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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

カテゴリー「■ 風倒木」の記事一覧

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「農村生活」時評26 "地震に揺すられて"

 暑い最中、続けて3回もゆらゆらと地震に陋屋が揺られた。私のすむ茨城県南部は日頃から地震が多く、その上わが家が建っているのが安い小規模開発地で地盤が悪く、それなりに揺れるのには慣れている。それでもこの三回にわたる連続地震は気持ちよくない。高齢者なので朝、早くから目覚めることが多いが、あの日の朝、何かの知らせか、5時前に目覚めて枕元のラジオをつけた。定時ニュースの最中、聞き覚えのあるチャイムが鳴る。何だ?と思ったら「緊急地震速報」という。その後すぐ、ゆらゆらときたから速報が間に合ったことになるが、布団から出る間もなく寝ぼけていて何も出来なかった。しかしかねてから話題の予知らしきものを聞いた始めての経験である。
 私自身が農村生活研究に従事していた時代は、戦後でも特別な私の表現では「好天好況の20年」で直接災害研究の経験がないが、ごく身近の研究者の知人には災害研究の実績がある。昔々勤務した旧中国農試は阪神・淡路大震災に際して農水省研究としては大規模な共同研究を実施して同僚たちが報告書を執筆している。また雲仙普賢岳の火山災害については、かつて度々農村調査をともにしたことのある九州大学の社会学グループが長期の調査研究を進めて浩瀚な報告書が出ている。日本列島は地球上で難しい位置にあるから、災害の種類には恵まれている。
 研究者としてはこのように報告書を書くのが仕事だが、この種の救援・復旧関係業績はデータを着実に積み上げていく考古学の遺跡発掘報告書とは性格が異なる。やはり被害地の直接関係する住民だけでなく、災害列島に住む現今の日本人の危機管理のノウハウとして生かされねばもったいない。いや台風害についてはどうやらアジアに共通のようであり、地震災害についてはまさに世界各国共通の悩みであろう。地震害については工学としての新知見がその後の建物構造とか大型構造物の設計には生かされているようだが、災害を受けた住民「生活」の再建課題はそこの政治的側面が関与するから、なかなか社会化というか、一般化しないようである。戦争難民が何千万人も生まれている時に自然災害だけを対象として特別視することにもちろん問題があるが、いわゆる難民問題よりも人道的介入がやり易く、いわば政治的側面がやや弱くなっていて、ミャンマーの台風害のように外国から対応しやすいのではないか。
 災害救助の初期はもちろん人命対策が第一でなによりも医療が優先する。そこでの物資としては水、薬品、非常食品である。災害後数日からは助かった人の本当の「生活再建」が課題として浮上する。支援体制を別にして救援物資だけを想定すれば飲用を含む生活用水、当座の食料、最低の衣料と寝具、そして雨露をしのぐテントや簡易住宅という順序になるのか。この段階、いわば緊急の救助活動がおわり恒久的な建物の再建などが始るまでの期間が実はもっとも長期にわたるのである。この生活再建の本番である、暮らしの期間の営みがあまりにも日常的というか、常識的な中味であり、早い話が映像ジャーナリズムの対象になり難い。しかし近年、外見からではわからないこの時期における被災した子どもの心理対策が強調されるように、また成人にとっても疲れの出る頃で、被災者生活研究としてはここが勘所であろう。
 したがって多様な解決が求められる現実があるが、私は余り話題にならないが、ィ・簡易な給食体制であってもどういう献立構成するか、ロ・集団生活でのトイレをどうするか、ハ・簡易な建物の場合の寝具の保温方式、ニ・集団生活での入浴体制をどうするか、ホ・子どもの保育などが気になる。しかしなかでも被災地への食料供給つまり農業・農村との接点がわれわれ業界関係者の課題である。各自治体で災害用食品の備蓄が進められているが、それはいわばごく初期の対策である。そのあとの食生活は自己責任というのが国の政策かもしれないが、住民にはかなり長期に基本的な生鮮食料品の供給体制が必要だし、なによりも給食体制が不可欠であろう。被災地におけるこれまでの自治体のやりかたをみると、予算の制限のせいだろうが、とりあえず手軽なおにぎり、菓子パンの提供があったりして、その後は体制が整備されてもせいぜい仕出弁当の配給である。これでは飢えは防げるが「生活」支援でもなく、ましてや住民には再建の元気もでない。
 "常日頃からこういう事態に備えよ"、といっても今の社会では絵空事で、世間知らずの妄言あつかいだろう。そこでなにかしら今の現実とつながるような、このご時世でも実現可能な提起が必要である。といっても妄言に近く、いかにもお粗末だが二つの提案をしておきたい。
 ひとつは昔から提案してきたつもりだが、学校の休みの期間に学校給食施設を使わせてもらって住民が参加していわゆる避難訓練だけでなく、作るところから食べるところまで体験する活動を展開することである。こんなことは自校方式で気の利いた自治組織ならすぐできる。しかしもっと一般化するにはいわゆる給食センターを利用して、あくまで有志参加でごく小規模にやることである。それも地元の高齢者施設だけを対象に試みてみることも意義があるのではないか。地元で大火事が起きてから、"そういう恵まれない高齢者の方々が住んでおられたのですか"、と驚くのでは悲しいことである。
 もうひとつは都会と農村の自治体が協定を結んで災害救援のシステムをつくっているが、そこで遠距離ではあるがこの給食支援体制の模擬活動をお互いにやりあってはどうかということである。この種の行政上のことについては無知なので何も具体的にいえないが、住民と役所がその気になればいろいろなことが出来そうである。
 いずれにしてもいくらかの予算が必要だが、一番むずかしいのは関係者の話し合いとその組織化ではないか。世間では災害ボランティアの実践活動が進んでいるが、もうすこし進めて市民参加の水準にまで高めるには、農村地域での実践で普及員の方々が積み上げてきた、住民と行政の双方を視野に入れた、これまでの生活組織化のノウハウが必要だ。こういう新しい活動が進めば普及知見の新しい領域への今日的適用になる、ということを頼む立場の人も頼まれる立場の人も気づいてないのではないか。

