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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

カテゴリー「■ 風倒木」の記事一覧

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「農村生活」時評18 "「哲学」は嫌いだ"

tetsugaku.jpg 高齢者の一番の恐怖はなぜかピンとこない自分の「死」ではなく、迫り来る認知症である。私のような「認知症予備群」の改善には、軽い運動と知的な趣味の組み合わせが有効だ、との最近の研究が明らかにしたという。日常的に自転車に乗るのがどれほど「軽い運動」にあてはまるか、はともかく、無理に「知的な趣味」に仕立てて三つの定期的な「読書会」に参加している。その内の一つの「古典」の会で参加者の一人が、「哲学は嫌いだ」と強い口調で発言したので、そのKY振りに驚いた記憶がある。東西を問わず「古典」を読むとどうしても、哲学的な側面に触れることになる。何が哲学かはその人の受け取り方だが、要するに物事を根本的に考えるということだろう。この出来事にかかわらず、かねてから日本人はどうも哲学そのものも、哲学的なことも嫌いらしいとは気になっていた。
 超高齢社会のせいか、「農」復権の表れか、その双方が重なっているのか、山村の個性的な高齢者の暮らしにせまるテレビ番組が多いようである。そこで私の感ずることはこの人々の持っている「生活哲学」のようななにものか、である。それはいわゆる生活信条でもあり、家庭事情による高齢者の心境そのものかも知れない。一方、現役の農業者は困難な社会経済環境も反映しているのか、強烈な「農業哲学」の持ち主が多いようだ。今時、農業をやろうという人は、個性的な主張があるからこそ、がんばれるのだろう。私の「哲学」理解はそのようなものだが、ともかく人間にとって大事なものという気持ちがあり、それほど大袈裟にしなくとも、尊敬すべきものだと思ってきた。
 今年度は隠居に声がかかり、ある省(特に名を秘す)の委託の仕事で研究会が組織され、珍しくメンバーに入れてもらった。私以外の方々は大変真面目で勤勉であり、これまでの研究者生活の中での、やたらとこの種の行政対応報告書作成に参画した経験からいって、内容はもちろん、原稿の期限も厳守で素晴らしい報告書原稿ができたと喜んでいた。ところが思いかけず、印刷直前スポンサーから内容にチェックが入り、いまにもかよわい脳の血管が切れそうな思いである。この干渉にはいくつかの問題があるが、私に関していえば、あるメンバーが「哲学」に言及したので、かねてから日本人の「哲学」嫌いを気にしていた私が、お節介にも、少々その部分を増量して分かり易く一般化できるように書き足した。そのためその筋に引っかかり、この部分は全面削除になってしまった。元のままなら見逃してもらえたかもしれないので、その点では申し訳ない次第である。
 加藤周一「日本文学史序説・下」の指摘により、中江兆民「一年有半」(岩波文庫版 31~32頁)を見たら、この点が100年前にチャンと書いてあった。
 「わが日本いにしえより今に至るまで哲学なし(中略)。しかしてその浮躁軽薄の大病根も、また正にここにあり。その薄志弱行の大病根も、また正にここにあり。その独造の哲学なく、政治において主義なく、党争において継続なき、その因実にここにあり」。

森川辰夫
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「農村生活」時評17 "初夢 日本語・世界遺産・沖縄"

