農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
農本主義のこと③ 岩崎正弥著『農本思想の社会史 生活と国体の交錯』
- 2008/03/02 (Sun)
- ■ 農 |
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『農本思想の社会史 生活と国体の交錯』(京都大学学術出版会、1997年)は、日露戦後から敗戦までの「農を機軸にすえた社会思想」を対象として、その歴史的・現代的意味を考察した学術書である。この本には、私も途中まで一緒に歩んだ道程が書き込まれている。まずそのことに感謝するとともに、私が研究室を去った後、岩崎さんが一人で歩いた困難な道程の長さを実感し、ただただ頭の下がる思いがした。彼が切り開いた部分がいかに大きいかを確認する意味で、読後の私の断想を少し書き連ねておく。
戦後に書かれたかのような稀有な社会批評紙『ディナミック』。戦争中にこの個人紙を発行し続けた石川三四郎が、どのような生き方を通して、戦前戦中と戦後とが連続する地平を築きえたのか。デモクラシーを民主主義ではなく「土民生活」と訳し、帰農して文字どおり「土民生活」を生涯貫き通し、絶対的価値たる「自然」をそこに見出して依拠した、とその謎を解き明かしている。
「社稷自治」という魅力的だが難解な権藤成卿の思想の核心を、弟子の松沢保和さんが発する聞き取りにくい言葉に辛抱強く耳を傾け続けることを通して、私たちにも容易に理解がとどくように、「民衆相互の契約」などと、分かりやすく説く。私なら、中国起源の発想で日本農村には受容の基盤をもたない、と文化相対主義で切ってしまいかねないところを、日本現代史研究の実証的方法も尊重して、自治農民協議会の飯米闘争などの実際の運動の展開と照らし合わせて論証している。
このように思想が社会に影響を及ぼすと同時に廃れていく様を、思想の送り手側だけでなく受容する人たちの側にも立って、その帰結までしっかりと見とどける。農本連盟の岡本利吉は、一種の「新しき村」といえる「部落生活団体」を基盤にした協同社会を構想したが、岡本が主催した農村青年共働学校で学んだ人々を丹念に訪ね歩いて、岡本の実践の軌跡を明らかにするとともに、その理念に感化されて運動に参加した白山秀雄の生活と精神の遍歴もたどり、つまり一農村青年の目の高さから、さらに掘り下げている。
同時代にそれぞれ独自の光を放っていたこうした巨星たちを、農本思想という天空に配して、一つの星座を描く。異彩を放つ革新派だけでなく、必要なら国体の枠内で農村自治を唱えた山崎延吉のような地味な保守体制派の位置づけもきちんとなされている。また、一つの星座のなかに位置づけると、たとえば、「家稷農乗」など特異な造語で行と場の独自の百姓哲学を説いた江渡狄嶺も理解が容易になる。石川の帰農生活や権藤の自治観念あるいは岡本の地域構想との異同を見比べることができるからである。だが、星座を描くには天空に座標が必要で、直接表に現れていないが、背後に潜む著者の問題意識は現代思想に通じている。
私たちの日常生活の身体感覚にまで入り込んでいる現代の権力支配の仕組みを、ミシェル・フーコーがその発生の場にさかのぼって圧倒的な史料をつきつけながら語ったように、戦争(総力戦体制)と歩を一にして「保健衛生」が農村生活の中に入り込んできた過程を、戦時下の農村厚生運動の資料と証言を発掘して実証し、同時にそこに、行(心身鍛錬)を柱にした戦時下の農民道場の「訓育」にも通じる、自発性を喚起する新しい管理型の権力のあり方を観るという、たぶん全く前例のない力技に挑んでいる。
ところで、農本思想家たちが歩いた道程を丹念にたどることによって、岩崎さん自身はいったいどんな地点にたどりついたのだろうか。その一つは、階層や世代や地域を場合によっては横断する、ゆるやかながらも共有された「生活世界」の存在であり、思想や運動の分析を「生活世界」の変容から捉えなおす視点であるという。まだ問題提起の域を出ないと自ら認めているが、それは農本思想研究の一つの到達点である。私たちの命と直にかかわる「生活世界」は、国家や経済の価値では捉えられない部分を今なお内に深く秘めているはずである。
岩崎さんが切り開いたフロンティアに立って、新たな「生活世界」の創造に向けて、思考と実践を通して一歩でも前に歩を進められたらと、私はいま思い始めている。
片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
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イギリスの休日 vol.2
(3)9月28日(ロンドンからカーディフへ)
ロンドン⇔カーディフの汽車の往復券を購入。一人約13,000円。福井⇔関空で11,000円と比較するとひどく高い。(イタリアでは汽車賃はもっと安価だった!) だが、さすが鉄道の国、汽車は速い。2時間で約230kmを走る。写真はロンドンパディントン駅。ロンドン中心部から離れるにつれ、車窓からは羊、牛、馬がのどかに草を食む牧場が広がる。
カーディフにはウェールズ国民議会が設置されるウェールズの首都。さすがに賑やかな町。駅名にも両方の表示があったが、いたるところに英語と一緒にウェールズ語も表示されている。
