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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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備忘録 鈍行の楽しみ

yama.jpg 急ぐ旅でなければ、各駅停車の電車に乗って移動する。地方を走る平日の電車の乗客はまばらだ。私の旅の道づれは、ゆっくり移り変わる車窓の風景と、脳裏に去来するとりとめもない断想たちである。
 冬のよく晴れた日には、車窓から遠く雪をいただいた山々が見わたせる。甲府盆地だったら、北に八ヶ岳連峰が横たわり、南に富士山の頂が顔を出している。家々が重なり人間が多く住まうのは平らかな低地なのだが、山脈の存在は圧倒的で、日本列島に君臨しているのは人間ではなく、頭に白い冠をいただいた山々だと想わずにいられない。
 甲府から身延線に入る。終点の富士駅までに38駅ある。信州の険しい山ばかりみて育った私には、高校生のとき初めて乗った身延線沿線の山並みは、そのやさしい姿ゆえに強い印象を残した。一人で静岡に住む姉に会いに行った。あのとき身延線を使ったのは好奇心と旅費の節約からだったが、今度岡谷から静岡に出かけるのに身延線に乗ったのは別の理由からである。
 三人連れのお婆さんたちが乗ってきた。「自分の生れた在所は、電車で通るだけでもなつかしい」と一人が車窓から見える対岸の山里を指さしている。のんびりしたやりとりが耳にここちよい。三駅ほどで降りていった。
 なにげない日常が、地面から少し浮き上がって、日常でなくなる時間が、山里をゆく各駅停車の電車の中に流れている。

片倉和人
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春(3~5月)

haru.jpg 山の春は3月からである。3月の陽射しは、まだ寒暖の差の激しい中でも春が来たという強さを感じる。枯れた雑木林の中に[満作]が黄色なつつましやかに春の訪れを告げる。そして、こぶしの白い花が天を突くように咲き、夕暮れには打ち上げ花火のように見える。そして、鶯が声を上げ始める。当初は、下手な泣き声であるが、日に日に上手になり夏の真中まで心地よい鳴き声を聞かせてくれる。こうした山々の春を告げる姿に、人々は百姓の野良仕事の心を掻き立てられるのである。
 山の春は日に日にその景観を変える。暗かった冬の山が、[満作]、[コブシ]の花を見ると間もなく雑木林の梢が盛り上がったように見えてくる。赤茶けたような杉林が濃い緑に変わってくる。山桜が咲く。この桜は何種類かあって花の期間が1ヶ月ぐらい続く。そして、山全体が淡い緑、黄、赤と織り交ぜて盛り上がる。
 山の春は、山菜がある。蕗の薹、よもぎ、芹、ぜんまい、蕨、蕗、独活、シオデと一通り採取のために山歩きしないと気がすまない。然し、1997年ごろからツキノワグマが出没するという話が出て山に入るのを遠慮するようになった。
 百姓の春は、野良仕事から始まる。屋敷地とはいえ荒地になっていた処に家を建てたのであるから、当初は周辺の整備からが野良仕事である。冬の間は屋敷周りの篠の刈り取りであったが、春は開墾から始めた。笹が一面に生え、笹根が這い巡っている所を備中鍬(ミツグワ)、唐鍬で起こして畑にして馬鈴薯を植えた。あわくらの百姓の第一歩であった。
 こうして、荒地を開墾して畑にして春野菜の種を蒔き、夏野菜の苗を植えるのが春の野良である。流石に、開墾を人力だけで行うには限界があり、管理機を入れ機械で開墾ということになった。
 百姓の春の大仕事は稲作の準備がある。3月の苗つくりから始まる、苗箱の土入れ、種籾塩水選、消毒・浸水催芽、播種、発芽処置、育苗管理が4月、5月と続き、5月中旬の田植まで春の仕事である。
 春の旬に筍がある。このむらの日当たりの良い場所に家の孟宗竹の林がある。4月始めには筍が掘れる。朝早く竹やぶに入って筍を掘るのは楽しみである。当初は2、3本やっとの思いで掘るが、盛期には30本くらい採れる。
 この筍も何時の頃か、猪が入って掘って食い荒らすようになった。彼らは嗅覚が張っていて地中深いところの筍を掘って食べる。3月の中ごろから出没し、初物は人様の口に入らないようになった。
 この春という季節に、我が家に思いがけない大きな事柄が生じた。妻久枝の癌の手術であった。1994年正月に、体調を崩し村の診療所で検査の結果、大腸癌、しかも初期の段階を過ぎ進行性と診断された。埼玉県立がんセンターに入院、4月の手術と入院・手術・退院・帰宅と4ヶ月の闘病があった。
 以来、春・秋の定期健診を1997年まで、以後2001年まで7年間、毎春の定期健診を続け完治することができた。癌との遭遇は、わが身に起こることとは考えても見ないことであった。幸いにして、癌を克服することができ、妻久枝は、様々な農作物を「私、加工する人」に徹した暮らしを続けることができた。
 春は、食べ物の加工(農産加工)の始まりでもある。製茶:屋敷地にある茶の木から新芽が4~5葉に伸びたものを摘んで厚鍋で蒸し炒りして丹念に揉む。こうして自家製のお茶ができる。加羅蕗:山菜として蕗を採るが、量が少なく、畑に植えるようになった。5月、6月が盛期である。10㎏から20㎏もの蕗を加羅蕗にする。年末の贈答品として貴重な製品である。これらは妻久枝の大切な田舎ぐらしである。

