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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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農業で懐かしさを取りもどす試み 6.桑をめぐる難問は解けるのか

kaiko.jpg 区長の思いつきで、桑苗も植えた。果実を収穫するララベリーという品種である。葉も厚く大きくて、桑茶にも適している。今年から収穫ができ、懐かしいと年寄りに人気だった。
 かつて蚕糸業が盛んだった土地柄を考えて、試しに蚕を飼ってみた。養蚕を復活できれば、岡谷で天然繊維の自給ができる。岡谷蚕糸博物館から春蚕10匹をもらって菓子折りのなかで育てた。その折のなかで、繭から成虫が羽化し、交尾して卵を産み、その卵が孵化した。
 わが家の養蚕の用具一式は転居の際に燃やしたが、母が育った旧家に保存されていたものを家主が届けてくれた。蚕はF1だから2代目の繭は不ぞろいだったが、400匹で700グラムとれた。その繭を岡谷に1軒の残る製糸所に届けた。繭値は1キロ2000円くらい、うち9割は補助金で賄われているというから、養蚕農家が経済的に成り立つ余地は今の日本にほとんどないという。
 私が求める懐かしさを誘う自給的な農業は市場経済やビジネスとかなり相性が悪い。それを今の時代にどうしたら取り戻すことができるのか。これは、岡谷で養蚕の復活は可能か、という問いに通じる。養蚕が復活できれば、たいがいの作物は復活できる。とりあえず桑をもっと植えておこうと思うが、今年はアメシロが大発生して野にある桑の木は悉く枝を切られている。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
『長野県農業普及学会報』第16号 2011年9月より転載
 
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農業で懐かしさを取りもどす試み 5.山羊を飼ってはみたけれど

koyagi.jpg 山羊を飼うのは田舎暮らしを始めたときからの夢だった。実現までに2年かかった。助成金を使って、山羊小屋を建て、ザーネン種を2頭、仲間が下伊那の子山羊市で競り落としてきた。区民に名前を募ってミサとサワと名づけた。仲間と手分けして、毎日の餌やりや冬場の餌の確保など、山羊の世話をしている。
 悩みを抱えているときなど、山羊が無心に餌を食む姿に、なにもかも忘れてつい見入ってしまう。悩みなど一切ないという食いっぷりの良さである。邪心がないというか、犬や猫とちがい人にこびる気配を感じない。山羊を見ているだけで、なぜか心が癒される。
 正月元旦に盛りがきたミサを連れて原村で雄山羊を飼う知人を訪れた。24時間いつでもスタンバイOKといきりたつ雄山羊の姿はあからさまで、交尾は一瞬で終わった。私は、人という動物のわが身と重ねてその異同を想った。6月に2頭の雌から、雄2匹、雌1匹の子山羊が生まれた。2ヶ月育てて雄2匹を手離してから、本格的な乳搾りの作業が始まった。
 子どものときは山羊乳が嫌いだったが、今飲むと結構おいしいと思う。市販の牛乳と比べ、甘みに欠けるが、濃厚な味がする。餌をしっかり与えれば、2頭で1日6リットル近く搾れる。かつて山羊乳を飲んだ思い出をもつ人は、懐かしさから一度は飲んでみたいという。実際に飲んでみると、思ったほどではないらしい。飽食の現代では、どんな山羊乳でも、食糧難の時代の記憶の味にはかなわないのか。
 初めのうちは近所の子たちが興味をもち、上手に搾って持ち帰ってくれた。が、すぐ飽きて来なくなった。今は私の娘と二人で搾ることが多い。引き取り手のない乳を使って、フレッシュチーズやプリンを作るなど、使い道を模索している。
 とはいえ、山羊が生み出すのは乳だけでない。山羊がいるから、土手や荒地の草刈り労働も餌づくりの作業に変わり、収穫物の残滓も山羊の胃袋を通って肥料に変わる。分断された関係をつなぎなおす特異な役割を果たしている。
 
片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
『長野県農業普及学会報』第16号 2011年9月より転載