宿(トラベロッジカーディフセントラルホテル)に荷物を預け、まずはカーディフマーケットを見学。肉・魚・野菜・菓子・惣菜・日用雑貨・アクセサリーに混じって飲食するコーナーもある。もっと驚くことには、飲食コーナーの隣にペット屋さんもある。鳥類、うさぎ類、さすがに犬猫はいなかったが。写真は野菜を売る店の一つ。野菜の種類はアジアの市場に比べ少ない。もちろんペット屋さんには袋に入った餌もたくさん販売されている。
コーニッシュパイを購入。電子レンジであたためてくれる。パイ皮にはやはりラード使用。脂でぎとつく感じ。


野菜を売る店の一つ
市街の真ん中に位置する「カーディフ城」。イギリス人の書いたガイド本では1世紀半ばの基礎に19世紀に再建されたためか評価はさほど高くない。
しかし、石でできた城は子供の頃読んだアヌセーヌルパンの「そっくりな家をモチーフにした話」などを思い出す。城の中は精巧な壁画や化粧室、童話の描かれた子供部屋など目を見張るものばかり。広間は結婚式に貸し出しも可と案内の女性は説明を加えた。


城の庭には何故か孔雀が
10数羽自由に飛び回っている。
城の地下食堂ではお茶も提供される。
インフォメーションでもらった地図を頼りにレンタカーの場所を探す。市内のミレニアムスタジオ(1999年のラグビー・ワールド・カップ用)を回ってAVISへ辿り着く。古くから石炭の積み出し港でにぎわった町カーディフもこうしたスタジオ設置などといった国策で活気を取り戻しているという。
FIAT(イタリアの車)を予約。金曜から日曜の朝まで借りて78ポンド。(約19,000円。このうち22ポンドは保険料。日本と同じくらいの金額とのこと。)、車も借りて明日の予定を考えながら 市内のBARにて夕食をとる。
ローストチキンとラムステーキどちらも若い兄ちゃんが調理してくれる。オープンの調理コーナーには電子レンジ、オーブンなど並んでいるが、野菜の付け合せはいずれもチンらしい。ローストチキンも何度もオーブンを開け閉めしていたが、所々黒こげパサパサ味。付け合せのフライドポテトはたっぷり。ホテルは100室もあるりっぱなものだったが、残念なことに夜中2時頃、隣接するBARが喧しかった。
井上照美
カーディフにはウェールズ国民議会が設置されるウェールズの首都。さすがに賑やかな町。駅名にも両方の表示があったが、いたるところに英語と一緒にウェールズ語も表示されている。
宿(トラベロッジカーディフセントラルホテル)に荷物を預け、まずはカーディフマーケットを見学。肉・魚・野菜・菓子・惣菜・日用雑貨・アクセサリーに混じって飲食するコーナーもある。もっと驚くことには、飲食コーナーの隣にペット屋さんもある。鳥類、うさぎ類、さすがに犬猫はいなかったが。写真は野菜を売る店の一つ。野菜の種類はアジアの市場に比べ少ない。もちろんペット屋さんには袋に入った餌もたくさん販売されている。
コーニッシュパイを購入。電子レンジであたためてくれる。パイ皮にはやはりラード使用。脂でぎとつく感じ。
野菜を売る店の一つ
市街の真ん中に位置する「カーディフ城」。イギリス人の書いたガイド本では1世紀半ばの基礎に19世紀に再建されたためか評価はさほど高くない。
しかし、石でできた城は子供の頃読んだアヌセーヌルパンの「そっくりな家をモチーフにした話」などを思い出す。城の中は精巧な壁画や化粧室、童話の描かれた子供部屋など目を見張るものばかり。広間は結婚式に貸し出しも可と案内の女性は説明を加えた。
10数羽自由に飛び回っている。
城の地下食堂ではお茶も提供される。
インフォメーションでもらった地図を頼りにレンタカーの場所を探す。市内のミレニアムスタジオ(1999年のラグビー・ワールド・カップ用)を回ってAVISへ辿り着く。古くから石炭の積み出し港でにぎわった町カーディフもこうしたスタジオ設置などといった国策で活気を取り戻しているという。
FIAT(イタリアの車)を予約。金曜から日曜の朝まで借りて78ポンド。(約19,000円。このうち22ポンドは保険料。日本と同じくらいの金額とのこと。)、車も借りて明日の予定を考えながら 市内のBARにて夕食をとる。
ローストチキンとラムステーキどちらも若い兄ちゃんが調理してくれる。オープンの調理コーナーには電子レンジ、オーブンなど並んでいるが、野菜の付け合せはいずれもチンらしい。ローストチキンも何度もオーブンを開け閉めしていたが、所々黒こげパサパサ味。付け合せのフライドポテトはたっぷり。ホテルは100室もあるりっぱなものだったが、残念なことに夜中2時頃、隣接するBARが喧しかった。
井上照美
洞を歩く
秋の取り入れが終わって、冬用に野菜の取り込みをしたり、干し柿、切り干し芋、切り干し大根などをしながら、年末までは、何か追われるような気分で、慌しく過ごしますが、お正月が過ぎた途端、なにやら暇になってきます。
義母たち、近所の年寄り衆も、日当たりが良くなってくる昼前後には、時々畑で草を引いたり、野菜の手入れをしたりする姿を見かける程度です。ましてや百姓見習いの私には何の仕事もないので、毎日、餅を食べて、グータラしていたり、パソコンに向かっているだけの日々が続きます。
昨年夏から、普及員の全国組織の協会からある委員を頼まれ、その報告物の提出が迫っていたので、パソコンでしなければならない仕事は、嫌になるほどありました。
そんな日が続いていた時に、健康診断にいったら、糖尿の気配が濃厚という診断を受けました。大変、大変。日ごろから、伊深地内や近辺は、コンビニに行く時も、友人知人の家を訪ねる時も、運動代わりに自転車に乗っていましたが、こんな運動くらいでは手ぬるい、やはりしっかり歩かなければと決心して、毎日30分はしっかり歩くことにしました。
