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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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まちづくり協議会で野菜づくり

yasai1113.jpg まちづくり協議会は、執行部会、自治部会、地域部会の3部会で構成され、私は地域部会の一員です。地域部会は10人のメンバーで、地域の様々な団体の代表者で構成されています。女性が3人、男性が7人。年代構成は、男性の半分が70代以上、後の半分は40代以下。女性は50代2人と70代1人。
 地域部会はこの女性中心で進められています。日頃、地域のことをよく見聞きしているのです。70代以上の男性は何かと言うと「昔は良かった」。40代以下の男性は働き盛りで欠席しがち。いきおい、女性が発言し行動することになります。
 そんな中で始まったのが「野菜づくり講座」です。地域の田畑は転作政策や高齢化で荒れ始めて来ました。それに歯止めをかけることと、農業を暮らしの中に位置づける、すなわち、農のあるくらし、野菜やお米は自分の手で作ろうという目的で、地域内外から希望者を求め、畑で一緒に野菜づくりをしようと言うことで始めました。
 幸い、地域の目立つ場所の空き畑を借りることができ、12人の方たちと10月初めに冬野菜を播き、苗を植えました。アドバイスをするのは、メンバーと、畑近くに住む80代の女性Aさんです。Aさんは苗も用意して、毎日畑を見に来て、苗を補充したり虫をとったりしています。
 地域の方たちも興味を持ってみてくださっています。小さな畑での小さな取り組みですが、野菜づくりが少しずつ広がって行くように、この講座を進めていくつもりです。

福田美津枝
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産業としての自立

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 3日のこのETV特集、残念ながら見逃しました。この新聞を見て「ああ、テレビを観ればよかったなあ」と後悔。
 「農業を既得権益漬けにし、産業として自立する芽を摘んできた戦後農政の歩み」という言葉にちょっと引っかかりを感じています。
 「産業としての自立」? それは、グローバル化に対応できる競争力をつけろということでしょうか? それは、規模拡大・合理化ということでしょうか? それで、産業として自立できるのでしょうか? 農家・農村を踏み台にして肥大化した自動車や家電産業は産業として自立しているといえるのでしょうか?
 そもそも、農業は「産業」というくくりで、「自立」を迫られるべきものでいいのでしょうか?
 ここ数年、うちの周辺の田んぼで、ヒエがワサーッと稲穂を覆い隠すくらい伸びた田がとても増えました。ヒエを生やすのは百姓の恥という気持ちを持った年代が高齢化で働けなくなったのです。息子世代はヒエを恥と思わず、高性能の(もちろん高価な)コンバインはヒエ田も上手に刈り取ってくれます。
 「それでいいのだぁ」とバカボンのパパは言うだろうか?
 農政の誤りを検証しても、壊れた百姓の精神は再生出来ないのでは…と、マイナー思考の私は思ってしまうのです。
 
渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.29(2010.10.13発行)より転載

鳥日記 (2010.10)

duredure29_2.jpg サギとカラスばかりの夏が過ぎて、そろそろ身近なところでもいろんな鳥たちが見られる季節になりました。といっても、今、野山や村や町を制圧しているのはヒヨドリです。年中いるはずなのに、真夏にはどこに隠れていたのか声も姿も見せなかったヒヨドリが今、わが者顔でヒーヒーキーキーとうるさいこと限りなしです。
 でもヒヨドリばかりじゃないですよ。
 先日、朝、犬の散歩中に、電線に止まっている一羽の鳥に気付きました。キジバトかな? でも、よく見ると頭の大きさ形が明らかにワシタカ系。おっ、ハヤブサか?
 急いで、犬を引っ張って家に帰り、カメラを持って行きました。まだ居てくれ、まだ居てくれ、と念じながら。
 おおーっ。まだ居た! そーっと近づいて撮ります。もうちょっと近づいてもいいかな、と何歩か進んで撮ります。まだいいかな、と近づきます。どうやら、長旅でお疲れだったようで、ほとんど真下に近づいても動きませんでした。
 帰って図鑑で調べたら「チゴハヤブサ」でした。しっかりカメラ目線でカッコよく撮れています。

渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.29(2010.10.13発行)より転載

野菜づくり講座

yasai1023.jpg 地域のまちづくり協議会で進めている野菜づくり講座は、昨日、講師の先生(地元のおばあさん)が育てたキャベツ、ブロッコリー、レタスの苗を植えに来た人のために、ミニ耕運機で起こしてあげたり、畝を立ててあげたりして、何とか農園らしくなってきました。
 借り受けたその畑は、ずっと休耕していて、草刈りと耕運はマメにしてあったものの、やはり土の状態が悪く、ゴロンゴロンの土塊状態です。
 それでも12人の参加者のみなさんが家族連れで来たりして、楽しんでおられます。
 わたしもその苗を貰い、マイ畑に植えました。遅まきながら、かぶとにんじん、春菊も播きました。
 講座の方にかかりきりで、自分の畑仕事が大幅に遅れました。
 でも、お百姓の先輩方がよく口にされる、「種も苗も土に預けりゃ、きっと芽が出る、苗が立つ」の言葉に従って安心しています。
 今年は米の出来は悪く、里芋もさつま芋も悪いです。小さな芋もていねいに掘り取って食べています。
 菜っ葉類は元気で、抜き菜が楽しめますし、暑さが長引いたおかげで、ゴーヤーもいんげんもナスもまだ採れます。畑に作物を育てていれば、何かでおかずができるというありがたさをつくづく感じたこの秋です。

福田美津枝

臓器移植

 臓器移植法が改正され、本人の意志とは関係なく、家族の同意で脳死臓器提供が出来るようになり、立て続けに移植が実施されました。これって、どうなんだろう、と考え込んでしまいます。医学の進歩で、人はなかなか死ななくなり、「脳死」なんて状態で、法律で「これは死です」と判定してもらう。それ自体、何だかイヤ。その上、その体から臓器を取り出して他の人に移植するなんて、う~ん、どうなんだろう。
 私は宗教者ではないけれど、「私のいのち」って何だろう、とか、生きることと死ぬことの距離とか、考えてしまいます。人間はどんどん死ななくなって、でもそれが幸せとイコールではない日常があって、一方には無意味に殺されるいのちがあって…。
 臓器移植そのものに異議を唱えることはおおっぴらには出来ない時代になってしまいました。「移植で救える命があるのに」「自分の子どもだったら、どうなんだよ」と言われると黙り込むしかありません。
 科学は人類にたくさんの幸せをもたらしたと同時にたくさんの不幸せも強いてきました。「進歩・発展」がすべて「善」だと信じないこと、立ち止まって「本当にいいことなのか?」と自問する時間をたっぷり持つことが、何事にも必要だと思うのですが…。
 死ぬのも難しい時代です。

渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.28(2010.8.31発行)より転載

活性化ということ(1994.4)

 何かというと活性化という言葉が使われる。中身が曖昧なままに。山村では、若者の定着ということもいわれる。一種の無いものねだりに思える。我が村で、若者の居場所とすると役場、農協、森林組合、郵便局、村公社それに若干の事業所とみてよい。
 戸数500戸の中から、何人の若者が働けるか、せいぜい100人というところか。そうすると、8割方は若い人の居ない家という事になる。やがて、空き家が目立つということになりかねない。村ではセカンドハウス構想を打ち出しているが、そうでなくて、高齢者定住対策をもっと進めてもよいと思う。
 京阪神地区を対象に、定年後の高齢者に呼び掛け、定住をはかれば、質の違った村の活性化が生まれよう。(あわくら通信第5号)

