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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

カテゴリー「■ くらし」の記事一覧

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「気違い農政周游紀行⑨」苦労の味

gohan2.jpg 「80になって自分のうちでとれたコメを食べれるとは思わなかった。」母のこの一言で半年の苦労が報われた気がした。母の生家には田があったが、嫁ぎ先にはなく、かわりに養蚕と糀屋の家業に従事し、桑畑の株間に大麦を植えて、ごはんにまぜて食べたという。
 私はこの4月、ろくに知識も経験もないのに、行きがかり上、コメ作りに挑戦することになった。苦労して荒廃農地を開墾したばかりだったので、目の前で新たな耕作放棄地が生まれるのが、いたたまれなかったのである。4枚合わせても1反ほどの面積だが、除ケ入と呼ばれる棚田で、ただ一人田んぼをつくり続けていた玉蔵さんが今年はもうできないと言っていると聞き、あわててお借りして続ける算段をした。50枚を数える棚田のうち、今もかつての姿をとどめているのはこの4枚だけである。播種期の直前で、あわてて農協に苗を注文した。ちょっと標高が高いのが心配だったが「あきたこまち」を植えた。玉蔵さんがつくっていた「ゆめしなの」は種の確保が間に合わなかったからである。
 多くの仲間の手を借りて、区民農園として取り組んだ。だから「うちでとれたコメ」というのは正確ではない。代かきは農業委員の護さん、水の心配は家が近い正純さん、稲作の経験のある人が中心となった。田植えには、地域の子ども育成会の親子も参加して50人近く集まった。除草剤を使いたくないと言った手前、草取りは私の仕事となった。
 夏場、子山羊を連れ出して木陰に繋ぎ、鳥の声を聴きながら、回りに誰一人いない田んぼで過す時間はぜいたくなものだった。しかし、泥の中で足をとられながら前かがみの姿勢での作業は、想像以上に身体こたえた。田の草取りをしながら、戦前の小作制度の理不尽さを想った。こんな苦労をして、収穫の半分も地主に取られたら、たまらないと実感した。
 田んぼを借りに行ったとき、玉蔵さんは、参考にと、貯水池の水位を記録した5枚のコピーを手渡してくれた。5年分の折れ線グラフは、夏場の水の苦労を示していた。しかし、今年は水不足の心配もなく、思いのほか順調に育って収穫の時期をむかえた。
 8月末に、用事でしばらく留守にしていて家に戻ると、田んぼが大変なことになっているとの一報が入った。急いで行ってみると、収穫間際の稲が倒されている。イノシシの仕業だった。今までの苦労はなんだったのかと、やるせなさが募った。田んぼを快く貸してくれた玉蔵さんに申し訳ないと思った。
 あわてて田の水を抜き、人に頼んで獣道にワナも仕掛けた。イノシシの襲来は4日で止まった。ワナにはイノシシではなくカモシカがかかったが、逃がしてやったという。
 稲刈りとハザかけ、それに脱穀は、主だった区民農園のメンバーの男衆だけで済ませた。収量は、期待した半分にも満たなかった。12月を前に、倒れた稲と切り株が残る田んぼを、来年のために、もう一度耕起して、一年目のコメ作りの作業はすべて終了した。
 振り返れば気苦労ばかり多かった。今、そのコメを食べながら、苦労の味を噛みしめている。おいしくないわけがない。
片倉和人