それでも、そんなに友人知人を訪ねる用事がありません。そこで、山を歩くことにしました。毎日同じところを歩いてもつまらないので、家から歩いて15分くらいの、うちの山に至るまでの道筋に、いくつかの洞があるので、その洞を1つずつ探検することにしました。時間は薄暗くなって、人目につかなくなる5時過ぎ頃です。
集落の中を、昼日中、犬も連れずにぶらぶら歩いていると、必ず2・3日のうちに、近所中に「Y子さ(義母のこと)の嫁ごがあんなとこをのんきに歩いとった、何しとったやろ」と伝わります。
ある洞へ入っていったら、見慣れない軽トラックが3台と、大きなバンが1台停まっていました。「ごみを捨てに来たんやろか」 最近、近くの山の中に、いろいろなごみが捨ててあるという話を聞いていました。「そうやったら、ナンバーを覚えておかなあかんなあ」と思っていると、山の中から無線か何かで大声でしゃべっている声がして来ました。「猟に来たんや、そんならイノシシを撃って貰えるで、助かるなあ」そう考えてトラックを見ると、確かに、1台のトラックに犬を入れる檻らしきものがあります。次の瞬間「あっ」と思って、来た道を走り出しました。「犬に追われたら大変、イノシシに間違われたら大変」 今にも散弾銃が飛んできて、犬が追っかけてくる気がして、走りました。思いっきり走って、しかも、履いているのは、軽いスニーカーではなく、重い長靴です。この日は相当カロリーを消化した気がしました。
その次は別の洞へ入っていきました。棚田になっている3枚の田んぼが途切れたところに、山手のほうに上がる石段がありました、コンクリート製の石段なので、そんなに古くないもの、こんなところに何があるんだろうと思い、登っていきました。お墓があり、その脇には小さな、像が彫ってある石が祀ってありました。お墓には枯れていない花が立ててあります。墓石の側面には、薄暗がりの中、豊臣秀吉の家来の村井○○という文字が読めます。
先日は、Aさんが、小学校の5年生の質問に答えて、いろいろな伊深の民話、歴史などをお話され、その話が貴重なので、一緒についていって、録音、記録させてもらいましたが、そのときにもこんな村井某の家来の話がありませんでしたし、以前読んだ伊深の歴史を調べて書いたものにもありませんでした。このことを誰かに聞いてみよう、また1つ新しいことがわかると思って、楽しみに帰りました。
別の日には、また違う洞を進んでいきました。そこも2枚の田んぼの先は、ぼうぼうの草薮です。道は歩きやすくなっているので、誰かが山へしょっちゅう行っているようには思えました。薄暗がりの中をドンドン歩いて行きます。草藪がだんだん木の藪になって行きます。洞は棚田のように、段々になっている様子がわかります。でも大きな木や小さな木が生えていて、すっかり山状態。それは洞の奥まで、もう先は下り坂という、てっぺんらしきところまで続いていました。確かにそこまで田んぼが作られていたようです。誰の田んぼだろう、いつ頃切り開いて、いつ頃作らなくなったのか。
私がこの洞の前を通って、山奥の田んぼに田植えや稲刈りに行く頃には、この洞は、確か2枚くらいの田んぼしか作っていなかったと思います。とすると30年以上前から、もう田んぼではなかったのか。
伊深は、佐藤駿河守と言う旗本の領地でした。江戸時代、「天和の伊深一揆」というものがあったと古文書に記されているそうです。以前映画化もされた「郡上一揆」と、規模は小さいものの、ほぼ同じような一揆があって、処分された百姓もあったそうです。もしかしたら、そのころには、隠し田だったかもしれないなどと思いながら歩いていましたが、考えながら歩くということは、考えることに気をとられ、しっかり歩かないので、あまり、カロリー消耗の運動にはならない気がしましたが、暮らしているところの歴史、今の私の暮らしがどういう過程を経て築かれてきたのかを知ることは、運動以上に大切なことだと思い直して歩きました。
友人の家を訪ねるために歩いていると、田んぼへ水を引き込む用水路の取水口も見当たりました。このように、歩くことで、先祖の様々な手の跡にも気づきます。人の目や口を気にせずに、やはり、物が見えるときに歩かなければと思いました。
『ひぐらし記』No.19 2008.2.2 福田美津枝・発行 より転載
義母たち、近所の年寄り衆も、日当たりが良くなってくる昼前後には、時々畑で草を引いたり、野菜の手入れをしたりする姿を見かける程度です。ましてや百姓見習いの私には何の仕事もないので、毎日、餅を食べて、グータラしていたり、パソコンに向かっているだけの日々が続きます。
昨年夏から、普及員の全国組織の協会からある委員を頼まれ、その報告物の提出が迫っていたので、パソコンでしなければならない仕事は、嫌になるほどありました。
そんな日が続いていた時に、健康診断にいったら、糖尿の気配が濃厚という診断を受けました。大変、大変。日ごろから、伊深地内や近辺は、コンビニに行く時も、友人知人の家を訪ねる時も、運動代わりに自転車に乗っていましたが、こんな運動くらいでは手ぬるい、やはりしっかり歩かなければと決心して、毎日30分はしっかり歩くことにしました。
集落の中を、昼日中、犬も連れずにぶらぶら歩いていると、必ず2・3日のうちに、近所中に「Y子さ(義母のこと)の嫁ごがあんなとこをのんきに歩いとった、何しとったやろ」と伝わります。
