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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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さき干し大根のこと

 秋の終る頃、わが家では大根を抜き、川から引いている水路で洗って、4本ずつを藁で束ねて、竿に干します。
 その大根の半分くらいは、数日後に沢庵として2つの桶に漬けこみます。
 残りの干し大根はさき干しにします。大根の皮を剥いて、横に寝かし、包丁で1センチくらいの厚さになるようにへいでいきます。大根を1センチ幅の縦切りにするわけです。その1枚ずつをまな板の上に寝かし、とがった包丁の先で1センチ幅に切っていくのですが、この時、大根の根の先の方を切り離さずにつけておきます。つまり、大根の先がつながったすだれ状のものになります。この大根の先のつながったところにひもを渡して、竿にかけて干していくのです。大根の首のところがつながった状態にして干すと、すだれがチリチリになってしまうので、必ず大根の先をつなげて干すことから『さき干し大根』というのでしょう。
 県西部に住む友人にこのさき干し大根を送ったところ、「手で裂くからさき干しと言うのか」と聞いてきました。どうやらこの干し大根は、わが地域特有のものらしいです。初冬の冷たい風が吹き始めると、干した大根の甘みが増していきます。
 このさき干し大根は、あい(日常とか普段とか言う意味)のおかずです。保存がきくので、野菜物が少ない時や、忙しい時には助かったようです。「大鍋一杯にさき干しを煮ておけば、おかずの心配がいらなんだ」と言い、特に田植えの時には、とても重宝したおかずでした。
 また、わが家ではさき干し大根の味ご飯も炊いていました。さき干しを水にほとべて戻し、そのほとべた汁とたまりで煮て、炊きあがったご飯に入れて、蒸らした後に混ぜるというものです。「煮干しか油揚げが入れば上等だった」と義父から聞きました。義母が炊いたことがありますが、日向くさいのが嫌われて、今では炊かなくなりました。
 さき干し大根の煮物は桃の節句の時、雛に供えるおかずでもありました。あずきご飯とつぼ(タニシ)とねぎの味噌和えに、さき干し大根と地芋(里芋)の煮付けを供えたのです。この頃には、煮て供える野菜物がさき干し大根の他にはなかったからでしょうか。
 最近、さき干し大根のうまさが身にしみるようによくわかって来たのは、おお年(大晦日)の「年越しのおかず」です。毛こぶのおかずなどとも言いますが、大根、ごぼう、にんじん、里芋、しいたけなどの野菜を適宜に切って鍋に入れて煮て、良く煮えたら油揚げの角切りと毛こぶ(昆布)の水でさっと洗ったものを鍋一面に広げ、その上に豆腐の薄く切ったものを広げて醤油をまわしかけ、味が凍みるまで煮たものがそれです。わが家では、このおかずにさき干し大根を5センチ程の長さに切ったものをたくさん入れるのです。この時、さき干しは水で戻さずに、さっと洗ったぐらいにします。そうすると、煮ているうちに他の野菜や油揚げ、毛こぶのうまみをすべて吸い取りながら柔らかくなり、ものすごくうまい(おいしいのではなく、うまい!)のです。
 1月7日には七草がゆを食べるのですが、この辺りでは『七日(なのか)正月』になり、その前の日は『六日(むいか)年越し』。1月15日は『あずき正月』とも『15日正月』とも言うので、その前日の14日は『14日年越し』。この年越しの度に、昔は『毛こぶのおかず』を煮ていました。今ではおお年のおかずでさえも作り過ぎると、食べ尽くすに辟易してしまうので、6日も14日もパスしてしまいました。大晦日にさえも作らないうちも増えたようです。
 でも、今年は少なめに作ったら、すぐになくなってしまったので、むいか年越しにもう一度作ってみました。こういうもののうまさがわかる年代になって来たのだとしみじみ思いながら味わいました。ちなみに昔は大鍋一杯にこのおかずを作って、正月のうちはそれを煮かえしては煮かえしては食べていて、まさにこれが『おせち』だったとか。そしてその「昔」も義母が語る話なので、昭和20年から30年の頃のことだったのです。
 この頃では、このさき干し大根を作るのも、年寄りがいる家だけになってきました。わが家も毎年、義母が暖かい日を選んで、軒さきにまな板と包丁を持ち出してさき干し大根を作ります。その姿は、わが家の初冬の風物詩ですが、そう遠くない先には、そこに座ってさき干し大根を作っているのは私ではないかと思えるのです。