 高齢になると、生体リズムの各局面でその変動幅が小さくなる。そのひとつが眠りが浅くなるということである。ぐっすりとやすんで一日の疲れをとりたくても、どうしてもうつらうつらとしてしまう。そうなると断続的にとりとめなく夢をみることになる。
 昨年末、話題になっていた水村美苗著「日本語が亡ぶとき」を読んで、日本の近代文学というものが世界的にみてひとつの奇跡のようなものだ、それは日本語の成立自体が歴史的、地理的な環境下で奇跡的な成立をしたということが基盤にあるからだ、ということを学んだ。世界的に英語全盛のご時世のなかで、日本人は不便で妙な言語生活下にあると引け目があったが、ここで著者によって指摘されている日本語の将来問題の是非はともかくとして、今の私はこんな拙い文章でもかけるという、恵まれた文化環境に安住していられるのだと痛感した。
yume.jpg この本で日本語の世界的歴史的な位置を考えているうちに、これは日本農業の境遇と同じではないかと思った。現代的に著名な農業地帯の、北米・中西部、ウクライナの穀倉地帯、ブラジル大平原などは歴史的には大人口や文明を養ってきた所ではない。日本列島は二千年来、移住民を含めてかなりの人口を養って、多様で精密な耕作を発展させてきた土地である。今日の国際経済環境では確かに小規模零細経営かもしれないが、それはこの列島の自然環境を生かして、われらの先祖が集約的な取り組みを堅守してきた経過の反映である。確かに産出額を重視するアメリカ農業的視点からいえば、日本農業はつまらない存在かもしれないが、多様な島々の自然条件の活用、二千年におよぶ歴史的な営みとその文化的蓄積からいえば、国ぐるみ自然・文化複合型の世界遺産である。
 洞爺湖サミットのメディアセンターの食堂で、リンゴ、みかん、ぶどう、梨、スイカを提供したら、各国のジャーナリストたちが"なぜ新鮮でおいしい果物がこんなにたくさんあるのか"と驚いたそうだが、私たち自身がスーパーの棚に慣れてしまって、一つの例ではあるが日本の果樹産業の恩恵など忘れている。さらに付け加えれば日常的に農山村の恵み、沿岸漁業の豊かさという食生活の構成部分も視野からはみでている。となるとそもそも世界遺産の登録資格がないかもしれない。
 日本は大陸の端に位置する島国だが、水村美苗氏にいわせると、その大陸との距離・位置関係が誠に微妙だという。海をへだてて離れすぎると文化が届かないし、もっと近いと直接大陸文明に支配されて独自の文化が育たないという。その島国の代表的というか、象徴的な地域が沖縄である。県外の人々にとっては観光の島であるが、この地を支配しているのは軍事基地ときわめて困難な農業のありかたである。先日、夢でなく正気の時に、「あの島は米軍基地がなければ県民は暮らせないのでしょう?」とまともに聞かれた事がある。沖縄の研究をした経験がないので、よく判らないが多分、観光と農業振興だけではいまの県経済を支えられないだろう。いまも雇用不足問題でいつもマスコミに登場する常連は私の勤務していた青森県と沖縄県である。
 先日亡くなられた加藤周一氏のTV追悼番組をみていたら、氏は民主主義における少数意見の代表として日本における「沖縄」の存在を指摘されていた。そこでまた別の文脈で、「日本の国際貢献は軍事分野ではなく、医療・医学だ」とも発言されていた。私は南アジアとも東アジアとも近く気候にも恵まれているので、全島の基地用地を病院・保養所化して、それこそ治療法の確立していない難病や小児がんのような患者を主としてアジアから、そして世界中から招くプロジェクトを展開する国際事業を夢見る。ここにはすこし怪しくなってきているが、伝統食による長寿県の経験もある。
 それだけでなく県民はかつて地獄の経験を有し、軍事基地で鍛えられたやさしさをもっている稀有の人々である。だから外国から来た病や傷に悩む人々を迎えうる人間的力量の持ち主でもある。後期高齢者医療制度問題で年寄りに金を使いたくない政府の本心はよく分かったが、沖縄をはじめ離島にもがんばって暮らしている、いま日本の高齢者に十分な医療をなせば、その知見は必ず加齢医学の進歩に寄与し、これからの世界中の高齢者の治療に役立つに違いない。
 年が明けてもいまなお世界では戦乱が続き、不幸な死者とともに多くの身体障害者がうまれているに違いない。地雷やクラスター爆弾被害者のこともある。そこで日本の形成外科、金属・プラスチックなどの物質材料科学、さらにはロボット工学の成果を駆使して、ほかならぬ基地沖縄の中にこそ、世界中の義肢注文に対応する国際再生リハビリセンターをつくり、何万という人々を迎える。中国ではこれから航空母艦を造るそうだが、日本はすでに半世紀前に卒業している。いまはイージス護衛艦も豪華客船も造れる世界的な造船技術を発揮して、いままでにない独創的な病院船をつくり、世界中を航海して若い医者の学習・研修も兼ね、難しい患者のそこでの治療と沖縄への入院患者の大量輸送を担当する。
 そうなるとすぐ金の問題になるが、いまの日本の軍事費と国際協力費の合体なら予算は何兆円規模でなんら心配はない。初夢に限らず、私の夢にお金がでてきたことはないが。