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備忘録 新緑

woods.jpg 新緑の季節になると決まって、教室の窓から新緑をながめていた小学生の頃を思い出す。天竜川の谷あいにあった校舎は古い木造で、教室の窓の外一面に対岸の山が迫っていた。冬の間、山肌は黒い森と枯れ木のツートンカラーでおおわれ、何の変哲もない殺風景な姿をみせているのだが、毎年春が来ると一変し、一斉に芽吹きはじめた樹々は、一本一本微妙にちがう色をまとい、しばしの間その個性をあらわにする。私はその不思議をあかず眺めていた。
 やがて初夏の日差しとともに新緑の繊細さは失せ、夏には力強いが単調な濃い緑一色に変わる。小学生のときは、ひ弱だったり、勉強が全く苦手だった同級生たちも、みなそれなりの大人に変わっていったように、私の子供もいつの間にかそれぞれ緑を深めて森の中にまぎれていった。小さな子供はみな、いたいけな繊細さのなかに個性を輝かせていて、それゆえに愛しかったのだと、今年も新緑の季節をむかえて想う。
 逆に私はといえば、一様に緑の濃さを競っていた季節を通り過ぎ、紅葉の時期を迎えている。もうそろそろお前の自分の色を出してもいいのだよ、と心の声が語りかけてくる。どんな色が出てくるのか、自分でも見当がつかない。ひょっとしたら銀杏や楓のように鮮やかな色合いが、この緑の葉の中に隠されているのかもしれない。しかし、それもひとときで、いずれは枯れて地に落ち、くすんだ茶色に変わり、土と化していくのであろう。

片倉和人

「気違い農政周游紀行⑧」 わしの手からダシがとれる

 できれば苦労はしたくないと思うのが人の常である。しかし、苦労しなければ何も身につかないということもまた真実である。老いた農婦の、日に焼け節くれだった皺だらけの手に、私たちは何を見るのか。
 『変貌する農村と婦人』(監修丸岡秀子、家の光協会、1986年)の序に、ある古老の女性の話が出てくる。
 北海道で、明治期に親に連れられて入植し、現在、酪農の安定した生活を持つようになった九十二歳の老母の話を、このごろ聞く機会があった。熊と鮭と鰊と、そして極寒未開の凍土と、明治初期の北海道は、徒刑と流刑囚の蝦夷が島だった。その中で、生活を築き上げたのが、彼女の歴史だった。
 ところが、彼女は、「苦労なんか、何ひとつなかったよ」と、したたかな面魂で、訪ねてきた女性に答えたという。お話し合いした家の前には、大雪山の雪渓が、冷えびえと連なっていたが、ふと、彼女の手を見たとき、その手は、ズワイガニを思わせる凄さだったともいう。これは、北海道の婦人史に取り組んでいる女性の報告である。
 これを書いた丸岡秀子は、「ズワイガニを思わせる凄さだった」と女性史家の感想を記して、手についてそれ以上の論評は控えている。続けて、「ここにも、わが農村婦人の生活史を築く、活力の象徴がある。」とだけ書き添えている。
 この序を読んで、「苦労なんか、何ひとつなかった」と語る北海道の女性の言葉に偽りはないと思った。ズワイガニのような手が彼女の積み重ねた苦労の跡であるのなら、苦労なんかなかったと語る「したたかな面魂」は、人間として彼女の魂が到達した計り知れない深淵をあらわしている。その暗闇は私たちが容易にうかがい知れぬほど深い。乗り越えてしまった苦労は、もはや苦労ではないのだろう。
yubi.jpg 先だって山口県を訪れたとき、生活改良普及員(今は農業普及指導員という)の西村美和さんにその話をしたら、こんな人を知っていると、ある生活改善実行グループの女性の言葉を教えてくれた。その女性は、年輪を重ねた手を差し出して言ったという。「わしの手からダシがとれる」と。苦労の証だけでなく、何でもできる手、という意味なのだそうだ。その表現には、自分のたどった半生に対する自負が込められている。
 農家の女性の多くは「自分の娘は農家に嫁がせたくない」と言ってはばからない。よく耳にする話だが、私たちは聞き違えてはならない。農家の女性たちが決して自分のことを卑下しているのではないことを。強いて言えば、憤っているのである。家族の暮しを支えるために、自分が重ねてきた苦労に対して、周りの評価があまりに低いことに。
 農家に嫁いだなら身につけて「当たり前」と昔は思われていたことが、決して当たり前でなかったことを肝に銘じたい。苦労を刻んだ手をもつ一介の農婦はみな偉大である。

