農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
備忘録 新緑
やがて初夏の日差しとともに新緑の繊細さは失せ、夏には力強いが単調な濃い緑一色に変わる。小学生のときは、ひ弱だったり、勉強が全く苦手だった同級生たちも、みなそれなりの大人に変わっていったように、私の子供もいつの間にかそれぞれ緑を深めて森の中にまぎれていった。小さな子供はみな、いたいけな繊細さのなかに個性を輝かせていて、それゆえに愛しかったのだと、今年も新緑の季節をむかえて想う。
逆に私はといえば、一様に緑の濃さを競っていた季節を通り過ぎ、紅葉の時期を迎えている。もうそろそろお前の自分の色を出してもいいのだよ、と心の声が語りかけてくる。どんな色が出てくるのか、自分でも見当がつかない。ひょっとしたら銀杏や楓のように鮮やかな色合いが、この緑の葉の中に隠されているのかもしれない。しかし、それもひとときで、いずれは枯れて地に落ち、くすんだ茶色に変わり、土と化していくのであろう。
片倉和人
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こじきねぶか
「この前テレビで見たけど、皇后さまが御所を散歩しとって、野蒜を見つけんさった。天皇陛下に見せんさって、『この野蒜は酢味噌和えがおいしいですよ』と言いんさった。ここら辺じゃ『乞食ねぶか』っていうんやけど、そんなもんが皇居にも生えとるんやなあ」
「そうらしいなあ。乞食ねぶかもえらい出世したもんや」
「皇后さまはいつこんなもんを食べんさったやろ」
「戦争中は疎開しとんさったで、そんな時に食べんさったやろうか」
「よう今まで覚えとんさったなあ」「ほんとやほんとや」
「酢味噌和えもええけど、乞食ねぶかは卵とじが一番やなあ」
「そやなも、わっちも卵とじは好きやわ、あれはええなも」
と会話が続いていきました。
私の住む地域では「野蒜」のことを「乞食ねぶか」というのです。畑ではなく、あちこちに雑草のように生えるからなのか、それを乞食でも採って食べられたからなのか、ひょろっとした姿が乞食を連想させたのか、義母に聞いてもその訳はわかりませんでしたが、ある時、知り合いの家で野蒜の根元の球の部分だけをさっとしょうゆで煮たのがおいしかったので、早速家の周りで採ってきて煮てみたら、「なんや乞食ねぶかか、そんなもん、うまいことないで」と鼻先でけなされてしまったので、乞食=まずいものという意味もあるのかと思っていました。
皇后さまが野蒜の酢味噌和えを疎開時代に食べられたとしても、一般庶民はなおさら、その頃やそれ以前の時代には、野草ならずとも野菜でも味噌和えにするか、地だまり(自家製たまり)でさっと煮ることくらいしかしなかったのではないでしょうか。以前、八十代くらいの方から、「昔は何でもみそ煮やった、たまりはなんぞごとの時にご飯を炊くくらいしか使えんかった」ということを聞きました。酢味噌和えは、酢も砂糖も購わなければならないので、この時代にはきっとご馳走だったのです。
さきほどの会話の主たちは、七十代前後、皇后さまと同じ年頃です。疎開=戦中の頃はまだ子供でした。きっと乞食ねぶかの卵とじを作って食べたのは、嫁入りして主婦として落ち着いた三十代から四十代頃か。そのころならば卵もふんだんに使えるような時代になって、ただしょうゆで煮ただけの乞食ねぶかに、さっと溶き卵を回しいれて半熟に煮る卵とじはおいしい料理だったのでしょう。