森川辰夫

「農村生活」時評16 "高齢者になって高齢者を考える"

hikari.jpg 世間では「高齢者」の話題が尽きないが、それが社会評論ではなく、実際に自分のこととなるとなかなか思うようにはいかないものである。この秋、身辺の用事が捌けずに疲れがたまり思いかけずダウンしてしまい、この「時評」も止まってしまった。ホームページ担当者に迷惑をかけたが、別に月刊誌連載でもなく「固定読者」のいる欄でもないので、そんなに悩むことではないかもしれないが、かねてより加齢のため気力の低下していた本人は、糸が切れたように落ち込んでしまった。
 昔々「農村高齢者」問題を扱っていた時には、社会全体として一応医療制度をふくむ社会福祉制度の漸進的充実を前提としていたから、私のささやかな予見はその点で崩れているが、研究として明らかにしたつもりの知見の部分が、その後社会の高齢化の進行のなかでどのように試されていくのかは、気になるものである。あの時点で日常生活能力を重視してそれなりに捉まえようと試みたが、そこでの暮らしにおける「気力」の扱いはやはり甘かったと反省している。つまり「農村高齢者」を働き手として生かそうとして現場でいろいろ調べたが、そこでのメンタルな面は当時の農村高齢者の持っていた営農意欲にもたれてしまっていたのだ。身体的な生活能力課題はその補完も支援も少しずつ開発されてきたが、どうも体力低下と気力の問題は自分が年をとってみて高齢者にとってかなりの重みのある厄介者であることがわかった。
 先日、つくば研究者9条の会で、駒沢大学・姉歯暁教授の食と農に関する講演を聞き、この「食と農」関連問題は営業品目と思っていた私が、農業経済分野ではない現役世代の研究者の生気あふるる話にあらためて感銘を受けた。そのなかで農村高齢者にも言及されたが、講演全体としてのキーワード及び提起を「社会的連帯・批判的精神・希望」とされたのには驚いた。こういう社会科学として水準の高い話、その根底にある研究はたとえ若くても私にはとてもできないが、現役世代の専門的深化だけの傾向に疑問を抱いていたので、一般の社会的関心はとみに高いが学問では関連分野の多様な、この幅の広い課題をまとめた力量と学問的到達の高みに感心しただけでなく、日本人の「食」を心配する研究者OBとして安心した。
 先生の提起された視点でかつての私たちの分析を考え直すと、いくつかの調査報告での農村地域社会での多様な共同活動の重要性の指摘は当たっていたのではないか。もちろんこの提起自体はもっと幅の広い高次の連帯のあり方を問うものであるが、農村に限らず今、小さな共同活動をどのように築いていくかは、これからの日本社会の基本的課題である。しかし二つ目の提起の批判的精神の課題は一連の調査分析に全く欠けていた視点である。この欠落が先の共同活動の再編が現場でうまくいかなかった真因かもしれない。だから高齢者の中でも女性活動が伸びているのは、あまりあからさまでなくとも農村という男性社会のなかで苦しんで前進するなかで、彼女ら自身がこの精神をきたえていたとみることができる。最後の先生の「希望」はあまり社会科学の分野では出てこない言葉なのでそこでは本当に驚いたが、食と農のいわゆる「厳しい現実」を越えて行く改革にとって、これこそ最も必要な事柄だ。
 では農村高齢者分析にいかなる「希望」視点があったのか。調査時点ですでに転作は本格化していたし、過疎は深化して村のくらしは楽しい環境ではなかった。しかし聞き取りをしたどの方々も、これから先の5年前後の目安をもって長生きしたいとか、今の状態で働きたいとか、元気に過ごしたいという希望を持っていたことは大事な事実であろう。これがどの年代でも、つまり60歳代前半でも70歳代後半でも同じであったことに強い印象を受けたのである。今の生活を5年先にも続けているということは、私にはとても想定できない。当時の農村高齢者の気力にあらためて感心して、私の「希望」をあと1年、これを続けるということにしたい。