ある洞へ入っていったら、見慣れない軽トラックが3台と、大きなバンが1台停まっていました。「ごみを捨てに来たんやろか」 最近、近くの山の中に、いろいろなごみが捨ててあるという話を聞いていました。「そうやったら、ナンバーを覚えておかなあかんなあ」と思っていると、山の中から無線か何かで大声でしゃべっている声がして来ました。「猟に来たんや、そんならイノシシを撃って貰えるで、助かるなあ」そう考えてトラックを見ると、確かに、1台のトラックに犬を入れる檻らしきものがあります。次の瞬間「あっ」と思って、来た道を走り出しました。「犬に追われたら大変、イノシシに間違われたら大変」 今にも散弾銃が飛んできて、犬が追っかけてくる気がして、走りました。思いっきり走って、しかも、履いているのは、軽いスニーカーではなく、重い長靴です。この日は相当カロリーを消化した気がしました。
その次は別の洞へ入っていきました。棚田になっている3枚の田んぼが途切れたところに、山手のほうに上がる石段がありました、コンクリート製の石段なので、そんなに古くないもの、こんなところに何があるんだろうと思い、登っていきました。お墓があり、その脇には小さな、像が彫ってある石が祀ってありました。お墓には枯れていない花が立ててあります。墓石の側面には、薄暗がりの中、豊臣秀吉の家来の村井○○という文字が読めます。
先日は、Aさんが、小学校の5年生の質問に答えて、いろいろな伊深の民話、歴史などをお話され、その話が貴重なので、一緒についていって、録音、記録させてもらいましたが、そのときにもこんな村井某の家来の話がありませんでしたし、以前読んだ伊深の歴史を調べて書いたものにもありませんでした。このことを誰かに聞いてみよう、また1つ新しいことがわかると思って、楽しみに帰りました。
別の日には、また違う洞を進んでいきました。そこも2枚の田んぼの先は、ぼうぼうの草薮です。道は歩きやすくなっているので、誰かが山へしょっちゅう行っているようには思えました。薄暗がりの中をドンドン歩いて行きます。草藪がだんだん木の藪になって行きます。洞は棚田のように、段々になっている様子がわかります。でも大きな木や小さな木が生えていて、すっかり山状態。それは洞の奥まで、もう先は下り坂という、てっぺんらしきところまで続いていました。確かにそこまで田んぼが作られていたようです。誰の田んぼだろう、いつ頃切り開いて、いつ頃作らなくなったのか。
私がこの洞の前を通って、山奥の田んぼに田植えや稲刈りに行く頃には、この洞は、確か2枚くらいの田んぼしか作っていなかったと思います。とすると30年以上前から、もう田んぼではなかったのか。
伊深は、佐藤駿河守と言う旗本の領地でした。江戸時代、「天和の伊深一揆」というものがあったと古文書に記されているそうです。以前映画化もされた「郡上一揆」と、規模は小さいものの、ほぼ同じような一揆があって、処分された百姓もあったそうです。もしかしたら、そのころには、隠し田だったかもしれないなどと思いながら歩いていましたが、考えながら歩くということは、考えることに気をとられ、しっかり歩かないので、あまり、カロリー消耗の運動にはならない気がしましたが、暮らしているところの歴史、今の私の暮らしがどういう過程を経て築かれてきたのかを知ることは、運動以上に大切なことだと思い直して歩きました。
友人の家を訪ねるために歩いていると、田んぼへ水を引き込む用水路の取水口も見当たりました。このように、歩くことで、先祖の様々な手の跡にも気づきます。人の目や口を気にせずに、やはり、物が見えるときに歩かなければと思いました。
『ひぐらし記』No.19 2008.2.2 福田美津枝・発行 より転載
イギリスの休日 vol.1
はじめに
現在、事務所の運営業務に明け暮れ、少しも農村生活に関するご報告ができない私に岐阜の福田女史からイギリスの話を紹介したらという提案がありました。臆面もなく、恥をご紹介いたします。
イギリスの休日
1 期間: 平成18年9月26日~10月4日
2 旅行先: イギリス(ロンドン・ウェールズ南部)
3 日程と内容:
(1) 9月26日(日本からイギリスへ)
6時24分発のサンダーバード乗車。京都ではるかに乗り換え。関空の三井住友銀行で1万円両替。1ポンド240~250円。両替後、ふと通路一つ挟んだ泉州銀行では1円くらいの差がある。ロンドン市内の両替はこの1円くらいの差でなく、手数料が0円だったり、10%だったりバラバラ。イギリスは物価が高い。
関空発11時45分JALにてロンドンへ。時差8時間。飛行時間12時間。機内は快適。ただし真ん中の座席で狭い。(エコノミー症候群!!)機内には背もたれで画像が見られ、映画・ゲーム・進路・機外の様子など楽しめる。救命具の着け方もこの画像で説明される。健さんはマージャンゲームを楽しんでいた。私は例によってZZZ……。機内食もまあまあ。
ヒースロー空港着16時15分(イギリス時間)。時間を得した気分。地下鉄は妙に暑い。こちらは気温が高めらしい。ヒースロー飛行場からロイヤルナショナルホテルまで地下鉄を使用する予定だったが、直通の地下鉄路線にトラブルあり。こうした地下鉄のトラブルも日常茶飯のようだ。ヒースローコネクトという汽車と地下鉄を使ってホテルへ。ぐったり。
ホテルに隣接するBARでフィッシュアンドチップスとビール(エール)を食す。チップス=フライドポテトだが、ここのはさっぱりからっと揚がっていてまあまあ。しかし、味付けは客が好みで塩こしょう、ソース、酢をかけるようになっている。でかい白身魚のフライと山盛りのチップスだったがこれで5.5ポンド=1,300円以上とは暮らしづらそう。
(2) 9月27日 (イギリス ロンドン)
ロイヤルナショナルホテルの横の公園。
高い木が茂り、心地よい。この日も気温は高め。
ホテルの食事はコンチネンタルで少々さみしい。次の宿では伝統的なイングリッシュスタイルだ!!