農業で懐かしさを取りもどす試み 4.稲が泣いている

MC900445576.jpg 区民農園が発足して間もなく、稲作にも手をだした。4月初め、小さな田4枚だけだが、かつて50枚あった棚田でただ一人作り続けていた年寄りが体調を崩し、もうできないと言う。新たな耕作放棄地を増やすわけにはいかず、行きがかり上、引き継いだ。機械の当ても稲作のノウハウもないまま、とにかく苗を農協に注文した。
 生家には田はなかったから、一から学びながらの稲作だった。最近まで母親を手伝って1枚だけ田を作っていた農業委員の技術と知識だけが頼りだった。田植えは地域の子どもたちとその親たちに参加を募った。除草剤は使わず作りたいと言った手前、除草は私が責任をもった。
 田の草取りも、ゆっくりと自分のペースでできるのなら決して不快な作業ではない。良く晴れた日に田んぼに入るのはむしろ気持ちがいいものだ。しかし、水草の成長との競争となると話は別であり、適期の除草が間に合わずに、稲の悲鳴が聞こえてくる。
 8月下旬、収穫間近の田の無残な姿を目にしたときの衝撃は、全く予想していなかっただけに鮮烈を極めた。猪に踏み荒らされたのだ。食い物の恨みは深いというか、心に殺意すら抱いた。1年目の稲刈りは子どもたちなしで行った。
 翌年、懲りずに、JTのNPO法人を対象とした青少年育成の助成金を得て、20数年間耕作されていなかった棚田を2枚開墾した。そこを体験の場として、児童養護施設の子どもたちと一緒に、代かき、田植、草取り、かかし作り、稲刈り、収穫祭などを行い、稲を育てた。
 稲作の専門家から見れば、稲作に関する技術体系は確立していて、乗用機械に乗って、もはや泥の中に足を踏み入れなくともコメ作りはできるのかもしれない。でも、条件の悪い棚田で、子どもたちを巻き込んでやる区民農園のコメ作りは全く趣を異にする。田植え、除草、稲刈り、ハザかけは手作業で、だいぶ昔の作り方に近く、苦労ばかり多くて、収穫は少ない。 収穫が少なくても田んぼを作る意味はあるのだろうか。稲作を体験して気づいたのは、もし主食であるコメづくりの技を身につけることができたなら、不思議な力が備わるということである。それは、自分の立っている位置を足の裏で確認するような感覚をもたらし、生きていく上で心の支えになる。
 3年目の今年も年寄りが1人作るのをやめ、それを引き継いで区民農園の田はまた1ヶ所増えた。昨年と同じ場所の2枚を子どもたちと植えた。その田んぼは、雑草に負け、猪に入られ、1枚は無残な姿をさらしている。コナギとの競争には3連敗中で、今年も稲が泣いている。来年は除草剤の助けを借りざるをえないと観念した。対策が遅れたが、子どもたちと稲刈りをするために、残りの1枚に遅まきながら防獣ネットを張りめぐらせた。
 多くの区民に味わってもらおうと、わずかに実った区民農園のコメを、市価よりも安い値段をつけて販売した。そのとき思った。これまでの苦労を全く知らない人に食べさせるくらいなら、採れたコメを全部、自分が買いとって食べたいと。このコメができるまでの過程を一番良く知る私には、値段が市価の10倍でも安いくらいだ。今年から直売を始めたが、区民農園のコメは販売にはむいていない。来年は、コメを作りたい人たちを別に募って、収穫したコメを、作った人たちだけで分け合う方式にしようかと考えている。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
『長野県農業普及学会報』第16号 2011年9月より転載