森川辰夫

「農村生活」時評15 "献立はどこへ?"

 何か考えている時に、そのテーマに関連する情報に接すると有難いし、なによりも励まされるものである。昔の馴染みの研究者仲間では、お互い、役立ちそうな文献の紹介は日常のことだった。今のような文献検索のシステムが整備される前の話である。隠居生活の今は圧倒的な情報量のTVと新聞中心のくらしだが、乏しい読書の中にドキリとすることもある。この欄で「100」という数字にこだわった話を書いたが、すぐその2.3日後に、地域での読書会の関連で「民族、国民にとって自ら関わった戦争の総括には百年という歳月が必要」という歴史家・文芸評論家の対談を読んで驚いた。
school.jpg かつて私は「農村生活研究」の手法の一つとして、農家食生活分析のために「献立型」というものを考えたことがある。農村生活にはいまなお多くの解決すべき課題があり、従って独自の研究領域があるはずだが、といっても必ずしも独自の研究手法が開発されてきた訳ではない。隣接する学問の手法を借りて、他人のやらない、いわば地味な問題をていねいに取り組むというのが、率直なところ、この分野の研究の大勢ではなかったか。もちろん私にとっても生活行動の類型化、生活時間、生活リズムなどの手法が独自の積りでも、どこかにルーツはある。この「献立型」のアイディアも出自は家政学であろう。ただ全国の多くの農家事例を対象に長期記録分析も含めていわば全面的に展開を試みたのは、前例がなかったから、ほとんど独自の手法だと思い込んでいた。しかし余程欠陥の多い手法で、その研究成果にもみるべきものがなかったようで、その後、全く関連研究が生まれなかった。それどころかそもそも評価の対象にもならなかった。私の生活時間研究や生活リズム論も不毛で後継者が皆無であることは同じだが、それでも当時研究者仲間で少しは話題になった記憶がある。しかしこの「献立型」はそれもなかった。
 そのような経過から私はいろいろな場面で「献立」という言葉をみるとドキリとする。もちろん「型」という手法だけにこだわっている訳ではない。昭和30.40年代の農村生活分析に役立ったとしても、今日の状態は異なる。高度経済成長期を経て日本の食生活が「多様化」して、ついには崩壊しいわば「形無し」になったことが不幸の根源で、「献立」として捉えることさえ困難になっている現状が気になるからである。購入した冷凍餃子でも、単品ではなく「献立」の構成部分になっていれば救われるのだが。
 評判のわるい、というより評判にならなかった私の「献立型」諸類型の基本型はごく当り前のもので、ご飯・味噌汁・主菜・副菜というものだが、これが「風倒木」⑭の大学学生食堂の夕食に「登場」して安心した。この献立はもともと高齢者施設の定番であるが、今はそこに色々な工夫と彩りがあってそれぞれ量はわずかでも献立としてはもっと立派なものになっている。
 日本列島におけるあるべき食生活の姿を、歴史と風土をふまえて再構築しなければならない時点にきているが、食材としてはやはり米、やさい、魚(海も川も)が基本だろう。かつて私も単身赴任生活の時はこの組み合わせによる実に単純な食事だったし、いまでも孤老の方々の食が、そのようなものと聞く。しかし、当時の農家は丁寧に見ると必ずしもそれだけの、ただ貧しいと表現されるものではなく、かつての農家「献立型」は食材は限られていても、調理法の組み合わせとその毎日と季節変化で食卓は多彩な演出で彩られていたのである。