森川辰夫
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「農村生活」時評25 "共同体か、共同関係か"

 梅雨が去って今年限りだろうが、夏の政治の季節になった。この選挙戦は政治の論戦だから国の財政や外交のあり方が最大の論点である。だがその背景にある国民の関心事は、ここ十数年来の「構造改革」によって破壊されたこの社会をどのようにして再生させるか、あるいは時代に合わせて新しく創り出していくかという課題らしい。それぞれの政党の政見の向こうに、ごく敏感な社会層に限られるが震災の廃墟のような現実社会に向き合って、それらの人々は色々な市民による共同活動の展開された社会のイメージを描いている。つまり当面の姿としては、市民による手作りのセーフティネットのようなものである。
kyoudou.jpg そこでは懐かしい「共同体」という言葉がよく出て来るというか、私の目に飛び込んでくる。先日もある新聞の選挙関連討論の場に"信頼ベースの「中間共同体」を築く"ということが選挙テーマだ、という発言があって驚いた。昔々から「共同体」を理論上、あるいはまた観念上気にしてきた古老らが、いま社会の片隅で影響力のないままブツブツ呟いているだけだ、と諦めていたが、この意見は30代の論壇若手の発言だからその類でもなく、昨今「共同体」論は最新の論調に登場しているらしい。
 私の営業品目は「農村生活」で、特にお客さんが難しくなければ「農全般」を取り扱ってきた。引退後は新しい商品を仕入れてないので、10年近く休業ならぬ廃業である。ところが機会があって別の営業品を仕入れて、あたかも祭りの出店のようなその場限りの話をした。それはそれで終わりだが、客の中からあの話し手の本当の商売は何だ、という問い合わせがあって、茨城大学中島紀一教授の勧めで書いた「農村の暮らしに生活の原型を求める」(総合農学研究所リポート№2、02.7)をその人に送った。その中には、共同体という厳密な学問用語は使わなかったが、「むら」といわれる地域社会のことを書いたので、最近の論調との接点を意識して読み直した。この文章は私のどの仕事に比しても反響のなかった、いかにもだらしのない書き物なので、いまさら本人としてもあんまり読みたくはない。しかし小冊子を渡した成り行き上、気になるので、いまの現実の社会での課題との関係を考えた。
 かつてのむら的共同体といまの日本社会再生との関係という、私の気にしているこの論点そのものをとりあげたある学者は、雑誌にまとまった論考を発表して、これからは「共同体」もこれまでのようには空間的な範囲にごだわらず、多様な社会関係の集積という点に注目すべきだという。私自身は昭和30年代の「むら」を見ていわゆる伝統社会というよりは、すでに生活上の多様な関係の小地域的集積体と考えたから、この後半の主張は良くわかるし賛成である。しかし、問題はここにいう社会関係の中味である。現代には色々な私の知らないような社会関係がありうるが、普通の人々の暮らしでは日常的な衣食住領域での関係がかなりの部分を占める。もちろん世間には全国区的な活動が生活の全てという人もいるし、さらに世界中を相手にしていて自分の暮らしの回りなんぞ、眼中にない人もいる。それもひとつの事実だが、もしその人に家族がいて子供や高齢者を含むなら、その家族としてはある生活空間に存在しているのであろう。宇宙船の住人は家族を含む地上の人々との交流を盛んに演出している。
 都市型社会が日本の過半を占め、そこでの生活における農のウエイトが極端に低下した今日でも、私はその社会条件のなかでこそ精神的安定をふくめ、食生活をはじめ住まいの環境などあらゆる生活局面で農的な部分を採用する共同活動をすすめる必要があると主張したい。奇異に思う人は、ここで災害時の自治体支援協定を想定してもらっても良い。災害時に限らないがそれらはどうせ経済的には困難な活動だから、市民による奉仕的な共同部分が基本である。そうなると連帯する相手は遠距離でも助け合う仲間の基本活動はごく狭い生活空間に限定されるだろう。そこで活動する組織こそ、古典的な「共同体」とどうかかわるか分からないが、社会的にはやや小型だが中間体の一種だろう。これから広域的な社会関係がますます広がり、重なり合って複雑になることは当然、予想されるがそれとても、この生活基盤の上にこそ築かれるのではないか。
 先のリポートには21世紀の農村像を私の知的水準で想定して、あるべき集落レベルから自治体レベルの地域重層的な生活組織・支援施設配置図(1985年作成)を掲げたが、昨今の農村社会環境の劣化を別としても今から見るといかにも医療・介護領域が弱い。農村地域の自治体だから病院はこの「図」の外で、内部には中核的な高齢者施設しか想定していない。私の重視した中地域(大字ぐらい)・小地域にあるのは高齢者「活動」組織と施設だけであった。そのようなものも溜まり場として依然として必要だとは思うが、要介護問題の深刻さの見通しができていなかった。
 私の「農村社会」将来予測の誤りはともかく、これからの介護を全部、民営化・営業対象にすることはできないし、財政問題を別にしても市民の交流抜きではそれとて決して幸福の実現ではない。もちろん限りなく医療に近い介護問題もあるが、いま話題の領域のかなりの部分はお互いの助け合い活動、介護される側とする側の差が少ない活動になるのではないか。もちろん公的な施設整備の発展、地域に対する専門家の支援・指導体制が前提であるが。
 介護問題が社会的重圧を増しつつある今日、市民レベルの議論のためにも家族介護、公的介護に加えて第三の領域を提起したほうが建設的だろう。私のように介護される日が迫りつつある高齢者の真夏の夜を悪夢で過ごさないために。

森川辰夫

「農村生活」時評24 "四季から6季へ"

