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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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「農村生活」時評13 "積み重ね100回ということ"

kaigi.gif 世の中の、様々な社会組織が崩れてきて、いまは個人が裸で世間に放り出されている。ここにいう「社会」とは、家族に次いで暮らしに不可欠なものだが、近代日本は伝統社会をこわして企業中心というか、勤め先に心身とも帰属する会社社会のような世界をつくった。ところが、その頼みの会社は手のひらをかえしたようにリストラに熱心になり、日本人は落ち着く場所を失った。それは現代人の精神的不安定の一因ともいわれる。そんな時代だからといって、これから急いで、必要とされる組織を新たにつくるにせよ、伝統的な組織を再生させるにせよ、いまの危機は深く、前途は難問だらけである。
 私達に縁の深い農業・農村組織もご多分に漏れず、困難が山積している。農業は農地という地域資源に立地する産業であり、農村は二重、三重どころか、新旧組織が極端にいえば二十重、三十重に存在してからみあい、中々厄介な姿になっている。もちろんそれらの組織の中核ともいうべき集落が消滅するという危機状況だから、ただ単にこれまでのように組織のあり方だけを考えるというのは、いささか問題意識が甘いかもしれない。
 機会があって、全国農業改良普及支援協会で普及指導員のすすめる組織化という課題の勉強会に参加している。そこでいくつかの事例を拝見していたら、あるところで農地整備を核とする法人組織化のなかで、話合いの回数の問題が提起されていた。農地は単なる生産手段ではなく財産だし、まして今の農業情勢で整備となれば負担の問題もあるし、将来の営農のありかた、ひいては生活設計にもかかわる。その会合が難航するのはとうぜんである。そこで論議がもめても単なる流会にせず、次にどのように会合を持つか、つなぎ方が大事だという指摘で、これは大変教えられたが、ここでは会合そのものはまとまるまで十数回だったらしい。しかしその県下にはこの課題に取り組み、重ねた会合100回という事例もあるらしい。会合はあくまで中味が問題だから、それこそ回数の問題ではないが、関係者の熱意が途切れず、難題の合意形成まで延々100回という数字に興味をもった。
 私の住んでいる地域で高齢者だけで、古典を読む会を続けている。世間のこの種の趣味の会はそれなりの講師がいるが、当方はどんぐりグループである。ところがこの会が年数を経てなんと100回を越した。難解な古典でもこのぐらい付き合うと、なんとなく分かってきたような気がするものである。それはともかく、いまの世間に本物の社会組織をつくるのは難儀だし、できてもその運営にかかわる会合・会議のあり方は、戦後民主主義・新入生世代にはいまも難しい。実際の組織の経験は乏しいが、ただ、このような「勉強」の回数となると二回の大学勤めの経験から考えることが多少ある。
 大学の前期のコマ数は15回で年間30回となる。これは多分どこでも同じ様なものだろうが、ひと昔前の大学は適当な部分もあったろう。しかし私の頃はすでに面倒な年間計画があって、ともかく休講なしでその15回はこなしていた。ゼミ生は二年から所属すれば、その教師のゼミに大体100回つきあうことになる。4年生になって教室にはいり修士をやれば3年間でやはり100回ではないか。ゼミは単なる講義ではないところに意味がある。しかしその意味の理解にもある程度回数の積み重ねが必要で、その時にはほとんど何も分からないのが学生の現実ではないか。
 現代はなにかと忙しいが、もし、学ぶなら、教師と付き合うにも書物に親しむにも100回というのはひとつの目安のように思われる。私のような才のない人間は勉強といえば、ただ積み重ねするしか方法が見当たらない。人間生活の局面はまったく異なるが、社会組織づくりもその位の長い期間の覚悟は必要ではないか。もちろん社会にはもともと短期的な役割を担う組織もあるが、その命は別の組織に受け継がれていくだろう。
 さてさて、こう数字にこだわると、願わくは100回の誕生日というところだが、それは無理だろう。あと一季、100日の生活と仕事、その次はさらに100日の、という日数の目安が、昨今の無難な生活目標である。

森川辰夫
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