農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
「気違い農政周游紀行⑥」 先生は協定を結んでいますか
ワークショップだけにしておけばよかった。知り合いの主催者に頼まれて、うかつにもワークショップの冒頭、20分も貴重な時間を使って「家族経営協定」の意義について自説をえらそうに展開してしまったのがいけなかった。
私は家族経営協定をテーマにした寸劇を作るワークショップを数年前からやっている。ドラマは対立があると盛り上がるから、普段は隠されがちな家族間の葛藤が表に現れやすいし、また普段の自分とは別の立場の役を演じると、頭で考えていたのとは違う予期せぬ発見があり、相手に対する理解が深まるなど、家族経営協定を考えるのに演劇的な手法がぴったり合っていると思うからである。ときどき協定を推進する行政からワークショップの依頼がくる。群馬県の前橋でワークショップを行ったときのことである。
2時間という予定の終了時間を過ぎていたが、ふりかえりの時間を設けて、急いで帰らなければならない人から発言を促した。真っ先に一人の年配の男性が立って、「先生ご自身は協定を結んでいますか。なぜ農家だけに勧めるのですか。私は家庭内のプライベートなことにまで行政が口を出すのはおかしいと思う」と発言して、そのまま会場を後にした。楽しそうに寸劇を演じていた方だっただけに、意外な発言だった。どう答えたらいいのか思案している間に、男性がいなくなってしまったので、質問だけが宙に浮いた形になった。その場に残された参加者が代わりにそれぞれ答えていく。「うちは農業後継者がいないので結んでいないが、自分は勧める立場にあり、あらためて協定を推進していこうと思っている。」殊勝な意見が、協定を結んでいない農業委員の男性たちの口から多く聞かれた。
賛成反対それぞれの本音を引き出した点で、このワークショップは私にとって成功であった。同時に、協定を結んでいない農業委員が感じたであろう後ろめたさを私も感じた。協定を推進するために妻との間で協定を結んでいる研究者がいることを知ってはいるが、私自身は誰とも協定を結んでいない。ただ、協定の調査をしたことによって、自分が得たものがとても大きかったと自覚している。
ある農家での調査中につい口にしてしまった自らの失言によって、私は男たちの多数派の一人として自分がいかに生活を軽視してきたかを身にしみて感じることができた。遅まきながらでも、そのことに気づく機会をもてたことに感謝しているので、家族経営協定には人一倍、恩を感じている。
家族経営協定の効果は何か、とよく問われる。協定は一つの道具だから、効果の有無は使う人の使い方次第だ、と突き放した答え方もできる。でも、功績は何かと問われたら、はっきりいえることが一つある。それは、上記の男性のように「家族の問題に農政は口を挟むな」という反発を引き起こしたことである。なんらかの震かんに触れたからこそ、こうした反応があるのであり、問題の核心を突いていることだけは確かである。
農政の意図は、家族農業経営の問題点を改善していくことにあり、その中で働く後継者や女性たちの働きがちゃんと評価されることをめざしている。しかし、家庭内に根深い問題を抱えている農家は、農政が意図するような家族経営協定を結べない。協定を結んでいるのは逆に、他の模範となるような、問題の少ない農家である。皮肉な見方かもしれないが、問題の有無を見極める一つの試金石として、今の協定は機能している。
結べる農家と結べない農家の違いは何か。協定の締結は相手があることだから、協定を必要とする人がどんなに切実に欲しても結べるとは限らない。世の常として、弱い立場の人が自分から言い出すのは勇気がいる。実際は、経営主が妻の苦労をねぎらって、あるいは早く後継者が一人前になるのを願って、または、経営主の妻が、かつて自分が味わった苦労を嫁にさせないために、そういう「いたわり」が締結の原動力となっている。つまり、協定によってあぶりだされるのは、農家の中に、弱い立場の家族への配慮があるかないか、ということである。
