農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
「農村生活」時評⑨ "半田舎暮らしの道路つき合い"
今の住まいは私が弘前にいるとき、妻があちこちを探し歩いて決めたところだ。別に責任を逃れるわけではないが、不動産屋さんもこの高速道の計画があることはいわなかったし、水田を見晴らす、やや高台になっている立地を気に入った妻に責任があるわけではない。弘前時代はともかく忙しく、転勤族にはどこでもいいやと簡単に思い、迫り来る老後の生活に想像力が働かなかった。
この高速道へはインターまで遠く、まだ車でいったことはないが、自転車で走る時、下をくぐったり、道をまたぐ橋の上から眺めている。車と道路はいまさらいうまでもなく、現代の農村生活のあり方を根底で規定する存在であるが、その割にはまとまった論考は少ないようである。そういう私も運転しない、出来ないせいか、メインのテーマとしては避けてきた領域である。
水田と畑の中間地域で雑木林の傾斜地を業者開発した小規模住宅地に住んでいるが、こういういわゆる混住地域は、巨大都市圏の発達で人口比率は少ないが、空間的には大事な領域である。近畿圏、東海圏、首都圏などの周辺にはかなり広範に広がっている。この地域は私のようにただ不便さを嘆くのではなく、農空間との隣接性という特徴を生かしたいものである。その目玉はなんといっても、生産現場に近く、多様な直売施設に恵まれていることである。
だが、その前に田舎暮らしの一端に触れられる生活という側面を大事にしたい。宇根豊さんが「里山を吹き抜ける風の薫りと、絶え間ない川のせせらぎ。感動的な情景だけど、これ、みんな田舎では当り前のこと。田舎で暮らすってことは、こういう自然のリズムに合わせて生きるということだと思う。田んぼや畑の作物だけでなく、そこに生きる虫や草が生きるリズムに合わせる」と、田舎で暮らすことの本質を語っている(07.9.23.朝日)。
わが住まいも含めていわゆる混住地域は、荒廃し、いかにも乱雑で生活環境としては汚れているが、こういう本当の田舎に隣接しているということは忘れたくない。ましてや、その田舎がやはり道路開発や耕作放棄などで荒れてきている時、隣人の責任というものを考えたい。
私にとって道路とは、自転車で通る公共施設だが、そこは多種多様な車が行き交う、いや横行する修羅場である。その脇で、白髪頭がヨロヨロと走ると、車のドライバーにとっては危ない、邪魔な存在には違いない。しかし、これが私の唯一の自立生活手段である。このところ気のせいか、私のような年寄りの自転車が増えてきたようである。日常的に自転車暮らしをしているから、多分、そのうちになにかの事故に遭うに違いないが、今の政府が75歳以上は死んでくれといっているので、その「国策」に沿っている。
森川辰夫
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