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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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「農村生活」時評32 "食の話題三つ"

 この新年早々、高校同期の有志の集まりが予定されていたが、メンバーの風邪引きで延期になった。ほかに珍しい目の難病に悩む友人もいて、無理して集まる会合でもない。ともかく風邪は万病の元なので、ダウンした友人に気合をいれて励ました新春だった。しかしその私のほうが師走の世間に煽られて動き回り過ぎたか、月半ばにダウンしてしまった。はじめは普通の風邪のつもりだったが、何日休んでも回復せず、その後ますます気力低下して、プロスポーツ選手がよくいう絶不調のような状態になってしまった。不定期のこのコラムも、担当者老衰につき自然終了かと覚悟した。一昔前なら高齢者がボンヤリして暮らすのは当たり前だったが、昨今は特定の病名がなく、ただ不調ということで日常を過ごすことは、怠け者として世間というか周りの風当たりが強い。
 横になっているときは気分が良ければ本を読むが、多くの時間はボンヤリというかウツラウツラしてとりとめなく自分が死んだ時のことを思い悩む。といっても葬儀のやり方のことではなく、これまで整理ができずに残してあるガラクタの始末である。そのガラクタのほとんどは印刷物だが、それでも分野のはっきりしたもの、経済、農業、歴史、社会、民俗などは始末しやすい。しかし個人の関心で集めた生活関連資料は初めから分野にとりとめがなくて、今では本人も困っている。現実問題として今の日本人にとって毎日の暮らしは大変だが、さてそれを研究課題とするには何か問題を限定しないと、とりとめがないのだろう。横断的な、狭い意味の生活理論研究分野というのは、いくつか試みはあったが未熟のまま自然落果かなと思う。
pack.jpg ある日の新聞報道に「食」関係記事がいくつもあって気になった。
 ひとつはいわゆる規制緩和の一環で保育所の給食を外部委託するという政府の方針である。私が農村の学校給食の調査をやったのは35年前の昔話だが、校内で調理するか、公立センターあるいは外部業者に委託するかは当時から大事な論点であった。その後給食現場の努力が重ねられて来たが、学校も家庭もあるいは地域社会も忙しくなってきて、委託できるものは試験問題作成も外注するご時世である。この間やっと「食育」ということもいわれてきたが、それも理念・建前が先行して校内で教育の一環として給食に取り組む現実の体制は崩れてきている。今度の措置は幼児にもこの世間の嵐が直接当たることになるものだ。いまさらだが生活視点による給食研究の非力さを痛感する。
  1月は震災関連記事の集中する時期だが、ハイチの悲劇が国際的大事件となった。たとえ地球の反対側の災害でも、日本政府の救援に対する消極的な姿勢が問題になる時代である。ハイチは人口1000万人で200万人の首都集中が悲劇を大きくしたという。日本も1億3000万人で3000万人以上の首都圏集中である。まして今世紀は地球的規模の災害の時代だという専門家の警告もある。前にもこのコラムで提起したが、震災時の対応は救出・けが手当て・水の次は食べ物である。“阪神“以後自治体の震災備蓄体制もそれなりに進んできたが、今度は新しく震災時備蓄用食糧が試作されたというニュースである。もちろんおにぎりや定食弁当の供給も大事だが、長期保存可能な食品の開発は災害国日本だけでなく国際的にも意義がある。幕藩時代には、集落に飢饉時に備えて備荒蔵を持つところがあった。その教訓に学んで地域の中核施設として、現代的な農村集落用の共同食料庫の提案を試みたことがある。今から思えば宅地の狭い西日本的発想だったが、あくまでそこでの災害時に備える物資だった。それを今の時勢に合わせて、場合によっては他所の救援用にも活用できるという事前のみんなの合意がほしい。カネではなく物だからただ貯めるのが目的ではなく、常に品物を更新する仕掛けが必要だからである。この話は毎日の暮らしそのものの危機の時代になんとも夢物語だが、「風倒木」は全体が妄言なので、ここでは遠慮なく提案だけはしておくことにした。
 最後に夢ではなく本当の現実の問題で忘れられない記事のことだ。昨秋、名古屋市に野宿経験者による助け合いグループ「生存組合」ができたそうだ。生活保護をうける人たちの自立をめざす集まりだが、こういう当事者同士の連帯を軸にまわりの支援が包むという取り組みが今、この社会に一番必要なのだろう。一カ月で食費が39,500円で朝食:ご飯・味噌汁・目玉焼きなど2品、昼食:麺類、夕食:ご飯・味噌汁・おかず1品という献立だそうだ。記事からはこれ以上のことは分からないが、昭和30年代、40年代における農家の献立調査の経験と比較すると、ここでは副食品の内容によるが昼食が弱く、漬物がないことが気になる。農家の場合には今も同じだが、ともかく野菜が身近にあって、それが漬物なり味噌汁の具になっていて、目立つおかずではないが、健全な献立を構成していたのである。今は野菜価格が暴落して農家はやっていけないし、一番野菜を必要とする人々の献立には届かない。
 津軽にいた時、ホイト飯という言葉を聞いたことがある。今隆盛を誇る「つがる三味線」の祖はホイトとよばれた人々の門付け芸だが、農家からもらうものは小銭ではなく米、味噌、野菜だった。それを一緒に炊き込んだもののことである。この地に単身赴任当時、私は「おじや」という名前でよんでいた食事が定番であったが、耳にして以来、はなはだ身近で今も、忘れられない言葉のひとつである。

森川辰夫
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