小松展之『あわくら通信』第34号(2008.5.21発行)より転載

「農村生活」時評18 "「哲学」は嫌いだ"

tetsugaku.jpg 高齢者の一番の恐怖はなぜかピンとこない自分の「死」ではなく、迫り来る認知症である。私のような「認知症予備群」の改善には、軽い運動と知的な趣味の組み合わせが有効だ、との最近の研究が明らかにしたという。日常的に自転車に乗るのがどれほど「軽い運動」にあてはまるか、はともかく、無理に「知的な趣味」に仕立てて三つの定期的な「読書会」に参加している。その内の一つの「古典」の会で参加者の一人が、「哲学は嫌いだ」と強い口調で発言したので、そのKY振りに驚いた記憶がある。東西を問わず「古典」を読むとどうしても、哲学的な側面に触れることになる。何が哲学かはその人の受け取り方だが、要するに物事を根本的に考えるということだろう。この出来事にかかわらず、かねてから日本人はどうも哲学そのものも、哲学的なことも嫌いらしいとは気になっていた。
 超高齢社会のせいか、「農」復権の表れか、その双方が重なっているのか、山村の個性的な高齢者の暮らしにせまるテレビ番組が多いようである。そこで私の感ずることはこの人々の持っている「生活哲学」のようななにものか、である。それはいわゆる生活信条でもあり、家庭事情による高齢者の心境そのものかも知れない。一方、現役の農業者は困難な社会経済環境も反映しているのか、強烈な「農業哲学」の持ち主が多いようだ。今時、農業をやろうという人は、個性的な主張があるからこそ、がんばれるのだろう。私の「哲学」理解はそのようなものだが、ともかく人間にとって大事なものという気持ちがあり、それほど大袈裟にしなくとも、尊敬すべきものだと思ってきた。
 今年度は隠居に声がかかり、ある省(特に名を秘す)の委託の仕事で研究会が組織され、珍しくメンバーに入れてもらった。私以外の方々は大変真面目で勤勉であり、これまでの研究者生活の中での、やたらとこの種の行政対応報告書作成に参画した経験からいって、内容はもちろん、原稿の期限も厳守で素晴らしい報告書原稿ができたと喜んでいた。ところが思いかけず、印刷直前スポンサーから内容にチェックが入り、いまにもかよわい脳の血管が切れそうな思いである。この干渉にはいくつかの問題があるが、私に関していえば、あるメンバーが「哲学」に言及したので、かねてから日本人の「哲学」嫌いを気にしていた私が、お節介にも、少々その部分を増量して分かり易く一般化できるように書き足した。そのためその筋に引っかかり、この部分は全面削除になってしまった。元のままなら見逃してもらえたかもしれないので、その点では申し訳ない次第である。
 加藤周一「日本文学史序説・下」の指摘により、中江兆民「一年有半」(岩波文庫版 31~32頁)を見たら、この点が100年前にチャンと書いてあった。
 「わが日本いにしえより今に至るまで哲学なし(中略)。しかしてその浮躁軽薄の大病根も、また正にここにあり。その薄志弱行の大病根も、また正にここにあり。その独造の哲学なく、政治において主義なく、党争において継続なき、その因実にここにあり」。

