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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

カテゴリー「■ くらし」の記事一覧

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「気違い農政周游紀行⑥」 先生は協定を結んでいますか

 ワークショップだけにしておけばよかった。知り合いの主催者に頼まれて、うかつにもワークショップの冒頭、20分も貴重な時間を使って「家族経営協定」の意義について自説をえらそうに展開してしまったのがいけなかった。
 私は家族経営協定をテーマにした寸劇を作るワークショップを数年前からやっている。ドラマは対立があると盛り上がるから、普段は隠されがちな家族間の葛藤が表に現れやすいし、また普段の自分とは別の立場の役を演じると、頭で考えていたのとは違う予期せぬ発見があり、相手に対する理解が深まるなど、家族経営協定を考えるのに演劇的な手法がぴったり合っていると思うからである。ときどき協定を推進する行政からワークショップの依頼がくる。群馬県の前橋でワークショップを行ったときのことである。
 2時間という予定の終了時間を過ぎていたが、ふりかえりの時間を設けて、急いで帰らなければならない人から発言を促した。真っ先に一人の年配の男性が立って、「先生ご自身は協定を結んでいますか。なぜ農家だけに勧めるのですか。私は家庭内のプライベートなことにまで行政が口を出すのはおかしいと思う」と発言して、そのまま会場を後にした。楽しそうに寸劇を演じていた方だっただけに、意外な発言だった。どう答えたらいいのか思案している間に、男性がいなくなってしまったので、質問だけが宙に浮いた形になった。その場に残された参加者が代わりにそれぞれ答えていく。「うちは農業後継者がいないので結んでいないが、自分は勧める立場にあり、あらためて協定を推進していこうと思っている。」殊勝な意見が、協定を結んでいない農業委員の男性たちの口から多く聞かれた。
 賛成反対それぞれの本音を引き出した点で、このワークショップは私にとって成功であった。同時に、協定を結んでいない農業委員が感じたであろう後ろめたさを私も感じた。協定を推進するために妻との間で協定を結んでいる研究者がいることを知ってはいるが、私自身は誰とも協定を結んでいない。ただ、協定の調査をしたことによって、自分が得たものがとても大きかったと自覚している。
family.jpg ある農家での調査中につい口にしてしまった自らの失言によって、私は男たちの多数派の一人として自分がいかに生活を軽視してきたかを身にしみて感じることができた。遅まきながらでも、そのことに気づく機会をもてたことに感謝しているので、家族経営協定には人一倍、恩を感じている。
 家族経営協定の効果は何か、とよく問われる。協定は一つの道具だから、効果の有無は使う人の使い方次第だ、と突き放した答え方もできる。でも、功績は何かと問われたら、はっきりいえることが一つある。それは、上記の男性のように「家族の問題に農政は口を挟むな」という反発を引き起こしたことである。なんらかの震かんに触れたからこそ、こうした反応があるのであり、問題の核心を突いていることだけは確かである。
 農政の意図は、家族農業経営の問題点を改善していくことにあり、その中で働く後継者や女性たちの働きがちゃんと評価されることをめざしている。しかし、家庭内に根深い問題を抱えている農家は、農政が意図するような家族経営協定を結べない。協定を結んでいるのは逆に、他の模範となるような、問題の少ない農家である。皮肉な見方かもしれないが、問題の有無を見極める一つの試金石として、今の協定は機能している。
 結べる農家と結べない農家の違いは何か。協定の締結は相手があることだから、協定を必要とする人がどんなに切実に欲しても結べるとは限らない。世の常として、弱い立場の人が自分から言い出すのは勇気がいる。実際は、経営主が妻の苦労をねぎらって、あるいは早く後継者が一人前になるのを願って、または、経営主の妻が、かつて自分が味わった苦労を嫁にさせないために、そういう「いたわり」が締結の原動力となっている。つまり、協定によってあぶりだされるのは、農家の中に、弱い立場の家族への配慮があるかないか、ということである。