山歩きの翌日の日本農業新聞に、「野蒜の唐揚げ」を見つけました。ナチュラリストの方の「育てて食べるおいしい野草」という文の中に、「野蒜の根っこの球をさっと唐揚げして塩をぱらっとふる」とありました。時が現代まで進んでくれば、今度は油を使う揚げ物料理となりました。そういえば、この頃のアウトドアブームや山菜ブームなどで、山菜の食べ方を紹介してあるのは、大体が「天ぷら」で食べるというものです。しかし、山間地域のお年寄りに聞くと、もみじがさも、こしあぶらも、こごみも、タラの芽も、茹でておひたしにするとか、さっと煮つけるとかとおっしゃいます。昔からそういう食べ方をしてきて、それが一番おいしいということでしょう。
「野蒜」1つをとってみても、こんなに食べ方が移り変わってきました。その時代の暮らし方、経済事情、食のあり方で、食べ方が変わっていきます。食べること・食べ物・食べ方は一つところにとどまらず、時代に合わせて変わっていくことが見てとれました。
郷土食というものは、ある一定のもの、一定の作り方、一定の素材というものではなく、その時代の世の中の状態、家族の好み、調理の技術など、さまざまな要素によって変化していくものだということを考えました。
福田美津枝, 2009年4月23日 のふうそう
鳥日記 (2009.1)
書き始めたのは、「わからない鳥」を見つけた時、大まかな特徴を文字とスケッチで記録して、後で図鑑を見、それでもわからない時は鳥プロの○丸S子さんに聞く、そのためでした。
そのうち、「わが家」の鳥たちの動静や犬の散歩の時に今日は何と何を見たとかまで書き、ま、ついでに鳥以外のこと、つまり普通の人が日記に描くようなことも「ついでに」メモ風に書き留めたりと、日記らしくなってきました。
必ず毎日書く、と気負わずに時々は休みながら書いています。
写真の方も東京のSさんから頂いた一眼レフのカメラは鳥専用という感じで使わせてもらっています。鳥というのはなかなか近くに寄らせてくれないし、じっとポーズをとってもくれないので、ピントが合う前にいなくなったりして、難しいです。
去年、餌台のミカンをついばむメジロのアップ写真を送ってくれた国東(大分県)の養鶏農家大熊さんが新作メジロ写真をまた送ってくれました。手紙がついていて、「2m迄近づいても逃げずに撮らせてくれるのは撮影者の『純粋さ』?か。」とありました。
悔しいねぇ。私はまだメジロのアップは撮れてません。
きっと、大分県のメジロは去年一年間、国体マスコット『めじろん』で人気沸騰だったから、カメラ慣れしてるんだよ。
な~んて、負け惜しみの一人言です。
先日、鳥プロの○丸さんの案内で、耶馬溪にオシドリを見に行きました。オシドリなんて、掛け軸の中や着物の裾にしかいない生き物という印象なのだけど、いるんですねぇ、自然界に。しかも、そこいらへんに、どっさりと。
山国川の少し上流、耶馬溪の入口あたりの川にいましたよ、あの「おもちゃみたいな色と形のオシドリ」が2~30羽ひとかたまりで。川幅が広く、道路の対岸近くに浮かんでいて、小さくしか見えなかったけど、確かに「オシドリ」です。
写真を撮ろうとガードレールから一歩先に踏み出したら、途端にパーッと全員飛び立ってしまいました。ごめん、ごめん、彼らにとって危険水域に踏み込んでしまったんだろうね。
オシドリに逃げられたので更に上流へ。梶原さんの実家に立ち寄ると家のすぐ裏のハゼの枝に小鳥がいっぱい。「ほらほら、エナガだよ」と○丸さん。あの、あこがれのエナガが本当にいっぱい、ハゼの実を捜して枝から枝に。長いしっぽも羽根のピンクの模様も見えたよーっ!
エナガというのはメジロくらいの小鳥で、鳥マンガ『とりぱん』で「ハムスターの耳を取ったような顔」と紹介されていて、以来、あこがれていたのです。
ほかにもいろんな鳥に出会えて、満足、満足。(ルリビタキ、イカル、オオタカ、カケス、ハヤブサ等々)
○丸さんはすごいです。変態かも。だって、走行中の車の前をさっと横切った鳥(らしき影)を「今、○○のオスがあそこに降りた」なんて言って、その通りなんだもの。「この辺、何かいそうな匂いがする」なんて、やっぱり変態だぁ!