ame.jpg わが里にもかなりの雨がふり、いまや梅雨の盛りである。もっとも私は筆が遅いから、いやキーボード操作が下手だから、これが画面に出るころは梅雨も明けて暑くなっているかもしれない。北海道にはいわゆる梅雨がないそうだが、多くの日本人には暮らしのうえではなじみのある「季節」である。しかし春夏秋冬という四季は日本人にとって根源的な季節感というか、精神に染みこんでいるので、この雨期という新人は四季と同格の季節には昇格しない。
 農という営みは商工業と違い、一年という時間単位が基本である。しかも季節に対応した作物、家畜の生育の関係で農作業にはいわゆる農繁・農閑の差が避けられない。今の農家は年中忙しくていわゆる繁閑の差が少なくなっているが、それでも農作業上決定的な時期というものがあるから、季節は労働の緊張感に残っているといえるかもしれない。
 3,40年も前のことだが、私は生活研究のひとつとして、農家生活時間分析に取り組んだことがある。その時、暮らしの問題を研究対象と決めたが、主流の衣食住問題は衣料、食物、建物の中味に研究関心が集中していて、私はそれは物質分析で暮らし分析ではないと思った。しかし頭が悪く理論分野は苦手でなんとか手間ひまかければ出来る実証的な分析分野をと願い、簡単な時間数だけで表されるこのテーマを選んだ。戦後の一時期流行ったこの仕事はもうその頃は、誰も手がけていなかったが、逆にそれまでの調査報告が沢山残されていた。その中から年間記録のあるデータを対象に時間配分上の類型でバラバラにしたりまとめたりして、組み合わせを考えた。
 当時の農家時間問題の最大の課題は長時間労働であった。もちろん今日、商工業分野の職場で過労死するような長時間労働が再現するとは想定しなかったが、そのころ社会的な問題だった炭坑の重労働が消滅しつつあり、農家の労働が唯一の解決すべき社会的課題だった。そこで農繁期の時間構造をみると田植えに代表される春の農繁期は睡眠時間が短く労働時間が長い、収穫期の秋も労働は重く時間は長かったが睡眠時間はそれなりに長いことがわかった。そこで睡眠時間・労働時間・労働の軽重などを軸にして時間配分類型をいくつか想定してみた。
 当時の農家といえども年間時間記録資料そのものが少ないから、やったことはごく荒っぽい分析だが、それでも農家生活時間は一年間に5ないし7類型から構成され、なかでも6類型が一番多かった。つまり農家は大まかにいって、一年を六つの時期に分けて暮らしており、したがって季節の見方が世間より細かいと見られた。その頃京都大学の多田道太郎氏が四季に加えて梅雨、野分の六季を提唱されていたので、これだと判断した。日本列島は南北に長いだけでなく暮らし方では東西の変化も大きいから、特定の何月はなにと全国一律にきめるというわけにはいかないが、この梅雨時は我が時間配分類型では疲労回復期となり、睡眠は短いが労働負担が軽くなる。夏と秋の狭間にある「野分」は9月中心の台風期にあたるが、ここはいわば農繁準備期で労働負担も労働時間も中位であった。
 こんな話は私だけの独りよがりで、この分析手法はわが業界で研究として批判の対象にもならないで黙殺され消滅したから、いまではどうでもよいことだが、世間があまりにも長時間労働状態に逆行すると、苦しかった時代ではあったが季節に対応して時間配分を工夫していたかつての農家の暮らしが懐かしい。いまどき季節に対応した生活は年金生活・高齢者だけのものかも知れないが、この列島では季節の変化が多様だから、現役の方々も健康管理の基盤はそこにあることに注意した方がよいのではないか、と老爺は心配する。

森川辰夫

「農村生活」時評23 ""衣食住"の再登場"