片倉和人
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「気違い農政周游紀行⑤」 国内生産だけの食卓

 半世紀を生きてきたが、幸いなことに飢えた経験は一度もない。中国製冷凍ギョウザ中毒事件をきっかけに、私の周囲の人たちは一様に、国産食品への志向を強めている。減少しつづけてきた食料自給率の数字がにわかに気になりだしたようだ。しかし、漠然とした飢えへの恐怖はあるものの、まだもう一つピンとこない点があった。食料自給率39%といわれても、実際に食料輸入が全くできなくなった場合の、日本の食卓がどんなものか、想像できなかったのである。親切なことに、農林水産省のHPには「国内生産のみの食事のメニュー例」が、一目でわかるように掲げられている。
 ご覧になって、その質素ぶりに落胆された方も多くいるかもしれない。が、私は至極安堵を覚えた。なあんだ、と思った。意外なことに、魚の切り身まで付いていて、うれしくなった。私はもっと質素な三度三度の食事で暮らした経験がある。
katsudon.jpg 朝は一椀の粥に沢庵と胡麻塩だけ。昼は麦飯と沢庵と味噌汁。晩は麦飯と味噌汁に精進料理一皿がついた。これが10日間続いた。まだ19歳の若者の身での経験だった。大便は山羊の糞のように黒くコロコロしていた。食べ物の栄養をすべて吸収すると、排泄物がどうなるか、とてもよくわかった。あれ以来、あのような便をしたことがない。少し激しい労働をすると、かすかにめまいがした。
 30年以上前の話で恐縮だが、刑務所の食事だってもっとずっと贅沢だったにちがいない。私が思い出しているのは、福井県にある永平寺に参禅したときの食事である。食事も修行の一つであり、何百年も続けられてきたものだというから、きっと今でも同じメニューだと思う。
 19歳の私は、10日間の参禅を終えて山門を出るや否や、目の前の店に飛び込んでカツ丼を注文し、それが出てくるのを待てずに、店頭でハムを買ってかぶりついていた。その姿は餓鬼のようだったのでは、と今になって想う。身体が求める食欲にただただ素直に反応していた。食欲にただ屈するのではなく、やせ我慢と言われようが、もう少し悠然とかまえることだってできたはずである。要するに10日間ではまだまだ修行が足りなかった。

片倉和人

「気違い農政周游紀行④」 生物に餌食あり

 定年を過ぎた従兄弟が庭の手入れのついでに、実家の庭先に小鳥の巣箱を2つかけていった。一つは蔵の軒下に、もう一つはガレージの鉄骨に、いずれも3m足らずの高さで、人通りのある場所である。昨春、一つにヤマガラが、もう一つにシジュウカラが巣作りを始めた。家の者は、子育ての邪魔をしないように巣箱の前の行き来に気を使いながら一春を過ごした。
tokage.jpg 家には現在2匹の雌猫がいる。ペットとして飼っているのではない。猫がいないと貯蔵している穀物がねずみの被害を受けるからである。小鳥が猫にやられないか心配だったが、初夏には雛は成長して無事に巣立ったようだった。
 秋も深まったある日、蔵の前に置かれた椅子の上にうずくまる野良猫を母がみつけた。長年この辺りを縄張りにしてきたふてぶてしい雄猫で、隙をみては家猫の食べ残しの餌を盗み食い、古くからいる家猫の一匹は毎年決まってこの野良猫の子を宿した。だいぶ弱っている様子で、「こんなところで死ぬなよ」と母が声をかけると、ウーと一声うなり声をあげたという。翌朝、椅子から落ちて野良猫は息絶えていた。
 春も近い冬のある日、若い方の家猫が、スズメより一回り大きな野鳥をくわえて、さっそうと家の中に入ってきた。家猫の習性として、獲物を捕ると、得意げに家の人にみせるのである。しかし、家の中に持ち込んで安心したのか、一瞬の隙をついて、野鳥が猫の口から自らを解き放ち、大騒ぎになった。ムクドリだった。
 台所に逃げ込んだ獲物を追って猫が宙を飛び、手負いのムクドリの灰色の羽毛があたりに舞い散る。猫と鳥の壮絶な捕り物が始まるや否や、それを追いかけるように、父と母の罵声が飛び交った。驚いたのは猫の方である。
 83歳の父は、箒を振りかざして、「野鳥がかわいそうだ」と言って、家の外に逃がそうとする。それを見て、78歳の母が椅子に座ったまま「せっかく捕ってきたのに、かわいそうなのは猫の方だ。逃がさないで、捕らしてあげればいい」と平然と見ている。父は怒って、「猫には餌を十分にやっているのだから、かわいそうなことはない」と声を荒げた。すると母が言い返す。「獲物を捕るのは猫の本能なのだから、そんなこと言っていると、ねずみも捕れなくなってしまう。」
 この一件で学習したのは猫の方で、野鳥を捕まえて家に持ち込んでも人目につかないところに隠すようになった。しばらくして廊下の物陰に野鳥の死体をみつけた。猫の餌食になったのはツグミだった。
 猫を飼っていて厄介なのは、生まれてくる子猫の始末である。ねずみ対策には1匹いれば十分だが現在は2匹。3匹いたこともある。子猫の運命を握っているのは人間で、いわば神のような存在である。神の役は無情でないとつとまらない。この嫌な役を父と母は分担する。「間引き」のように目も開かないうちに隔離して始末するのは母の役で、子を探す母猫が不憫で1匹だけ乳離れするまで大きくして「桃太郎」のように川に流すか、「姥捨て」のようにどこか遠くに遺棄するのは父の役である。
hebi.jpg 死んだ祖父がよく「生物に餌食あり」と言っていたと母から聞いた。いたいけな子猫が他の獣の餌食になることかと想像したら、虫でもカエルでも餌にして子猫は生きていくという意味のようだ。主客が入れ子状になっているのが、生物の食物連鎖の世界である。運がよければ人様に飼われるか、そうでなければだいぶ暖かくなったからカエルでも何でも捕って生き延びるだろう。もうどこかに棄てに行かなければならない。そんな会話が父と母の口にのぼるようになっていた矢先、庭で遊んでいた子猫が神隠しのように突然姿を消した。縄張りの雄猫に追い払われたか、かわいい子猫だったから誰か人に拾われて連れていかれたか、と父と母は不思議がっていた。家業を受け継ぐならば、この嫌な神の役も同時に引き継がなくてはならなくなるので、自分ならどうするか密かに逡巡していた。今は回答の期限が延びてほっと一息ついている気分である。
 食べるということは他の生き物の命を奪う残酷な行為なのだが、この当たり前のことを、近頃盛んになっているという「食育」ではどのように教えているのか、そんなことがふと気になった。

