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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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「農村生活」時評20 "多数派支配は村の原則か"

 暖かい3月某日、何年振りかで中学校の同期会があり、遠路片道3時間かけて出席した。かつての優等生、不良生が歓談して楽しかったが、部活をともにし某付属高に進学した優等生に「君になぐられた」といわれてビックリした。なんでもその友人がテニスで鍛えるために、ある部員に厳しくレシーブをやらせていたのを私がいじめだと誤解したのだという。どうも私の早とちりも記憶喪失も老化のせいだけでなく、10代からの性癖だったようだ。私はごく気の弱い優しい?タイプの子どもだったはずで、いじめられた記憶はあるが、友人をなぐったことは覚えていなかった。
 大袈裟にいえば戦争における被害者意識と加害者意識のずれのようなものだが、この会に出席された恩師がわが部の顧問だったので、「スポーツは民主主義の教室だ」といわれたことを思い出した。出来の悪い生徒だったためかもしれないが、どうも授業でまともに「民主主義」を教わった記憶がない。大江健三郎のいくつかの文章にあるように、私の世代はいわゆる「戦後民主主義」の大事な「遺児」なのだが、いかにも学力不足を痛感する。しかしともかく「民主主義」にやたらと敏感なところはわが世代の特徴らしい。
 同期会参加の行き帰りの長い道中、いま評判の加藤周一「私にとっての20世紀」を読んでいたら、ごく始めのほうに「民主主義とは少数派の尊重だ」という19世紀英国政治学の原則が紹介されていて、どうやら勉強不足は私だけではないと納得した。今の世間はこれとは逆に、国会審議でも市町村合併論議でも、ごく単純かつ機械的な多数派支配が一般的である。直接民主主義のひとつの実践例「住民投票条例」案を議会の多数派が否決するという大変なお国柄である。しかしこの「反民主主義」事態に住民自身があまり敏感でないことが実はもっと問題である。その根底にあるのは、少数意見をなにかその場にとって異質なものと受け取る向きがあるためだろう。その克服のためには、私は少数意見を植物の成長点のように受け止める討議風土を世間に育てたらどうかと思う。新芽は枝から生えるが、だれもがその幼さを慈しみ大事にする。新芽を目方や大きさで評価するわけではない。
 「村八分」という有名なことばがあって、なにか農村社会が問題の伝統的多数派支配の元凶というか、源流のように受け取られている向きがある。日本人の集団主義というか、付和雷同性というか、人間関係のあり方には日本の共同体と深い関連があるだろうが、それとこの多数派支配は同じではない。今は昔、これまでの農作業の多くは地域での共同活動が不可欠であり、土地・水はいわば地域の共有財産であった。そのため地域運営での合意形成には大変な努力をはらってきた歴史がある。
speak.gif 世間で物事を決めなければならない時、時間的期限をはじめ色んな制約がある。しかし私の知るかぎり農村社会の内部で強力なリーダーが独断できめることはあっても、営農、生活にかかわる事柄を協議の場で多数決できめたという事例はない。それではどうするかといえば、それは徹底的な話し合いによる解決である。その中身は甲論、乙論のやりとりというのはごく初期であり、ほとんどは少数意見の開陳を延々と聞く過程がしめている。だから私は反民主主義の代表のように思われているむらの話し合いが実は最も民主主義の精神に近く、逆に現代日本の民主主義の代表のように受け取られている各種レベルの議会運営が最も遠いのではないか、と電車の中で考えた。いつかこの欄で紹介した「集落営農」の話し合い、実に延べ100回という事例に出会った時は本当に驚いたが、それは日本の農村社会の底力であろう。
 春がきてりんごの剪定も終わった時期である。剪定された枝が園地のあちこちに積み重ねられている風景が目に浮かぶ。この「風倒木」こそ、ここにいう少数意見そのものである。だから「新芽」ではあるが、良い果実を得るためにはすべての新芽を伸ばすことはできないので、剪定してもらえればありがたい。

森川辰夫
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