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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

カテゴリー「■ 風倒木」の記事一覧

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「農村生活」時評34 "現代のリズムは根源悪とされて"

 私たちが生活しているこの世界には多様なリズム現象がある。私はこれがいわゆる捉えどころのない日常「生活」事象の、特に農村生活の分析に有効な手法と考え、生活時間、労働、食生活などの局面をさわってきた。しかし余りにもその研究成果が未熟だったためだろう、その後この手法を受け継ぐ人どころか、それぞれの発表時点でもまともに批判してくれる同業者が現れなかったため、「農村生活リズム」は全て、研究としては立ち枯れ状態である。ただ本人としてはまだ未練があるのでいろいろな図書・文献・新聞記事などにあらわれるリズム分析というか、たとえ部分的でも何らかの言及には注意してきた。この頃医療・福祉分野を中心に「生活リズム」一般への関心は高まったが、社会生活システム分野でのリズム論についての理論的な成果はほとんどないといってよい。
 いま、「親鸞」ブームだそうである。それは聞き書き「歎異抄」をめぐるものが過半だろうが、この中世の宗教家があらためて世間の関心を集めていることは事実である。私の読んだ今村仁司著「親鸞と学的精神」(岩波書店)はいわゆる宗教コーナー親鸞本の棚にはならんでいなかったし、私も別に親鸞に義理はなかった。この著者は元々フランス思想史の専門家だったからこの本は哲学の棚にあったし、私よりも若い個性的な思想家の遺著なので追悼の気分もあり、敷居は高かったが読んでみた。はたして今村の説く「親鸞」論については、あまりにもこの読み手に哲学的訓練が乏しく、その上仏教にも無知なのでさっぱり理解できない。ただ附論のような「第二部エセー」の「現代における悪の本質」(207~220頁)で近代社会の労働が規定するリズム・時間意識が現代「悪」の根源だと指摘されて驚いた。よく話題になる「悪」「悪人」の規定をめぐる思考が宗教としても哲学としても親鸞論の本質だろうから、著作としての体裁上は控え目だが、この現代社会批判は思想家としての著者の本来の主張を展開した文章だろう。
tokei.jpg 著者は「近代システムまたは近代社会の土台となっているのは、世界像としては機械論的見方であり、生活のリズムをつくるものは未来中心的な時間意識である」とする。さらに「未来中心の時間意識は、近代の産業生産の行動リズムである」、「時間意識という一見無邪気な現象のなかに、現代の根源悪がひそんでいる」と指摘する。テレビで探偵ドラマを見ていたら、主人公の探偵がクライマックスに画面のこちらを向いて「お前が犯人だ」と私を指さしたぐらい驚いた。私が真犯人なら「ドラマのなかにもっと早く登場させてよ」と言いたいが、現代人の時間意識という存在については、ドラマの背景セットのように当たり前のこととされてきており、あくまで演技する役者ではない。たとえ悪役としても、ドラマの構成上これほどの位置づけは珍しい。
 現代人を規制している二大根拠のひとつに生活リズムとして意識されている時間が挙げられているのは同感できる卓見である。もちろん近代の産業社会が機械的生産体制であり、そこからそれに対応する「多忙人間」が生まれ、それから自己・他人・共同体・自然の破壊にいたるという今村の論法はあまりにも直線的で単純だとは思うが、世界の近代化の過程の中に産業がつくった労働リズムの市民社会への定着という側面があり、そこから現代人の時間意識が生まれていることは事実であろう。よく日本人に見られる「多忙人間」が世界的にも一つの典型かもしれない。だがこの課題はやはり今村の指摘する「機械論的世界観」と表現されているもうひとりの悪役との関係が明らかにされなければなるまい。
 1950年代、60年代当時、農村生活研究における生活時間分析の狙いには確かに、現代の産業社会に農業労働と農家のくらしを適応させていこうとする側面もあったが、私自身は森川のやることは回顧的、反動的だとする批判のまなざしを意識しつつ、時間面における農村生活の独自性を強調した覚えがある。それが具体的には四から六季という農繁閑の位置づけであり、農作業の計画的・弾力的編成、一日における農作業の時刻布置の多様性の指摘などである。当時、農作業の展開にとって一週間という単位はほとんど意味がなかったが、働く農家は社会における曜日を無視しては生活できなかった。だがそのあたりの課題を指摘するだけで、確かに自然条件に由来するものと社会事情から強いられる対応の関係整理としては、あいまいなままに止めたことになる。
 このような農村生活時間研究が盛んに進められたのはもう半世紀前のことである。農地改革の成果が動き出して生産が伸び、家族数も多くて農家が歴史上もっとも生き生きと生活していた時代かもしれない。現在の農家は少人数で機械施設を駆使して、季節に関係なく工業生産のようなシステムのもとで長時間働いているから、いまやかなり独自性を失っているだろう。
 それでもなお私は、不十分とはいえ農家の暮らしには、現代においてこれほど自律的な生活リズムと時間意識は広い世間にもないといまでも思い込んでいる。日本だけでなく、いまの地球世界で多くの都市住民・現代人が親や先祖のような自然に沿った暮らしに舞い戻ることはもはや出来ないだろう。しかし現代人が自分で素晴らしいと思っている多忙世界への適応への姿勢そのものが、多くの現代悪を生んでいることへの反省は必要かもしれない。温暖化が進み異常気象に苦しみながら、多くの農家は必要最小限、現代社会に合わせながら、なんとか独自の生活リズムを維持している。これを学ぶことが現代の「根源的悪」から救われる一つの"非宗教的"救済策だと"信じて"いるのだが。

