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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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「農村生活」時評23 ""衣食住"の再登場"

 いまから十数年前だが、私は農水省の東北農業試験場という職場から隣県にある弘前大学へ転出した。年齢のこともあり、かねてより上司に「話があったらなるべく出たほうが良い」といわれていたので、もとより先方の教授会の議決によるものだが、すぐ、この話に乗った経過がある。だが大学といっても行き先が教育学部の家政教室であった。周囲は何も知らないから農学部だと思い込んでいたので、家政というのに驚いたらしい。しかもそのことを送別会の席上紹介した人物が「ご当人は向こうでセーターを編みます」とやって会場の笑いを取ったので、私はいささか憮然とした思いであった。
 これが家庭科というものに対する世間の一般的なイメージの表現である。最近のことだが、ある視聴率の高いテレビ番組で、著名なキャスターが「家庭科というのがまだ学校にあるのですか」と質問している場面をみたことがある。読み書き・ソロバンの他に英語もやらなければならないから、邪魔だというわけである。いまの小・中学校の家庭科教育には多くの批判があるが、若者が一人暮らしを始めると、いかにその教育が身に付いていないかが、自他共にリアルにわかるのである。
 なんでもこなさなければならない再就職のポストとはいえ、私にはいくらなんでも実際の衣食住の講義や指導はできない。入学早々の新一年生対象の前期には主として家族問題や原論的な講義を試みたが、直面した問題は何が生活にとっての原論か、という古くからの課題である。その頃教員養成課程では「日本国憲法」が必修だったので、憲法25条の生存権を柱にした思い出がある。昨今の憲法論議であらためてこの条文が話題になっているが、授業の狙いとしては間違ってはいなかったと思う。その頃学生による「授業評価」の走りで、学部2位になったこともあるから、ある程度こちらの気持ちが通じたのではないか。
 だが、それまでの30年近い研究者生活の「時代」では、世間は止めどない衣食住ばなれ、日常生活軽視の歳月であった。私が中学で家庭科を習った当時のような窮乏生活を脱し、ともかくあまり苦労せずになんとなく暮らせるようになり、暮らしのまわりに面白い事柄が増えたから、人々の関心がそちらに移っていったのである。なんとも荒っぽい表現だが、その後一世代分経過して、やや消費を追いかける暮らしにも疲れ、それにも飽きがきたようである。また昨今の世界情勢で、この日本でも世間の空気が変わってきているらしい。だが、ではその「閉塞感」の出口となると様々な提言があるようである。
shima.jpg 基礎情報学が専門という西垣通東大教授の「金融市場の数字より衣食住の細部に深い価値を見いだし、充足感を味わう」という提言(朝日・4.9)に、我田引水で狭い了見によるものだが、大いに共感した。昔から、そしていまも「自給」のことを強調するのは、私なりにこの細部にこだわることへの具体策である。西垣提案はそのこだわりを気のあった仲間と一緒にやれというところにミソがある。この同じことを私の「仲間」に話しても信用されないが、「情報学」の権威のある人がいうと世間に普及するのではないかと期待したい。現代生活にとってはこのテレビ、新聞をはじめ「情報」のことや車などの移動問題などが大問題だが、そのまた基礎にある古くからの土台部分にもっと丁寧に付き合おうという提案である。その土台部分に暮らしの精神というか生活理念というか、人々の心情の核のようなものが含まれているようである。最近心の病というか、それほど大げさでなくとも軽い症状のようなものに悩む人が多いように思う。私にはその克服課題とも、この衣食住問題が繋がるような気がする。
 さてこのところ衣食住のことばかり気にしていたら、菊池寛作の「俊寛」をラジオ朗読で聞く機会があった。南海の島に流された俊寛が魚をとり畑を耕して、自分の小屋を建てる生活自立過程の物語をテーマにしていて面白かった。あの歌舞伎の悲劇の主人公とはえらい違いで、いわば生活者としての俊寛である。

森川辰夫
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