 いまから十数年前だが、私は農水省の東北農業試験場という職場から隣県にある弘前大学へ転出した。年齢のこともあり、かねてより上司に「話があったらなるべく出たほうが良い」といわれていたので、もとより先方の教授会の議決によるものだが、すぐ、この話に乗った経過がある。だが大学といっても行き先が教育学部の家政教室であった。周囲は何も知らないから農学部だと思い込んでいたので、家政というのに驚いたらしい。しかもそのことを送別会の席上紹介した人物が「ご当人は向こうでセーターを編みます」とやって会場の笑いを取ったので、私はいささか憮然とした思いであった。
 これが家庭科というものに対する世間の一般的なイメージの表現である。最近のことだが、ある視聴率の高いテレビ番組で、著名なキャスターが「家庭科というのがまだ学校にあるのですか」と質問している場面をみたことがある。読み書き・ソロバンの他に英語もやらなければならないから、邪魔だというわけである。いまの小・中学校の家庭科教育には多くの批判があるが、若者が一人暮らしを始めると、いかにその教育が身に付いていないかが、自他共にリアルにわかるのである。
 なんでもこなさなければならない再就職のポストとはいえ、私にはいくらなんでも実際の衣食住の講義や指導はできない。入学早々の新一年生対象の前期には主として家族問題や原論的な講義を試みたが、直面した問題は何が生活にとっての原論か、という古くからの課題である。その頃教員養成課程では「日本国憲法」が必修だったので、憲法25条の生存権を柱にした思い出がある。昨今の憲法論議であらためてこの条文が話題になっているが、授業の狙いとしては間違ってはいなかったと思う。その頃学生による「授業評価」の走りで、学部2位になったこともあるから、ある程度こちらの気持ちが通じたのではないか。
 だが、それまでの30年近い研究者生活の「時代」では、世間は止めどない衣食住ばなれ、日常生活軽視の歳月であった。私が中学で家庭科を習った当時のような窮乏生活を脱し、ともかくあまり苦労せずになんとなく暮らせるようになり、暮らしのまわりに面白い事柄が増えたから、人々の関心がそちらに移っていったのである。なんとも荒っぽい表現だが、その後一世代分経過して、やや消費を追いかける暮らしにも疲れ、それにも飽きがきたようである。また昨今の世界情勢で、この日本でも世間の空気が変わってきているらしい。だが、ではその「閉塞感」の出口となると様々な提言があるようである。
shima.jpg 基礎情報学が専門という西垣通東大教授の「金融市場の数字より衣食住の細部に深い価値を見いだし、充足感を味わう」という提言(朝日・4.9)に、我田引水で狭い了見によるものだが、大いに共感した。昔から、そしていまも「自給」のことを強調するのは、私なりにこの細部にこだわることへの具体策である。西垣提案はそのこだわりを気のあった仲間と一緒にやれというところにミソがある。この同じことを私の「仲間」に話しても信用されないが、「情報学」の権威のある人がいうと世間に普及するのではないかと期待したい。現代生活にとってはこのテレビ、新聞をはじめ「情報」のことや車などの移動問題などが大問題だが、そのまた基礎にある古くからの土台部分にもっと丁寧に付き合おうという提案である。その土台部分に暮らしの精神というか生活理念というか、人々の心情の核のようなものが含まれているようである。最近心の病というか、それほど大げさでなくとも軽い症状のようなものに悩む人が多いように思う。私にはその克服課題とも、この衣食住問題が繋がるような気がする。