片倉和人

備忘録 鈍行の楽しみ

yama.jpg 急ぐ旅でなければ、各駅停車の電車に乗って移動する。地方を走る平日の電車の乗客はまばらだ。私の旅の道づれは、ゆっくり移り変わる車窓の風景と、脳裏に去来するとりとめもない断想たちである。
 冬のよく晴れた日には、車窓から遠く雪をいただいた山々が見わたせる。甲府盆地だったら、北に八ヶ岳連峰が横たわり、南に富士山の頂が顔を出している。家々が重なり人間が多く住まうのは平らかな低地なのだが、山脈の存在は圧倒的で、日本列島に君臨しているのは人間ではなく、頭に白い冠をいただいた山々だと想わずにいられない。
 甲府から身延線に入る。終点の富士駅までに38駅ある。信州の険しい山ばかりみて育った私には、高校生のとき初めて乗った身延線沿線の山並みは、そのやさしい姿ゆえに強い印象を残した。一人で静岡に住む姉に会いに行った。あのとき身延線を使ったのは好奇心と旅費の節約からだったが、今度岡谷から静岡に出かけるのに身延線に乗ったのは別の理由からである。
 三人連れのお婆さんたちが乗ってきた。「自分の生れた在所は、電車で通るだけでもなつかしい」と一人が車窓から見える対岸の山里を指さしている。のんびりしたやりとりが耳にここちよい。三駅ほどで降りていった。
 なにげない日常が、地面から少し浮き上がって、日常でなくなる時間が、山里をゆく各駅停車の電車の中に流れている。

片倉和人

「気違い農政周游紀行⑦」 女のくだらない話

body.jpg 「女性は子供を産む機械」と言って批判を浴びた厚生労働大臣がいた。柳沢という名の男の政治家だった。彼はあわてて発言を撤回して、反省していると弁明したが、それを聞いて、私の妻は、女が何に腹を立てたのか本当に分かっているのだろうか、と訝っていた。彼の失言は他人事でない。
 妻の言うところによれば、出産は機械のように簡単にできるものではない、という反発だけでなく、女は他にもたくさん大変なことを背負っているのに、たった一つの機能(役割)だけにスポットが当てられている点が許せないのだという。極言すれば、大臣は「女は子宮だ」と言ったも同然なのだろう。男女の差異をことさら強調しただけにとどまらず、人間という生身の総体を、頭や手足や胃袋というふうに、バラバラな部位に切り離して論じてしまったのである。
 「男は仕事に没頭すると、それ以外のことはすべて女のくだらない話に聞こえる。」
 私が発したこの一言で、調査に同行してくれていた地元の女性の普及員さんの顔色が一変した。生活関係の農業改良普及員だった。彼女の口から「私は今ここからすぐに帰りたい気分」と、きつい非難の言葉が続いた。忘れもしない、「家族経営協定」の調査を始めて一年目、北海道富良野の畑作農家におじゃまして家族を前に聞き取り調査を行っていたときのことである。それまでは、男女共同参画推進に関する仕事は、自分にその資格がないと思って避けてきた。しかし、2004年、職場が変わったこともあり、家族経営協定の効果に関する調査研究を私が担当するはめになった。
 あのときの彼女の態度から、そんな発言をする人は家族経営協定の調査をする資格がない、という強いメッセージを受け取った。彼女に指摘されなければ、自分の口から無意識に出た「女のくだらない話」という言葉の意味をその後何度も問い直すことはなかったと思う。
 今日の時代、没頭しなければならない「仕事」(「稼ぎ」といいかえてもいい)に就いているのは、なにも男に限ったことではない。だから、ことさら「女の」と言わなくてもよかったと思われるかもしれない。しかし、問題なのは、「くだらない」と感じている話の中身の方であり、それには女性が深く関わっている。
 私たちの生活は実に多くのこまごまとした事柄から成り立っている。今夜の夕食のおかずを何にするか、子供が受験する進学先をどこにしたらいいか、町内会から通知のあった一斉清掃にでられるか。妻が語りかけてくるこうした話を、私は、時にぼんやりとした心持ちで聞き、しばしば聞き逃すこともあった。
 自分がどういう意識をもって暮らしていたか。20年間妻が私の何に怒っていたのか。情けない話だが、北海道の普及員さんに指摘されて、ようやく分かった気がした。私は、生活というものを軽視していたのである。
 個々の家事労働に関しては、対等とまではいかなくても、相応の分担を果たしてきたつもりでいた。しかし、会社に経営者と労働者がいるように、家庭を管理と労働の二つの部門から成り立つ組織とみるならば、家庭生活において、私は実際の労働は分担していたかもしれないが、管理責任の方はほとんど放棄していたに等しかったのである。
 全くもって遅い気づきだったけれど、気づかないでいるよりずっとマシであった。だから、家族経営協定と北海道の普及員さんにはとても感謝している。