「気違い農政周游紀行⑤」 国内生産だけの食卓
ご覧になって、その質素ぶりに落胆された方も多くいるかもしれない。が、私は至極安堵を覚えた。なあんだ、と思った。意外なことに、魚の切り身まで付いていて、うれしくなった。私はもっと質素な三度三度の食事で暮らした経験がある。
30年以上前の話で恐縮だが、刑務所の食事だってもっとずっと贅沢だったにちがいない。私が思い出しているのは、福井県にある永平寺に参禅したときの食事である。食事も修行の一つであり、何百年も続けられてきたものだというから、きっと今でも同じメニューだと思う。
19歳の私は、10日間の参禅を終えて山門を出るや否や、目の前の店に飛び込んでカツ丼を注文し、それが出てくるのを待てずに、店頭でハムを買ってかぶりついていた。その姿は餓鬼のようだったのでは、と今になって想う。身体が求める食欲にただただ素直に反応していた。食欲にただ屈するのではなく、やせ我慢と言われようが、もう少し悠然とかまえることだってできたはずである。要するに10日間ではまだまだ修行が足りなかった。
片倉和人
「気違い農政周游紀行④」 生物に餌食あり
秋も深まったある日、蔵の前に置かれた椅子の上にうずくまる野良猫を母がみつけた。長年この辺りを縄張りにしてきたふてぶてしい雄猫で、隙をみては家猫の食べ残しの餌を盗み食い、古くからいる家猫の一匹は毎年決まってこの野良猫の子を宿した。だいぶ弱っている様子で、「こんなところで死ぬなよ」と母が声をかけると、ウーと一声うなり声をあげたという。翌朝、椅子から落ちて野良猫は息絶えていた。
春も近い冬のある日、若い方の家猫が、スズメより一回り大きな野鳥をくわえて、さっそうと家の中に入ってきた。家猫の習性として、獲物を捕ると、得意げに家の人にみせるのである。しかし、家の中に持ち込んで安心したのか、一瞬の隙をついて、野鳥が猫の口から自らを解き放ち、大騒ぎになった。ムクドリだった。
台所に逃げ込んだ獲物を追って猫が宙を飛び、手負いのムクドリの灰色の羽毛があたりに舞い散る。猫と鳥の壮絶な捕り物が始まるや否や、それを追いかけるように、父と母の罵声が飛び交った。驚いたのは猫の方である。
83歳の父は、箒を振りかざして、「野鳥がかわいそうだ」と言って、家の外に逃がそうとする。それを見て、78歳の母が椅子に座ったまま「せっかく捕ってきたのに、かわいそうなのは猫の方だ。逃がさないで、捕らしてあげればいい」と平然と見ている。父は怒って、「猫には餌を十分にやっているのだから、かわいそうなことはない」と声を荒げた。すると母が言い返す。「獲物を捕るのは猫の本能なのだから、そんなこと言っていると、ねずみも捕れなくなってしまう。」
この一件で学習したのは猫の方で、野鳥を捕まえて家に持ち込んでも人目につかないところに隠すようになった。しばらくして廊下の物陰に野鳥の死体をみつけた。猫の餌食になったのはツグミだった。
猫を飼っていて厄介なのは、生まれてくる子猫の始末である。ねずみ対策には1匹いれば十分だが現在は2匹。3匹いたこともある。子猫の運命を握っているのは人間で、いわば神のような存在である。神の役は無情でないとつとまらない。この嫌な役を父と母は分担する。「間引き」のように目も開かないうちに隔離して始末するのは母の役で、子を探す母猫が不憫で1匹だけ乳離れするまで大きくして「桃太郎」のように川に流すか、「姥捨て」のようにどこか遠くに遺棄するのは父の役である。
食べるということは他の生き物の命を奪う残酷な行為なのだが、この当たり前のことを、近頃盛んになっているという「食育」ではどのように教えているのか、そんなことがふと気になった。
片倉和人
再び普及員に
2年近く気ままな生活を送っていたので、朝きちんと起きて、家事をしてから出勤できるか、8時間以上の拘束された時間に耐えられるか、前のように普及員として仕事ができるかという不安を持ちながら、緊張して最初の3日間を過ごしました。