 さてこのところ衣食住のことばかり気にしていたら、菊池寛作の「俊寛」をラジオ朗読で聞く機会があった。南海の島に流された俊寛が魚をとり畑を耕して、自分の小屋を建てる生活自立過程の物語をテーマにしていて面白かった。あの歌舞伎の悲劇の主人公とはえらい違いで、いわば生活者としての俊寛である。

森川辰夫

「農村生活」時評22 "ひとつのマニュアル"

books4.jpg 映画化されるほど有名になった旭山動物園は、名物園長の退職で最近メディアの取材対象になった。新しく「エゾシカの森」とカナダ・オオカミ園を隣り合わせにして造り、そのお互いの緊張関係を展示しているそうだ。この北の動物園にたいして、北海道には南に北海道大学「苫小牧研究林」(旧演習林の再生)という植物展示を主体とする施設がある。こちらは樹木だから展示物はそこに立っているだけでもとより動かないし、確かに動物園のような面白さには欠ける。だから老人の友、全国ネットのテレビに登場したのを見たことがないが、日本列島だけでなく地球生物生態圏についての研究的な意義では動物園に決して劣らないのではないか。
 この施設は都市圏に隣接しており大学演習林としては荒廃していたのを、林学占有ではなく生物学研究者のための研究フィールドとして造成し、あわせて苫小牧市民を中心とした都市住民にも親しまれる樹木園的研究拠点に再生させた、あるいは再生させつつある事例である。私は林学の出身ではないが農林業関係の「実習」ならなんでもやらせられた学科なので、学生時代の貴重なある夏、一週間の演習林実習の経験がある。しかしここで森林そのものについて語りたいのではない。この研究林を創った主役の石城謙吉氏の「森林と人間―ある都市近郊林の物語」(岩波新書)を友人から借りて読んでいたら、鋭い「マニュアル」批判の文章にぶつかった。石城氏とこの演習林の直面した課題は正に前例のない事業で、出来合いのマニュアルが林学にも世間にも存在するわけは無い。それは旭山動物園の有名な新展示方式への挑戦でも同じことである。
 しかし世間は今、これまでのどの世に比しても画一的なマニュアル全盛時代で、いつもなら私も、氏の具体的で迫力のある指摘を同感するだけで、ただ読み過ごしたであろう。だがこの春、私は自分の仕事に近い分野のひとつのマニュアル本の編集に参加して、難産の末の発刊をホッとして喜んだばかりだった。その人間にとっては、「森林と人間」のひとつひとつの指摘が胸に刺さる思いである。現場では分野の違いも少しはあろうが、一般的にいって確かに良く出来たマニュアルほどそこの人間は頭を使わなくなるかも知れない。そして現場の工夫なくただ機械的な、官僚的な進め方をやれば、そこの現場が荒廃し、結果としてマニュアルの破綻となるだろう。
 この欠陥を補うものはその使用書を使う人間の、その目的に対する理念のあり方、担当する事業、活動に対する本当の熱意、やる気の高さというか、活用する構えではないか。私たちの共同して作り上げたマニュアル本は、その点を考慮して前半部分にこれを手にした当人への理念的呼びかけを重視したが、まさにその点についてのスポンサーの理解が得られずに大幅に削除されたので、この考えは必ずしも徹底しなかった。だからできたものには、現場から大いに批判を受けたいと思う。この「森林と人間」のおかげで、想定されるマニュアル批判に対して、少し心の準備ができた。
 石城氏の本は森林の歴史、人間による伐採の経過、日本と北海道の森林経営の歴史を踏まえて、今日の森林のありかた、特に都市近郊林をつくる意義を説くにいたる、マニュアルではないひとつの科学論であるが、「新書」という体裁でもあり、よく読めば市民向けの「都市近郊林の造り方」の高度なマニュアル本でもある。そうなると単なるマニュアル本と科学本との差は、一体なんであろうか。ただ単に物事への処し方を判りやすく説明したものと、ひとつの科学思想を説く啓蒙書の違いか。
 