農業で懐かしさを取りもどす試み 3.仲間とはじめた区民農園

 ペーパー百姓では、稼ぎになる農業にはほど遠かった。ならば、というわけではないが、ペーパー(書類)を書いて、いくつかの助成金を得ながら、やってみたい農業を試してきた。「帰農で明日のむらづくり事業」という名で、三沢区は、長野県の地域発元気づくり支援金を今年度も含めて3年連続で受けた。帰農という言葉に、昨日(きのう)の意味も含ませ、耕作放棄地を開墾して、昔ながらの作物を植えてみるという試みである。
 三沢区は市街地に隣接する集落で、新たに加わる住民も多く、人が少ないわけではない。しかし、耕作放棄地は住宅の近くにも点在する。沢伝いに山深くまで連なっていた棚田は、今はほとんど草を刈るだけで耕作放棄され、3つある溜池の水もほとんど利用されていない。区民農園は3年前、区に土地を寄付してもいい、という地主の荒廃農地の開墾から始まった。重機やトラクターで耕せる状態にまで戻し、小区画に分けて家庭菜園として、希望する区民に無償で貸し出した。何年も耕作されていない農地は至るところにある。区民農園は年々増え、集団でも耕作することにした。子どもの頃の記憶をたどり、思いつくまま、蕎麦、大豆、麦などの種をまき、桑の苗を植え、山羊も飼い始めた。
 区民農園は当時の区長の発案で、地元農業委員とともに取りくんだ。活動は地元のマスコミにしばしば取り上げられたが、私はもとよりペーパー百姓で、他の二人も農業に精通していたわけではないから、区民農園といっても、むらの衆からは素人の遊びくらいに思われていたと思う。
 3年目の今年になってようやく彼らからも一目置かれる存在になった気がする。区内に住む元農業改良普及員が昨年から加わり、今年は野菜を育てて、多くの区民の口に届けられるようになったからである。新区長も活動を積極的に後押ししてくれ、7月に区民農園特別委員会を発足、月ごとに定例会を開催。さらに日曜の午前中を共同作業日に当て、秋野菜の作付けには、新たな区民も何人か顔を出してくれるようになった。
 助成金なしでも活動を続けられるように直売を始めた。夏野菜が実る7月末から区の公民館の玄関先に野菜を並べて、1袋100円で売っている。デーサービスに来る年寄りなど、公民館に立ちよる区民が買っていく。トウモロコシ、インゲン、トマト、茄子、南瓜など、なかなか好評で、来年の種代や資材・燃料費くらいは確保できそう。売れ残った野菜は、区内にある児童養護施設に届けて喜ばれている。ただ廃棄するしかなければ、作り手には心の痛みが残る。誰かが食べて喜んでくれるのなら、作った方もうれしい。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
『長野県農業普及学会報』第16号 2011年9月より転載

農業で懐かしさを取りもどす試み 2.ペーパー百姓の野良仕事

 私はどこを向いて歩いてきたのか。少しややこしい言い方になるが、未来に新たな目標を打ち立て前を向いて進むのではなく、過去に顔を向けて、後ずさりするように、のろのろと未来に向かって、歩を進めてきた。自分の残りの人生を賭けて、「懐かしい」過去を取り戻そうとする、目算のない一つの実験を始めた。
 51歳で33年ぶりに郷里に戻ってまず思った。もし人に見せることができるのなら、今あるこの姿ではなく、私が子どもだった頃の野山や田畑の光景を見せてあげたいと。記憶にあるのは、手入れの行き届いた田畑の風景であり、自然の恵みを大切に活かす倹しい暮らしであり、額に汗して真摯に生きる人たちの表情である。
 それまで農林水産省関連の研究所に勤めて調査の仕事で全国各地をまわった。農水省が関心をもつのは、経済活動としての農業である。わが郷里は、そんな農政の対象にはまずなりえない。どうみてもビジネスとしての農業が成り立ちえない地域だから。天竜川は諏訪湖に端を発する。その源流の谷あいのむら、岡谷市三沢区で、私は生まれ育った。物心ついたときにはまだ、かつて川沿いに製糸工場が軒を連ねていた往年の面影が色濃く残っていた。生家は養蚕を行い、山羊を飼った。蚕と山羊は、子どものときの記憶と結びついて特別な存在である。しかし、今は近隣に山羊1頭なく、岡谷から養蚕農家が消えて四半世紀が経つ。
 私は車の運転を必要としない都会暮らしが長く、文字通りペーパードライバー。野良仕事に関しても、いわば「ペーパー百姓」だった。家業の糀屋を手伝いながら、居候生活を始めた。年老いた父母から、初歩の農具の使い方の手ほどきを受けた。家の荒れた畑に鍬を入れ、土手草を鎌で刈ることから始めた。技術もだが、身体が付いていかない。手の指がしびれて、病気になったかと心配して病院にいった。農作業の動きに耐える身体ができていなかっただけのようだ。軽トラを購入して乗りこなし、鍬と鎌に代えて、耕耘機と刈払い機を使うようになるのに、まる2年を要した。
 野良仕事は、地味で華がない。衣服が汚れ、辛そうに見える。やってみてわかったが、人目を気にせずにできる野良仕事は、無理のないペースでやれれば、気持ちの良い作業が多い。とりかかりは意識してゆっくり始め、徐々にペースをあげ、長時間つづけられる自分のペースをつかむのがコツ。農作業のベテランの仕事ぶりを見ていて最近わかった。人目を気にしすぎて具合が悪くなっている都会人には、健康を取り戻すのにちょうど良い運動になるのではないか。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
『長野県農業普及学会報』第16号 2011年9月より転載