宿は2日目も同ホテル。荷物を預けて待望の大英博物館へ。世界各地から歴史遺産を集めた博物館が入場無料。志を入れるBOXは入口に設置されている。さすが大英帝国。昔日にはミイラ発見を目指し、フランスと競争(今もそうなのかも)していたというが、古代オリエントと地中海の世界からの収集品には圧倒される。
船に乗せ、運搬してきた方法を推測するだけでもわくわくするような石造物がごろごろと展示されている。また石に彫られた壁画もそれを切り出して持ち帰ったものが年代毎にいくつもいくつも並べられている。(歴史に詳しい方がみれば整然と整理されていることが理解できるであろうが、世界史の知識の乏しい身にはひたすら石造物の大きさと精巧な細工に感心するばかり)見学もかなり体力を要する。午前2時間見学後、昼食休憩をとり午後2時間見学しても全館制覇はギブアップ。大英博物館の入口。かなりの経費をかけた偉大な国家事業も、現在の「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」では館の維持経費だけでも大変だろう。管内には修学旅行・遠足といった子供たちも多い。また、高校生もしくは大学生たちであろうか、石造スケッチ者も目立つ。現在でもメソポタミア等で発掘作業が継続されている。こうしたもの以外にブリテンの古い時代のもの、アジアの展示物も多く、日本の国立民族博物館以上である。
博物館前の通りには一番お得な両替所があったが、日本円の感覚で買い物をすると「こんなもので何故この金額だ?!」となる。


お楽しみの昼食はキドニーパイ(羊肉を煮込んだものをラードで練りこんだパイ生地に包んで焼いたもの)とローストビーフとフライドポテト。ラードのパイ生地は重い。ローストビーフもソースがせっかくの肉を不味くしているといったら申し訳ないか?でも塩・こしょうだけの方がいいが。ビーフよりフライドポテトが皿にどんと鎮座している。
この後、全てのレストランで日本のように水がさっとでてこない(外国では当然だが)ことがとても残念。これでお水がごっくんとできたらと思う場面が実に多かった。野菜については生でちぎって並べてあるだけ。
右写真は大英博物館前でお疲れの私。
ロゼッタストーン型のチョコも館の博物館売店に。ネルソン提督率いるイギリス艦隊に万歳!
ホテルで一休み後、19時過ぎに市街へ繰り出す。(なかなか日が沈まない)博物館での疲れのせいかアラブ系のあんちゃんが作る屋台のホットドックを購入。(炒められたタマネギの匂いにフラフラ)タマネギだけはおいしかったがソーセージ はまずい。パンも今ひとつ。妙なホットドックで空腹感がなくなってしまい、軽い夜食とする。近くの24時間ストアでサラダ、リンゴ、鮭をはさんだサンドイッチ、ワイン、ミカン。これで2,500円くらいとは……。
サンドイッチ、サラダはマヨネーズ類の油が濃く口が粘る感じだが、果物は美味。
ホテルは歯ブラシなどの小物は不備だが、疲れてぐっすり。しかし、夜中2時すぎに警報機が鳴り響いた!!一大事と服を身につけ、荷物を急ぎリュックに入れ、6階から外へ。1階の大きな中庭に200数十人、数分間で宿泊客が全員でてきたと思われるが(中にはパンツ一つで裸足の若い男性も)ホテル側の説明は無い。一台来ていた消防車もすぐに帰り、客はほどなく階段で部屋に。騒いでいたのは、カードキーをそのままにして脱出してきた客のみ。ホテルからは翌朝にも説明や侘びは一切なし。日本との違いをひしひし。
28日の宿を予約した。最近はインターネットで予約するのが当たり前になっているようです。
井上照美
現在、事務所の運営業務に明け暮れ、少しも農村生活に関するご報告ができない私に岐阜の福田女史からイギリスの話を紹介したらという提案がありました。臆面もなく、恥をご紹介いたします。
イギリスの休日
1 期間: 平成18年9月26日~10月4日
2 旅行先: イギリス(ロンドン・ウェールズ南部)
3 日程と内容:
(1) 9月26日(日本からイギリスへ)
6時24分発のサンダーバード乗車。京都ではるかに乗り換え。関空の三井住友銀行で1万円両替。1ポンド240~250円。両替後、ふと通路一つ挟んだ泉州銀行では1円くらいの差がある。ロンドン市内の両替はこの1円くらいの差でなく、手数料が0円だったり、10%だったりバラバラ。イギリスは物価が高い。
関空発11時45分JALにてロンドンへ。時差8時間。飛行時間12時間。機内は快適。ただし真ん中の座席で狭い。(エコノミー症候群!!)機内には背もたれで画像が見られ、映画・ゲーム・進路・機外の様子など楽しめる。救命具の着け方もこの画像で説明される。健さんはマージャンゲームを楽しんでいた。私は例によってZZZ……。機内食もまあまあ。
ヒースロー空港着16時15分(イギリス時間)。時間を得した気分。地下鉄は妙に暑い。こちらは気温が高めらしい。ヒースロー飛行場からロイヤルナショナルホテルまで地下鉄を使用する予定だったが、直通の地下鉄路線にトラブルあり。こうした地下鉄のトラブルも日常茶飯のようだ。ヒースローコネクトという汽車と地下鉄を使ってホテルへ。ぐったり。
ホテルに隣接するBARでフィッシュアンドチップスとビール(エール)を食す。チップス=フライドポテトだが、ここのはさっぱりからっと揚がっていてまあまあ。しかし、味付けは客が好みで塩こしょう、ソース、酢をかけるようになっている。でかい白身魚のフライと山盛りのチップスだったがこれで5.5ポンド=1,300円以上とは暮らしづらそう。
(2) 9月27日 (イギリス ロンドン)
ロイヤルナショナルホテルの横の公園。
高い木が茂り、心地よい。この日も気温は高め。
ホテルの食事はコンチネンタルで少々さみしい。次の宿では伝統的なイングリッシュスタイルだ!!