森川辰夫
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「農村生活」時評33 "農村景観研究を考える"

 また、政治の夏になった。鳩山内閣か民主党政権全体なのか、よく知らないが、失政ばかりの中でかの「仕分け」が最大の政治的成果だそうだ。確かに世間の注目を集めるテーマだし、終始糾弾の的になる公務員の退職後再就職、いわゆる「天下り」の小型版なら、知人の範囲にもある。行政のムダを排除することは一般論としては正義だろうが、マスメディアの伝えるあのような舞台仕掛けで、問題の多い巨大科学プロジェクトとはいえ、個別の科学研究課題の評価に踏み込むことには反感を持っていた。
 春先から医者に「衰弱です」と診断されて「老衰」の身を嘆いて寝ていたら、なんと第二次「仕分け」台風がつくばを襲い、農研機構・農工研の農村計画領域が直撃されてしまった。まさに雷が近所に落ちたようなもので、あまりの出来事に病床から再びヨロヨロと這い出してきた。私事ながら老衰では身内に迷惑をかけるので「風倒木」も止めようかと思案していたら、東京・霞ヶ関周辺どころか、えらく近いところでとんでもないことになった。いわゆる農村計画領域といっても私の理解ではそのほとんどは、かつての「農村生活研究」分野の現代的に発展した課題だし、その担当者にはかつての身近な同僚が多い。
 この「仕分け」後の対応は確かに研究機関側の自主的判断になろうが、こういう御時世では指摘された研究課題は縮小・廃止の方向だろう。外部の圧力で「その課題をやめよ」といわれた研究者の心情を思うとなんともやりきれない。私は20年か25年ぐらい前に、つくばにいたとき「農村高齢者」研究課題を後ろ向きだとして、日頃会うことも出来ない偉い?上司に呼び出されて「研究を止めろ」といわれたことがある。この時にはすでに農政上の課題になりかかっていたし、それこそ社会的背景があったから私自身のささやかな仕事は中途停止にはならなかった。しかしより大きな研究課題に位置づけて、組織内の仲間による共同研究に仕立てることは、結局実現できなかった。その時点では農林水産省の設置目的に農村住民の福祉の増進が掲げられていたが、それだけではなく「農村高齢者」問題にはあわせて農業生産力向上研究の側面もあると考えていた。だがその管理職には生産を上げるための農業試験場の研究に値しないという価値判断があったのだろう。しかし研究者には世間にあるいは仲間に先駆けて研究に取り組む本質的な責務がある。
 今回、「仕分け」で問題にされた研究課題のなかに農村景観再生のテーマがあるらしい。「仕分け」問題の現実的な対応側面は、いうまでもなく現役の方々におまかせするとして、この課題の根源的な意義というか、国土政策的な関連を考えてみた。
niji.jpg 政治の季節で政局サイドの話題が世間に横行しているが、いま日本の有権者に問われているのは、行き詰まった社会の現状を脱するために「国家戦略」目標としてこれからどんな日本像を想定するか、という政策論戦に参加することではないか。私は日本として①近隣、アジア、世界の人々から尊敬されなくとも愛される国を目指す、②自然的・経済的・社会的条件を生かして国際的にあまり迷惑をかけない、自主的な国を目指す、③この列島に住む人々の究極の歴史的・比較文化史的な財産は美的素質であり、その特質を生かす国を目指す、④日本列島は立地により自然景観と豊かな四季に恵まれており、周辺の島々もふくめ全域をかつての全国総合開発計画でうたわれた「ガーデン・アイランド」構想を生かす国を目指す、といったささやかなイメージを持っている。観光収入しかないとギリシャは財政危機で評判が悪いが、国が外国からの訪問客による観光収入に依存するのは、ひとつの平和の保障でそれ自体悪いことではない。日本には客寄せになるいくつかの世界遺産、歴史的文化財、火山による温泉資源などもあるが、それらだけに頼るのではなく、もし観光立国というならば、この島々に住む人々の暮らしそのものが観光の対象になるべきであろう。暮らしといっても、それは日本のテレビ局が外国の珍しい地域を訪れて台所を覗くようなものの再現ではなく、日本中のごく普通の地域を、個性を生かし少々現代的に整備し、その結果人口が適正に配置されて、どこにどなたが見えても楽しく過ごしてもらえる美的生活空間を整えることである。
 いま日本中で絶え間なく、小規模の芸術イベントが過疎の村や島などで芸術家と住民の共同活動で開催されている。それらの多くは造形芸術、演劇、映画などが中心のようである。これらの取り組みは直ちに地域に大きな経済的な効果を生むものではないだろうが、地域の誇りを創り、いわゆる活性化にとって計り知れない意義がある。このような企画を列島全域に、それこそ四季を問わずに常時、展開して世界中から芸術家も含めて物好きを集めるのが、私の国づくりプランである。農村景観は沿岸漁業や森林とともにそれらの舞台装置であって、入場料を稼ぐ独立した観光資源ではないだろうが、国を挙げての大事なイベントの、いわば沈黙の背景である。
 弘前城公園は桜で有名だが、私は城址の西の高台からみた四季それぞれの岩木山の風景が好きである。この眺めについては司馬遼太郎も指摘している(「北のまほろば」街道を行く・41)が、この「お山」の手前に展開しているのは平野から山麓にいたる広大なりんご園である。来訪者にとっては幸いなことに、この市内西域にはマンションのような高層建築がなく、この視界を妨げるものはない。そういえば日本中の名勝桜もあくまで単独で咲き誇っているのではなく、それぞれまわりの農村景観に囲まれている。
 財務省的見地、あるいは国際競争力観点からいえば、日本農業は稼ぎの下手な冴えない産業だろう。しかし既に多面的機能の重要性が指摘されてからも久しいのである。世間では土地改良はえらく評判が悪いが、問題はその内容であって、いまも農村整備の根幹である。農村景観は単に外見による"美"の観点からのみ評価されるべきではないが、あえて私は直接、カネに結びつかぬ話を強調したい。