片倉和人

バングラデシュ 村の植物誌

○○食べる
 マンゴは、食べると"やせる"食物であると考えられている。

<熟していない実>
 マンゴの未熟果は酸味が強い。実がつく時期はちょうど暑い時期でもあり、いろいろな料理に混ぜられ、食欲増進に用いられている。
 トルカリ(おかず、の意味。野菜、肉や魚を、ターメリックやトウガラシなどのスパイスで煮たり焼いたりしたもの)の中では、野菜のトルカリ(ニラミシュ:肉なし、という意味)や魚のトルカリと合うと言われている。また、ダル(豆のスープ)やキチュリ(米に豆などを混ぜて炊き込んだもの)にも入れることがある。
 そのままのマンゴをトウガラシと塩をつけて、すっぱい味を楽しむのは、子どもや妊婦に多い。妊娠するとすっぱいものが食べたくなるのは、いずこも同じなのだ。そのほか、細く果肉を切ってから塩とトウガラシとまぜると、それはアメル・ボッタ(マンゴのボッタの意、ボッタとは、野菜や果物をそのまま、あるいは蒸してから、油や塩、スパイスと混ぜて練ったもの)という料理名となる。細切りの果肉を、カションド(マスタード粒とスパイスを原料として作るソース)に混ぜても、マスタードのぴりっとした味が利いて、美味しい。が、きょうび、カションドを手作りするような家はほとんどなくなってしまった。
 その他、切って砂糖と煮たり(ムログバ)、乾燥させたり(フォリ)、砂糖やスパイスと混ぜてピクルス(アチャル)も作れるが、それほどには収穫もないし、手間もかかるということで、現実には、大半が生や料理に混ぜて食されている。

※カションドの作り方:ライショリシャ(ナタネの一種)の実を新年から1ヶ月の間に、サリーで包んで洗っておく。それをすりつぶし、ジラ、ゴルモスラ、シナモン、ロボンゴ、ショウガ、ターメリック、トウガラシ、テズパタ、塩と混ぜ合わせる。
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左: カションドの材料

