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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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「農村生活」時評34 "現代のリズムは根源悪とされて"

 私たちが生活しているこの世界には多様なリズム現象がある。私はこれがいわゆる捉えどころのない日常「生活」事象の、特に農村生活の分析に有効な手法と考え、生活時間、労働、食生活などの局面をさわってきた。しかし余りにもその研究成果が未熟だったためだろう、その後この手法を受け継ぐ人どころか、それぞれの発表時点でもまともに批判してくれる同業者が現れなかったため、「農村生活リズム」は全て、研究としては立ち枯れ状態である。ただ本人としてはまだ未練があるのでいろいろな図書・文献・新聞記事などにあらわれるリズム分析というか、たとえ部分的でも何らかの言及には注意してきた。この頃医療・福祉分野を中心に「生活リズム」一般への関心は高まったが、社会生活システム分野でのリズム論についての理論的な成果はほとんどないといってよい。
 いま、「親鸞」ブームだそうである。それは聞き書き「歎異抄」をめぐるものが過半だろうが、この中世の宗教家があらためて世間の関心を集めていることは事実である。私の読んだ今村仁司著「親鸞と学的精神」(岩波書店)はいわゆる宗教コーナー親鸞本の棚にはならんでいなかったし、私も別に親鸞に義理はなかった。この著者は元々フランス思想史の専門家だったからこの本は哲学の棚にあったし、私よりも若い個性的な思想家の遺著なので追悼の気分もあり、敷居は高かったが読んでみた。はたして今村の説く「親鸞」論については、あまりにもこの読み手に哲学的訓練が乏しく、その上仏教にも無知なのでさっぱり理解できない。ただ附論のような「第二部エセー」の「現代における悪の本質」(207~220頁)で近代社会の労働が規定するリズム・時間意識が現代「悪」の根源だと指摘されて驚いた。よく話題になる「悪」「悪人」の規定をめぐる思考が宗教としても哲学としても親鸞論の本質だろうから、著作としての体裁上は控え目だが、この現代社会批判は思想家としての著者の本来の主張を展開した文章だろう。
tokei.jpg 著者は「近代システムまたは近代社会の土台となっているのは、世界像としては機械論的見方であり、生活のリズムをつくるものは未来中心的な時間意識である」とする。さらに「未来中心の時間意識は、近代の産業生産の行動リズムである」、「時間意識という一見無邪気な現象のなかに、現代の根源悪がひそんでいる」と指摘する。テレビで探偵ドラマを見ていたら、主人公の探偵がクライマックスに画面のこちらを向いて「お前が犯人だ」と私を指さしたぐらい驚いた。私が真犯人なら「ドラマのなかにもっと早く登場させてよ」と言いたいが、現代人の時間意識という存在については、ドラマの背景セットのように当たり前のこととされてきており、あくまで演技する役者ではない。たとえ悪役としても、ドラマの構成上これほどの位置づけは珍しい。
 現代人を規制している二大根拠のひとつに生活リズムとして意識されている時間が挙げられているのは同感できる卓見である。もちろん近代の産業社会が機械的生産体制であり、そこからそれに対応する「多忙人間」が生まれ、それから自己・他人・共同体・自然の破壊にいたるという今村の論法はあまりにも直線的で単純だとは思うが、世界の近代化の過程の中に産業がつくった労働リズムの市民社会への定着という側面があり、そこから現代人の時間意識が生まれていることは事実であろう。よく日本人に見られる「多忙人間」が世界的にも一つの典型かもしれない。だがこの課題はやはり今村の指摘する「機械論的世界観」と表現されているもうひとりの悪役との関係が明らかにされなければなるまい。
 1950年代、60年代当時、農村生活研究における生活時間分析の狙いには確かに、現代の産業社会に農業労働と農家のくらしを適応させていこうとする側面もあったが、私自身は森川のやることは回顧的、反動的だとする批判のまなざしを意識しつつ、時間面における農村生活の独自性を強調した覚えがある。それが具体的には四から六季という農繁閑の位置づけであり、農作業の計画的・弾力的編成、一日における農作業の時刻布置の多様性の指摘などである。当時、農作業の展開にとって一週間という単位はほとんど意味がなかったが、働く農家は社会における曜日を無視しては生活できなかった。だがそのあたりの課題を指摘するだけで、確かに自然条件に由来するものと社会事情から強いられる対応の関係整理としては、あいまいなままに止めたことになる。
 このような農村生活時間研究が盛んに進められたのはもう半世紀前のことである。農地改革の成果が動き出して生産が伸び、家族数も多くて農家が歴史上もっとも生き生きと生活していた時代かもしれない。現在の農家は少人数で機械施設を駆使して、季節に関係なく工業生産のようなシステムのもとで長時間働いているから、いまやかなり独自性を失っているだろう。
 それでもなお私は、不十分とはいえ農家の暮らしには、現代においてこれほど自律的な生活リズムと時間意識は広い世間にもないといまでも思い込んでいる。日本だけでなく、いまの地球世界で多くの都市住民・現代人が親や先祖のような自然に沿った暮らしに舞い戻ることはもはや出来ないだろう。しかし現代人が自分で素晴らしいと思っている多忙世界への適応への姿勢そのものが、多くの現代悪を生んでいることへの反省は必要かもしれない。温暖化が進み異常気象に苦しみながら、多くの農家は必要最小限、現代社会に合わせながら、なんとか独自の生活リズムを維持している。これを学ぶことが現代の「根源的悪」から救われる一つの"非宗教的"救済策だと"信じて"いるのだが。

森川辰夫
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