森川辰夫

「農村生活」時評14 "食にどうせまるか"

 食のあり方についての文章を書こうとしたら、今度の「事故米問題」がドンドン広がっていく。これまで世間で横行する「食品偽装」の主役はいつも民間業者だったが、今度は農林水産省が主役のひとり、いや悪役ないしは脚本家に近い芝居のようである。私なぞ組織の末端にいただけだが農水省OBの立場から、刻々伝えられるニュースに落ち着かない日々で、ここで食のテーマをとりあげるのはいかにも白々しい。しかしこの欄で研究集会の報告をするのは昨年に続きひとつの義務なので、話題提供者の素晴らしい活動の一端を紹介したい。
shokuji.jpg 9月はじめ、仙台市・東北福祉大学ステーションキャンパスにおいて「東北農村生活研究フォーラム・2008セミナー」が亘理農業改良普及センターの河野あけねさんのご尽力で「生産者と消費者を結ぶ~毎日の暮らしに"地産地消"を!」をテーマとして開催された。宮城県農業実践大学校の菅原美代子さんがコーディネーターをつとめ、生産者・消費者・それをつなぐ場の三者の個性的な報告があった。生産者としての洞口とも子さんは重要文化財である「洞口家住宅」を活用して「たてのいえ」という農家レストランと「旬の情報館」という直売所をつくり、名取市内の女性農業者の直売グループを組織して地元量販店に直売コーナーを設け、あわせて「なとり産直ネットワーク」を展開している。つまり今日の農業者として可能な限り消費者との多様な接点をつくり、日々、仙台近郊の都市住民に直接はたらきかけている。そこから提起された課題は、生産者だけではできない、市民へのつなぎ役、両者をむすぶ活動への期待であった。
 消費者として登場したのは異色であるが、会場である大学の学生食堂の運営にあたる(株)団塊世代・活動センターの伊藤敏男さんで、この4月にオープンしたばかりだそうだが、ここを拠点とした活動展開の主としてこれからの展望を語られた。この引退中の世代をつかむという今日的な組織づくり、JRと直結した、かつ、市民に開放する大学キャンパスの設計とその活用のあり方、大学生の食育への試み(本集会直後、朝日新聞・9月8日付け、「食育で生活改善」として紹介された)など多面的な展開の可能性には魅力一杯である。さて“つなぐ場”の栗原和子さんは仙台市繁華街に仙台味噌を中心に全国組織「良い食品づくりの会」の食品を提供する老舗店舗、佐々重の社員で、県産大豆によるミソづくり活動、「会」組織の担当者である。その立場から最近の消費者の動向が語られたが、このお店はやや、レベルの高いお客さんが対象のようである。しかしそこからも、今日の消費者の姿が見えてくる。
 つまり、みなさんの強調されたのは、普通の市民は食品にたいして特別の誤解とか偏見があるのではなくて、ごく当り前の食品知識に乏しくて食生活のイメージが貧しいことが、根底にあるということであった。もちろん大勢ではないが、ある人々は例えば、菜っ葉のことは知っていてもほうれん草と小松菜の違いはわからない、大衆魚のいわしとあじの区別がつかないということであった。ごく普通の献立を毎日つくる、当り前の食事を準備する生活のコツを身につけることに今の課題があるらしい。生産者も農産物のひと包みごとにレシピをつけるなど努力しているが、こういう消費者を相手にするにはさらに一工夫がいるのかも知れない。
 話題提供のなかにあったが、私の知っている範囲の普通の学生食堂は昼食が主体だが、東北福祉大・学食は夕食にも工夫して、「お袋の味」の再現、ご飯・味噌汁・主菜・副菜の献立を用意しているという。学生はその献立を携帯で写し、「ちゃんと食事している」と親に送信して安心させているという。