森川辰夫

百姓道具

nougu.jpg 百姓をするということは、土地を耕し、作物を植え、育てて収穫して食べるという一連のくらしである。収穫して食べるという土地から持ち出すものを自然な形で戻すことに循環の系が成り立つのであるが、現実には土地から持ち出したものをも戻すことは不可能なので諸々の工夫が必要となるのである。
 このような作業をまた、体と鍬と鎌があればよいという訳にはいかず農機具が一通り必要になった。稲作は規模が小さいので耕耘・代掻き・田植・収穫・乾燥の様な大型機械は委託作業とした。
 それでも、様々な農具が必要で、篠竹ブッシュを刈る長柄大鎌から始まって管理機(5HP)、チェーンソー、草刈払機、グラインダー、電気かんな、籾摺精米機、鍬類、鎌類、鋸類、井戸用ポンプ、動力八反返し(水田中耕除草機)等と機械の利用無しには百姓が出来ないのが実際であった。
 山村で百姓ぐらしをするということで、住まいを建て木屋・物置も建て、百姓道具も一通り揃えた。そうして百姓ぐらしの春夏秋冬が始まった。

小松展之『あわくら通信』第34号(2008.5.21発行)より転載

農本主義のこと⑤ 虫見板

mushi.jpg 宇根豊さんが講師の日は2008年10月15日で、初めてお目にかかれるのを楽しみにしていた。前もって近著『天地有情の農学』(2007年、コモンズ)を読んで臨んだ。
 この本に宇根さんの野心的な持論は余すところなく述べられていると思った。百姓のなかに息づく近代化への違和感をすくいとって抱きしめ、あらたな百姓学を提唱して、近代化を推し進めてきた戦後農政と近代農学に対抗すべきだというのである。戦いに赴く武士が携える刀は、宇根さんの場合はさながら虫見板(むしみばん)であろう。
 虫見板は、小学生が使う下敷きほどの大きさの板である。ただの黒い板だが、それによって、田んぼが害虫や益虫だけでなく、多くの虫たちを育んでいることがわかる。百姓も認識していなかった「ただの虫」たちである。虫見板のすごさは、多様性を測る一つのものさしを私たちが手に入れたことだと思う。生物の多様性への気づきは、昆虫や動物にとどまらず、作物以外は雑草とひとくくりにされる植物にも及んでいく。それは、農薬や化学肥料を是としてきた近代農業に異議を唱える一つの拠り所となる。
 私は一昨年から田舎で暮らすようになって、荒れ果てるまま放置されてきた畑の一枚を耕し始めた。まだ百姓などとはとても言えない仕事ぶりだが、草を手鎌で刈る作業が基本的には稲刈りと同じ行為だと感心し、畑にひとりでいても少しも寂しくないのは対話する相手がいるおかげだと気づいた。やっかいな雑草たちは、手ごわい話し相手でもある。
 宇根さんの本を読んで、百姓仕事のもつ多様性だけでなく、農村のくらしがもつ多様性を測る「虫見板」がほしいと思った。宇根さんたちが、赤トンボやオタマジャクシを、人の手が入っていたからこそ息づいていた「自然」の産物として数え上げたように、かつての自給自足のくらしに息づいていた多彩な手仕事の「豊かさ」を数え上げてみたいと思った。農婦たちがみな一様に身につけていたであろう衣食住の技の数々をである。一銭の稼ぎにならなくても、そのどれもが家族が生きていくうえで大切な仕事であったはずだ。自給だけでなく、「自足」するためにも多くの技と労を必要とした。だが、主婦も外に稼ぎに出るようになり、自給農業が専作に変わり、あるいは道具が機械に代わるにつれ、技と労もろとも、そうした手仕事の多くは失われた。失ってはじめて存在のかけがえのなさに気づくのだが、いったい私たちはどれだけの仕事を失ってきたのだろうか。
 そんなことをつらつらと考えながら、宇根さんの講座に出た。当日の宇根さんのレジメに「農本主義」の四文字を見つけて私は少し姿勢を正した。『天地有情の農学』には、終わりの方に松田喜一を引用して「九州を代表する農本主義者」と紹介している箇所があったが、それ以外に農本主義という文字はなかった。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)