宿は2日目も同ホテル。荷物を預けて待望の大英博物館へ。世界各地から歴史遺産を集めた博物館が入場無料。志を入れるBOXは入口に設置されている。さすが大英帝国。昔日にはミイラ発見を目指し、フランスと競争(今もそうなのかも)していたというが、古代オリエントと地中海の世界からの収集品には圧倒される。
博物館前の通りには一番お得な両替所があったが、日本円の感覚で買い物をすると「こんなもので何故この金額だ?!」となる。
お楽しみの昼食はキドニーパイ(羊肉を煮込んだものをラードで練りこんだパイ生地に包んで焼いたもの)とローストビーフとフライドポテト。ラードのパイ生地は重い。ローストビーフもソースがせっかくの肉を不味くしているといったら申し訳ないか?でも塩・こしょうだけの方がいいが。ビーフよりフライドポテトが皿にどんと鎮座している。
右写真は大英博物館前でお疲れの私。
ロゼッタストーン型のチョコも館の博物館売店に。ネルソン提督率いるイギリス艦隊に万歳!
ホテルは歯ブラシなどの小物は不備だが、疲れてぐっすり。しかし、夜中2時すぎに警報機が鳴り響いた!!一大事と服を身につけ、荷物を急ぎリュックに入れ、6階から外へ。1階の大きな中庭に200数十人、数分間で宿泊客が全員でてきたと思われるが(中にはパンツ一つで裸足の若い男性も)ホテル側の説明は無い。一台来ていた消防車もすぐに帰り、客はほどなく階段で部屋に。騒いでいたのは、カードキーをそのままにして脱出してきた客のみ。ホテルからは翌朝にも説明や侘びは一切なし。日本との違いをひしひし。
28日の宿を予約した。最近はインターネットで予約するのが当たり前になっているようです。
井上照美
しょうえ(漬物入り納豆)
年末も押し詰まった30日、郡上市白鳥町に住むNさんが、わざわざ「しょうえ」を持ってきてくださいました。「しょうえ」とは、納豆に刻んだ漬物を混ぜた、白鳥町二日町辺りに伝わる郷土食です。郡上に長く勤めていた私も、Nさんから昨年の秋に聞くまで、しょうえのことを全く知りませんでした。
昨年11月の初め頃、隣町の小学校の先生から、3年生の子供たちに納豆を作ることを説明してほしいと頼まれました。それで、ずっと昔、仕事で納豆を農家の方たちと作ったことを思い出して、作ってみたところに、Nさんが近くまで来たからと寄ってくれました。その納豆は温度設定が低かったので失敗作でした。それをNさんに見せると「これはあかんなあ、温度が低いんやで。うちのお母さんはコタツに入れて上手に作るで」と言われます。
この時、Nさんのお母さんは納豆を作って、それで「しょうえ」をよく作るという話をされました。それはNさんの夫の大好物で、夫の友人たちも「しょうえ」ができると貰いに来る、二日町辺りでは、もう、Nさんのお母さんくらいしか作る人がいなくなった、貴重な食べものだということでした。
お母さんに納豆作りを教えてもらい、しょうえのことも詳しく聞きたいと頼むと、しばらく後に、「12月中ごろに、雪の降らんうちに聞きに来て」という返事が来たので、飛んで行きました。
Nさんのお母さんの納豆づくり
大豆(1升)を炒る 2つに割る 皮を飛ばす 煮る
煮た大豆をバットに広げて溝を切る(この時煮汁を取っておく)
バットにふたをずらしてかけ、コタツの中に入れる(2日くらい入れる)
これで納豆が出来上がり
しょうえの作り方
米こうじを用意する。
なすの塩漬け、しその実の塩漬けの塩出しをし、刻んでおく。
かめに米こうじと大豆の煮汁、漬物の汁(しょうゆでもいい)を入れ、納豆と刻んだ漬物を入れてよく混ぜる。
米こうじがまだ残っているという頃が食べ頃(20日目くらい)。
しょうえは、熱いご飯にかけて食べたり、焼き餅や茹でたじゃが芋につけて食べるのです。Nさんの夫(50代半ば)や同級生たちは、子供の頃から食べていたそうで、懐かしい貴重な食べものですが、Nさんの子供たちになると、もう食べないらしい。
Nさんがうちで話した時にも、お母さんの納豆作りは納豆菌を入れないで、ただ大豆を煮てコタツに入れておくと自然に納豆ができるというので、大豆を入れるモロブタが木製のもので、それに菌がしみついているのかと思っていましたが、使うのはホウロウのバットでした。わらを使う気配もありません。一冬に何回も作るので、家全体に納豆菌があるのでしょうか。
ちなみに、小学校でお話しするために、再度私が作りなおした納豆は、市販の納豆を種菌にしました(2回目には成功してよい納豆ができ、子どもたちに食べさせて、感動してもらいました)。Nさんのところでは、大豆にどこから納豆菌がつくのか不思議です。
不思議といえば、年末に届けてもらったしょうえは、なんとも不思議なものでした。汁気の中にこうじや納豆がなす、しその実と混じっているというものです。食べられないものではありませんが、私には、それほどおいしいものとも思えず、とてもご飯にかける気にはなりません。
その地域に、そこに暮らす人たちが食べ慣れて、おいしいと思う味、食べものがあるのだと、しょうえをいただいて、つくづく思いました。伊深に暮らす私たちが、今、「くさぎ」を伝えようと思っていますが、もしかしたら、くさぎも、他の地域の人たちにとっては白鳥のしょうえのようなものかもしれません。それでも、その土地の人たちのとっては大切な、おいしい食べもので、いつまでも食べ続けたいものには違いありません。
