農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
「農村生活」時評18 "「哲学」は嫌いだ"
超高齢社会のせいか、「農」復権の表れか、その双方が重なっているのか、山村の個性的な高齢者の暮らしにせまるテレビ番組が多いようである。そこで私の感ずることはこの人々の持っている「生活哲学」のようななにものか、である。それはいわゆる生活信条でもあり、家庭事情による高齢者の心境そのものかも知れない。一方、現役の農業者は困難な社会経済環境も反映しているのか、強烈な「農業哲学」の持ち主が多いようだ。今時、農業をやろうという人は、個性的な主張があるからこそ、がんばれるのだろう。私の「哲学」理解はそのようなものだが、ともかく人間にとって大事なものという気持ちがあり、それほど大袈裟にしなくとも、尊敬すべきものだと思ってきた。
今年度は隠居に声がかかり、ある省(特に名を秘す)の委託の仕事で研究会が組織され、珍しくメンバーに入れてもらった。私以外の方々は大変真面目で勤勉であり、これまでの研究者生活の中での、やたらとこの種の行政対応報告書作成に参画した経験からいって、内容はもちろん、原稿の期限も厳守で素晴らしい報告書原稿ができたと喜んでいた。ところが思いかけず、印刷直前スポンサーから内容にチェックが入り、いまにもかよわい脳の血管が切れそうな思いである。この干渉にはいくつかの問題があるが、私に関していえば、あるメンバーが「哲学」に言及したので、かねてから日本人の「哲学」嫌いを気にしていた私が、お節介にも、少々その部分を増量して分かり易く一般化できるように書き足した。そのためその筋に引っかかり、この部分は全面削除になってしまった。元のままなら見逃してもらえたかもしれないので、その点では申し訳ない次第である。
加藤周一「日本文学史序説・下」の指摘により、中江兆民「一年有半」(岩波文庫版 31~32頁)を見たら、この点が100年前にチャンと書いてあった。
「わが日本いにしえより今に至るまで哲学なし(中略)。しかしてその浮躁軽薄の大病根も、また正にここにあり。その薄志弱行の大病根も、また正にここにあり。その独造の哲学なく、政治において主義なく、党争において継続なき、その因実にここにあり」。
森川辰夫
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