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初冬の風に干されるさき干し大根はあいのおかず。
桃の節句のお供えや田植えの時のおかずにもしました。

福田美津枝
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基準(座標軸)ということ(1995.3)

 阪神大震災の罹災者の人達が、テントで協同の暮らしをしている姿がTVでドキュメント風に報道された。このテント生活を「テント村」と呼んでいた。「村」は、本来、共同体の単位として、率直に受け入れられる言葉なのであろう。
 本当の村はどうだろう。共同体の単位として認知されているのだろうか。マスコミなど外部からは「永田村」という様に、閉鎖的で外からの情報、交流を拒むという悪いイメージで揶揄的に語られる場合が多い。
 人のくらしの中での協同の基準(座標軸)は時代の中で動くものと思う。ところが、山間地では、外からの情報が入りにくく、どうしても、経験第一になる。丁度、列車に乗っていて、中だけ見ていると、列車が相当なスピードで動いていることを感じないように、「村」の中だけに目をむけていると、大きな世の動きが届かない。その結果、くらしの基準に外と大きな差異が生まれる。
 今、山間地対策として、いろいろと行政対策がなされているが、対策を打ち出す側と受け取る側との差異が大きい。また、基準のズレも大きい。このことに気付いて欲しい。(あわくら通信第6号)

小松展之
『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から

手間と工夫の収穫祭

yasai05.jpg まちづくり協議会が始めた野菜づくり講座の野菜が、収穫時期を迎えました。その収穫を祝うためと、講座に参加してくださった町の人々と、まちづくり協議会のメンバーが交流するために、12月16日に「収穫祭」を行いました。
 当日は10時に集まって、まず、収穫祭に使う野菜を採りました。収穫時期を迎えたと言っても、畑の土はやせ、しかも播き時が適期ではないものが多かったので、見た目は貧弱でしたが、大根も紅と白のかぶも、春菊も充分食べられるもので、近くの自治会館の調理場へ持ち込んで、みそ汁を作りました。
 紅かぶはさっと塩もみにして漬物代わりに。講師のAさんが自分の畑で作られたサラダ菜やサニーレタスはサラダに。持ち寄りのお漬物もたくさんあって、豪華な食卓です。
 お米は、地域の資源保全隊女性部が、休耕田で、小学5年生と一緒に田植えや稲刈りをして収穫したものを提供していただけたので、私特製の梅干しを入れたものと、しそを混ぜ込んだものをみんなでおにぎりにしました。
 お茶も自家製のものでということで、Sさん手摘みの番茶でした。
 講座生12人を含め総勢20数人が、畑の近くの駐車場を会場にして収穫祭が始まりました。まず、講師のAさんに、講座生代表がお礼の言葉を述べ、ママと一緒に何時も畑に来る坊やが花束を渡しました。その後は、お手製のお茶で乾杯をし、みんなで作ったおにぎりやみそ汁で楽しく会食です。野外での、畑仕事の後の食事の美味しいこと。おにぎりを平らげ、みそ汁は3杯もお代わりする人もあって、笑いを誘っていました。
 野菜づくり講座の畑には『びぎなーずファーム』という名前がつきました。講座生の方が名付け親です。その名を記した看板もその日に建てることになっていました。看板は、まち協のメンバーのIさんが、手近にあった端材を使って作ってくださったので、私と市のYさんとで、事前にニスを塗っておいたものを、この日にペンキで書き、どこからもよく見える場所を選んで、畑に建てました。
 食事の後には、看板の除幕式です。端材の木目が浮き出た板に、こげ茶色のペンキで書いた文字が、地域の風景にマッチして、とてもいい感じです。みんなで看板の周りに集まって記念写真をパチリ。とてもいいお顔の写真でした。
 その後、それぞれ家へ持ち帰る野菜を収穫して、大満足で収穫祭が終りました。
 まちづくり協議会は、住民が自らの手で町を良くしていくための活動を進めています。市から、会や行事の運営などの支援はしてくださいますが、お金は1円も出ません。でも、それだからこそ、みんなが知恵と技を出し合っています。今回も、そんな姿勢で収穫祭を行うことができました。そして、地域へ来て下さる人達を、手間と工夫でもてなそうという気持ちも大いに発揮しました。
 講座生の方々が、野菜づくりを通して、地域を知り、馴染んでいただきたいと思っています。