右: カションドをすり潰している調理器具は、シルパタといって、石で作られている

<半熟の実>
 ちょっと甘みが出てきた半熟果を細切りしてカションドと混ぜても美味しい。

<熟した実>
 熟した実は、そのまま食べるよりは、ムリ(ポップライス)や、ムリと牛乳を混ぜたもの、あるいはご飯と牛乳を混ぜたものの中に入れ、手で混ぜ合わせながら食べる方が好まれている。ようやくトルカリとご飯を食べ終わったのに、また新しい皿にご飯を入れられて、「もう、おなかが一杯」と辞退したい気持ちになるが、そこに、熟したマンゴを加え、ミルクをかけると、ご飯や牛乳の甘みとよく混ざり、リッチなデザート気分。熟したマンゴも乾燥させることもできるが、その場合は、フォリではなくショットと呼ばれる。

○○薬として
 バングラデシュでは、ガスティックという体の状態がある。女性に多いといわれているようだが、胃腸にガスがたまり、おなかが張るような状態である。このようなとき、若葉のしぼり汁を水で薄め、朝に飲むと良い、と言われている。
 また、伝統的治療師(コビラジ)が主に施す用法であるが、下痢のとき、酸味種のマンゴの幹を削り、スパイスのようにシルパタですりつぶし、服用させると良いと言われている。

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マンゴの根を柄に使ったアチャリ(鎌) 使いこなされたアチャリ

○○木材として
 マンゴの木は、柔らかいため、虫がつきやすく、あまり良い材とは言われてないが、近年は木材の不足もあって、よく利用されるようになっている。柱などの建材には利用されないが、寝台、扉やテーブルなどの材として利用されている。ベッドをマンゴの材作ると安く仕上がるが、それで眠っていると、そのうち、ギリギリ、ギリギリ、と虫が材を食べる音を、寝ている間中聞くようになり、何年かすると、ベッドの足元には、虫食いのくずが山となる。その一方、マンゴの根は硬いため、鎌(アチャリ)の柄の材料として利用される。

○○そのほか、葉や枝は、燃料として用いられている。
 また、キンマという嗜好品(ビンロウジュという椰子の実の一種の砕いたものを、キンマの葉でくるみ、噛んで、その苦い、しびれるような味を楽しむ、キンマとビンロウジュについてはまた後の回で紹介)がある。とくに中高年、なかでも女性が好むものだが、キンマはつる性で、他の樹木に這わせる必要がある。マンゴはキンマを支える樹種として適しているといわれている。マンゴに這わせると、キンマが美味しくなるそうだ。マンゴにとっては、キンマの根から樹液を吸われていることになるので、あまりありがたくない話しかもしれない。ちなみに、マンゴと同じウルシ科のジガという植物も、その支えとして適しているそうで、ウルシ科の植物はキンマにとって相性がいいのかもしれない。
 また、マンゴの花で蜂蜜を採っている人もいる。

 マンゴは、『コナルボチョン』という、ベンガルに古くから伝わることわざ集にもよく登場している。

「アム(マンゴ)は稲、テトル(タマリンド)は洪水」(マンゴがたくさん取れる年は、稲もよく取れる、テトルがたくさん取れる年は、洪水が起きる)」マンゴが知らせる気候

「アムを植えて、ジャム(ムラサキフトモモ)を植えて、カタール(ジャックフルーツ)を植えれば、12ヶ月いろんな果実が次々取れる」マンゴなど果実の恵み

「チョウトロ月(3月中旬から4月中旬)の霧、アムは腐る、タル(オウギヤシ)とテトルはとても良い」マンゴに適した気候、などさまざまである。

(コナルボチョン:Khonar bochon, 1995, Narigrosuta Poribortona, Dhakaより引用、翻訳)。

吉野馨子

バングラデシュ 村の植物誌

 バングラデシュの村で、屋敷地の植物を調べ始めてから20年が過ぎた。このコラムで、村の人たちがともに暮らしてきた屋敷地の植物を少しずつ紹介しながら、村の暮らしも紹介していきたいと思う。初回は、私たちにも身近になってきたマンゴから。