片倉和人

おだやかな表情のゆくえ(下)「先進」国の責任

thai3-1.jpg  水牛のことを「男の友」と語ったのは、フィリピンのボホール島の農民である。10年前に農村生活実態を調査していたとき聞いた一言である。鶏や豚や牛の世話は女や子どもも担うが、水牛の世話をするのはもっぱら男たちだった。私は3年間そのボホール島で暮らしたが、鋤を付けて田畑を耕し、橇を引いて荷を運ぶ水牛の姿はごく普通の光景だった。水牛は家族にとって貴重な資産であり、病人が出れば治療費のために手放すこともあり、またフィエスタ(祭り)の料理に欠かせない食材にもなる。しかし、共に働く人間にとって、水牛という役畜は、やはり単なる家畜以上の存在であり、重労働を分かち合う仲間という意識も強いのではないか、とそのとき思った。だから、水牛がいなくなって寂しいと語るタイの農村の古老たちの気持ちは、thai3-2.jpg家族の一員か仲間の一人を失った寂しさに通ずる感情だと理解した。農耕馬や役畜牛を家族の一員のように扱ったという、かつての日本の農民たちも同じような思いを抱いていたと思う。
 水牛は耕耘機に取って代わった。村を歩くと、耕耘機のエンジンを使ってポンプで灌漑用水路から田に水をくみ上げている場面に出くわした。なるほど耕耘機には水牛にはないこうした便利な使い方もあるのだ。耕耘機やトラクターは目にしたが、水田は区画整理されているわけではなく、田植え機やコンバインも普及していない。田植えや稲刈りは、人を雇ったり、隣近所の共同作業で行われているという。たまたま共同で苗取りを行っている人々を見かけた。多くの村人と子供が参加した植林の現場に立ち会う機会もあった。村にはまだ多くの人が暮らしていて、暮らしには人手を必要とする作業が残thai3-3.jpgっていた。
 これから農村開発に携わる途上国からの研修生たちには、生活の様々な問題点の改善に取り組むのはもちろんだが、それだけを考えるのではなく、地域社会がもつ旧来の技術や制度や文化の良い点にも目を向けてほしいと思っている。良い点が何かを住民に問いかけて、それを自覚的に残す取り組みも必要で、そうしたことへの支援も考えてほしい。
 日本の戦後の農村がたどった道を今から振り返ると、生活の向上をめざす努力の過程で、期せずして、暮らしの中に息づいていた多くの知恵や技や人々のつながりも一緒に、ブルドーザーのように根こそぎ変えてしまった、という思いがつのる。それは近代化に向けて歩みだした社会がみな辿る必然であり、途上国を支援する先進国の私たちは、とどのつまりは近代化の道を促進する役割を演じているにすぎない、と言ってしまえばそれまでだが、やはり失ったものを惜しむ思いが私には強く、なんとかしたいと思う。
 私のこうした意図が研修生にどれほど届いたかは定かでない。ましてや、都市にあこがれる村の少女たちに、私が彼女たちの村を見て抱いた感情は理解できないだろう。私はといえば、家畜が家族の一員のように扱われている暮らしを懐かしみ、人々が共同で汗を流す姿をうらやみ、手入れの行き届いた田畑が織り成す風景を美しいと眺め、農の営みに沿った暮らしがもつ時間の流れののどかさを感じ取っていたのである。
 近代化によって何を失う可能性があるかを、私たちは経験から予見することができる。失ったものは二度と取り戻すことはできないが、失ったものを惜しみ、そのかけがえのない価値を思い知る特権を有している。それが先進国の「先進」たる所以である。同じ後悔を繰り返えさせないことは、時代を先取りしている者の側の責任である。それは開発を支援することと同じくらい重い。
 都市への強いあこがれを絵にした村の若者たちが、失われた水牛や遊びを描いた年寄りグループの絵を、どのような思いで見つめたのか。いかにも賢そうな少女たちは、この先どんな一生を送り、どんな表情をして、あの老女たちと同じ歳をむかえるのだろうか。タイの山村で出会った年老いた女性たちのおだやかな笑顔は、その一生が彼女たちにとって幸せなものであったことを私たちに語りかけているように思えた。