小松展之
『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から

老親介護

 最近、同じ年頃の女性たちと話をしていると、決まって親の介護のことに話は行き着きます。子どもがひとり立ちして、やっと自分の時間が増えたと思う間もなく、親が老いて目が離せなくなり手がかかるようになり、何年もの過重な介護の果てに、やっと両親を看取った頃には自分が老いて、したいことも出来なくなっている。「女は割りに会わんねえ」で話は終わるのです。
 わが家も、酪農をやめて、さあ、泊りがけで旅行でも出来るぞ、と思ったら、母が老いて、特に今年の夏の暑さですっかり弱って何もしなくなり、一日中ごろごろ・ずーずーと寝てばかりです。物事の判断力も急速に劣化して、40年毎日してきたことも突然仕方が分からなくなるといった状態で目を離せません。介護認定を受けるほどではなく、だからデイケアにも行けず、ごろごろ・ずーずーです。手芸が好きな人でしたが、もうそんな能力も意欲も完全になくしています。ただ、まだ食欲だけは健在で、持病の高血圧・糖尿病によくないといわれるものばかり欲しがります。ダメというと隠して食べるので、いまでは好きにさせています。食べたいものを我慢させて、少しくらい長く生きても幸せとはいえないだろうと思うので…。 それにしても、テレビを観ながら突然、掌に味塩を振りかけてなめる(日に何度も)のを見ると「この人、ゆるやかな自殺をはかっているのか?」と思ったり…。
 ところで、以前にも紹介した介護マンガ『ヘルプマン』の15巻、とてもいいです。ぜひ読んでみて下さい。とてもとても面白い方向に進んでいます。(講談社・イブニングKC・くさか里樹)

渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.28(2010.8.31発行)より転載

鳥日記 (2010.8)

 真夏さすがに鳥たちも早朝じゃないと姿を現さず、昼間は木陰に潜んでいるようです。炎天下でも元気なのはサギ類とホオジロくらいです。バイトに行く途中の川でも電線でさえずるホオジロと川の中にたたずんで小魚を狙うシラサギ・アオサギくらいしか見かけることのない毎日です。
 8月最後の土曜日、鳥師匠三丸さんに誘ってもらい、由布高原の林の奥の湧き水の所に水浴びにやってくる小鳥たちを観に行きました。久々の遠出鳥見です。すぐ近くの上を高速道路が通り、車の音は結構うるさいところながら、林に踏み入ると木々の緑に囲まれて、俗世から遮断された気持ちよい空間に身を置くことが出来ました。先客(といっても三丸さんのお仲間・希少生物研究会のおじさん)がすでに来ていて、迷彩色のネットを張って、その隙間から望遠カメラを突き出して水場を狙っていました。
 私たちがそれぞれの場所を確保して間もなくから、次々と美しい小鳥たちがやって来ました。オオルリ、コガラ、ヤマガラ、キビタキなど。間近に見るのは初めての鳥たちです。
 始めは水場の向こうの低木の枝に来て、ちょろちょろと安全を確かめるように枝を移り、それから驚くほどの大胆さで、水場に舞い降りて翼をひろげて体を震わせて水浴びをするのです。その光景が何と我々の4~5メートル先で展開されるのです。何という無防備さか、と感動しました。
 オオルリのコバルトブルーの鮮やかさ、キビタキの黒と黄色のコントラスト、そしてコガラのかわいさ。木々の緑、涼やかにしめった空気、コケむした岩を這い登る1センチにも満たないカエル、草の葉に張り付いて動かない小さな蛾、みんな静かな山の夏の日を伸びやかに生きていました。
 「この後、また別の鳥が来るんだけど…」という声に後ろ髪を引かれる思いで山を下りました。仕事に間に合わないから…。
 さて、下界に下りたら何と暑苦しいこと!
 ところで、オオルリやキビタキなど美しい小鳥たちを間近に見て、もちろん夢中でカメラを構えて撮りまくったのですが、後で見るとどれもイマイチ鮮明に撮れていないのです。いわゆるピンボケです。あんなに間近に被写体がいてあんなに一生懸命ピントを合わせたつもりなのに「なぜ?」。その答えは少々悲しいものでした。「老眼」のせいだったのです。ファインダーから見る映像は眼球のすぐ前にあるから老眼には鮮明に見えないということなのでしょう。今、カメラの方を微調整中です。Mさん、「腕のせい」って言うなーっ、老眼のせいじゃーっ。どっちも悲しいけど。

渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.28(2010.8.31発行)より転載

農と人とくらし研究センター

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