郡上では、赤だつの漬物とか、切り漬けの汁で渋抜きをした柿とか、白菜やかぶの葉の切り漬けに、鳥やイノシシの肉を一緒に漬け込んだ肉漬けなど、初めて食べるものが色々ありましたが、しょうえは、今回、初めて知ったものです。まだこういう食べものがたくさんあるのかもしれないと思うと、それを調べてみたいという思いとともに、消えていくことへの焦りも感じます。
Nさんは進んでしょうえを食べているようではなかったのですが、「お母さんのしょうえ作りを受け継いで、いつまでもご主人にしょうえを食べさせてあげてください」と、お礼状に書きました。
『ひぐらし記』No.19 2008.2.2 福田美津枝・発行 より転載
昨年11月の初め頃、隣町の小学校の先生から、3年生の子供たちに納豆を作ることを説明してほしいと頼まれました。それで、ずっと昔、仕事で納豆を農家の方たちと作ったことを思い出して、作ってみたところに、Nさんが近くまで来たからと寄ってくれました。その納豆は温度設定が低かったので失敗作でした。それをNさんに見せると「これはあかんなあ、温度が低いんやで。うちのお母さんはコタツに入れて上手に作るで」と言われます。
この時、Nさんのお母さんは納豆を作って、それで「しょうえ」をよく作るという話をされました。それはNさんの夫の大好物で、夫の友人たちも「しょうえ」ができると貰いに来る、二日町辺りでは、もう、Nさんのお母さんくらいしか作る人がいなくなった、貴重な食べものだということでした。
お母さんに納豆作りを教えてもらい、しょうえのことも詳しく聞きたいと頼むと、しばらく後に、「12月中ごろに、雪の降らんうちに聞きに来て」という返事が来たので、飛んで行きました。
Nさんのお母さんの納豆づくり
大豆(1升)を炒る 2つに割る 皮を飛ばす 煮る
煮た大豆をバットに広げて溝を切る(この時煮汁を取っておく)
バットにふたをずらしてかけ、コタツの中に入れる(2日くらい入れる)
これで納豆が出来上がり
しょうえの作り方
米こうじを用意する。
なすの塩漬け、しその実の塩漬けの塩出しをし、刻んでおく。
かめに米こうじと大豆の煮汁、漬物の汁(しょうゆでもいい)を入れ、納豆と刻んだ漬物を入れてよく混ぜる。
米こうじがまだ残っているという頃が食べ頃(20日目くらい)。
Nさんがうちで話した時にも、お母さんの納豆作りは納豆菌を入れないで、ただ大豆を煮てコタツに入れておくと自然に納豆ができるというので、大豆を入れるモロブタが木製のもので、それに菌がしみついているのかと思っていましたが、使うのはホウロウのバットでした。わらを使う気配もありません。一冬に何回も作るので、家全体に納豆菌があるのでしょうか。
ちなみに、小学校でお話しするために、再度私が作りなおした納豆は、市販の納豆を種菌にしました(2回目には成功してよい納豆ができ、子どもたちに食べさせて、感動してもらいました)。Nさんのところでは、大豆にどこから納豆菌がつくのか不思議です。
不思議といえば、年末に届けてもらったしょうえは、なんとも不思議なものでした。汁気の中にこうじや納豆がなす、しその実と混じっているというものです。食べられないものではありませんが、私には、それほどおいしいものとも思えず、とてもご飯にかける気にはなりません。
その地域に、そこに暮らす人たちが食べ慣れて、おいしいと思う味、食べものがあるのだと、しょうえをいただいて、つくづく思いました。伊深に暮らす私たちが、今、「くさぎ」を伝えようと思っていますが、もしかしたら、くさぎも、他の地域の人たちにとっては白鳥のしょうえのようなものかもしれません。それでも、その土地の人たちのとっては大切な、おいしい食べもので、いつまでも食べ続けたいものには違いありません。
郡上では、赤だつの漬物とか、切り漬けの汁で渋抜きをした柿とか、白菜やかぶの葉の切り漬けに、鳥やイノシシの肉を一緒に漬け込んだ肉漬けなど、初めて食べるものが色々ありましたが、しょうえは、今回、初めて知ったものです。まだこういう食べものがたくさんあるのかもしれないと思うと、それを調べてみたいという思いとともに、消えていくことへの焦りも感じます。
Nさんは進んでしょうえを食べているようではなかったのですが、「お母さんのしょうえ作りを受け継いで、いつまでもご主人にしょうえを食べさせてあげてください」と、お礼状に書きました。
『ひぐらし記』No.19 2008.2.2 福田美津枝・発行 より転載
「農村生活」時評⑦ "山村の再生を願う"
この話題との関連は分からないがこの頃、テレビ映像で谷の深い山村が紹介されることが多いような気がする。これまでの仕事で訪ねたむらが登場することもあるので、それとなく注意している。先日、高知県の4世帯・8人の集落の、この年越しの暮らしを淡々と映す番組があった。この地域ではないが、県内のもっと東寄りの山村で10年以上前に「集落移転」の調査をやり、小さな報告書にまとめたことがあるので、似たような景観でもあり印象深く視聴した。
