、オクラ、ピーマン、ズッキーニが成り出しています。バジルもレタスも食べていますが、もうトウが立ち始めました。
そのほか、親戚のおばさんがくれた赤だつの里芋、隣のおばさんがくれた里芋、友人に貰ったゴマと落花生の種、オクラとモロヘイヤの苗、5~6年前に栽培したそばの種をまいています。これが、なかなか順調には育たず、普及センターにいた時、もっとしっかり、普及員さんの教えを聞いておけばよかったと後悔しています。
畑を起こす小さな管理機は今年買ったので、起こすことは楽ですが、畝を立てるのが大変で、畑を見に来た別の友人が、「後家畝」だと笑いました。支柱を立てるのも女の仕事なので、自分でも、これが支柱になるのかと心配、ちょっとの風でも倒れそうです、今のところは大丈夫だけど。でも、ブラジル野菜は、日本のピーマンやナスと違って、芯が太く丈夫なので、最初に建てた支柱よりもしっかりと立っています。
畑は、家から離れたところで、ずーっと何も作っていなかったところへ、畑の作り土だと言われて土を入れて貰ったら、石混じりのガラガラ土で、起こす度に石が出てきて、雨が降るとまた石が出てきて、大変な畑ですが、母が来ることができないところなので、思うように、好きなように畑作りができます。
発酵した鶏糞堆肥を入れて、山から肥料袋に入れて運んできた腐葉土を入れて、少しだけ化成肥料を入れて作っています。
『ひぐらし記』No.22 2009.7.20 福田美津枝・発行 より転載
こじきねぶか
「この前テレビで見たけど、皇后さまが御所を散歩しとって、野蒜を見つけんさった。天皇陛下に見せんさって、『この野蒜は酢味噌和えがおいしいですよ』と言いんさった。ここら辺じゃ『乞食ねぶか』っていうんやけど、そんなもんが皇居にも生えとるんやなあ」
「そうらしいなあ。乞食ねぶかもえらい出世したもんや」
「皇后さまはいつこんなもんを食べんさったやろ」
「戦争中は疎開しとんさったで、そんな時に食べんさったやろうか」
「よう今まで覚えとんさったなあ」「ほんとやほんとや」
「酢味噌和えもええけど、乞食ねぶかは卵とじが一番やなあ」
「そやなも、わっちも卵とじは好きやわ、あれはええなも」
と会話が続いていきました。
私の住む地域では「野蒜」のことを「乞食ねぶか」というのです。畑ではなく、あちこちに雑草のように生えるからなのか、それを乞食でも採って食べられたからなのか、ひょろっとした姿が乞食を連想させたのか、義母に聞いてもその訳はわかりませんでしたが、ある時、知り合いの家で野蒜の根元の球の部分だけをさっとしょうゆで煮たのがおいしかったので、早速家の周りで採ってきて煮てみたら、「なんや乞食ねぶかか、そんなもん、うまいことないで」と鼻先でけなされてしまったので、乞食=まずいものという意味もあるのかと思っていました。
皇后さまが野蒜の酢味噌和えを疎開時代に食べられたとしても、一般庶民はなおさら、その頃やそれ以前の時代には、野草ならずとも野菜でも味噌和えにするか、地だまり(自家製たまり)でさっと煮ることくらいしかしなかったのではないでしょうか。以前、八十代くらいの方から、「昔は何でもみそ煮やった、たまりはなんぞごとの時にご飯を炊くくらいしか使えんかった」ということを聞きました。酢味噌和えは、酢も砂糖も購わなければならないので、この時代にはきっとご馳走だったのです。
さきほどの会話の主たちは、七十代前後、皇后さまと同じ年頃です。疎開=戦中の頃はまだ子供でした。きっと乞食ねぶかの卵とじを作って食べたのは、嫁入りして主婦として落ち着いた三十代から四十代頃か。そのころならば卵もふんだんに使えるような時代になって、ただしょうゆで煮ただけの乞食ねぶかに、さっと溶き卵を回しいれて半熟に煮る卵とじはおいしい料理だったのでしょう。
山歩きの翌日の日本農業新聞に、「野蒜の唐揚げ」を見つけました。ナチュラリストの方の「育てて食べるおいしい野草」という文の中に、「野蒜の根っこの球をさっと唐揚げして塩をぱらっとふる」とありました。時が現代まで進んでくれば、今度は油を使う揚げ物料理となりました。そういえば、この頃のアウトドアブームや山菜ブームなどで、山菜の食べ方を紹介してあるのは、大体が「天ぷら」で食べるというものです。しかし、山間地域のお年寄りに聞くと、もみじがさも、こしあぶらも、こごみも、タラの芽も、茹でておひたしにするとか、さっと煮つけるとかとおっしゃいます。昔からそういう食べ方をしてきて、それが一番おいしいということでしょう。
「野蒜」1つをとってみても、こんなに食べ方が移り変わってきました。その時代の暮らし方、経済事情、食のあり方で、食べ方が変わっていきます。食べること・食べ物・食べ方は一つところにとどまらず、時代に合わせて変わっていくことが見てとれました。