渡辺ひろ子(元・酪農家)『私信 づれづれ草』NO.13(2009.1.31発行)より転載
「農村生活」時評21 "新・幸福の科学"
作家・書誌学者の林 望氏がテレビで万葉集の「父母が 頭掻き撫で 幸くあれて 言いし言葉ぜ 忘れかねつる」(4346)という東国方言による防人の歌を紹介されていた。アフリカ沖に「海賊退治」という目的か、自衛艦が出て行くのを家族が見送るニュース映像を見て、老人らしく昔の戦時出征風景を思い出した。その連想で親の思いというのは古今東西変わらないものだ、ということもあるが、この当時でしかも東国で「幸い」という言葉が使われていたことに強い印象が残った。
つくば市の国際会議場という大変立派な施設で、「現代の貧困問題と憲法」という講演とシンポの集いがあり、講演者がかの派遣村で有名になった湯浅誠氏なので友人の車に乗せてもらって参加した。湯浅さんは昨秋か、学者・研究者・院学生などに限らず知的な仕事をしている人間があまりにも社会的行動はもとより発言が乏しいと指摘、論難されている。私は細々とこの頼りない「風倒木」を書いてきたが、一向に内容がぱっとせず、筆者にあまり元気が出なかった。しかし老人とはいえ湯浅さんに叱られて、折角、このコラムを担当させて頂いているので、反響の無さは本人のせいとあきらめて、なんとか発言だけは継続しようと心を入れ替えた経過がある。
その湯浅講演の感想には一口ではいえない、いろいろな事柄があるが、実践家による問題提起には私にとって厳しい内容があった。さらに会後半のシンポのなかで「幸福追求権」ということが話題になった。つまり「憲法25条」はそのままでは実際の生存権を保障するものではなく、国民が「生きさせろ」と国に要求する権利そのものを保障しているのだという。その生活要求、幸福追求はあくまで社会への発言、行動が基本で、近代社会や近代国家がいわば自動的に人々に保障するものではないということを教わった。第二次世界大戦以後、日本でも少しずつ社会保障が整備されてきたが、それもこの10年位で施策がボロボロになってしまった。そのためこの「生存権」も根底から考え直すことが求められている。かつて「生存権」がこの国で建前として確立しているという前提であるが、不勉強のまま農村住民の「営農・生活権」などという言葉を使ってきたのだから、不遜であった。
この幸福追求ということだが、衣食住・家族・小地域を始め日常生活の基本のあり方を主要な課題とする「農村生活研究」という仕事は、農村住民の幸福追求権による実際的な生活手法研究ではないかと思う。学会レベルの合意として「農村生活」という実在する領域を対象としているから研究としても存在し得ると考えたが、そこに今日の研究衰退の原因があるのかもしれない。半世紀にわたり「農村生活」の日本社会における独自性が薄くなるにつれて、研究者の情熱が失われ、消滅していったのではないか。日本の学界全体に学問になんらかの価値観を持ち込むことを嫌うというか、近代的科学観に反するとする根強い理念があり、その支配に抗することができなかったという反省がある。20世紀は近代主義・合理主義という価値観が社会も学問も支配したが、それ自体を疑うことが少なかった。
かつて「農村生活研究」は科学観上異質だ、という指摘を友人から受けたとき、反論できなかったが、それから10年たってこんなことを考えた。もっといえば、農学全体も応用生物学ではなく農民幸福の科学だと思うが、それはどこかの新興宗教の一種と受け取られるのが落ちかも知れない。