森川辰夫

「農村生活」時評32 "食の話題三つ"

 この新年早々、高校同期の有志の集まりが予定されていたが、メンバーの風邪引きで延期になった。ほかに珍しい目の難病に悩む友人もいて、無理して集まる会合でもない。ともかく風邪は万病の元なので、ダウンした友人に気合をいれて励ました新春だった。しかしその私のほうが師走の世間に煽られて動き回り過ぎたか、月半ばにダウンしてしまった。はじめは普通の風邪のつもりだったが、何日休んでも回復せず、その後ますます気力低下して、プロスポーツ選手がよくいう絶不調のような状態になってしまった。不定期のこのコラムも、担当者老衰につき自然終了かと覚悟した。一昔前なら高齢者がボンヤリして暮らすのは当たり前だったが、昨今は特定の病名がなく、ただ不調ということで日常を過ごすことは、怠け者として世間というか周りの風当たりが強い。
 横になっているときは気分が良ければ本を読むが、多くの時間はボンヤリというかウツラウツラしてとりとめなく自分が死んだ時のことを思い悩む。といっても葬儀のやり方のことではなく、これまで整理ができずに残してあるガラクタの始末である。そのガラクタのほとんどは印刷物だが、それでも分野のはっきりしたもの、経済、農業、歴史、社会、民俗などは始末しやすい。しかし個人の関心で集めた生活関連資料は初めから分野にとりとめがなくて、今では本人も困っている。現実問題として今の日本人にとって毎日の暮らしは大変だが、さてそれを研究課題とするには何か問題を限定しないと、とりとめがないのだろう。横断的な、狭い意味の生活理論研究分野というのは、いくつか試みはあったが未熟のまま自然落果かなと思う。
pack.jpg ある日の新聞報道に「食」関係記事がいくつもあって気になった。
 ひとつはいわゆる規制緩和の一環で保育所の給食を外部委託するという政府の方針である。私が農村の学校給食の調査をやったのは35年前の昔話だが、校内で調理するか、公立センターあるいは外部業者に委託するかは当時から大事な論点であった。その後給食現場の努力が重ねられて来たが、学校も家庭もあるいは地域社会も忙しくなってきて、委託できるものは試験問題作成も外注するご時世である。この間やっと「食育」ということもいわれてきたが、それも理念・建前が先行して校内で教育の一環として給食に取り組む現実の体制は崩れてきている。今度の措置は幼児にもこの世間の嵐が直接当たることになるものだ。いまさらだが生活視点による給食研究の非力さを痛感する。
  1月は震災関連記事の集中する時期だが、ハイチの悲劇が国際的大事件となった。たとえ地球の反対側の災害でも、日本政府の救援に対する消極的な姿勢が問題になる時代である。ハイチは人口1000万人で200万人の首都集中が悲劇を大きくしたという。日本も1億3000万人で3000万人以上の首都圏集中である。まして今世紀は地球的規模の災害の時代だという専門家の警告もある。前にもこのコラムで提起したが、震災時の対応は救出・けが手当て・水の次は食べ物である。“阪神“以後自治体の震災備蓄体制もそれなりに進んできたが、今度は新しく震災時備蓄用食糧が試作されたというニュースである。もちろんおにぎりや定食弁当の供給も大事だが、長期保存可能な食品の開発は災害国日本だけでなく国際的にも意義がある。幕藩時代には、集落に飢饉時に備えて備荒蔵を持つところがあった。その教訓に学んで地域の中核施設として、現代的な農村集落用の共同食料庫の提案を試みたことがある。今から思えば宅地の狭い西日本的発想だったが、あくまでそこでの災害時に備える物資だった。それを今の時勢に合わせて、場合によっては他所の救援用にも活用できるという事前のみんなの合意がほしい。カネではなく物だからただ貯めるのが目的ではなく、常に品物を更新する仕掛けが必要だからである。この話は毎日の暮らしそのものの危機の時代になんとも夢物語だが、「風倒木」は全体が妄言なので、ここでは遠慮なく提案だけはしておくことにした。
 最後に夢ではなく本当の現実の問題で忘れられない記事のことだ。昨秋、名古屋市に野宿経験者による助け合いグループ「生存組合」ができたそうだ。生活保護をうける人たちの自立をめざす集まりだが、こういう当事者同士の連帯を軸にまわりの支援が包むという取り組みが今、この社会に一番必要なのだろう。一カ月で食費が39,500円で朝食:ご飯・味噌汁・目玉焼きなど2品、昼食:麺類、夕食:ご飯・味噌汁・おかず1品という献立だそうだ。記事からはこれ以上のことは分からないが、昭和30年代、40年代における農家の献立調査の経験と比較すると、ここでは副食品の内容によるが昼食が弱く、漬物がないことが気になる。農家の場合には今も同じだが、ともかく野菜が身近にあって、それが漬物なり味噌汁の具になっていて、目立つおかずではないが、健全な献立を構成していたのである。今は野菜価格が暴落して農家はやっていけないし、一番野菜を必要とする人々の献立には届かない。
 津軽にいた時、ホイト飯という言葉を聞いたことがある。今隆盛を誇る「つがる三味線」の祖はホイトとよばれた人々の門付け芸だが、農家からもらうものは小銭ではなく米、味噌、野菜だった。それを一緒に炊き込んだもののことである。この地に単身赴任当時、私は「おじや」という名前でよんでいた食事が定番であったが、耳にして以来、はなはだ身近で今も、忘れられない言葉のひとつである。