福田美津枝

浮世詠んで「憂さ晴らし」

浮世詠んで「憂さ晴らし」
男の本音・乳がんの妻・基地問題・・・1300首

 みやこ町豊津、元農水省福岡農政事務所職員の原田吉冶さん(65)が安本淡[あんぽんたん]のペンネームで初めての歌集「憂さ晴らし」を自費出版した。妻は旧豊津町時代から、現在のみやこ町まで町議を通算6期務め、乳がんと闘い続ける原田さやかさん(63)で、ふたりで歩んできた日常生活の喜怒哀楽を、絶妙の感覚で詠んだ短歌集に仕上がっている。
 (安楽秀忠)
 
みやこの原田さん、自費出版
 短歌を姶めたのは50年近く前、母親が37歳で亡くなったころからだった。歌集はその母にささげ、発行日は50回忌にあたる今月2日にした。
 自分の短歌を「手帳の端の走り書き」と評する。日々の生活の中でわき出てくる男の本音やつぶやきを言葉にしたという。さやかさんとの感情のやりとりが、読む人を思わずクスッと笑わせる。
  「なじられる訳あるときはただ黙り 嵐過ぎ去るときを待つだけ
  「暖房の全てを切りて出勤す 起きぬ妻への報復と知れ
 そうは詠みつつ、さやかさんが10年余り前、乳がんの手術をすることになった際には、
  「乳房切る 日は十一日と決まりたる われはそれ迄飲まぬと決める
 妻とともに病気と闘う気持ちを素直に表現している。
 長年、労働組合運動や政治活動にも携わり、気骨のある面ものぞかせる。
  「演説の声を掻き消す 皐月雨 築城基地には傘の花咲く
 このほか、職場や通勤途上で観察した物事を詠んだ短歌など、1万首を超える歌の中から厳選した1300首を収録している。
 元々、掛けことばが好きで、退職後からペンネームを名乗るようになったという。原田さんは妻へのざんげの念を込めて、取材の最後にこう詠んだ。
  「詠む歌は その場限りのワンシーン 活字となるに 憤り買う
 四六判194ページ、1260円、海鳥社(092・771・0132)刊で、1千部印刷した。行橋市内などの書店に並んでいる。
『'10.10.22 朝日新聞』より
 20年来の友人で、反基地運動の仲間でもある原田さやかさんの夫・吉治さんの短歌集です。短歌集というと敷居が高いと敬遠しがちですが、これは違います。短歌集を読んでこんなに笑ったの初めてです。身近に原田夫妻の日常を知る私なんぞは、もう、爆笑です。さやかさんは「全部買い占めてどこかに押し込んでしまいたい」と言ってます。私がこんな所にドカッと「宣伝」したら、いっそう嘆くだろうと思いつつ、あえて載せました。
 吉治氏、短歌の新境地を切り拓いた、の一冊です。

 ソファーに寝るわれを詰りて 畑に出し パソコン盾に転寝の妻

 妻のする作業すべてを家事と言い われが為しても家事とは言わぬ

 届きたる栗剥きおれば 剥かぬ妻 渋皮残さず取れと指示する

 もちろん、妻への苦言ばかりじゃなく、しみじみモノや背筋のピンと伸びた歌もたくさんあります。「言葉を磨いて磨いて」詠んだ歌というより、日々のつぶやきをそのまま文字にしたという感じで、今風のツイッターに通じると言ったら吉治さん、怒るかなぁ。
 みなさんにぜひ読んでもらいたいのですが、原田氏の手元にももうないそうなので、海鳥社に注文して下さい。
 二人とも親なし子なしでずっと二人暮しの原田夫妻。今、二人で晴耕雨読の日々。野菜は吉治さん、花はさやかさん。おだやかとは言い難い二人の会話の微妙なズレがはた目になかなか楽しいですよ。いいコンビです。

渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.30(2010.11.24発行)より転載

部落(むら)の中が崩れはじめた(1995)

 田舎は、都市に比べて、農業生産という自然を相手に、多くの労力を必要とする生産の形から、日常の中で協同があり、様々なくらしの結びつきから、集落の中が、一つの纏りを持ち、影響しあう関係にあった。
 これを「むら」といっており、古くは10数戸から数10戸の単位で、庄屋一戸長の下にまとまっていた。これが、現在の部落という単位になっている。
 これが1960年代後半から基幹になる労働力の人達が農外就労の形で流出を始め、次第に通勤から離家就労に変わり、住民の数が減り、残った人達も日中は留守というようになった。
 むらの中で男子が顔を合わせるのは、葬祭のときだけというようになった。