つくば市の国際会議場という大変立派な施設で、「現代の貧困問題と憲法」という講演とシンポの集いがあり、講演者がかの派遣村で有名になった湯浅誠氏なので友人の車に乗せてもらって参加した。湯浅さんは昨秋か、学者・研究者・院学生などに限らず知的な仕事をしている人間があまりにも社会的行動はもとより発言が乏しいと指摘、論難されている。私は細々とこの頼りない「風倒木」を書いてきたが、一向に内容がぱっとせず、筆者にあまり元気が出なかった。しかし老人とはいえ湯浅さんに叱られて、折角、このコラムを担当させて頂いているので、反響の無さは本人のせいとあきらめて、なんとか発言だけは継続しようと心を入れ替えた経過がある。
その湯浅講演の感想には一口ではいえない、いろいろな事柄があるが、実践家による問題提起には私にとって厳しい内容があった。さらに会後半のシンポのなかで「幸福追求権」ということが話題になった。つまり「憲法25条」はそのままでは実際の生存権を保障するものではなく、国民が「生きさせろ」と国に要求する権利そのものを保障しているのだという。その生活要求、幸福追求はあくまで社会への発言、行動が基本で、近代社会や近代国家がいわば自動的に人々に保障するものではないということを教わった。第二次世界大戦以後、日本でも少しずつ社会保障が整備されてきたが、それもこの10年位で施策がボロボロになってしまった。そのためこの「生存権」も根底から考え直すことが求められている。かつて「生存権」がこの国で建前として確立しているという前提であるが、不勉強のまま農村住民の「営農・生活権」などという言葉を使ってきたのだから、不遜であった。
かつて「農村生活研究」は科学観上異質だ、という指摘を友人から受けたとき、反論できなかったが、それから10年たってこんなことを考えた。もっといえば、農学全体も応用生物学ではなく農民幸福の科学だと思うが、それはどこかの新興宗教の一種と受け取られるのが落ちかも知れない。
森川辰夫
「気違い農政周游紀行⑧」 わしの手からダシがとれる
できれば苦労はしたくないと思うのが人の常である。しかし、苦労しなければ何も身につかないということもまた真実である。老いた農婦の、日に焼け節くれだった皺だらけの手に、私たちは何を見るのか。
『変貌する農村と婦人』(監修丸岡秀子、家の光協会、1986年)の序に、ある古老の女性の話が出てくる。
この序を読んで、「苦労なんか、何ひとつなかった」と語る北海道の女性の言葉に偽りはないと思った。ズワイガニのような手が彼女の積み重ねた苦労の跡であるのなら、苦労なんかなかったと語る「したたかな面魂」は、人間として彼女の魂が到達した計り知れない深淵をあらわしている。その暗闇は私たちが容易にうかがい知れぬほど深い。乗り越えてしまった苦労は、もはや苦労ではないのだろう。
先だって山口県を訪れたとき、生活改良普及員(今は農業普及指導員という)の西村美和さんにその話をしたら、こんな人を知っていると、ある生活改善実行グループの女性の言葉を教えてくれた。その女性は、年輪を重ねた手を差し出して言ったという。「わしの手からダシがとれる」と。苦労の証だけでなく、何でもできる手、という意味なのだそうだ。その表現には、自分のたどった半生に対する自負が込められている。
農家の女性の多くは「自分の娘は農家に嫁がせたくない」と言ってはばからない。よく耳にする話だが、私たちは聞き違えてはならない。農家の女性たちが決して自分のことを卑下しているのではないことを。強いて言えば、憤っているのである。家族の暮しを支えるために、自分が重ねてきた苦労に対して、周りの評価があまりに低いことに。
農家に嫁いだなら身につけて「当たり前」と昔は思われていたことが、決して当たり前でなかったことを肝に銘じたい。苦労を刻んだ手をもつ一介の農婦はみな偉大である。
『変貌する農村と婦人』(監修丸岡秀子、家の光協会、1986年)の序に、ある古老の女性の話が出てくる。