森川辰夫

「農村生活」時評31 "共同ぶろに入ろう"

 鳩山内閣が発足早々から難題に直面している。この内閣の前途はともかくとして、皆さんは首相の初めての国会演説のことを覚えておられますか。鳩山さんがこの演説だけを残して去るのではないか、と早々と予測する人もいる。これまで歴代の自民党首相演説があまりにも酷かったせいか、この「所信表明演説('09.10.26)」は私にとっても新鮮で、世間の評価が高かった。しかしどうもあの鳩山さんにしては出来すぎだと思ったら、ともかく朗読の練習は自分でやったが、原稿を作文した官邸スタッフと添削者が明らかになった。オバマ演説も別に書き手はいるのだから、その是非ではなく、私が注目したのはそこに「地域のきずな」という項目で地域社会の再生が提起され、「信頼の市民ネットワーク」という中味で新しい共同体という表現が登場したことである。
 新しい世紀を迎えた時から、時代にふさわしい、何らかの人々の連帯のあり方が問われてきたが、前にこの雑文欄でも触れたように、ここへきて懐かしい「共同体」という表現が世間に登場してきた。詩人・作家の辻井喬は一年前にやはりこれからの社会の姿を問われて、慎重に「共同体の再評価、でしょうか」と発言している。この言葉にはかつての古いマイナスの語感があるから、勉強してきた人ほど発言に注意してきたが、これまで「共同体」をおしのけて戦後社会を支配してきた既成組織への反発も、さらにはそれらの刷新の課題もあり、半世紀ぶりに新鮮な装いで登場してきた。
 さて市民連帯とか同好のサークルといえばわが「農と人とくらし研究センター」もその一つに他ならないが、やはり「共同体」となると空間的限度の側面を備えた、市民の暮らしの要素が含まれるのではないか、と愚考する。そもそもこの話の基本は連帯のあり方の模索だから、人々の結びつき方自体については、私はこの社会の中でみんな勝手に、それこそ好きにやってくれ、という思いである。そこにはどのような限定もいらないが、もし、具体的に日本のどこかで地域づくりを検討するとなれば、やはり多くの指導者・関係者たちが、営々と農村地域で積み上げてきた経験がこれからの社会には生きることだろう。ともあれこの課題が今後の論壇の重要なテーマの一つになろう。
 そこでは人々の連帯のあり方が最大の課題で、そこから二次的に施設や空間設計のあり方が盛んになる。多分、そこでの暮らし方はあまりにも当たり前の営みで新しい関心も呼び起こさず、したがって殆ど研究課題にはならないだろう。しかし私はエコ時代にふさわしい素朴な暮らしの設計を図り、その生活単位から積み上げて、そこの空間のありかたも人びとの連帯のありかたも再検討するという模索の回路、もしくは課題の側面を尊重したい。暮らしといっても単なる衣食住のような日常生活だけではない。
 これまでの伝統的な「共同体」にあたかも自然に存在していて、今の、かつこれからの「共同体」づくりに最も欠けているのはそこの暮らしの精神的な核になるもの、地域の目玉になるもの、地域個性の象徴になるものである。どうやら傑出した指導者が核になる時代ではない。さりとてテレビ局を呼ぶような、地域の目玉として祭りを新しく生み出すのにはかなりの背後地と住民エネルギーの蓄積が要る。他人に頼らず金もかけない、住民が共有できる新鮮なシンボルが地域社会には不可欠である、と人々が考えるようになった時から、物事がはじまる。
onsen.jpg かつて山口大学・故山本陽三先生のお供をして院生・学生さんと一緒に、福岡県糸島地域を農村調査に歩いた時、ひとつひとつの集落が隣とは全く異質のシンボルを持っていることに驚いた記憶がある。もっとも調査対象のそのような核を探して歩いたのではなく、それぞれの社会組織を調査票に記入する際に、その訪れた集落が一体、何を中心にして社会としてまとまっているのかと、私が関心を持って現地で体感しただけである。そこではやはり特別に、伊都国以来の歴史の豊かな地域だけに神社・仏閣、祭りなどの伝統的なものが多かったが、一方では混住社会の全く新しい組織体に誇りを持っていたり、農業先進地にふさわしい営農組織を生み出していて、そこでは地域が生き生きとまとまっていて感銘を受けた記憶がある。あるところで各世帯にはフロが無い時代に集落で共同風呂を設けて維持してきた例に出会った。その後時代が変わり農家の生活も改善されたが、それでも困難な時代の記憶のためか、その設備を大事にしておられた。私が「これはフロ・コミュニティーだ」といったら、山本先生が大笑いされた思い出がある。
 この連載に時々、ふろの話が出てきて恐縮だが、私の住んでいる市にも隣の市にも公共の入浴施設がある。どちらも高齢者を中心にして繁盛しているが、全国的な温泉ブームも根っこにあるのはこういう生活性向ではないか。残念ながら、まだ住民連帯のために自主的に新しく地域に共同風呂をつくったという話は聞かない。しかし今は夢物語だが、日本中の地下にある温泉源を活かして、何かを造る試みはいつかは現れるであろう。