片倉和人

おだやかな表情のゆくえ(中)若者のビジョンが示すもの

thai2-1.jpg 3日間にわたるワークショップは地区の寺院で行われた。会場となった本堂の脇には煌びやかな仏像が数体安置されていた。境内の別の場所にある僧坊には、共同で暮らす黄色い袈裟をまとった僧侶たちの姿が垣間見えた。
 1日目は、初めて顔を合わせた研修生と村人が互いに打ち解けあえるように、ウォームアップの楽しい活動(アクティビティー)に多くの時間を割いた。村人だけでなく、外国人である研修生たちも、初対面の不安を抱いていたからである。すぐに会場は笑い声と笑顔に包まれた。この雰囲気を作り出した時点で私の任務は半分以上終わったようなものだった。
 2日目は一日費やして環境点検マップをつくる活動にあてた。午前中は参加者が4つのグループに分かれて、別々のルートに沿って村内を歩いて環境点検を行い、将来に残したい良い点と改善したい問題点を見つけてもらった。用意された昼食をとった後、午後はその結果を地図に落とし込む作業を行った。日中はじっとしていても汗が吹き出る蒸し暑さで、参加者は床にへたりこんで思い思いの格好で作業にあたった。
 3日目の午前中は、地区の共有地で植林を行う環境イベントに参加を要請されていた。私たちは、村の有力者が土地を寄贈したという山麓まで車で運ばれて、総勢300人を数える村人や学校の生徒たちに混じって、この地に自生する何種類もの樹木を、草地と化した山肌に植える作業に汗を流した。村人との共同作業は楽しかったが、そのために多くの時間と体力を使った。この日が最終日なので、残り半日でワークショップを締めくくらなければならなかった。
thai2-2.jpgthai2-3.jpg
 午後の参加者は、仕事のないお年寄りと、月曜日にもかかわらず学校側の配慮で参加が許された女生徒だけで、前の日まで参加していた壮年の男女の顔がいくつか欠けていた。お年寄りのグループと学校の生徒たちのグループに分けることにした。2グループずつ4つのグループを作り、それぞれ共同で一枚の絵を描いてもらうことにした。当初予定していた身体を動かす演劇や、頭を使って行う知的な作業は、暑すぎて酷に思えた。
 お年寄りたちのグループには、過去の暮らしの中にはあったが、今はなくなって残念に思っていることを絵にしてもらった。彼らが描いた絵には、水牛とともに田を耕作する姿や寺の境内で鬼ごっこをして遊ぶ子どもたちの様子があった。水牛は耕耘機にとってかわって姿を消し、子どもたちが昔のように寺の境内でいっしょに遊ぶことも少なくなったという。タイの山里の村にも確実に近代化の波は訪れているようだった。ちなみに、鬼ごっこと勝手に訳したが、タイでは日本の鬼にあたるのは虎だという。
 他方、若者たちのグループには、構想図(コンセプション・マップ)と称して、村の地図の上に将来の姿(ビジョン)を描いてもらった。利発そうな女生徒たちが描いた村のビジョンには、高層ビルや飛行機、新幹線も登場していた。それは現代の都市の姿そのもので、もし彼女たちの憧れをそのまま表現しているのなら、彼女たちは早晩この草深い村をあとにするだろうと思った。若者たちが描いたビジョンが暗示するのは、このタイの山村もまた日本の過疎の村と同じような道をたどるということなのか。「経済成長」の結果、日本のように山村から人々の姿が消えてしまうことのないことを祈った。