これを書いた丸岡秀子は、「ズワイガニを思わせる凄さだった」と女性史家の感想を記して、手についてそれ以上の論評は控えている。続けて、「ここにも、わが農村婦人の生活史を築く、活力の象徴がある。」とだけ書き添えている。北海道で、明治期に親に連れられて入植し、現在、酪農の安定した生活を持つようになった九十二歳の老母の話を、このごろ聞く機会があった。熊と鮭と鰊と、そして極寒未開の凍土と、明治初期の北海道は、徒刑と流刑囚の蝦夷が島だった。その中で、生活を築き上げたのが、彼女の歴史だった。
ところが、彼女は、「苦労なんか、何ひとつなかったよ」と、したたかな面魂で、訪ねてきた女性に答えたという。お話し合いした家の前には、大雪山の雪渓が、冷えびえと連なっていたが、ふと、彼女の手を見たとき、その手は、ズワイガニを思わせる凄さだったともいう。これは、北海道の婦人史に取り組んでいる女性の報告である。
この序を読んで、「苦労なんか、何ひとつなかった」と語る北海道の女性の言葉に偽りはないと思った。ズワイガニのような手が彼女の積み重ねた苦労の跡であるのなら、苦労なんかなかったと語る「したたかな面魂」は、人間として彼女の魂が到達した計り知れない深淵をあらわしている。その暗闇は私たちが容易にうかがい知れぬほど深い。乗り越えてしまった苦労は、もはや苦労ではないのだろう。
農家の女性の多くは「自分の娘は農家に嫁がせたくない」と言ってはばからない。よく耳にする話だが、私たちは聞き違えてはならない。農家の女性たちが決して自分のことを卑下しているのではないことを。強いて言えば、憤っているのである。家族の暮しを支えるために、自分が重ねてきた苦労に対して、周りの評価があまりに低いことに。
農家に嫁いだなら身につけて「当たり前」と昔は思われていたことが、決して当たり前でなかったことを肝に銘じたい。苦労を刻んだ手をもつ一介の農婦はみな偉大である。
片倉和人
「農村生活」時評20 "多数派支配は村の原則か"
暖かい3月某日、何年振りかで中学校の同期会があり、遠路片道3時間かけて出席した。かつての優等生、不良生が歓談して楽しかったが、部活をともにし某付属高に進学した優等生に「君になぐられた」といわれてビックリした。なんでもその友人がテニスで鍛えるために、ある部員に厳しくレシーブをやらせていたのを私がいじめだと誤解したのだという。どうも私の早とちりも記憶喪失も老化のせいだけでなく、10代からの性癖だったようだ。私はごく気の弱い優しい?タイプの子どもだったはずで、いじめられた記憶はあるが、友人をなぐったことは覚えていなかった。
大袈裟にいえば戦争における被害者意識と加害者意識のずれのようなものだが、この会に出席された恩師がわが部の顧問だったので、「スポーツは民主主義の教室だ」といわれたことを思い出した。出来の悪い生徒だったためかもしれないが、どうも授業でまともに「民主主義」を教わった記憶がない。大江健三郎のいくつかの文章にあるように、私の世代はいわゆる「戦後民主主義」の大事な「遺児」なのだが、いかにも学力不足を痛感する。しかしともかく「民主主義」にやたらと敏感なところはわが世代の特徴らしい。
同期会参加の行き帰りの長い道中、いま評判の加藤周一「私にとっての20世紀」を読んでいたら、ごく始めのほうに「民主主義とは少数派の尊重だ」という19世紀英国政治学の原則が紹介されていて、どうやら勉強不足は私だけではないと納得した。今の世間はこれとは逆に、国会審議でも市町村合併論議でも、ごく単純かつ機械的な多数派支配が一般的である。直接民主主義のひとつの実践例「住民投票条例」案を議会の多数派が否決するという大変なお国柄である。しかしこの「反民主主義」事態に住民自身があまり敏感でないことが実はもっと問題である。その根底にあるのは、少数意見をなにかその場にとって異質なものと受け取る向きがあるためだろう。その克服のためには、私は少数意見を植物の成長点のように受け止める討議風土を世間に育てたらどうかと思う。新芽は枝から生えるが、だれもがその幼さを慈しみ大事にする。新芽を目方や大きさで評価するわけではない。