森川辰夫

「農村生活」時評30 "いま山村から撤退か"

 大した開発地ではないが、わが住まいは首都圏内の都市近郊地域の一部だと思っていた。この頃、あたりの様子が少し変って来た。近くに空き家もあるがそれだけでなく、生活圏内の商店がどんどん変わる。自動車販売店やGスタンドのほかに手作りパン屋さんが閉店し、私が定期購読雑誌を頼んでいた本屋さんがつぶれて購読そのものを止めてしまった。これらの店はどれも建物はそのままなので、まわりが淋しくなり、残された空間が殺風景である。なかでも郵便ポストのあったコンビニがやっと高齢者向きになったのに、営業不振で突然無くなったのには驚いたし、いかにも不便になった。一方車で行く数キロ範囲には東と西に巨大な商業店舗群ができているらしいが、別に用事がないので行ったことが無い。全国的な地域の変容と衰退は地理的条件も歴史的条件も様々だが、決して他人事ではない。首都圏におけるかつての集合住宅団地のオールドタウン化が伝えられているが、その次に来るのは私の住むような開発団地のケースである。
dam.jpg 日本中の地域が壊れてしまい、その典型として「限界集落」問題が社会的な課題となって久しいが、ある新聞に若手研究者の提言として過疎集落の"積極的な"「撤退農村計画」が登場したのには驚いた。私は10年前に「集落移転後の20年」という小冊子を書いたから、ほぼ30年前の"消極的"・計画的な山村集落のふもとへの集団移転計画とその後の住民生活を論じたという立場がある。その調査事例の片方については移転計画時にも関わったので、気持ちの中には住民の転居はあれで良かったのかという反省の念もあった。
 この若い研究者グループの善意を疑うものではないが、多分、現代的な割り切りに優れているのだろう。国土計画論者の中にはカネのかかる山村は全部撤退して都市を集中的に整備すべし、という意見があるそうだ。なるほど、そういってもらったほうが問題の局面がはっきりする。日本の山々はみんな、何らかの形で水源だから、その水流は連続して上から下まで全部、大小のダムにしてその水で、整備される都市に日本人は皆、生活することにするか。
 ダムといえば昨今、やっと論議の対象、行政の検討課題になったが、私にはすでに日本中がダムで埋め尽くされたような気分である。半世紀前、学生時代に当時、花形だった天竜川の佐久間ダム建設現場を見学したことがあり、それが今は土砂で埋まり、下流に害があるなどと聞くと、幼さがよみがえり苦い思いがする。このダム論議を逆手に取り、あるところで"山村は人材のダムだ"、"日本文化のダムだ"とやりかえしたこともある。
 ダムに限らないが、日本という国のありかたが政治経済的にあるいは社会的に問われる時代になった。そこで維持経費問題で山村地域から住民を撤退させるプランが堂々と提示されるなら、単に限界集落論的範囲ではなく、原理的な国土問題として21世紀列島プランを根本的に国民的討議する必要がある。いま行われているような耳障りの良い、一見経済上合理的に見える、改革論者による短時間の討議で、これ以上山村や地域社会が壊されてはこまる。今はここ20年、30年来、年数と経費をかけてきたいわゆる「都市」も粗末な工事であちこちが崩れてきている事態を迎えているのである。
 そんな折、小田切徳美先生の最新刊、「農山村再生」(岩波ブックレット・№768)を読んでやっと安心した。この本の提起の根本は新しいコミュニティだから、そこに学ぶべき課題は多々あるが、それは今後の宿題にしたい。ここで先生の再生提案に悪乗りしてこれからの農山村について考えるならば、撤退ではなく、まずいま住民の住んでいる地域の暮らし保全であり、その上で肉親の帰郷もふくむ様々な縁による新住民の移住プランが基本である。そもそも人がいなければ農林業振興はできないし、主として山村から成る列島の骨組みを形成する地域の環境保全もできない。
 その際の論点の一つはこの地域の自然環境が日本人の現在持っている財産であり、これからも多くの価値を生む可能性があることを認めるか、否定するかである。もう一つは日本に農業はいらないのか、農と結びついている林業はいらないのか、農とむすびついている沿岸漁業はいらないのかという問題である。さらに大都市整備を集中的に実施して五輪でもやろうかというのと、農山村の暮らしを保障して、自給も互助システムもある落ち着いた住民生活をつくるのとが、国民経済上どちらが安上がりか、その環境負荷如何ということである。
 これは本当は科学的にキチンと計算したほうがいいかもしれない。しかし、問題は計画論的な技術課題ではなく、あるところで菅直人国家戦略相がいったように、"政治的判断を政治的に検討する"という政治課題なのである。
 積極的撤退論のポイントは表からは隠れているが農のあり方をめぐる考え方、というか、棄農の勧めである。この提案者は合理的な農業振興策、農地保全も計画しているというが、いまの農山村民の身についた農業技術、山村保全技術なくして、個性に満ちた傾斜地などは簡単には再生、活用はできない。本当に地域を再生するというなら、この人たち自身を保全する、そこでくらしが成り立つように手筈を整えるほかない。それは当事者にとって中々困難な暮らしだろう。しかし私が移転経過を調べて痛感することは、通勤・通学する世代は別として、山村民にとって農や山と離れた移転先の平地に、高齢者の幸福はないのである。