郷土食というものは、ある一定のもの、一定の作り方、一定の素材というものではなく、その時代の世の中の状態、家族の好み、調理の技術など、さまざまな要素によって変化していくものだということを考えました。
福田美津枝, 2009年4月23日 のふうそう
くさぎのこと
第2次世界大戦のときに、正眼寺を頼って疎開してこられ、そのままこの地に住み着いたSさんは、正眼寺に伝わるくさぎをずっと伝えてこられました。地域の文化的な活動の中心人物であるSさんとともに、この「くさぎ」を守り広めようとして、私たち数名が活動を始めています。その一端を、昨秋、地域の小さなFM放送でお話しした時にまとめたものが次の文章です。
地域の人たちがくさぎのことをよく理解し、地域に伝わる大切な物として考え、少しでも食べ物として復活していくことを願って、これからも活動していくつもりです。
FMでんでん 11/3 12:20~放送のお話内容
伊深町くさぎの会
くさぎのこと
美濃加茂市伊深町には、くさぎという植物で作る「常山」という食べ物がありました。みなさん、くさぎという植物をご存じでしょうか?これは、くまつづら科に属する植物で、畔や山際に茂り、2~3メートルの高さの木です。春先に葉を伸ばし、この葉を食用にします。伊深町にある正眼寺という妙心寺派の禅宗のお寺では、毎年6月1日に、雲水さんたちがこのくさぎの葉をとり、大なべでゆでて、その後水にさらして1枚1枚広げて干し上げ、乾いたものを保存しておいて、使います。
食べ方は、水に戻して刻み、大豆と一緒にしょうゆで煮ます。これが最初にお話しした「常山」という料理です。正眼寺に伝わる精進料理で、今でも正眼寺では、7月10日のお舎利講や、10月12日の開山忌のおとき料理には必ず出されます。
なぜ正眼寺でくさぎの料理を出すのかと言えば、これにまつわる1つのお話があります。昔々、花園天皇のころに、京都で修業を重ねた慧玄さんというお坊さんが、伊深の地に来て、修業をしていました。村人に食べ物を恵んでもらっていましたが、貧しい村人から食べ物を貰うに忍びなく、だれも食べなかったくさぎの葉っぱを食べられるように工夫してして食べました。やがて京の都に帰って行くときに、村人にこのくさぎの食べ方を教えていきました。それが、慧玄さんが開いた正眼寺や伊深の地域に伝わってきていたのでした。
伊深町の各家々では、昔から6月になるとくさぎの葉をとり、ゆでて水にさらしてあくや苦みをとり、広げて乾燥して保存食にしていました。ところが食べ物が豊富になり、苦労しなくても何でも食べられるようになると、だんだんくさぎを食べることがなくなって、忘れられてしまいました。
私たちは、伊深に伝わるくさぎ料理を絶やしてはいけないと思い、昨年から色々なことを行ってくさぎのことを広めています。そのことが認められて、今年は伊深町公民館講座に取り上げられました。くさぎは夏に甘いユリのような香りのする白いきれいな花をつけます。秋にはそれが実り、赤い萼の上に青い小さな実をつけます。その実は昔から水色に染める染料として使われてきています。また、食用にする葉からも薄い緑色に染めることができます。
そこで、公民館講座では、6月にくさぎの葉をとってゆでて水さらしをして、干し上げることを、7月にはくさぎの葉での染め物講座、8月はくさぎの料理、10月にくさぎの実の染め物の4回の講座を行いました。最初は近くの方が10人ほど集まるものでしたが、回を重ねるに従って参加者が増え、遠くは八百津町や可児市から来ていただいた人もありました。
8月のくさぎ料理の講座では、くさぎと大豆の煮ものの「常山」と、煮たくさぎを混ぜこんだくさぎご飯、くさぎの入った七色汁を実習しました。これらにはジャコを入れたりして、現代の口に合うようにしました。くさぎを混ぜて焼いたえんねパンも試食しました。夏休みのこの時には、伊深小学校の先生も来て下さって、くさぎ料理を召し上がっていただきました。
これがご縁で、10月29日には5年生の学級で、子供達と一緒にくさぎ料理を実習して、伊深に伝わってきたくさぎ料理を体験してもらいました。子供達の反応は「くさぎの葉っぱは臭いけど、調理をしたらおいしくなった」「お母さんに食べさせてあげたい」「自分でくさぎを採りに行って料理を作りたい」などと言い、感想文には「伊深に伝わってきたくさぎを僕たちも伝えて生きたい」ということも書いてありました。
11月2日は、伊深町文化祭でしたが、昨年に続いて、今年もくさぎコーナーとしてくさぎ染めの作品を展示したり、くさぎを現代の食事に使おうということで、くさぎ入りオムレツやクッキー、えんねパンの試食なども行いました。
このように、少しづつではありますが、伊深に650年も昔から伝わるくさぎを、さらに後世に伝えることをしながら、郷土を大切にすることを子供達に伝えていきたいと思っています。
福田美津枝
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