「村八分」という有名なことばがあって、なにか農村社会が問題の伝統的多数派支配の元凶というか、源流のように受け取られている向きがある。日本人の集団主義というか、付和雷同性というか、人間関係のあり方には日本の共同体と深い関連があるだろうが、それとこの多数派支配は同じではない。今は昔、これまでの農作業の多くは地域での共同活動が不可欠であり、土地・水はいわば地域の共有財産であった。そのため地域運営での合意形成には大変な努力をはらってきた歴史がある。
世間で物事を決めなければならない時、時間的期限をはじめ色んな制約がある。しかし私の知るかぎり農村社会の内部で強力なリーダーが独断できめることはあっても、営農、生活にかかわる事柄を協議の場で多数決できめたという事例はない。それではどうするかといえば、それは徹底的な話し合いによる解決である。その中身は甲論、乙論のやりとりというのはごく初期であり、ほとんどは少数意見の開陳を延々と聞く過程がしめている。だから私は反民主主義の代表のように思われているむらの話し合いが実は最も民主主義の精神に近く、逆に現代日本の民主主義の代表のように受け取られている各種レベルの議会運営が最も遠いのではないか、と電車の中で考えた。いつかこの欄で紹介した「集落営農」の話し合い、実に延べ100回という事例に出会った時は本当に驚いたが、それは日本の農村社会の底力であろう。
春がきてりんごの剪定も終わった時期である。剪定された枝が園地のあちこちに積み重ねられている風景が目に浮かぶ。この「風倒木」こそ、ここにいう少数意見そのものである。だから「新芽」ではあるが、良い果実を得るためにはすべての新芽を伸ばすことはできないので、剪定してもらえればありがたい。
森川辰夫
大袈裟にいえば戦争における被害者意識と加害者意識のずれのようなものだが、この会に出席された恩師がわが部の顧問だったので、「スポーツは民主主義の教室だ」といわれたことを思い出した。出来の悪い生徒だったためかもしれないが、どうも授業でまともに「民主主義」を教わった記憶がない。大江健三郎のいくつかの文章にあるように、私の世代はいわゆる「戦後民主主義」の大事な「遺児」なのだが、いかにも学力不足を痛感する。しかしともかく「民主主義」にやたらと敏感なところはわが世代の特徴らしい。
同期会参加の行き帰りの長い道中、いま評判の加藤周一「私にとっての20世紀」を読んでいたら、ごく始めのほうに「民主主義とは少数派の尊重だ」という19世紀英国政治学の原則が紹介されていて、どうやら勉強不足は私だけではないと納得した。今の世間はこれとは逆に、国会審議でも市町村合併論議でも、ごく単純かつ機械的な多数派支配が一般的である。直接民主主義のひとつの実践例「住民投票条例」案を議会の多数派が否決するという大変なお国柄である。しかしこの「反民主主義」事態に住民自身があまり敏感でないことが実はもっと問題である。その根底にあるのは、少数意見をなにかその場にとって異質なものと受け取る向きがあるためだろう。その克服のためには、私は少数意見を植物の成長点のように受け止める討議風土を世間に育てたらどうかと思う。新芽は枝から生えるが、だれもがその幼さを慈しみ大事にする。新芽を目方や大きさで評価するわけではない。
「村八分」という有名なことばがあって、なにか農村社会が問題の伝統的多数派支配の元凶というか、源流のように受け取られている向きがある。日本人の集団主義というか、付和雷同性というか、人間関係のあり方には日本の共同体と深い関連があるだろうが、それとこの多数派支配は同じではない。今は昔、これまでの農作業の多くは地域での共同活動が不可欠であり、土地・水はいわば地域の共有財産であった。そのため地域運営での合意形成には大変な努力をはらってきた歴史がある。
