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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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「農村生活」時評21 "新・幸福の科学"

 作家・書誌学者の林 望氏がテレビで万葉集の「父母が 頭掻き撫で 幸くあれて 言いし言葉ぜ 忘れかねつる」(4346)という東国方言による防人の歌を紹介されていた。アフリカ沖に「海賊退治」という目的か、自衛艦が出て行くのを家族が見送るニュース映像を見て、老人らしく昔の戦時出征風景を思い出した。その連想で親の思いというのは古今東西変わらないものだ、ということもあるが、この当時でしかも東国で「幸い」という言葉が使われていたことに強い印象が残った。
 つくば市の国際会議場という大変立派な施設で、「現代の貧困問題と憲法」という講演とシンポの集いがあり、講演者がかの派遣村で有名になった湯浅誠氏なので友人の車に乗せてもらって参加した。湯浅さんは昨秋か、学者・研究者・院学生などに限らず知的な仕事をしている人間があまりにも社会的行動はもとより発言が乏しいと指摘、論難されている。私は細々とこの頼りない「風倒木」を書いてきたが、一向に内容がぱっとせず、筆者にあまり元気が出なかった。しかし老人とはいえ湯浅さんに叱られて、折角、このコラムを担当させて頂いているので、反響の無さは本人のせいとあきらめて、なんとか発言だけは継続しようと心を入れ替えた経過がある。
 その湯浅講演の感想には一口ではいえない、いろいろな事柄があるが、実践家による問題提起には私にとって厳しい内容があった。さらに会後半のシンポのなかで「幸福追求権」ということが話題になった。つまり「憲法25条」はそのままでは実際の生存権を保障するものではなく、国民が「生きさせろ」と国に要求する権利そのものを保障しているのだという。その生活要求、幸福追求はあくまで社会への発言、行動が基本で、近代社会や近代国家がいわば自動的に人々に保障するものではないということを教わった。第二次世界大戦以後、日本でも少しずつ社会保障が整備されてきたが、それもこの10年位で施策がボロボロになってしまった。そのためこの「生存権」も根底から考え直すことが求められている。かつて「生存権」がこの国で建前として確立しているという前提であるが、不勉強のまま農村住民の「営農・生活権」などという言葉を使ってきたのだから、不遜であった。
happy.jpg この幸福追求ということだが、衣食住・家族・小地域を始め日常生活の基本のあり方を主要な課題とする「農村生活研究」という仕事は、農村住民の幸福追求権による実際的な生活手法研究ではないかと思う。学会レベルの合意として「農村生活」という実在する領域を対象としているから研究としても存在し得ると考えたが、そこに今日の研究衰退の原因があるのかもしれない。半世紀にわたり「農村生活」の日本社会における独自性が薄くなるにつれて、研究者の情熱が失われ、消滅していったのではないか。日本の学界全体に学問になんらかの価値観を持ち込むことを嫌うというか、近代的科学観に反するとする根強い理念があり、その支配に抗することができなかったという反省がある。20世紀は近代主義・合理主義という価値観が社会も学問も支配したが、それ自体を疑うことが少なかった。
 かつて「農村生活研究」は科学観上異質だ、という指摘を友人から受けたとき、反論できなかったが、それから10年たってこんなことを考えた。もっといえば、農学全体も応用生物学ではなく農民幸福の科学だと思うが、それはどこかの新興宗教の一種と受け取られるのが落ちかも知れない。
 
森川辰夫
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