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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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「農村生活」時評25 "共同体か、共同関係か"

 梅雨が去って今年限りだろうが、夏の政治の季節になった。この選挙戦は政治の論戦だから国の財政や外交のあり方が最大の論点である。だがその背景にある国民の関心事は、ここ十数年来の「構造改革」によって破壊されたこの社会をどのようにして再生させるか、あるいは時代に合わせて新しく創り出していくかという課題らしい。それぞれの政党の政見の向こうに、ごく敏感な社会層に限られるが震災の廃墟のような現実社会に向き合って、それらの人々は色々な市民による共同活動の展開された社会のイメージを描いている。つまり当面の姿としては、市民による手作りのセーフティネットのようなものである。
kyoudou.jpg そこでは懐かしい「共同体」という言葉がよく出て来るというか、私の目に飛び込んでくる。先日もある新聞の選挙関連討論の場に"信頼ベースの「中間共同体」を築く"ということが選挙テーマだ、という発言があって驚いた。昔々から「共同体」を理論上、あるいはまた観念上気にしてきた古老らが、いま社会の片隅で影響力のないままブツブツ呟いているだけだ、と諦めていたが、この意見は30代の論壇若手の発言だからその類でもなく、昨今「共同体」論は最新の論調に登場しているらしい。
 私の営業品目は「農村生活」で、特にお客さんが難しくなければ「農全般」を取り扱ってきた。引退後は新しい商品を仕入れてないので、10年近く休業ならぬ廃業である。ところが機会があって別の営業品を仕入れて、あたかも祭りの出店のようなその場限りの話をした。それはそれで終わりだが、客の中からあの話し手の本当の商売は何だ、という問い合わせがあって、茨城大学中島紀一教授の勧めで書いた「農村の暮らしに生活の原型を求める」(総合農学研究所リポート№2、02.7)をその人に送った。その中には、共同体という厳密な学問用語は使わなかったが、「むら」といわれる地域社会のことを書いたので、最近の論調との接点を意識して読み直した。この文章は私のどの仕事に比しても反響のなかった、いかにもだらしのない書き物なので、いまさら本人としてもあんまり読みたくはない。しかし小冊子を渡した成り行き上、気になるので、いまの現実の社会での課題との関係を考えた。
 かつてのむら的共同体といまの日本社会再生との関係という、私の気にしているこの論点そのものをとりあげたある学者は、雑誌にまとまった論考を発表して、これからは「共同体」もこれまでのようには空間的な範囲にごだわらず、多様な社会関係の集積という点に注目すべきだという。私自身は昭和30年代の「むら」を見ていわゆる伝統社会というよりは、すでに生活上の多様な関係の小地域的集積体と考えたから、この後半の主張は良くわかるし賛成である。しかし、問題はここにいう社会関係の中味である。現代には色々な私の知らないような社会関係がありうるが、普通の人々の暮らしでは日常的な衣食住領域での関係がかなりの部分を占める。もちろん世間には全国区的な活動が生活の全てという人もいるし、さらに世界中を相手にしていて自分の暮らしの回りなんぞ、眼中にない人もいる。それもひとつの事実だが、もしその人に家族がいて子供や高齢者を含むなら、その家族としてはある生活空間に存在しているのであろう。宇宙船の住人は家族を含む地上の人々との交流を盛んに演出している。
 都市型社会が日本の過半を占め、そこでの生活における農のウエイトが極端に低下した今日でも、私はその社会条件のなかでこそ精神的安定をふくめ、食生活をはじめ住まいの環境などあらゆる生活局面で農的な部分を採用する共同活動をすすめる必要があると主張したい。奇異に思う人は、ここで災害時の自治体支援協定を想定してもらっても良い。災害時に限らないがそれらはどうせ経済的には困難な活動だから、市民による奉仕的な共同部分が基本である。そうなると連帯する相手は遠距離でも助け合う仲間の基本活動はごく狭い生活空間に限定されるだろう。そこで活動する組織こそ、古典的な「共同体」とどうかかわるか分からないが、社会的にはやや小型だが中間体の一種だろう。これから広域的な社会関係がますます広がり、重なり合って複雑になることは当然、予想されるがそれとても、この生活基盤の上にこそ築かれるのではないか。
 先のリポートには21世紀の農村像を私の知的水準で想定して、あるべき集落レベルから自治体レベルの地域重層的な生活組織・支援施設配置図(1985年作成)を掲げたが、昨今の農村社会環境の劣化を別としても今から見るといかにも医療・介護領域が弱い。農村地域の自治体だから病院はこの「図」の外で、内部には中核的な高齢者施設しか想定していない。私の重視した中地域(大字ぐらい)・小地域にあるのは高齢者「活動」組織と施設だけであった。そのようなものも溜まり場として依然として必要だとは思うが、要介護問題の深刻さの見通しができていなかった。
 私の「農村社会」将来予測の誤りはともかく、これからの介護を全部、民営化・営業対象にすることはできないし、財政問題を別にしても市民の交流抜きではそれとて決して幸福の実現ではない。もちろん限りなく医療に近い介護問題もあるが、いま話題の領域のかなりの部分はお互いの助け合い活動、介護される側とする側の差が少ない活動になるのではないか。もちろん公的な施設整備の発展、地域に対する専門家の支援・指導体制が前提であるが。
 介護問題が社会的重圧を増しつつある今日、市民レベルの議論のためにも家族介護、公的介護に加えて第三の領域を提起したほうが建設的だろう。私のように介護される日が迫りつつある高齢者の真夏の夜を悪夢で過ごさないために。

森川辰夫
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