森川辰夫

「農村生活」時評21 "新・幸福の科学"

 作家・書誌学者の林 望氏がテレビで万葉集の「父母が 頭掻き撫で 幸くあれて 言いし言葉ぜ 忘れかねつる」(4346)という東国方言による防人の歌を紹介されていた。アフリカ沖に「海賊退治」という目的か、自衛艦が出て行くのを家族が見送るニュース映像を見て、老人らしく昔の戦時出征風景を思い出した。その連想で親の思いというのは古今東西変わらないものだ、ということもあるが、この当時でしかも東国で「幸い」という言葉が使われていたことに強い印象が残った。
 つくば市の国際会議場という大変立派な施設で、「現代の貧困問題と憲法」という講演とシンポの集いがあり、講演者がかの派遣村で有名になった湯浅誠氏なので友人の車に乗せてもらって参加した。湯浅さんは昨秋か、学者・研究者・院学生などに限らず知的な仕事をしている人間があまりにも社会的行動はもとより発言が乏しいと指摘、論難されている。私は細々とこの頼りない「風倒木」を書いてきたが、一向に内容がぱっとせず、筆者にあまり元気が出なかった。しかし老人とはいえ湯浅さんに叱られて、折角、このコラムを担当させて頂いているので、反響の無さは本人のせいとあきらめて、なんとか発言だけは継続しようと心を入れ替えた経過がある。
 その湯浅講演の感想には一口ではいえない、いろいろな事柄があるが、実践家による問題提起には私にとって厳しい内容があった。さらに会後半のシンポのなかで「幸福追求権」ということが話題になった。つまり「憲法25条」はそのままでは実際の生存権を保障するものではなく、国民が「生きさせろ」と国に要求する権利そのものを保障しているのだという。その生活要求、幸福追求はあくまで社会への発言、行動が基本で、近代社会や近代国家がいわば自動的に人々に保障するものではないということを教わった。第二次世界大戦以後、日本でも少しずつ社会保障が整備されてきたが、それもこの10年位で施策がボロボロになってしまった。そのためこの「生存権」も根底から考え直すことが求められている。かつて「生存権」がこの国で建前として確立しているという前提であるが、不勉強のまま農村住民の「営農・生活権」などという言葉を使ってきたのだから、不遜であった。
happy.jpg この幸福追求ということだが、衣食住・家族・小地域を始め日常生活の基本のあり方を主要な課題とする「農村生活研究」という仕事は、農村住民の幸福追求権による実際的な生活手法研究ではないかと思う。学会レベルの合意として「農村生活」という実在する領域を対象としているから研究としても存在し得ると考えたが、そこに今日の研究衰退の原因があるのかもしれない。半世紀にわたり「農村生活」の日本社会における独自性が薄くなるにつれて、研究者の情熱が失われ、消滅していったのではないか。日本の学界全体に学問になんらかの価値観を持ち込むことを嫌うというか、近代的科学観に反するとする根強い理念があり、その支配に抗することができなかったという反省がある。20世紀は近代主義・合理主義という価値観が社会も学問も支配したが、それ自体を疑うことが少なかった。
 かつて「農村生活研究」は科学観上異質だ、という指摘を友人から受けたとき、反論できなかったが、それから10年たってこんなことを考えた。もっといえば、農学全体も応用生物学ではなく農民幸福の科学だと思うが、それはどこかの新興宗教の一種と受け取られるのが落ちかも知れない。
 