 マンゴは、バングラデシュでは、アムと呼ばれている。マンゴは、村人が最も好む果樹の一つである。マンゴは、小さいうちは、かなりの日陰でも耐えることができる。屋敷地の裏手のジョンゴル(雑木林と藪を合わせたようなところ)の薄暗い林床に、まるで雑草のようにマンゴがたくさん生えているのを良く見かけた。村の人は、マンゴを食べた後、種をジョンゴルなどにぽいっと放って、少し土をかぶせる。マンゴは、食べた後すぐに(乾燥しないうちに)、土の上に置かないと発芽できない。マンゴの特性をよく生かした、育て方である。

 藪の下草のようにマンゴの幼樹は大きくなり、見どころがあるな、と選ばれたものだけが(?)、明るい場所に新しく植え替えられる栄誉を勝ち得ることになる。マンゴの木は、大変大きくなる。こんもりと四方に広がり、がっしりとした感じで、とても美しい眺めである。
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マンゴの木 遠景

 だいたい、5~7年くらいすると花がつくようになる。マンゴの花は、けっこう地味で、ちょっとネズミモチに似たような感じがある。その花が、村では乾季の終わりごろ、マグ月(2月ごろ)に開き、次第に大きくなる。
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マンゴの花
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青いマンゴ

収穫したまだ青い実をぶら下げて見せてくれる少年、うしろに見えるのは、サリーを重ねて刺し子をしたふとん(カタ)である。

 マンゴが大きくなる時期は、とても楽しみな時期である。カジシムラ村のジュマは、その時期、自分の部屋で寝ていると、トタン屋根にマンゴの実があたる音が聞こえて、とても嬉しい気持ちになる、と話してくれた。緑の実が徐々に赤く色づいてくるが、緑のまま熟すものもある。バングラデシュでは、取り木などの栄養繁殖はほとんどせず、実生繁殖なので、マンゴの実の大きさや味は、木によって違う。うちのが一番おいしいのが成る、いや、うちのだ、とそれぞれが自慢したりしている。

 ボイシャク月、ジョイスト月(いずれもバングラデシュの暦、5、6月ごろに当たる)に実が熟してくるが、チャムリア村の小さい子らは、まだ青いうちから、食べたい、食べたいと母親にせがみ、熟する頃には、ほとんど実は終わってしまっている。マンゴ好きの私は、胸の中で(もう少し待ったらもっと美味しいのに・・・)とぼやくのだが、子どもらにはかなわない。実には虫がつきやすいため、あまり売られることはなく、その分、村人たちが楽しめる果物となっている。

 マンゴの利用法は、実にさまざまである。「妻は夫にマンゴとピタ(米粉で作ったお菓子)を食べさせないといけない」と言うならわしからは、村の暮らしにとってのマンゴの重要性がうかがわれる。

マンゴ(学名はMangifera indica L.)
 
吉野馨子

「気違い農政周游紀行③」 コメの味で嫁を釣れ

gohan.jpg 正月以来、ある農家の方からいただいたコメを食べている。籾で送ってもらい大晦日に農協のコイン精米機で8分米に摺って元旦から食べ始めた。
 私が居候のようにくらす生家の家業は糀屋であり、蔵には近所の農家から少しずつ持ち込まれた糀の原料となるコメが貯蔵されていて、普段はその中からもっとも食べられそうなものを選んで食べている。美味しくない古米がどんな味かを、私はとてもよく知っている。
 正月からもう2ヵ月近くたったが、「こんな美味しいコメを毎日食べるなんて、もったいない」と母は食事のたびごとに口にする。そういえば、そのコメを送ってくれた方は、出されたご飯のコメと野菜の味に感激して農家に嫁ぐ決心をした、と冗談のように語ってくれたことがある。それは今まで一度も食べたことがない美味しさだったという。実際はもちろんパートナーの人柄にも惹かれたのだろう。
 二人の女性たちの言葉を聞いて、儲かる農業も魅力的かもしれないが、農家に嫁げばこんなにも美味しいものが食べられる、という点をアピールする道もあるのではないかと思った。高級といわれるフランス料理の世界でも従来のソースに代って素材自体のもつ味で勝負する時代になっているというではないか。最も新鮮な素材を食卓にのせることのできる農家の食生活は本来豊かなものであるという自覚が大切ではないだろうか。美味しい食べ物のことに関して、女性は男性よりもずっと敏感で、高い価値を置いていることを、農家も農政ももう一度思い起していい。