森川辰夫

「農村生活」時評29 "増沢発言に教えられる"

 「(長野県の)農業は高齢者がやっているだけで、(日本農業の)自給率を上げていくと言っていますが、そんなに簡単な事ではない、と思っています。根本的に農業に対する考え方を変えなければだめだと思っています。農と人との関係ですが、このことについて、(農と人とくらし研究センターが)着目されたということは大変立派なことだと思います。少し私は生意気なことを申し上げて大変恐縮でございますが、日本には古来から、神道があり、儒教があり、仏教が入りました。そうしたものが人の道を教えられてきたわけでございますが、私は、そのことも大変立派で大切なことだと思いますが、私は農をやるということ、農の営み、自然や土の営みの中から生まれてくる思想が形成されてくる、農と土やそういう自然の中から形成されてくる思想が最も大切である、とこのように考えるわけであります」。
 これは本センター「設立一周年記念イベント」(2009.6.20)における、岡谷市・増沢俊文さんのお話の末尾、まとめの部分での発言である(座談会「岡谷で農!を語ろう」の記録、13~14頁、本センター刊)。増沢さんは大著、「農民の生活」の著者ではあるが、農業者として昭和時代を一筋に生きてこられた方で、御自分の発言にはなにものにも制約されないし、世間に遠慮される事柄もないという、率直な方である。若いころからこういう性格だったのかもしれないが、80歳を越えられての発言には重みがある。最近こそ農業者自身の発言がマスメディアにも一般的になったが、かつては農協組合長とか生産組織代表などの立場のある人の発言ぐらいしか目にしなかった。一昔前までは普通の農家の、いわば社会的発言は少なかったといえる。ましてや私より年配の方々の個人的発言は貴重である。
 しかしそのことよりもここでの課題は発言の中味である。増沢さんは「農の思想」という表現で止められているから、必ずしも中味は明示的ではないが、その位置付けは明確である。つまり神道、儒教、仏教よりも「農の思想」の方が基底的である、日本人にとっては「大切」である、という主張である。つまり近代において「農本主義」として研究されてきた独自思想よりも、もっと一般人に共有的な、常識的な深層の思考部分である。
 こういう潜在的な考え方は農村地域にはいまなお広範に存在するが、日本の思想史研究のなかでは軽視されてきた。なによりも知識人に軽蔑されてきたから、歴史のどの時代でも表面化しなかったし、それは現代でも例外ではない。そもそも日本人に外来思想を受け売りするのが「知識人」の営業だから、商売敵はたたかねばやっていけないのだろう。日本思想史においてこの課題を正面から取り上げ、現代にいたる外来思想との関連で評価したのは、私の知るかぎり加藤周一である。加藤は「土着的世界観」という概念で、今日に至るまで日本人を支配している考え方の仕組みを解明した。増沢さんの主張はこの概念の提起と大いに関連するから、私としては気になった次第である。
 増沢さんはこの発言のあと近代思想にも触れられているが、ここでは外したい。この中世以来の外来西洋思想の受け売り営業は、日本社会では現代でも大いに繁盛しているから論評の対象としての話題に事欠かないが、話をはっきりさせるために引用部分に即して、少々局面を限定したい。
 増沢さんの「儒教」には「道教」も含むのではないかと思われるが、ともかく「仏教」と共に大陸からの外来思想である。ここにいう「神道」がいかなるものか、ご本人に伺ってみないと分からないが、明治政府の「国家神道」とは別の古来からの伝統的なものだとすると、それは加藤によればアニミズム、祖先崇拝、シャマニズムから成り立っている。これらの源流的な思想は変形しながらいまなお日本人の心情に生きているから、必ずしも「農」の思想とは無関係ではないだろう。
 しかし、伝統的に日本人の思想を支配してきたとだれもが思っている神道、儒教、仏教という三大思想よりも、増沢さんは農業者として、農村に生活してきた人間としての実感から思想の源泉としての「農」を重視する。この増沢提起を私なりに極端に単純化していえば、日本列島においては自然環境に対応してその土地の耕土に対して適切な技術を駆使して働けば、どうにか安定した収穫物が得られるという経験則から生まれた、自然尊重、土地尊重を伴う労働観ではないか。そしてそれらを包括したものが営農観だと主張されていると感じた。これは観念的な抽象的な存在である神仏に依存しなくとも現世に豊かなくらしがあるという「現世主義(加藤)」であり、生産物の成果が自分の働きに対応しているという点で「現在主義(加藤)」に対応することになる。
 世界中のどの民族もそれぞれの伝統的な世界観を持ち、そこに言語を含めてなんらかの外来思想が到来してさらに独自の思想風土を形成し、歴史的にその繰り返しを経て地球規模のやや普遍的ないくつかの思想に収斂してきているのが現代であろう。日本は大陸の隅というか、端にあって、海を越えてきた多様な外来思想を受容してきた。しかし表面的には抵抗なく受け入れたようで、仏教式葬儀はどこにもありクリスマスは日本中の子供に不可欠である。だが思想の底の部分では土着的世界観が強力で、儀礼的な部分は別として、外来思想の骨格部分を本当には受容してこなかったことを再考すべきである。
 さらに私は日本ではどうして古代以来の独自の世界観の再生力が強いかという課題に当たる。それはまさに増沢発言にあるように列島全域において千年以上もかの「自然依存の営農方式」が農家によって維持され、再生産されてきたことにあるのではないか、と想定した。だが今は肝心のその底が抜けているというのが、増沢さんの憂農、憂国の訴えであろう。