この普及センターは、10年前に2年間勤務したところです。そのころは大勢の職員がいて、事務所の中はごった返していましたが、10年経ってみると、職員は大幅に減り、空き机が目立ち、整然として静かです。本当に静かです。
仕事が始まる朝、シーンとしているので、新米臨時普及員はため息も漏らせません。昔は朝の普及センターというと、現場へ出て行く普及員がだれかれとなく打ち合わせたり連絡したり、また市町村やJAなどからも電話がかかってきたりして、騒々しいものでした。
最初の日は、まだパソコンも与えてもらえず、内緒だけど、うちから持っていった私的な(といっても、学校で頼まれている郷土菓子作りの参考資料や、女性農業経営者会議から送られてくる資料など)ものを広げて、手帳に、私的なスケジュールばかり書き写して過ごしました。
2日目には、3日目に起業グループの役員会に同行することになったので、そのグループの指導記録を出してもらって、隅々まで読み、ポイント的なことは書き写し、データーはコピーをとって、計算機でパーセントや合計などを出して分析しました。前の現職の時、これほどまでにしていたら、とってもよいアドバイスができたのではないかと思いながら。
3日目には、2週間ほど先に開催される「流通・販売を考える」講演会の通知を出す仕事があって、郵送してくださいという指示だったのを、場所がわかるところだけは届けようと思い、その地域の責任者である班長に断りを入れました。ああこれでやっと現地へ行けるぞ。
この日の午後は、起業グループの役員会。公用車を運転して、30キロ離れたS町へ。今まで担当していたKさんと一緒に役員会に出ました。役員会が進行している間に、少しずつ頭が動き始めました。懐かしいなあ、これこれ、こんな時があった。蘇ってくる感覚にぞくぞくしてきます。
そして4日目の今、午前中は通知を持ってあちこちへ出かけ、直売所の様子を見てきましたが、帰ってからはまた暇。こうして「ひぐらし」を書いています。
ここでの1年余の勤務で私が担うのは、生活関係の仕事(昔の生活改良普及員が行っていた仕事)です。その内容は、女性農業経営アドバイザーや農業婦人クラブの活動、そして、農村起業活動です。10年の間に起業活動はずいぶん増え、安定的な経営のようですが、どこも同じ、販売実績は以前のようには増えていかなくて、その分人件費や原材料のコストが上がっているようです。農業婦人クラブの活動は低調で、その代わりというか、女性農業経営アドバイザーは活気に満ちているようです。
今までと違って、他に何の役職もない臨時職員なので、与えられた生活全般の仕事だけですむのかと思うと、それに集中してできることが嬉しいです。この先の1年間の仕事がどのようになるかわかりませんが、昔の勘を取り戻しながら、現状をよく見て、2年間の農婦見習いの経験も活かして勤めようと思っています。(勤務4日目の感想)
『ひぐらし記』No.20 2008.3.10 福田美津枝・発行 より転載
「農村生活」時評⑨ "半田舎暮らしの道路つき合い"
今の住まいは私が弘前にいるとき、妻があちこちを探し歩いて決めたところだ。別に責任を逃れるわけではないが、不動産屋さんもこの高速道の計画があることはいわなかったし、水田を見晴らす、やや高台になっている立地を気に入った妻に責任があるわけではない。弘前時代はともかく忙しく、転勤族にはどこでもいいやと簡単に思い、迫り来る老後の生活に想像力が働かなかった。
この高速道へはインターまで遠く、まだ車でいったことはないが、自転車で走る時、下をくぐったり、道をまたぐ橋の上から眺めている。車と道路はいまさらいうまでもなく、現代の農村生活のあり方を根底で規定する存在であるが、その割にはまとまった論考は少ないようである。そういう私も運転しない、出来ないせいか、メインのテーマとしては避けてきた領域である。