片倉和人

「気違い農政周游紀行①」 部落の側から農政をみると

bags.jpg 誤解を招きかねない表題なので、転ばぬ先の杖ではないが、一言弁明をお許し願いたい。気づかれた方も多いと思うが、表題は、きだみのるの有名な本の題名をもじっている。その『気違い部落周游紀行』自体、閉門に処せられたフランス・サヴォアの騎士グザヴィエ・ド・メェストルの「居室周游紀行」に倣ったものだそうで、戦中から敗戦直後にかけて日本に蟄居を強いられた著者が、疎開先の東京都下の一山村、「日本で一番小さな部落」の生活や住民の精神構造を、新鮮な驚きをもって活写した本である。きだは、いわば外国人旅行者のような外からの目と、未知の世界に入ってフィールドワークを行う人類学者の目をもって、食うや食わずの時代の日常に生きる人々を観察し、古代ギリシャ・ローマか中世フランスの書物に模して、登場人物をみな英雄や勇士と名づけて紹介した。彼らの立ち振る舞いの中に日本人なら誰もがもつ一般的なものを見たからである。
 私は故郷を出て他所の地を30年余り旅して、無事故郷に帰還した。自分の生まれ育った部落にである。18歳までそこで過ごしたということは、私という人間の大半はきだが描くような部落で形成されたといってよい。しかし、きだのように外からの目をもって、もう一度自分が生まれ育った部落の人々のくらしを見てみようと思ったわけではない。私が再びくらし始めた生活実感の側、部落にくらす人々の精神構造の側からみたら、今の農政の姿はどのように写るのか。自分が昨年まで15年余り働いていた外の世界を、良くいえば新たな視点をもって、要するに一つの偏見をもって、もう一度ふりかえってみようと思ったのである。部落の側から農政をみたらどのように見えるのだろうか。
 といっても、私が長く働いていたのは、行政改革でばっさり切り捨てられた外郭の研究機関であり、農政の末端ではないとしても、傍流に座を占めていたにすぎない。だから私が垣間みた農政の世界はごく限られた狭いものである。狭い世界ではあるが、部落の生活のなかに埋没して思い出せなくなる前に、せめて今ある記憶だけでも残しておこうと思いたった次第である。
 60年前に書かれた『気違い部落周游紀行』が私には現代の日本の姿とダブってみえる。
 「目を押せば二つに見えるお月さま」

片倉和人

内戦の地にも人々の暮らしがある(下)

 研修生たちはその後も研修を続け、全員無事に2ヶ月半にわたる研修を修了した。最終日の11月9日、JICA東京でコース全体の評価会がもたれ、私は研修生とともにその席につく機会をもった。このとき、バリさんは、日本で多くのことを学んだが、自分にとって最も印象深かったのは、岡谷での環境点検のとき、射撃場の跡地で区長さんが語った言葉だった、とふりかえった。鉛の弾が埋まった跡地利用について、土壌の鉛汚染を孫の代に残さない処置を考えている、と区長さんは説明した。自分たちさえ良ければいいのではなく、次の世代のことまで考えていることに、バリさんは衝撃を受けたという。
kibou.gif アフガニスタンが今どんな状況に置かれているのか、私には想像することすら難しい。研修の最後の数日間、研修生は帰国後に実践するという想定の「生活改善活動計画」をそれぞれ立てることが課せられていて、私は何人かを手助けする役目を引きうけた。その中にアフガニスタンからのもう一人の研修生のバレゾさんがいた。活動対象に彼女が選んだのは、FCDC(女性コミュニティ開発委員会)という村の女性リーダーたちの組織である。彼女が描いたプロブレムツリー(問題分析系図)は、女性たちが置かれた困難な状態を反映して、延々とどこまでも続いていた。村のFCDCのメンバーは、定期的な会合を自分たちではもたない → 開発委員会の目的も会合の目的も知らない → 会合で自分の意見を言わない → 社会活動家に依存している → 自発性に欠ける → 問題を見極める機会がない……。
 内戦の地にも人々の生活がある。戦争状態が何年も続き、今をいかに生き延びることだけを考え、将来を思うことすら儘ならない人々がいる。そんな過酷な状態だからこそ、「明るい」将来のビジョンを描くのは容易でないと同時に何よりも必要なことなのだろう。アフガニスタンからの研修生の言葉を、私はそのように聞き取った。

片倉和人

農と人とくらし研究センター

Research Institute for
Rural Community and Life
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