住まい

house.jpg 山村で百姓をするということは、その土地に住んで、土地を持って稲を作り、野菜を栽培し、山を管理するということである。
 私の場合、生れ故郷の本籍地であった。両親がはやく亡くなり、家屋は取り壊されており、屋敷地だけが残って荒地になっていた。僅かばかりであったが、田畑山林は受け継いでいた。
 屋敷地に住まいを建てることからの始まりであった。還暦を目前に住まいを建てることは勇気のいることであった。今後何年くらせるか、先ずは20年はという見込みで決断した。後継者はいなかった。
 高齢に向かってどの様な住まいにするかから始まった。屋内に段差は付けないから始まって、平屋として出入りの段差も配慮し、考えられる高齢者住宅を考え、更に百姓家としての機能を持たせることであった。
 先ず、土間スペース、これは百姓仕事をする上で仕事着の着脱、収穫した作物の置き場諸々、場合によっては食事場等の多様な空間である。
 地元の工務店(幸い、小学校の同級生)と相談して建築に入り、1989年3月上棟、1989年11月完成、1989年11月16日から本格的な田舎ぐらしが始まったのである。
 百姓をするということは、体一つというわけにはいかないが、当初は自給だからと軽く考えていた。しかし、20数年もの間放置していた屋敷は周囲は3m近い篠竹のブッシュになっていた。冬の期間中、山の下草刈り用の長柄鎌で篠竹を刈り取り燃やすということを続けた。その後も、百姓をするための農具、道具を一通り揃える破目になった。
 百姓をするためには、寝食のための住まいだけでは出来ない。納屋(木屋という)建築から始まる。材木は自家山の間伐材を製剤所に切り出してもらい製材して屋敷地の石垣を利用した2階建てで、屋内作業所、農機具等の収納庫、自動車・運搬車等の車庫、米など穀類の収納庫が納まった。農産収穫物の貯蔵、漬物、梅干等農産加工品置場のための物置、これも檜の間伐材を半割りにして組んだロッジ風に建てた。こうした1990年3月から百姓を始めるにあたって、2棟60㎡の付属建物を建てた。
 こうして、このむらでくらし始めた第1年目に建物だけは整えることが出来た。