水田と畑の中間地域で雑木林の傾斜地を業者開発した小規模住宅地に住んでいるが、こういういわゆる混住地域は、巨大都市圏の発達で人口比率は少ないが、空間的には大事な領域である。近畿圏、東海圏、首都圏などの周辺にはかなり広範に広がっている。この地域は私のようにただ不便さを嘆くのではなく、農空間との隣接性という特徴を生かしたいものである。その目玉はなんといっても、生産現場に近く、多様な直売施設に恵まれていることである。
だが、その前に田舎暮らしの一端に触れられる生活という側面を大事にしたい。宇根豊さんが「里山を吹き抜ける風の薫りと、絶え間ない川のせせらぎ。感動的な情景だけど、これ、みんな田舎では当り前のこと。田舎で暮らすってことは、こういう自然のリズムに合わせて生きるということだと思う。田んぼや畑の作物だけでなく、そこに生きる虫や草が生きるリズムに合わせる」と、田舎で暮らすことの本質を語っている(07.9.23.朝日)。
わが住まいも含めていわゆる混住地域は、荒廃し、いかにも乱雑で生活環境としては汚れているが、こういう本当の田舎に隣接しているということは忘れたくない。ましてや、その田舎がやはり道路開発や耕作放棄などで荒れてきている時、隣人の責任というものを考えたい。
私にとって道路とは、自転車で通る公共施設だが、そこは多種多様な車が行き交う、いや横行する修羅場である。その脇で、白髪頭がヨロヨロと走ると、車のドライバーにとっては危ない、邪魔な存在には違いない。しかし、これが私の唯一の自立生活手段である。このところ気のせいか、私のような年寄りの自転車が増えてきたようである。日常的に自転車暮らしをしているから、多分、そのうちになにかの事故に遭うに違いないが、今の政府が75歳以上は死んでくれといっているので、その「国策」に沿っている。
森川辰夫
ひな祭りコンサート
今年のひな飾り展では、コンサートをやろうということで、最終日曜日の3月2日に決め、地元で三味線を習っておられる方や、M屋さんの奥さんKさんも加わっておられる「T町朗読の会」の方々による朗読などを取り入れて、ぜんざいと甘酒つきのコンサートを計画しました。
私はぜんざいを担当しました。コンサートの5日前に菱餅をつきました。白い餅と、蓬餅、赤米の餅の3種類の餅をつき、菱餅を3組作り、残りは小さな四角に切って、ぜんざい用の餅にしました。Uさんは企画と広報担当で、新聞折込にするミニコミ誌に、このコンサートのことも掲載してPRに努めます。
いよいよコンサートの当日、前日から煮たあずきを味付けし、小梅や沢庵、かぶら漬けを用意して、会場であるM屋さんにつくと、座布団やひざ掛けを小脇に抱えた年配の方たちが、会場に入っていきます(地元の老人会の方々が楽しみに待っていたとか)。会場はM屋さんの店の中。一升びんを入れるプラスチックの箱を伏せて、そこに板を渡し、毛布を敷いた、にわか作りの観客席には、もう何人か座っておられ、店の奥の間には座布団持参の方々がひざを並べてお座りして見えます。
ぜんざいや漬物を準備している間にも、お客さんがどんどん入って見えます。ぜんざい足りるかしら、余分に持ってきたあずきに、味をつけたほうがいいかしら、次々に増えるお客さんたちを見て、心配になります。
時間が来て、Uさんの開会で、いよいよ始まりました。オープニングとして、初めには予定していなかった男声コーラス「岐阜ボーカルサウンド」5人の歌声が聞こえてきました。このコーラスは、飛び入りでした。コンサートの2週間ほど前に、Kさんの同級生の方々が、ひな飾りを見ながら同窓会をM屋で開かれたとき、このコンサートの話が出て、そのうちのお一人の方のご主人が男声コーラスをやっていらして、「主人たち、歌いたいばっかりだから、ここで歌わしてもらうと喜ぶと思うわ」の一言から、飛び入りの出演が実現しました。
オープニングの飛び入りにしては8曲ほども歌われましたが、素人とは思えないハーモニーで、ひな祭りに、男声のコーラスも、なかなか面白い趣向だ、特に、女性を楽しませるには、魅惑的な男声コーラスが最もふさわしいなあと思いました。