森川辰夫

「農村生活」時評13 "積み重ね100回ということ"

kaigi.gif 世の中の、様々な社会組織が崩れてきて、いまは個人が裸で世間に放り出されている。ここにいう「社会」とは、家族に次いで暮らしに不可欠なものだが、近代日本は伝統社会をこわして企業中心というか、勤め先に心身とも帰属する会社社会のような世界をつくった。ところが、その頼みの会社は手のひらをかえしたようにリストラに熱心になり、日本人は落ち着く場所を失った。それは現代人の精神的不安定の一因ともいわれる。そんな時代だからといって、これから急いで、必要とされる組織を新たにつくるにせよ、伝統的な組織を再生させるにせよ、いまの危機は深く、前途は難問だらけである。
 私達に縁の深い農業・農村組織もご多分に漏れず、困難が山積している。農業は農地という地域資源に立地する産業であり、農村は二重、三重どころか、新旧組織が極端にいえば二十重、三十重に存在してからみあい、中々厄介な姿になっている。もちろんそれらの組織の中核ともいうべき集落が消滅するという危機状況だから、ただ単にこれまでのように組織のあり方だけを考えるというのは、いささか問題意識が甘いかもしれない。
 機会があって、全国農業改良普及支援協会で普及指導員のすすめる組織化という課題の勉強会に参加している。そこでいくつかの事例を拝見していたら、あるところで農地整備を核とする法人組織化のなかで、話合いの回数の問題が提起されていた。農地は単なる生産手段ではなく財産だし、まして今の農業情勢で整備となれば負担の問題もあるし、将来の営農のありかた、ひいては生活設計にもかかわる。その会合が難航するのはとうぜんである。そこで論議がもめても単なる流会にせず、次にどのように会合を持つか、つなぎ方が大事だという指摘で、これは大変教えられたが、ここでは会合そのものはまとまるまで十数回だったらしい。しかしその県下にはこの課題に取り組み、重ねた会合100回という事例もあるらしい。会合はあくまで中味が問題だから、それこそ回数の問題ではないが、関係者の熱意が途切れず、難題の合意形成まで延々100回という数字に興味をもった。
 私の住んでいる地域で高齢者だけで、古典を読む会を続けている。世間のこの種の趣味の会はそれなりの講師がいるが、当方はどんぐりグループである。ところがこの会が年数を経てなんと100回を越した。難解な古典でもこのぐらい付き合うと、なんとなく分かってきたような気がするものである。それはともかく、いまの世間に本物の社会組織をつくるのは難儀だし、できてもその運営にかかわる会合・会議のあり方は、戦後民主主義・新入生世代にはいまも難しい。実際の組織の経験は乏しいが、ただ、このような「勉強」の回数となると二回の大学勤めの経験から考えることが多少ある。
 大学の前期のコマ数は15回で年間30回となる。これは多分どこでも同じ様なものだろうが、ひと昔前の大学は適当な部分もあったろう。しかし私の頃はすでに面倒な年間計画があって、ともかく休講なしでその15回はこなしていた。ゼミ生は二年から所属すれば、その教師のゼミに大体100回つきあうことになる。4年生になって教室にはいり修士をやれば3年間でやはり100回ではないか。ゼミは単なる講義ではないところに意味がある。しかしその意味の理解にもある程度回数の積み重ねが必要で、その時にはほとんど何も分からないのが学生の現実ではないか。
 現代はなにかと忙しいが、もし、学ぶなら、教師と付き合うにも書物に親しむにも100回というのはひとつの目安のように思われる。私のような才のない人間は勉強といえば、ただ積み重ねするしか方法が見当たらない。人間生活の局面はまったく異なるが、社会組織づくりもその位の長い期間の覚悟は必要ではないか。もちろん社会にはもともと短期的な役割を担う組織もあるが、その命は別の組織に受け継がれていくだろう。
 さてさて、こう数字にこだわると、願わくは100回の誕生日というところだが、それは無理だろう。あと一季、100日の生活と仕事、その次はさらに100日の、という日数の目安が、昨今の無難な生活目標である。