小松展之『あわくら通信』第34号(2008.5.21発行)より転載

泉ちゃん、ありがとう

izumi3.jpg 山田泉さんが逝ってしまいました。
 十一月二十二日の通夜、二十三日の葬儀ともにとてもたくさんの参列者でした。改めて彼女が偉大な人だったんだなぁと思い知らされました。
 毎年、春に4人で温泉一泊旅行をしている仲間としての泉さんは、学校現場のグチや夫「慎ちゃん」のノロケ話をし、乳ガンになってからは「何でひろ子さんは乳ガンにならんのかい?」とからんだりする普通のオバサンでした。
 今年の5月、「生前葬」と言って湯布院一泊旅行をしました。来年はないかも知れない、という病状の深刻さを抱えながらも、「来年もきっと行こうね」と言わせる元気さがありました。
 最後に会ったのは十月はじめ頃、彼女の家に私が行った時で、その時も、映画『ご縁玉』のチラシが出来て来たと忙しそうでした。十月二十六日、携帯に着信があったのを気づかず、あとで電話したら留守電だったのでそのまま切り、それが最後になってしまいました。
 「かなり悪い」と聞いて一週間後の訃報でした。
 抗ガン剤の副作用に苦しみながら、でも、ぎりぎりまで行きたい所に行き、会いたい人に会い、したいことをして、まだまだ若すぎる死だけれど、でも、人の何倍もの濃密な生き方を貫いた人生だったよね。変な言い方だけど、ガンと向き合うことで、山田泉の人生は大きく開いて行った気がします。私が彼女と初めて会った頃は「保健室登校している養護教員」(職員室に行くと体調が悪くなる)として、学校の中でもがいている人だったのに・・・。
 葬儀は本当に多くの参列者で、弔辞が6人、しかもそれぞれが思いのたけがありすぎて長い長い弔辞で少々疲れました。(ずっと立っていたので)
 慎ちゃんの謝辞は泣かせました。本当に泉ちゃんが好きで好きで、という気持ちが伝わって来て、みんな泣きました。
 これから慎ちゃんはどうやって生きて行くんだろう、と心配になるくらいでした。
 山田泉を語る時、夫の慎一さんの存在は、実は本人以上に大きいとさえ思います。泉さんが一番えらかったのは慎ちゃんを連れ合いとして選んだことだろうと思います。ガンになった妻を支え、ガンを通して活動の世界をどんどん広げて行く妻のすべてを受け止め、いつもYESを妻に発し続けた慎ちゃんです。慎ちゃんなくしてあの山田泉はなかったろうと思います。
 「泉ちゃん、大好き!」の慎ちゃんのこれからの人生、がんばって!
・・・・・・・・・・
容体急変だったので、あまりやつれていなくて、ふっくらといつものままの顔で、少し口許が笑っているようでとてもきれいな死に顔でした。泉さん、最後までカッコよかったよ。
 出棺の時、日出生台の衛藤洋次さんが「泉ちゃん、ありがとう」と大きな声で言い、みんなで拍手で送りました。
・・・・・・・・・・
 緒方拳さん、筑紫哲也さん、山田泉さん、次々と大事な人の命がガンに奪われて行きます。悔しいです。
 緒方拳さんの遺作となったテレビドラマ『風のガーデン』を毎週観ています。連続ドラマは観ない人なのですが、これだけは特別と思って観ています。拳さんの息づかいや声の裏に苦しいだろう体調を感じてしまい、胸がつまります。
 緒方拳さんは若い頃『豆腐屋の四季』で松本竜一さんの役をやった縁で、松下さんの『砦に拠る』(下筌ダム建設に反対して山に蜂の巣城と呼ばれる砦を作って籠城して抵抗を続けた室原知幸さんを書いた作品)を「ぜひ映画にしたい」とずっと言っていました。とてもお金がかかることなので、実現することはないだろうと思いつつも、草の根の会の仲間たちにとって、それは美しい希望でした。緒方さんの死は希望の消滅でもありました。残念です。
・・・・・・・・・・
 来年の春、3人で温泉に行って、泉さんの思い出話でもしたらいいなぁ、と思っています。

渡辺ひろ子(元・酪農家)『私信 づれづれ草』NO.12(2008.12.2発行)より転載

くさぎのこと

kusagi5.jpg 私の暮らしている所には、臨済宗妙心寺派の「正眼寺」というお寺があります。650年ほど昔、このお寺を開いた慧玄さんというお坊さんが、「くさぎ」という植物を食用に工夫して、村人に教えてくださいました。それ以来、村人は初夏にくさぎの葉を摘んでゆでて水にさらして干し上げ、食べ物のない時などに戻して食べていました。 しかし、食べ物が豊富になるにつれて、いつの間にかこのくさぎを保存して食べることもなくなり、絶えようとしていました。
 第2次世界大戦のときに、正眼寺を頼って疎開してこられ、そのままこの地に住み着いたSさんは、正眼寺に伝わるくさぎをずっと伝えてこられました。地域の文化的な活動の中心人物であるSさんとともに、この「くさぎ」を守り広めようとして、私たち数名が活動を始めています。その一端を、昨秋、地域の小さなFM放送でお話しした時にまとめたものが次の文章です。
 地域の人たちがくさぎのことをよく理解し、地域に伝わる大切な物として考え、少しでも食べ物として復活していくことを願って、これからも活動していくつもりです。
 