森川辰夫

「農村生活」時評20 "多数派支配は村の原則か"

 暖かい3月某日、何年振りかで中学校の同期会があり、遠路片道3時間かけて出席した。かつての優等生、不良生が歓談して楽しかったが、部活をともにし某付属高に進学した優等生に「君になぐられた」といわれてビックリした。なんでもその友人がテニスで鍛えるために、ある部員に厳しくレシーブをやらせていたのを私がいじめだと誤解したのだという。どうも私の早とちりも記憶喪失も老化のせいだけでなく、10代からの性癖だったようだ。私はごく気の弱い優しい?タイプの子どもだったはずで、いじめられた記憶はあるが、友人をなぐったことは覚えていなかった。
 大袈裟にいえば戦争における被害者意識と加害者意識のずれのようなものだが、この会に出席された恩師がわが部の顧問だったので、「スポーツは民主主義の教室だ」といわれたことを思い出した。出来の悪い生徒だったためかもしれないが、どうも授業でまともに「民主主義」を教わった記憶がない。大江健三郎のいくつかの文章にあるように、私の世代はいわゆる「戦後民主主義」の大事な「遺児」なのだが、いかにも学力不足を痛感する。しかしともかく「民主主義」にやたらと敏感なところはわが世代の特徴らしい。
 同期会参加の行き帰りの長い道中、いま評判の加藤周一「私にとっての20世紀」を読んでいたら、ごく始めのほうに「民主主義とは少数派の尊重だ」という19世紀英国政治学の原則が紹介されていて、どうやら勉強不足は私だけではないと納得した。今の世間はこれとは逆に、国会審議でも市町村合併論議でも、ごく単純かつ機械的な多数派支配が一般的である。直接民主主義のひとつの実践例「住民投票条例」案を議会の多数派が否決するという大変なお国柄である。しかしこの「反民主主義」事態に住民自身があまり敏感でないことが実はもっと問題である。その根底にあるのは、少数意見をなにかその場にとって異質なものと受け取る向きがあるためだろう。その克服のためには、私は少数意見を植物の成長点のように受け止める討議風土を世間に育てたらどうかと思う。新芽は枝から生えるが、だれもがその幼さを慈しみ大事にする。新芽を目方や大きさで評価するわけではない。
 「村八分」という有名なことばがあって、なにか農村社会が問題の伝統的多数派支配の元凶というか、源流のように受け取られている向きがある。日本人の集団主義というか、付和雷同性というか、人間関係のあり方には日本の共同体と深い関連があるだろうが、それとこの多数派支配は同じではない。今は昔、これまでの農作業の多くは地域での共同活動が不可欠であり、土地・水はいわば地域の共有財産であった。そのため地域運営での合意形成には大変な努力をはらってきた歴史がある。
speak.gif 世間で物事を決めなければならない時、時間的期限をはじめ色んな制約がある。しかし私の知るかぎり農村社会の内部で強力なリーダーが独断できめることはあっても、営農、生活にかかわる事柄を協議の場で多数決できめたという事例はない。それではどうするかといえば、それは徹底的な話し合いによる解決である。その中身は甲論、乙論のやりとりというのはごく初期であり、ほとんどは少数意見の開陳を延々と聞く過程がしめている。だから私は反民主主義の代表のように思われているむらの話し合いが実は最も民主主義の精神に近く、逆に現代日本の民主主義の代表のように受け取られている各種レベルの議会運営が最も遠いのではないか、と電車の中で考えた。いつかこの欄で紹介した「集落営農」の話し合い、実に延べ100回という事例に出会った時は本当に驚いたが、それは日本の農村社会の底力であろう。
 春がきてりんごの剪定も終わった時期である。剪定された枝が園地のあちこちに積み重ねられている風景が目に浮かぶ。この「風倒木」こそ、ここにいう少数意見そのものである。だから「新芽」ではあるが、良い果実を得るためにはすべての新芽を伸ばすことはできないので、剪定してもらえればありがたい。