次は朗読の会の「故郷の春」の朗読です。地元の6人の女性が、このM屋がある町で、明治に生まれ育ち、東京で活躍した「木村小舟」さんが書いたお話の朗読です。ひな祭りにちなんで、春らしい桜のことを書いた、小舟さんの幼いころの思い出につながるお話です。子供向きに書かれたとはいえ、明治のころの言葉遣いなので、多少難しい言葉づかいも出てきていますが、それが奥ゆかしい雰囲気を作り出して、趣のある朗読となりました。優しい女性の声が、春の暖かさや、桜の華やかさを感じさせました。
最後が「徳山流津軽三味線」の演奏です。これも、地元の4人の女性が習っておられる、その腕前を披露していただくのです。聞きなれた曲も多く、なじみのある演奏のようでしたが、このころからは、演奏が終わった後に食べていただくぜんざいの餅を焼かなければなりません。Kさんの3人の娘さんと一緒に、ぜんざいや甘酒を温め、餅焼きのフル回転です。オーブントースターや電子レンジを使い出したら、突然ヒューズが飛んで、停電。あわててご主人にセットしていただいて、再開(ちょうど演奏は夕焼け小焼けに入っていたので、三味線の方は、曲に合わせて照明を暗くした演出だと、その心配りに感激されたとか、冷や汗ものでした)。
好評のうちに演奏が終わり、あられと炒り豆(近くの方がお手製を作ってくださったもの)の入ったおひねりが配られ、次々とぜんざいや甘酒のお椀がでていきます。予備の予備もあずきまで、大急ぎで味付けして、60客用意したおわんを洗い足して使って、大賑わいの店内。夢中になっていた餅焼きを終え、気がつくともうお客さんは去っていって、がらんとしたお店の中に、空のおわんや漬物鉢とともに、心地よい達成感が残されました。
Kさんの話によると、最近は各地でひな飾りが行われるようになったことと、今年は土・日曜日には、必ずお天気が悪くなったので、ひな飾りを観に来たお客さんは、昨年よりも少なかったとか。しかし今日のコンサートには、予想をはるかに超えた人の入りでした。この店の中に、よくもこんなに人が入ったものだと人ごとのように感心しながら、裏方の皆さんと、残り物のぜんざいや甘酒をおなかいっぱいいただきました。
このコンサートの前、2月4日にはオープニングを記念して、このコンサートに出ていただける朗読の会や関係するものたちで、昔のひな祭り料理を楽しみました。あずきご飯、丸干しイワシの焼き物、先星大根とサトイモの煮物、つぼ(タニシのこと・アサリで代用)とねぎの味噌和えなどを食べ、おいしいお菓子とお茶を点てていただき、楽しいひと時を過ごしました。
私たちの年代は、日々、仕事や家事、雑用などに追われて、周りの人と話すことも少なくなっています。そんな時だからこそ、こうして時間をやりくりし、顔を合わせて話すことがとても大切なことに思えます。それに食べ物がくっつけば、「同じ釜の飯を食う」仲間意識もでき、話も弾みます。
このひな祭りを介してのコンサートでは、地元で朗読や三味線を楽しんでいる人があることを知りました。勝手な想像ですが、演奏してくださった方々も、愉しんでくださったのではと思います。どのグループも、出演料はなくても出ていただき、お礼はおひねりのあられとぜんざいや甘酒を食べていただいただけです。
豆炒りやあられ作りの上手な人を知って、それを味わうこともできました。その方たちも、喜んで作って、持ってきてくださいました。
座布団を持って、芝居見物のようにコンサートに足を運んでいただいた、ちょっと高齢の方たちには、三味線ばかりでなく、チョイ悪っぽいおじ様方のコーラスは新鮮だったのではないでしょうか?(ぜひ、感想を聞いてみたいものです)
計画したものの、最初はどうなるのか皆目つかめず、「自分たちがまず楽しめればいいや」くらいの考えで始めましたが、私たちはもちろん、演奏者のかたもお客さんも、大いに愉しんでいただいたコンサート、これからも、楽しいことを考え、大勢の人が集まって、皆さんで一緒に愉しみたいと思っています。
『ひぐらし記』No.20 2008.3.10 福田美津枝・発行 より転載
バングラデシュ 村の植物誌