農業で懐かしさを取りもどす試み 1.風土にいのちを托す

 

 東京電力福島第一原発事故が風土に根ざして暮らしをたててきた人々に与えたダメージを想うと心が晴れることがない。自ら命を絶った有機農業者や酪農家がいたことを新聞で知った。私が暮らす地域は今回の地震と原発事故の影響を直接被っていない。しかし、放射能汚染により、住み慣れた地を追われ、暮らしを奪われた人々を想うと、なんともいたたまれない気持ちになる。私自身も風土を強く感じながら生きていこうとしていたから。そうした自分の生き方に、なにかが無言で再考を迫ってくる。おまえはこうした事態を少しでも予期していたのかと。
 6月末、岡谷市の有機栽培食品販売店カンビオで行われた上映会で、映画「祝の島(ほうりのしま)」を観た。山口県の中国電力上関原発建設に反対する祝島の人々の暮らしを追った纐纈あや監督、2010年のドキュメンタリー映画だった。
 日々の暮らしの場を守るために28年の歳月にわたって反原発を唱えて闘ってきた人たちがいたことをこの映画で知った。映像は、何気ない暮らしのひとこまを写し撮っていく。祖父が30年の歳月をかけて築きあげた、城砦のような石積みの棚田でひとり田を作り続ける77歳の男性にカメラが向けられる。ウニを採りに海にもぐり磯でヒジキを刈る67歳の女性漁師。一人暮らしの年寄りが一室に集まりコタツを囲んで何をするでもなく過ごす夕べ。彼らの生きる姿と彼らに生きる糧を与えているものが映像となって、言葉もなく私たちに語りかけてくる。それは、原発の対極にあるものが何であるのかをはっきりと告げていた。
 映像でみる祝島の人々の姿は、私にとって一つの救いだった。3月11日以来、私は呆然と立ち尽くしたままのような日々を送っていたが、この映画を観て、また以前のように未来に向けて一歩を踏み出す気持ちを取り戻した。郷里の岡谷に帰って、この4年間余り歩いてきた道を、再びゆっくりと歩んでいけばいいのだと思えた。

(『長野県農業普及学会報』第16号 2011年9月より転載)
片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)

(2011.5.31)