森川辰夫

「農村生活」時評28 "入浴という生活リズム"

 あるテレビ番組で関西在住の作家がひとつの思考停止の例として、あの阪神・淡路大震災時に揺すられている間はパニックになって何も考えられなかったという話をしていた。昨今、話題の避難方法の話しではなく、これを聞いて私はこの方の指摘したこととは局面が異なるが、ここ十年か二十年来か、日本の社会全体が揺すられてしまい、いわば震源に近い人ほど思考停止になっている状態ではないかと思った。世間には暴論、極論、曲論が横行して中々、正論というか、まともな話が通じない状況で、いわゆる知識人が発言を控える言論界の空気が危険だと思っていたが、社会的基盤のひとつの側面としてこういうこともあるのだろう。
 なんとかの一つ覚えだが、私は40年以上「生活リズム」という課題を追いかけ、農村の暮らしについての研究手法としての側面も提案してきた。人間は地球に暮らしている限り全ての生物と同じく、生物リズムに支配されている。それを基礎に近代人は社会に合わせて生活リズムの型を身に付けてきたが、それを具体的にいかに自分の型として自覚するかどうかが、この世間で落ち着いて暮らすためのひとつの大事な別れ道である。生活リズムというと夏休みの子どもの健康的な時間の過ごし方のような受け取り方が一般だが、実は仕事や情報に追われた社会人が落ち着くための生活作法である。
bath.jpg さて、この生活リズムには多様な中味があるが、私にはあまり注目されないが"入浴"という生活行動上のポイントが気になっていた。世間では調べたわけではないが夕食後、就寝までの間に入浴するのがごく普通だろう。もちろん高齢者施設では入浴について独自の時間設定があるが、通勤時間のある勤め人の家庭では大体こうなるだろう。
 私が半世紀前に農協に勤めていた時、農家の長屋門の一室を借りて寄宿したが、その農家ではお祖父さんが夕方になると風呂をわかし、担い手世代が農作業から帰ってくるとまず入浴して着替えていた。そこは温暖な土地で年中、屋外の仕事があったからこの生活パターンはいつもごく自然に続けられていたように思い出す。その後農村調査マンに転じ、多くの農家の労働状態を圃場に、屋敷内にと追いかけて測定して歩いた。そのなかで、入浴は体の生理からいえば労働と同じ活動状態で、気分的あるいは生活時間分類上は休息状態であるという二重の性格を持ち、生活リズムからいうと労働と休養という二大生活行動上の接点に位置しており、極めて重要なポイントだ、ということに思い当たった。
 この農家の生活リズムの型を社会条件の異なる現代生活に再生させることは、将来究極の職住接近社会でも出来なければ無理だろうと考えていたが、ある新聞にこんな体験記が載っていた。働いているお母さんが夕方、保育所から子どもを引き取りすぐ、夕食の準備にかかるが、昼間お母さんと離れていた子どもがまとわりついて家事の邪魔になって仕方がない。そこで友人の助言で、帰宅すると、ともかくすぐ一緒に入浴して固く抱きしめてあげるようにしたという。すると子どもも落ち着いてくれたので、かえって夕食の準備が手際よくできるようになったという。もちろんこの入浴が働くお母さんの気分一新に役立ったことはいうまでもない。この記事を読んで現代社会において、新しく生活リズムを創造していく最前線の工夫ということを教えられた。
 日々の生活リズムを刻むのはなんといっても、24時間での睡眠時間の考え方である。
 現代日本人は現役世代が世界で一番、睡眠時間を削って生活している「トップランナー」である。バリバリ活動していて誠に合理的に見えるが、私には実はそれが健康を阻害しているように見える。医学的なことはまったく知らないが、世間でよく話題になるうつ病発生のひとつの基盤になっているような気がする。
 次は活動時間をどう過ごすかが課題となる。普通の人は職場の労働時間とその時刻がすべてを決めるが、物書きのような自分で時間を配分できる人はどうか。著名人は死後、日記でも刊行されないと具体的な生活については判らないが、これまた別の新聞記事によると「つまり、一日というものが厳として存在し、それが24時間しかない、と。この"単位"のなかで、つねにノリにいたる道を築かねばならない。これは生活のリズムの、組み立てだ。そして、リズムを刻むのは、つねに食だ(古川日出男:作家の口福、朝日09.6.6)」とある。また、稀な例だろうが、朝の入浴が執筆仕事の始まりというシナリオ作家の話も聞いたことがある。
 かつて私が仕事していた青森・津軽地域は、その頃も今も若者の就職先に乏しく気象条件にも恵まれていなかったが、弘前市内にも周辺にも銭湯のような温泉の多い所だった。私は休日に路線バスを利用して足場の良いところへ入りに行く程度だったが、大学の同僚にいつも出勤前に車を駆って毎日のように違う所に入浴してくる先生がいた。秋らしくなると津軽の紅葉とともに、近在の人々が入る気楽な温泉の佇まいと、いかにも自分の生活のペースを大事にしていた彼のことを思い出す。