小松展之
『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から

柴田秀吉さんの訃報

 宇佐の都留さんから葉書が届きました。
 「8月9日、柴田さんが亡くなりました」驚きました。7月中ごろに通信「自鋤庵記5号」が届き、その中に「7月31日~8月3日、湯布院で草花の挿絵の個展を開く」というお知らせが入っていたので、お元気なものと思っていたのに。柴田さんは昨年「体調不良」を理由に長年発行されていた通信『すわらじ』を廃刊され、以後、A4にカラー印刷で草花の絵と短い詩が書かれた「自鋤庵記」が思い出したように届くのを楽しみにしていました。
higotai.jpg 柴田さんには一度しかおめにかかっていません。岩波書店発行の月刊誌『世界』の2001年4月号に田中伸尚さんが連載を始められた「憲法を獲得する人々」の第一回目に私のことを取り上げていただいたのですが、それを読んで、都留さんが別府の中村健さん(故人)と柴田さん夫妻を誘って4月2日築城基地座り込みに来て下さったのです。その後、中村さんと都留さんは何度も来て下さったけれど、柴田さんは体調のこともあり、その一度だけでした。
 でも、それ以降、通信のやり取りだけは続いていまして、柴田さんの文章のうまさに敬服していました。そんな付き合いだったので、柴田さんという人がどういう人だったのかよく知らないままで、今回、訃報によって、経歴等が少しわかった次第です。
 最後の「自鋤庵記」の絵は「ヒゴタイ」です。三丸さんと由布高原に鳥見に行った日、草原の中にぽつりぽゆりと立つヒゴタイの青いボンボンが見えました。絶滅危惧種だそうです。柴田さんが見せてくれた気がしました。
 柴田さん、「自鋤庵記」用のファイル、ガラ空きですよ。もっともっと続けて届くのを楽しみにしていたのになぁ。 ご冥福を。

渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.28(2010.8.31発行)より転載

変な人たち

duredure29_1.jpg 田川研という人が書いた『蝶も蛾もうつくしい』という本をわざわざ注文して買いました。要するに「蝶は美しいから誰にも好かれ、蛾はその反対に嫌われる。でもよく見てごらん。蛾も美しいんだよ」という「蛾賛美」本です。オオシモフリスズメという蛾がいるそうです。この蛾は、止まる時に羽をぴったり体に沿わせ、腹部を真上に反らせて止まるのだそうで、それを「なんてカッコいいんだ。まるでチョコレートパフェじゃあ!」などという人たちがいて、そのオオシモフリスズメを捕まえるために、夜明けの高速道路のサービスエリアにわざわざ出かけていくのだ、というようなことが書かれています。(注)
 鳥師匠変態三丸さんに言わせると「虫に夢中の人たちが一番変!」だそうです。まぁ、五十歩百歩と思うけど…。
 世の中、変な人たちがあちこちにひっそりと変な暮らしをしていて、その結果、世の中そのものが変な方向に流れ込むのを防いでいるのかも知れないと思うのです。
 変態万歳!
     (注)夜、明かりに集まって来て、朝落ちていたりするらしい

渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.29(2010.10.13発行)より転載

栗の木の下

keitou.jpg わが家から上の大きい道路に出る坂道(車一台がやっと通れる幅)の途中に小さな栗の木が2本あります。栗が実ると道に落ちます。
 先日、夜、外出先から10時半頃帰ってきて坂道を下ってくると、ちょうど栗の木の下に、なんと、イノシシが並んで落ちた栗をあさっているのに出くわしました。ウリ坊より少し成長したくらいの子イノシシばかりです。いち、にい、さん…数えたら5頭もいました。
 車のライトに照らされても動じる様子もなく、栗を探しています。ゆっくり進んで行くと6~7メートルくらいになったところで、やっと脇の茂みに這い登って行きました。
 翌日、隣のおばさんが「昨日、畑にマルチを敷いて、たまねぎやブロッコリーの苗を植えたのに、今朝見たらイノシシにぐちゃぐちゃに踏み荒らされてしまった」と怒りまくっていました。あの5頭があの後やらかしたのでしょう。
 イノシシ、確実に増えています。人家に平気で近づくようになっています。

渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.29(2010.10.13発行)より転載

農と人とくらし研究センター

Research Institute for
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