 みなさん、お寒うございます。6月に言う挨拶でもないと思いつつ、でもやっぱり、寒いですよねぇ。
 台風2号、沖縄の映像はすごかったですねぇ。人が道路をびゅーっと滑って、ガンとモノにぶち当たったり。台風慣れしている沖縄の人も驚く強風だったようです。アメリカの竜巻もすごいし、何だか最近、自然の猛威の前に人間の存在の小ささを思い知らされる事象が続いています。「人間よ、もう少し謙虚になれーっ」と天が吠えている気がします。
 ところで、福島の原発事故、ひどいですねぇ。あとからあとから隠されていたものが小出しに出てきて、事態が事故発生当初から相当深刻なものだったこと、東電も政府もそれを認識しながら隠蔽し、出来れば隠したままコトを終息させたいとあがいていたことなどが明白になりつつあります。その間に多くの作業員や住民が大量の放射能を被爆させられていたのですよねぇ、これってもう犯罪ですよ。事故直後に東京の亀戸で福島原発の建屋と同じレベルの放射能を計測した、なんてことが2ヶ月も経って公表されるって、どういう国なの?
 農産物などに関して「風評被害」という言い方がされます。あたかも「実害はないのに、消費者が過剰反応して売れない」かのような言い方ですが、現実問題としてどこの野菜にどれほどの放射性物質が付着しているか分からない今の状況を「絶対安全」なんて言えないでしょう。
 5月30日の朝日新聞の俳壇に福島市の人の句で「春の牛 空気を食べて 被爆した」というのが載っていました。
 すべて、東電と政府が身を切って賠償すべきです。会社の資産も役員の資産や給与もみんな吐き出させるべきだし、国も政党助成金や防衛費やらもゼロにして原発事故被災者救済に当てるのが当然だろ? 東電リストラで役員報酬を半分にカットした結果、それでも社長は日当換算で20万円とかいうウワサ。マジ? 日当1万円に釣られて日雇いのおいちゃんたちが福島原発に連れて行かれているというのに…。東電役員たち、お前らが現場に行け! 建屋に入って作業しろ! 原発推進してきた政治家たちも、原発安全のお墨付きを与え続けた学者も裁判官もみんな現場に行って、作業しろ! 責任とれ!
 というような威勢のいい言葉も、しかし、危険な原発を止める力を持ち得なかった私たち自身へと撥ね返ってくるのです。原発が危険なものだということを「知らなかった」という人たちの罪も小さくはないと思います。知らないことの罪をいいかげんに自覚すべきでしょう。

 左掲の新聞記事(※)、象徴的だなあ、とため息とともに読みました。多くの人達ががんばってがんばって築き上げ、一歩一歩前に進めてきた「もの」や「こと」が原発事故によって砕かれてしまいました。がんばってきた「生意気な嫁」たちは今、避難した先で身を小さく暮らしているのでしょうね。みんなで村に帰れる日が来るといいのですが…。
 チェルノブイリのあの荒涼とした「村の跡」が飯舘村の25年後の姿でないことを祈る思いでいます。


※2011.5.19 朝日新聞記事より

「生意気な嫁」を育てた村 浜田陽太郎

 原発事故による計画避難が始まった福島県飯舘村で22年前、「若妻の翼」という村の単独事業が始まった。
 40歳代までの女性に、10日間、欧州旅行をしてもらう。
 日程は、わざと農繁期の秋に組まれた。その方が、家族にとって、ふだんは黙々と働く「お嫁さん」のありがたさが身にしみる。
 行く方も、家族の了解を得るハードルが高い。自己負担の10万円も安くはない。それでも行くには、「家族円満が保てないのでは」という、引っ込み思案のカラを何枚も破らねばならない。
 旅から戻ると、今度は「嫁が生意気になった」という評判が立つ。「少し指導して下さい」という投書が役場に届いたこともある。
 しかし、村長や担当者は動じない。なぜなら、「せっかくカラを破りだした女性を自粛させては、税金をドブに捨てるに等しい」からだ。
 5年で91人が訪欧した事業を、酪農家兼公民館長として支えたのが、現村長の菅野典雄さん(64)だ。そのエッセーに経緯が詳しい。
 「男女平等を嫌う」「頭たたき、足ひっぱりが常識」。こんな田舎の現状を直視した菅野さんは、危機感を持つ。
 「言いたいことを言い、したいことができる女性を増やすのが特効薬」と見定めて、事業に取り組んだ。
 飯舘村はいま1人の女性が生涯に産む子どもの平均が1.85人で県内一だ。「女を不幸にして、男だけが幸せになれない」という時代認識がカギだったと思う。
 2005年に日本が人口減少に転じたことを取材しながら、「少子化が始まった30年前から、こうなるのは予想されていたのに、なぜ有効な手が打てないのか」という疑問を抱いていた。
 これに対する納得のいく答えを、飯舘村の「若妻の翼」に見る思いだ。要するに、現実から目を背けず、対策を立てるかどうかなのだ。
 原発でも同じような構図が見える。「危険だし、事故は起きうる」という事実に目をつむり、必要な対策を怠ってきた。現実を見ようとせず、「安全神話」に慣らされてきた。私も、その一人である。
 いま、放射能禍が「生意気な嫁」を大切にしてきた飯舘村を襲っている。美しい田園風景は何も変わらないだけに、罪深さはかえって際立つ。でも、丁寧に紡がれた共同体は、きっとまとまりを保ってくれるに違いない。