マンゴは、食べると"やせる"食物であると考えられている。
<熟していない実>
マンゴの未熟果は酸味が強い。実がつく時期はちょうど暑い時期でもあり、いろいろな料理に混ぜられ、食欲増進に用いられている。
トルカリ(おかず、の意味。野菜、肉や魚を、ターメリックやトウガラシなどのスパイスで煮たり焼いたりしたもの)の中では、野菜のトルカリ(ニラミシュ:肉なし、という意味)や魚のトルカリと合うと言われている。また、ダル(豆のスープ)やキチュリ(米に豆などを混ぜて炊き込んだもの)にも入れることがある。
そのままのマンゴをトウガラシと塩をつけて、すっぱい味を楽しむのは、子どもや妊婦に多い。妊娠するとすっぱいものが食べたくなるのは、いずこも同じなのだ。そのほか、細く果肉を切ってから塩とトウガラシとまぜると、それはアメル・ボッタ(マンゴのボッタの意、ボッタとは、野菜や果物をそのまま、あるいは蒸してから、油や塩、スパイスと混ぜて練ったもの)という料理名となる。細切りの果肉を、カションド(マスタード粒とスパイスを原料として作るソース)に混ぜても、マスタードのぴりっとした味が利いて、美味しい。が、きょうび、カションドを手作りするような家はほとんどなくなってしまった。
その他、切って砂糖と煮たり(ムログバ)、乾燥させたり(フォリ)、砂糖やスパイスと混ぜてピクルス(アチャル)も作れるが、それほどには収穫もないし、手間もかかるということで、現実には、大半が生や料理に混ぜて食されている。
※カションドの作り方:ライショリシャ(ナタネの一種)の実を新年から1ヶ月の間に、サリーで包んで洗っておく。それをすりつぶし、ジラ、ゴルモスラ、シナモン、ロボンゴ、ショウガ、ターメリック、トウガラシ、テズパタ、塩と混ぜ合わせる。
左: カションドの材料
右: カションドをすり潰している調理器具は、シルパタといって、石で作られている
<半熟の実>
ちょっと甘みが出てきた半熟果を細切りしてカションドと混ぜても美味しい。
<熟した実>
熟した実は、そのまま食べるよりは、ムリ(ポップライス)や、ムリと牛乳を混ぜたもの、あるいはご飯と牛乳を混ぜたものの中に入れ、手で混ぜ合わせながら食べる方が好まれている。ようやくトルカリとご飯を食べ終わったのに、また新しい皿にご飯を入れられて、「もう、おなかが一杯」と辞退したい気持ちになるが、そこに、熟したマンゴを加え、ミルクをかけると、ご飯や牛乳の甘みとよく混ざり、リッチなデザート気分。熟したマンゴも乾燥させることもできるが、その場合は、フォリではなくショットと呼ばれる。
○○薬として
バングラデシュでは、ガスティックという体の状態がある。女性に多いといわれているようだが、胃腸にガスがたまり、おなかが張るような状態である。このようなとき、若葉のしぼり汁を水で薄め、朝に飲むと良い、と言われている。
また、伝統的治療師(コビラジ)が主に施す用法であるが、下痢のとき、酸味種のマンゴの幹を削り、スパイスのようにシルパタですりつぶし、服用させると良いと言われている。
マンゴの根を柄に使ったアチャリ(鎌) 使いこなされたアチャリ
○○木材として
マンゴの木は、柔らかいため、虫がつきやすく、あまり良い材とは言われてないが、近年は木材の不足もあって、よく利用されるようになっている。柱などの建材には利用されないが、寝台、扉やテーブルなどの材として利用されている。ベッドをマンゴの材作ると安く仕上がるが、それで眠っていると、そのうち、ギリギリ、ギリギリ、と虫が材を食べる音を、寝ている間中聞くようになり、何年かすると、ベッドの足元には、虫食いのくずが山となる。その一方、マンゴの根は硬いため、鎌(アチャリ)の柄の材料として利用される。
○○そのほか、葉や枝は、燃料として用いられている。
