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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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「農村生活」時評29 "増沢発言に教えられる"

 「(長野県の)農業は高齢者がやっているだけで、(日本農業の)自給率を上げていくと言っていますが、そんなに簡単な事ではない、と思っています。根本的に農業に対する考え方を変えなければだめだと思っています。農と人との関係ですが、このことについて、(農と人とくらし研究センターが)着目されたということは大変立派なことだと思います。少し私は生意気なことを申し上げて大変恐縮でございますが、日本には古来から、神道があり、儒教があり、仏教が入りました。そうしたものが人の道を教えられてきたわけでございますが、私は、そのことも大変立派で大切なことだと思いますが、私は農をやるということ、農の営み、自然や土の営みの中から生まれてくる思想が形成されてくる、農と土やそういう自然の中から形成されてくる思想が最も大切である、とこのように考えるわけであります」。
 これは本センター「設立一周年記念イベント」(2009.6.20)における、岡谷市・増沢俊文さんのお話の末尾、まとめの部分での発言である(座談会「岡谷で農!を語ろう」の記録、13~14頁、本センター刊)。増沢さんは大著、「農民の生活」の著者ではあるが、農業者として昭和時代を一筋に生きてこられた方で、御自分の発言にはなにものにも制約されないし、世間に遠慮される事柄もないという、率直な方である。若いころからこういう性格だったのかもしれないが、80歳を越えられての発言には重みがある。最近こそ農業者自身の発言がマスメディアにも一般的になったが、かつては農協組合長とか生産組織代表などの立場のある人の発言ぐらいしか目にしなかった。一昔前までは普通の農家の、いわば社会的発言は少なかったといえる。ましてや私より年配の方々の個人的発言は貴重である。
 しかしそのことよりもここでの課題は発言の中味である。増沢さんは「農の思想」という表現で止められているから、必ずしも中味は明示的ではないが、その位置付けは明確である。つまり神道、儒教、仏教よりも「農の思想」の方が基底的である、日本人にとっては「大切」である、という主張である。つまり近代において「農本主義」として研究されてきた独自思想よりも、もっと一般人に共有的な、常識的な深層の思考部分である。
 こういう潜在的な考え方は農村地域にはいまなお広範に存在するが、日本の思想史研究のなかでは軽視されてきた。なによりも知識人に軽蔑されてきたから、歴史のどの時代でも表面化しなかったし、それは現代でも例外ではない。そもそも日本人に外来思想を受け売りするのが「知識人」の営業だから、商売敵はたたかねばやっていけないのだろう。日本思想史においてこの課題を正面から取り上げ、現代にいたる外来思想との関連で評価したのは、私の知るかぎり加藤周一である。加藤は「土着的世界観」という概念で、今日に至るまで日本人を支配している考え方の仕組みを解明した。増沢さんの主張はこの概念の提起と大いに関連するから、私としては気になった次第である。
 増沢さんはこの発言のあと近代思想にも触れられているが、ここでは外したい。この中世以来の外来西洋思想の受け売り営業は、日本社会では現代でも大いに繁盛しているから論評の対象としての話題に事欠かないが、話をはっきりさせるために引用部分に即して、少々局面を限定したい。
 増沢さんの「儒教」には「道教」も含むのではないかと思われるが、ともかく「仏教」と共に大陸からの外来思想である。ここにいう「神道」がいかなるものか、ご本人に伺ってみないと分からないが、明治政府の「国家神道」とは別の古来からの伝統的なものだとすると、それは加藤によればアニミズム、祖先崇拝、シャマニズムから成り立っている。これらの源流的な思想は変形しながらいまなお日本人の心情に生きているから、必ずしも「農」の思想とは無関係ではないだろう。
 しかし、伝統的に日本人の思想を支配してきたとだれもが思っている神道、儒教、仏教という三大思想よりも、増沢さんは農業者として、農村に生活してきた人間としての実感から思想の源泉としての「農」を重視する。この増沢提起を私なりに極端に単純化していえば、日本列島においては自然環境に対応してその土地の耕土に対して適切な技術を駆使して働けば、どうにか安定した収穫物が得られるという経験則から生まれた、自然尊重、土地尊重を伴う労働観ではないか。そしてそれらを包括したものが営農観だと主張されていると感じた。これは観念的な抽象的な存在である神仏に依存しなくとも現世に豊かなくらしがあるという「現世主義(加藤)」であり、生産物の成果が自分の働きに対応しているという点で「現在主義(加藤)」に対応することになる。
 世界中のどの民族もそれぞれの伝統的な世界観を持ち、そこに言語を含めてなんらかの外来思想が到来してさらに独自の思想風土を形成し、歴史的にその繰り返しを経て地球規模のやや普遍的ないくつかの思想に収斂してきているのが現代であろう。日本は大陸の隅というか、端にあって、海を越えてきた多様な外来思想を受容してきた。しかし表面的には抵抗なく受け入れたようで、仏教式葬儀はどこにもありクリスマスは日本中の子供に不可欠である。だが思想の底の部分では土着的世界観が強力で、儀礼的な部分は別として、外来思想の骨格部分を本当には受容してこなかったことを再考すべきである。
 さらに私は日本ではどうして古代以来の独自の世界観の再生力が強いかという課題に当たる。それはまさに増沢発言にあるように列島全域において千年以上もかの「自然依存の営農方式」が農家によって維持され、再生産されてきたことにあるのではないか、と想定した。だが今は肝心のその底が抜けているというのが、増沢さんの憂農、憂国の訴えであろう。

森川辰夫
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農と人とくらし研究センター

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