FMでんでん 11/3 12:20~放送のお話内容
伊深町くさぎの会
くさぎのこと
 美濃加茂市伊深町には、くさぎという植物で作る「常山」という食べ物がありました。みなさん、くさぎという植物をご存じでしょうか?これは、くまつづら科に属する植物で、畔や山際に茂り、2~3メートルの高さの木です。春先に葉を伸ばし、この葉を食用にします。
 伊深町にある正眼寺という妙心寺派の禅宗のお寺では、毎年6月1日に、雲水さんたちがこのくさぎの葉をとり、大なべでゆでて、その後水にさらして1枚1枚広げて干し上げ、乾いたものを保存しておいて、使います。
 食べ方は、水に戻して刻み、大豆と一緒にしょうゆで煮ます。これが最初にお話しした「常山」という料理です。正眼寺に伝わる精進料理で、今でも正眼寺では、7月10日のお舎利講や、10月12日の開山忌のおとき料理には必ず出されます。
 なぜ正眼寺でくさぎの料理を出すのかと言えば、これにまつわる1つのお話があります。昔々、花園天皇のころに、京都で修業を重ねた慧玄さんというお坊さんが、伊深の地に来て、修業をしていました。村人に食べ物を恵んでもらっていましたが、貧しい村人から食べ物を貰うに忍びなく、だれも食べなかったくさぎの葉っぱを食べられるように工夫してして食べました。やがて京の都に帰って行くときに、村人にこのくさぎの食べ方を教えていきました。それが、慧玄さんが開いた正眼寺や伊深の地域に伝わってきていたのでした。
 伊深町の各家々では、昔から6月になるとくさぎの葉をとり、ゆでて水にさらしてあくや苦みをとり、広げて乾燥して保存食にしていました。ところが食べ物が豊富になり、苦労しなくても何でも食べられるようになると、だんだんくさぎを食べることがなくなって、忘れられてしまいました。
 私たちは、伊深に伝わるくさぎ料理を絶やしてはいけないと思い、昨年から色々なことを行ってくさぎのことを広めています。そのことが認められて、今年は伊深町公民館講座に取り上げられました。くさぎは夏に甘いユリのような香りのする白いきれいな花をつけます。秋にはそれが実り、赤い萼の上に青い小さな実をつけます。その実は昔から水色に染める染料として使われてきています。また、食用にする葉からも薄い緑色に染めることができます。
 そこで、公民館講座では、6月にくさぎの葉をとってゆでて水さらしをして、干し上げることを、7月にはくさぎの葉での染め物講座、8月はくさぎの料理、10月にくさぎの実の染め物の4回の講座を行いました。最初は近くの方が10人ほど集まるものでしたが、回を重ねるに従って参加者が増え、遠くは八百津町や可児市から来ていただいた人もありました。
 8月のくさぎ料理の講座では、くさぎと大豆の煮ものの「常山」と、煮たくさぎを混ぜこんだくさぎご飯、くさぎの入った七色汁を実習しました。これらにはジャコを入れたりして、現代の口に合うようにしました。くさぎを混ぜて焼いたえんねパンも試食しました。夏休みのこの時には、伊深小学校の先生も来て下さって、くさぎ料理を召し上がっていただきました。
 これがご縁で、10月29日には5年生の学級で、子供達と一緒にくさぎ料理を実習して、伊深に伝わってきたくさぎ料理を体験してもらいました。子供達の反応は「くさぎの葉っぱは臭いけど、調理をしたらおいしくなった」「お母さんに食べさせてあげたい」「自分でくさぎを採りに行って料理を作りたい」などと言い、感想文には「伊深に伝わってきたくさぎを僕たちも伝えて生きたい」ということも書いてありました。
 11月2日は、伊深町文化祭でしたが、昨年に続いて、今年もくさぎコーナーとしてくさぎ染めの作品を展示したり、くさぎを現代の食事に使おうということで、くさぎ入りオムレツやクッキー、えんねパンの試食なども行いました。
  このように、少しづつではありますが、伊深に650年も昔から伝わるくさぎを、さらに後世に伝えることをしながら、郷土を大切にすることを子供達に伝えていきたいと思っています。

福田美津枝

農と人とくらし研究センター

Research Institute for
Rural Community and Life
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