今時の世間の常識とは正反対だろうが、私は20世紀に日本で炭鉱が消滅したのとは少し性格が異なり、いまの世紀には日本の農山村が新しく再生すると確信している。年寄りが未来を信ずるのは特権というか、勝手だろうから、私のいわば「信仰」を語ることにしよう。その再生にはなんといっても、地域産業の再建が不可欠である。それにはいまはまだ、萌芽的な存在だが将来性のある多様な産業が想定されるが、基幹はいうまでもなく農林業である。なかでも中山間で農業が成立するようになれば、条件の良い地域はもっとしっかりした農業生産を展開してもらわなくては困る。そして林業はこれまでとは異なる取組みで、日本列島の資源としての山を生かしてもらう。
これらは私の「農山村再生論」には当然の前提だが、このこともすでに世間の常識とはかけはなれている。しかしその議論はここではやりたくない。世界不況でも一億人がこの島々でなんとか生活せねばならない現実から出発して、この産業振興課題には論客、関係者が多いのだから、座して成り行きを眺めるのではなく、大いに振興策を議論して欲しい。いまこそ金融投機の偽りの世界の呪縛から脱して、農林業というかけがえのない「実体経済」と正面から取り組んでもらいたい。真の「美しい日本」は列島の骨組みをなす山村の再生なくしてありえない。そもそも今日いわれるところの地域の疲弊は、他ならぬこの山村の荒廃から始まったのだから。
さて基幹産業としての農林業はその地域に定住する人々によって担われるだろうが、多様な産業は地域内外の多彩な人々が関わることが考えられる。別に私好みではないが、今の社会は「道路族」と「自動車族」に支配されていて、これからの日本社会はその遺産でしばらくは暮らすことになるだろうという現実をみると、この社会は日々、移動する人々を想定することになる。そうなると、山村に家族で暮らしても、あるいは高齢者だけが暮らしても、働き手世代が就業場所のある近隣地域、地方都市に通勤する、あるいは別に暮らすということがあっても、それなりに家族本位の人間的な安定した生活を営むことができるのではないか。
だがそのためにもっとも必要なことは、この頃は逆風のためさっぱり流行らないが、勤め人の労働時間の短縮である。つまり働き手の移動時間の社会的保障である。定年退職して山に暮らすのも良いが、働き手世代がいかにして安定した働き方をするかに、この社会の未来がある。何時の世でも所得の多寡は大事だが、時間も貯蓄できない以上、もっと大事にしてもらいたい。
森川辰夫
農本主義のこと② 農本思想研究会の開催通知
- 2008/02/10 (Sun)
- ■ 農 |
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農本思想研究会は、昨(2007)年6月10日に名古屋で初めて全国から7人ほどが顔を合わせて発足した。きっかけは、その道の大御所たる近畿大学の綱沢満昭さんから岩崎さんへ届けられた一枚の年賀状。結成を強く促す内容で、理由は最近よく農本思想の現代的意義を問われるからだという。それを受けて岩崎さんが中心となり、心当たりの同好の研究者に呼びかけて実現した。来る2008年2月23日に東京で第二回の会合がもたれるが、私にとってこの研究会は、母がいそいそと地元の短歌のサークルへ通うような、そんな気安い気持ちで参加できる小さいけれど大切な集まりである。
浅輪さんからの思いがけない問いかけもあり、10年も前にいただいていた岩崎正弥著『農本思想の社会史 生活と国体の交錯』(京都大学学術出版会、1997年)をこのたびはじめて読み通した。
この本を著者からいただいたとき、私は遠くフィリピンのボホール島に暮らし始めており、農村生活改善に関する国際協力の仕事に没頭していた。かの地では農業は生活の基盤そのもので、「農本主義」のように農業をことさら尊ぶこともなく、また「卑農思想」のように貶めることもない世界に身を置いていた。それよりもなによりも、日本の8月が年間通して続くような気候の中で、思想的なものへの関心自体を失っていた。
日本に帰って調査研究者の生活に戻ったが、時間を売る勤め人の身であり、外から課された問題をかかえ、期限に迫られて報告書を作成する仕事に明け暮れてきた。私は大学で学問とは自問自答であると教わった。だから、考えるとは、内なる問いに対して惜しげもなく時間を湯水のように使うものだという思いがあり、「政治は現在に賭けるが、教育は未来に賭ける。学問は永遠に賭ける」ものだ、という竹内好の言葉を心に念じてきた。だから逆に、仕事に差し障りのでるような、内なる問いかけを迫る本は無意識にでも遠ざけざるをえなかったのかもしれない。本当は怠惰以外の何物でもないが、敢えて言い訳をすればそういうことになる。
いま読み終えて、私には岩崎さんの本を批評する資格がない、とあらためて思う。
片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
スクっと立つほうれんそう
いつもと同じ寒さだと、首筋を縮めているのは、こちらが年々年をとっている証拠で、やはり地球は暖かくなっていて、ほうれんそうや雑草はそれに敏感に対応しているのでしょうか。この分だとほうれんそうや正月菜だけでなく、大根や白菜の薹立ちも早くなるのかもしれません。薹立つ前にしっかり食べなければ。
『ひぐらし記』No.19 2008.2.2 福田美津枝・発行 より転載
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