森川辰夫

「農村生活」時評19 "再び地域経済・自給圏構想を"

sakura.jpg 21世紀の愚策として歴史に刻まれるのか、いま話題の「定額給付金」の即日支給の自治体として青森県西目屋村がメディアに登場した。全国的に無名で地味な村なので、村長さんがこの機会を狙っていたそうだから、この宣伝作戦は成功である。ただ、この出来事の背景に、この小さな村が村民投票で津軽全域を被った平成大合併をことわった経過があることが印象的であった。私は7年半もこの村の隣、弘前市に暮らしたので、岩木山信仰や「太宰治」などでそれぞれに由緒ある市町村が広域的に一緒くたになり、多様な地域が平板に表現されるようになり、何がなんだか分からなくなってしまい、残念に思っていた。
 もう10年以上前の、その弘前にいた頃の出来事だが、津軽全域からの参加者のいる会合で私の話にえらい勢いで発言した人がいてびっくりしたことがある。もとより頼りない話の中身に反発したのだろうが、その方の語調というか、口調というか個性的な津軽弁にも参った記憶がある。そのあと会合関係者にその発言について意見を聞いたら、皆がなぜか話題にしない。「おかしいな」と思ったら、この発言者の地域には、昔から独特の語調があって、地元津軽の人は慣れているらしい。ただそのことを口にすると、なにか差別につながるような恐れがあり、その場の関係者は皆、公務員だったから避けたということのようだった。外部から見るとおなじ津軽でも風土・景観ばかりではなく、地域には文化的個性があり、難解で有名な津軽弁にも文字だけでは表現できない個性的な口調があるらしい。
 現今のアメリカの金融危機に際して、世間には多くの発言があふれているが、かねてからこの事態を予想して警告を発してきた評論家・内橋克人氏の発言は、特に重要である。今は病み上がりらしくあまりメディアに登場しないが、TV番組でこの危機を脱する方策を問われて、氏の持論である「共生経済」論を説かれ、食、エネルギー、ケアなどの地域経済圏の構築を述べられた。私はこのごく短い発言を聞いて、20年も25年も前に国土庁の地域定住圏の関連で故吉田喜一郎さんたちと今で言うところの地産地消の、「地域定食圏」構想を提唱したことを思い出した。今の農村地域をみると、定食圏構想にあった産直センターのようなもの、農村食堂のようなものは盛んになったが、いずれも広域的な範囲が営業圏になっており、グローバル化全盛のこの歳月、枠組みとしての「地域圏」の実体もイメージも定着しなかったようである。今日の社会でこれらの提案のような人間本位の「地域」を構築することはすなわち、今の支配的な「社会システム」を創りかえることだから、もとより簡単なことではない。
 農と食のあり方の課題は各論となると難問山積とはいえ、少しずつ関係者にかつ地域社会にも見えてきたようである。また全国民的な関心事、福祉問題は全く国の政策そのものの責任だが、それを実施するのは給付金とおなじく自治体単位になっている。しかも福祉事業をいわゆるビジネスにして展開しても、そのケアの人手はどうしても地域自給となるだろう。内橋氏が今日的に共生経済の中身でケアを重視するゆえんである。この福祉活動は農業よりも公共的な側面が強い世界である。日本では社会が崩されて「国」が公共的な世界を代表しているが、人々の暮らしにとっては自治体は基本的な「地域」である。それが「平成大合併」で住民感覚上広域となり、いわば暮らしから距離をおくようになったことが残念でたまらない。暮らしの中で日々、住民自身が身近に地域を学習しなければあるべき「地域経済圏」などは、空中楼閣にすぎない。その意味でかの「大合併」は地域づくり運動には大きな打撃だった。社会環境が変わったら改めて分町分村を考えるべきだと思うが、それよりも地元で農産物を食べる、小規模な福祉の助け合いシステムをつくるといった、暮らしを創る活動の方が現実的だろう。この先、そういう活動が地元の若者の雇用と結びつけば、展望は一気に開けるのだが。

森川辰夫

農と人とくらし研究センター

Research Institute for
Rural Community and Life
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