森川辰夫

「農村生活」時評27 "農と食の結びつき一考"

 仙台圏は百万人の都市でかつ、全国有数の生産力の高い、豊かな農村地域に囲まれている。松島という江戸時代からの観光地もひかえ、都市近郊農業が発達してきた。しかし東北地方随一の都市圏が拡大して産地の移動、変貌も著しい。名取市は仙台市の南に位置し、いまでは都市開発の最前線だが伝統的に農業も盛んな、いわば問題の接点にある課題の多い地域である。もとより食と農の結びつき方には地域性を反映した多様な試みがあって良いが、ここの取り組みも精彩を放つ。
takara.jpg 発足以来、早5年目となる「東北農村生活研究フォーラム」が「生産者と消費者を結ぶ~"農"の現場で"宝"さがし!」をテーマにして名取市で、この夏の終わりに開催された。「フォーラム」当日の日程は名取市の産直グループの大型スーパーの店先の朝市(土曜・朝8時)と店内・直売コーナーの見学から始まり、二つの集落の2戸の産直農家の圃場見学、農家レストラン(重要文化財・洞口家住宅)での昼食と見学、および参加者の討論という充実した内容であった。
 この現場で生産と消費の結びつきを考えるのが集会の課題で、かつ小論の中味だが、様々な事情が背景にあるので単なる見学では感想以上のものは生み出せない。しかし私の目に映った精彩のいくつかについて書き連ねたい。そのひとつはいまでは全国何処でもみかける姿だが、女性グループの活躍の様子である。それは素晴らしいが、手のかかる野菜をつくり出荷、出店して宅配までやれば大変な忙しさであろう。もちろんどの農家でも男性が一緒に働いているのだが、見学対象が産直グループで、伺った勉強する側もほとんど女性ばかりで遠慮されたか、日程の中ではまったく男性に会わなかった。半世紀前には農家調査で生活や営農のことについて女性の意見を聞くのに苦労したが、今回は男性をつかまえられなかった。ここでの農と食を結びつける活動をさらに発展させるには、という課題についてみんなで話し合った。やれそうなことがいくつも提起されたが、私はやはり都市側か行政側から支援というか、仲立ちする人がいないと、農家男性の意見は聞いていないが、これ以上に農家が働く労力負担は無理ではないかと思った。
 現地見学で圃場めぐりをさせてもらったが、野菜を見て歩きながらこの散歩こそ、いまの都市住民が新鮮な農産物とともに求めているものではないかと感じた。そしてこの散歩活動の延長先に、社会的に求められている今日的な援農システムも展望できるのではないか。江戸中期、250年まえの建築物とうかがったが、豪壮な洞口家住宅の説明を聞いて、これがここの農村散歩の目玉にほかならないと痛感した。どこの農村でも農業生産が展開されていれば都会人の散歩には癒しの効果はあるが、ここではこの建物が散歩の終点になる。しかもこの重要文化財の値打ちのなかに、このでは集落の各戸がそれぞれ堀でめぐらされていることが含まれているという。この各戸の堀は車時代の道路拡張でかなり埋め立てられているが、まだ名残が何箇所もあるようである。この景観を住宅とともに保存し、仙台空港アクセス鉄道沿線として開発の進むこの地域にこそ、歴史的な宝として生かすことは、この圏域に住む現代人の役目のように思う。産直グループ応援だけでもなく農業支援だけでもなく、自分の地域づくりそのものとして、仙台圏の広範な市民の参加がえられる課題ではないか。この話し合いの中で私だけかもしれないが、この思いつきにわくわくして発言した。
 この集まりに参加して外の訪問者を受け入れてくださった女性グループには、個別にはいくつもあり、それらは構成メンバーが少しずつ重なり合っているらしい。その様子を立ち話で断片的に耳にして、ある意味ではこれこそ現代的な組織化方式のように感じた。つまり(イ)という目的のためにAというグループをつくるが、その活動を継続しつつ新しく(ロ)という目的のために別にBというグループをつくるためにAから何人か参加して新しいメンバーも加わって組織する。特定の集団になにもかも負わせるのではなく、ひとつのグループはひとつの目的を追求する。新しく仕事ができれば新しいメンバーで組織する。しかし経験の継承や発展のために幾人かはそちらにも加入するらしい。そうやって重層的に活動と組織を発展させてきたようである。
 こういう重層的な組織は中心メンバーは忙しいかもしれないが、地域で厚みのある活動が推進できる素晴らしいやり方ではないか。多面的な課題が地域にある以上、それを突破するにはこういう重厚な活動体こそふさわしい。

森川辰夫

農と人とくらし研究センター

Research Institute for
Rural Community and Life
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