森川辰夫

「農村生活」時評12 "多様な季節を生きるくらしを"

natsu3.jpg 梅雨が去り、暑熱の夏が来た。今年は早くから暑い日々が続いたから、これから本当の盛夏を迎えるのかと思うと、いささかうんざり気味である。やっと夏休みを迎えた子どもたちは別として、早くも秋の涼しさが待たれる。気候変動の話題が多い昨今だが、まさかの出来事の多い異様な世間でも、この四季の移り変わりの大筋は変わらないだろう。
 その温暖化がらみか、このごろ日本の四季がらみの話をよく耳にするが、私たちのくらしはこの季節変化をひとつの軸としている。特に農業生産はさらに地域の微妙な気象現象のなかで営まれるから、「地産地消」を願うなら、いままで以上に季節を大事にするくらしが求められる。現代日本というか、とくに大都会の生活は季節性を超越し、コンビニのように24時間サイクルの昼夜の変化も無視する有様で、それが進歩のように思ってきたが、夢中で働いてきた現役世代もいささか疲れてきたようである。さらに人間だけでなく、大分地球自体も怪しくなってきた。
 四季という表現は日本語にとってはきわめて大事な存在だが、私は日本の季節にはその外に二季、つまり梅雨と野分があると考えている。これは古くは、最近亡くなられた多田道太郎氏の提唱された説だが、私の根拠は昭和後期というか中期というか、昭和20年代、30年代(1950~65年ごろ)を中心とする時代の農家生活時間調査結果の分析である。その頃でも年間調査のデータというのはそれほど多くはないが、当時の農家の生活は当り前だが、農作業上季節変動に素直に対応していて、この列島における人間のくらしの、いわば自然に沿うあり様の原型をしめしている。私は農家の年間生活時間の中味を検討して、そこから労働時間・睡眠時間を軸にした時間配分類型を想定し、それらの季節変動という手法であれこれ、ひねくりまわしてみた。すると四季に対応したような年間四類型というのは稀で、多くは五ないし七類型におさまった。対象農家に北海道と沖縄は含まれていなかったから、あくまで本州中心の話だが春と夏の間にはなにか一つの時期があり、さらに夏と秋の間にも一つの時期があるというのが、データで見る限りいちばん一般的だった。そこに先学の梅雨と野分という表現を当てはめた次第である。したがって必ずしもその時期に長雨や嵐の登場が不可欠という訳ではない。
 それでは冬と春の間、秋と冬の間はどうかという疑問が生まれる。私はこの仕事をまとめたあと、岩手県盛岡市に住み、さらに数年後ふたたび岩手、そして津軽という本州の代表的な北国に住むという経験をした。そこには確かに特徴的な埃の多い春先という季節があり、初冬という季節も結構長いのである。だから北国、雪国では事実、単純な冬というものはなくて、寒気と雪がその地に多彩な季節的演出を試みるが、農家の生活時間類型としてみれば農閑・冬季型が支配的であった。
 国際的な比較では日本人がもっとも睡眠時間を削っているという。そうやって働いている人々自身にとっては季節によって生活時間配分を変える余裕はないが、家族と社会を見れば、こどもと高齢者にとって季節とその変化はなんといっても生活の基本である。その常識的な現実を踏まえて、この列島に新しい社会環境下で季節に対応した現代生活というものを創造してもらいたいものである。