片倉和人

おだやかな表情のゆくえ(上)タイ国の農村を一日歩く

 タイ国北部ピサノローク県の山麓にあるバンドン地区の村に、昨年(2007年)8月、私はほとんど何の予備知識もないまま立っていた。二日後にここでJICA(国際協力機構)研修生たちが村人とともに「環境・地域資源点検マップ調査」を実施することになっており、準備のために私は一足先に現地入りした。タイの農村を訪れるのは初めてで、数年前に隣国ラオスの村で生活改善のワークショップを行った経験が唯一の頼りだった。
 11名の研修生は、アフリカやアジアの国からJICA集団研修「持続的農村開発」コースに参加している行政官やNGO職員たちである。修士号の取得を目指して、筑波大学大学院で11ヶ月にわたって学び、その間、カセサート大学の協力でタイ国において3週間のインターンシッププログラムが組まれている。研修生たちはチェンマイを訪問した後に、ピサノロークに到着することになっていた。私の役目は、現地演習の指導に当たることであった。研修生たちが日本で学んだ住民参加型むらづくりの方法をタイの農村の現場で実際に使ってみるという試みだった。
 歩いて二時間くらいの点検ルートを定めるために、炎天下の村を一日かけて歩き回った。案内役をつめてくれたのは、ピサノロークの農地改革事務所(ALRO)の職員とバンドン地区の村のリーダーたち。タイ語の通訳をつとめてくれた英語のわかる地元大学生メイさんを含め、みなとても協力的だった。この地を実習現場に選び、地元の協力者を手配しておいてくれたカセサート大学農学部のタワンサックさんに感謝した。
 立派な家の庭先には決まって、雨水を貯めるコンクリート製の水瓶と衛星放送を受信する黒いパラボラアンテナが、大きさを競うように並んで置かれていた。水瓶は、ユニセフの国際援助で普及したものだそうで、水瓶を使って「なまず」を養殖している家もあった。養殖はJICAのプロジェクトで紹介したとのことだった。山から引かれた水道設備がある区域もあり、料金も高くないそうだが、飲料水はもっぱら水瓶の雨水を使っているという説明だった。
 糸取りや製茶を共同で行っている場面に出くわした。一軒の家の庭先で女性たちが数人集まって黄金色の繭を釜で煮て生糸をつむぐ作業を行っていた。この村では養蚕は行っていなくて、繭は他所から購入しているとのことだった。糸を取った後のさなぎの入った洗面器から、二、三個つまみ食いさせてもらった。口に入れて噛むと薄い外皮がぷちっと破れた。中はねっとりと液体状で、昆虫特有のたんぱく質の味がした。製茶の作業場では、携帯用のガスコンロを使って何かの葉を炒っていた。お茶を入れてもらって試飲してみたが、味は日本のお茶とはどこか違うようだった。
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thai1-3.jpg たった一日見て回っただけだが、この山麓の村の暮らしぶりは、私が知っているフィリピンやラオスの村と比べて、総じて豊かな印象を受けた。この地の人びとがどんな歴史を辿ってきたのか、私は全く無知である。長生きしても険しい表情の人が少なくない日本と比べて、歳をとった女性たちの表情や物腰がとても穏やかに見えた。ういういしい少女の面影をそのまま残しているように思えた。

片倉和人

農と人とくらし研究センター

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