また、キンマという嗜好品(ビンロウジュという椰子の実の一種の砕いたものを、キンマの葉でくるみ、噛んで、その苦い、しびれるような味を楽しむ、キンマとビンロウジュについてはまた後の回で紹介)がある。とくに中高年、なかでも女性が好むものだが、キンマはつる性で、他の樹木に這わせる必要がある。マンゴはキンマを支える樹種として適しているといわれている。マンゴに這わせると、キンマが美味しくなるそうだ。マンゴにとっては、キンマの根から樹液を吸われていることになるので、あまりありがたくない話しかもしれない。ちなみに、マンゴと同じウルシ科のジガという植物も、その支えとして適しているそうで、ウルシ科の植物はキンマにとって相性がいいのかもしれない。
また、マンゴの花で蜂蜜を採っている人もいる。
マンゴは、『コナルボチョン』という、ベンガルに古くから伝わることわざ集にもよく登場している。
「アム(マンゴ)は稲、テトル(タマリンド)は洪水」(マンゴがたくさん取れる年は、稲もよく取れる、テトルがたくさん取れる年は、洪水が起きる)」マンゴが知らせる気候
「アムを植えて、ジャム(ムラサキフトモモ)を植えて、カタール(ジャックフルーツ)を植えれば、12ヶ月いろんな果実が次々取れる」マンゴなど果実の恵み
「チョウトロ月(3月中旬から4月中旬)の霧、アムは腐る、タル(オウギヤシ)とテトルはとても良い」マンゴに適した気候、などさまざまである。
(コナルボチョン:Khonar bochon, 1995, Narigrosuta Poribortona, Dhakaより引用、翻訳)。
バングラデシュ 村の植物誌
マンゴは、バングラデシュでは、アムと呼ばれている。マンゴは、村人が最も好む果樹の一つである。マンゴは、小さいうちは、かなりの日陰でも耐えることができる。屋敷地の裏手のジョンゴル(雑木林と藪を合わせたようなところ)の薄暗い林床に、まるで雑草のようにマンゴがたくさん生えているのを良く見かけた。村の人は、マンゴを食べた後、種をジョンゴルなどにぽいっと放って、少し土をかぶせる。マンゴは、食べた後すぐに(乾燥しないうちに)、土の上に置かないと発芽できない。マンゴの特性をよく生かした、育て方である。
藪の下草のようにマンゴの幼樹は大きくなり、見どころがあるな、と選ばれたものだけが(?)、明るい場所に新しく植え替えられる栄誉を勝ち得ることになる。マンゴの木は、大変大きくなる。こんもりと四方に広がり、がっしりとした感じで、とても美しい眺めである。
マンゴの木 遠景
だいたい、5~7年くらいすると花がつくようになる。マンゴの花は、けっこう地味で、ちょっとネズミモチに似たような感じがある。その花が、村では乾季の終わりごろ、マグ月(2月ごろ)に開き、次第に大きくなる。
マンゴの花
青いマンゴ
収穫したまだ青い実をぶら下げて見せてくれる少年、うしろに見えるのは、サリーを重ねて刺し子をしたふとん(カタ)である。
マンゴが大きくなる時期は、とても楽しみな時期である。カジシムラ村のジュマは、その時期、自分の部屋で寝ていると、トタン屋根にマンゴの実があたる音が聞こえて、とても嬉しい気持ちになる、と話してくれた。緑の実が徐々に赤く色づいてくるが、緑のまま熟すものもある。バングラデシュでは、取り木などの栄養繁殖はほとんどせず、実生繁殖なので、マンゴの実の大きさや味は、木によって違う。うちのが一番おいしいのが成る、いや、うちのだ、とそれぞれが自慢したりしている。
ボイシャク月、ジョイスト月(いずれもバングラデシュの暦、5、6月ごろに当たる)に実が熟してくるが、チャムリア村の小さい子らは、まだ青いうちから、食べたい、食べたいと母親にせがみ、熟する頃には、ほとんど実は終わってしまっている。マンゴ好きの私は、胸の中で(もう少し待ったらもっと美味しいのに・・・)とぼやくのだが、子どもらにはかなわない。実には虫がつきやすいため、あまり売られることはなく、その分、村人たちが楽しめる果物となっている。
マンゴの利用法は、実にさまざまである。「妻は夫にマンゴとピタ(米粉で作ったお菓子)を食べさせないといけない」と言うならわしからは、村の暮らしにとってのマンゴの重要性がうかがわれる。
マンゴ(学名はMangifera indica L.)