森川辰夫

「農村生活」時評11 "緊急事態下の生活をまもる"

 「農と人とくらし研究センター」の総会と設立イベントの最中、岩手・宮城内陸地震のニュースが飛び込んできた。昼すぎの時点ではもとより事態がよく判らなかったが、かなりの地震だということはすぐに理解できた。私の住んでいる茨城南部地域はよく、ドンと感じる地震が起こり、やや慣れているが、話の様子で今度は規模が違うようだと感じる。新潟・中越地震のときはたまたま入院中で、ベッドでおとなしく夕方の配膳を待っていた時であり、今もその時の印象が鮮やかだ。この頃、世界でも日本でも地震が多いのではないか。
kasai.jpg 今度の被害地は岩手と宮城の県境地帯で、そこの被害者も出ているがすぐ西は山形、秋田である。ここは東北地方のいわば背骨にあたり、栗駒山、温泉の観光が主力だが、農業も盛んである。直接の調査対象地ではないが、この麓の稲作生産組織に行ったことがあり、高原の開拓地の大根生産の話を聞いた記憶がある。この災害の様子がテレビ、新聞で連日のように伝えられるので、どうしても阪神・淡路大震災のことを思い出すことになる。
 この災害は規模の大きさや近代的な人口密集地での生活破壊として、その後の日本社会に多大の影響を及ぼした。私は当時、教員養成の仕事をしていたので、新一年生対象の生活論的な授業の中で、ただの一コマだけだが、この災害をテーマにして地震対策とともに被害から立ち上がる具体的課題をとりあげた経験がある。ただ一般的に児童・生徒を守る地震対策というのではなく、学校は災害時に住民の避難所として利用されることも多いので、先生候補者にはある程度の問題意識を持っていてもらいたかったのである。同時期に私はいわゆる戦後開拓地における生活建設の歴史をレポートにまとめていて、もとより局面は異なるが、緊急事態下での命のつなぎ方、人間生活ということを考えさせられた。
 阪神の時はまず、各地で大変な火災も起きたが、本震がおさまりどうにか安全な空間にのがれた人に必要だったのは"水"であった。そしてケガをされた方には薬が、ついで冬の早朝であり体に羽織るものが、おにぎり、パンなどの軽い口に入れるものが、その日のうちに落ち着ける避難場所という順番ではなかったか。
 開拓地の場合には予期せぬ災害と異なり、それなりの覚悟の上だから、やや時間的なゆとりはあってもまず大事なのは水源の確保であった。これが定まらないと住まいの場所がきまらない。簡単な衣類と当座の食べ物は持参したことであろうが、その蓄えのあるうちに雨露をしのぐ仮小屋の建設が当時の緊急課題であった。そこには阪神の時も大問題になったがトイレの確保がついてまわることになる。
 私の授業ではリュックに入る程度のボトルの水、保存食、防水用具、きずグスリ、着替え・軍手などの災害対策用品を用意して詰めて行き、教壇上に並べて学生に見せたが、そこではあまり反応も効果もなかったようだ。「稀にしか起きない出来事で生活を語るとは、なんと際物好きの教師だ」と思ったかも知れない。しかし不幸にして、その後日本でも世界でも連続して震災が起きている。今度の地震のことで、彼等のうちでもし学校現場にいたら何かを思い出している者もいるかも知れない。
 今の日本人にはあまりピンとこないかもしれないが、世界中にあふれている「難民」の姿を映像で見るにつけ、乳幼児を中心とした不幸を最少限度に止めるために日本として、もっとできることがあるのではないか。そのためにも緊急事態下の救急的な生活システムの構築という問題は、いまなお生活研究の一課題だと思われる。国際的にも災害社会学という分野が活躍しているようだが、そこにもう少し具体的で、生々しい課題を任務とする生活研究の成果と手法が参加すべきではないか。

森川辰夫

農と人とくらし研究センター

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