 (社会保障社説担当)


渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.35(2011.5.31発行)より転載

山のむらでの稲つくり14年 (3)

 レンゲ稲作は、レンゲの鋤き込み(空鋤)期間と田植後のガス抜きがポイントである。レンゲを導入して3回の稲作を経過した時点で、レンゲ稲作を総括のうえレンゲ稲作技術設定を行なった。

1. 田植 5月15日

2. 栽植密度 30×15㎝ 22株/㎡(72株/3.3㎡)
3. ガス抜き 5月22日
4. 除草 5月25日 除草剤施用 水を掛け流しして田面が出ない。
5. 有効分げつ 第4号~第7号分げつ 出葉期:第7葉~第10葉出葉
 6月2日から6月20日

6. 中干し期 主稈出葉9.1葉~11.5葉 11.5葉期=葉齢指数92まで
 6月20日から7月10日まで

7. 幼穂形成期 第1次枝梗分化期=第11葉出葉期 6月27日
8.出穂 8月1日
9. 収穫 9月20日

 レンゲの播種量、生産量に不確実な要素はあったが、レンゲ稲作の収穫量は基本的に安定したものと見られた。稲の収穫量を不安定にする要素は、天候と病害虫被害と猪被害であった。
 病虫害はイネミズゾー虫、モンガレ病、葉イモチ病、穂首イモチ病、穂イモチ病で毎年何らかの被害はあったが、不良天候の年は20%~40%程度の収量減になっている。
 何よりも被害が大きいのは猪被害である。稲への被害は1991年、「今年は、山が猪にとって住みづらかったのか、早くからタンボで暴れてくれました。おかげで、我が家も万里の長城ならぬトタンの長城と鳴子ならぬネコカンナルコを築く羽目になりました。」とやや牧歌的に書いていますが、年々、田んぼでの猪の運動会は激しくなり、奥田の山側(カヤンドウ側)だけでなく全面にトタン、魚網を張り巡らし、やがてはトタンを2層に張るまでになった。
 奥田上、奥田下は、猪の被害が大きく、2003年稲作から全面休耕田にした。
 出穂期は8月1日前後である。稲が穂を出してから刈り取りをするまでは、一日千秋の思いである。
 出穂後25日という思いはあるが、意外と天候不順の年が多い。例えば、1993年の出穂の7月30日から8月25日までの間に、雨天日16日、曇天日7日、晴天日4日という記録がある。9月には台風がある、なるべく刈り取り時期を遅らせて登熟を高めたいと思うが、台風を心配して若干の早刈りになる。我が家の稲刈り予定日の9月中旬は、例年台風に遭遇する度合の多い時期であった。
 そうした、稲つくり14年の成果を収量で見てみると、10a当り収量が、
 200~300㎏の年が、4年 (1994、98、99、2002)
 300~400㎏の年が、6年 (1990、91、92、93、2000、03)
 400~500㎏の年が、4年 (1995、96、97、2001) であった。
 この収量を見ると、年を経るごとに収量が増えているわけではなく、天候、病虫害そして後半は猪被害が減収要因となっている。
 立地が比較的安定している前田だけでみると、
 300~400㎏の年が、6年 (1990、91、93、98、99、2003)
 400~500㎏の年が、7年 (1992、94、95、96、2000、01、02)
 500~550㎏の年が、1年 (1997) であった。
 前田は、全体の収量に比べて1ランク多い。これは明らかに立地(日照時数、病害、猪)による差である。それでも、年次間の最高、最低の収量差は、220㎏、225㎏もあり差の大きいのは意外である。
 両者の下位ランクに共通する年は、1998年、1999年の2ヵ年だけで、山村での水田立地の影響が大きいことを窺わせる。
 こうして、「知識としての稲作技術」は持ったとはいえ、手探りではじめた稲作も1年1作のなかで試行錯誤を繰り返して、「経験としての稲作技術」に変えることができた。そして、農薬を使わない、化学肥料を施用しないレンゲ稲作に到達して1段階を超えたという思いがあった。

小松展之
『あわくら通信』第35号(2009.10.10発行)より転載

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