春がきてりんごの剪定も終わった時期である。剪定された枝が園地のあちこちに積み重ねられている風景が目に浮かぶ。この「風倒木」こそ、ここにいう少数意見そのものである。だから「新芽」ではあるが、良い果実を得るためにはすべての新芽を伸ばすことはできないので、剪定してもらえればありがたい。
森川辰夫
鳥日記 (2009.3)
あっという間に春です。一気に春です。もう、春となると、ぐぅわーッと春です。
2週間ほど前にウグイスの初音を聞きました。今では毎日あちこちでウグイスのさえずりがすごいです。
春が来て、花が咲いて、鳥がさえずって、それはそれでステキなんだけど、ジョウビタキやツグミなどの冬鳥がいなくなる日が近いことでもあります。さびしいです。それに、暖かくなると虫(ハエや蚊、アブ、ハチ、ムカデなど)がわんさかと出て来るし、ヘビも嫌だし・・・。
私の鳥狂いは日毎に度を増しています。
人が集まる場でも、すぐに鳥の話題に行こうとするし、以前、孫の写真を持ち歩いて見せびらかしていたと同様に、今は、鳥の写真を持ち歩いて、さして興味のない人たちにまで「見る」ことを強要しているこの頃です。みんなから、「もう、病気やね」と言われてます。そして、鳥プロの○丸S子さんから「この病気に感染した人で、回復した人はいない」と言われてしまいました。
近ごろ、雨がとても多いです。たまに、雨がやんで、青空でも見えようものなら、何か鳥が見えないものかなぁ・・・と気もそぞろです。カメラ持って出かけます。一人で行くのだから、○丸さんみたいに山奥深く分け入って・・・なんてことはしません。私、とても臆病なのです。
2月11日の新聞に左掲の記事が載りました。すぐ、その日、クロツラヘラサギを一目見たいと、今川沿いの道を下りました。でも、場所を特定出来ませんでした。こんな記事が載ったんだから、きっとその場所に、たくさんの人が見に来ているに違いない、などと思ったけれど、それらしい人だかりはなく、あきらめて、ユリカモメの群れを撮って帰りました。
あきらめきれずに、翌々日、再度挑戦。うろうろ、のろのろと危ない脇見運転を続けながら、もう、すっかり河口近くまで来てしまって、漁港近くになったあたりで、堤防のずっと向こうにちらっと中洲が見え、それに白いものが・・・。慌てて車を道脇に寄せ、双眼鏡で覗くと、いましたよ!広い河口付近の中央あたりに、細長く出来た中洲にクロツラヘラサギが5羽、寒風に首を縮めて身を寄せ合ってしゃがんでいました。カメラの望遠で覗くと、何とかくちばしも見えて、「見た!」記念にパチリ。
翌日、松下竜一さんの二人芝居の慰労会が中津であり、○丸さんたちに写真を見せたら、その日のうちに「見に行く!」となって・・・。ああ、みんな病気です。
それから、10日くらいして、税務署に青色申告をやめる手続きに行って、意外に早く終わったので、せっかく行橋まで出て来たんだから、と、また、例の中洲まで。すると!その中洲がすごいことになっていました。いろんな鳥たちが大集合の大にぎわい。もちろんクロツラヘラサギもまだいました。でも一番目立っていたこの日のスターはウミウです。真っ黒い大きな鳥が一斉に首を伸ばして海の方を見ている図が何ともカッコイイーッ!
他にもアオサギや何種類ものカモたちが群れていて、もう、写真撮りまくりです。
そして、何と、クロツラヘラサギが全羽パァーッと飛び立って、中洲上空をゆっくりと旋回して見せてくれたのです。「私が主役なのを忘れちゃ困るよ」といった風に。大感激ーッ!
帰り道、ちょっと上流で、ミサゴの狩りの様子も見つけてこれもバッチリ撮れました。ミサゴというのはトビに似ているけど、頭部と腹側が白く、尾羽根がきれいな扇形に開くカッコイイ鳥です。川や池で魚を獲るのですが、その時、上空に静止して立ち泳ぎのように翼をバサバサしながら、はるか下方の水中の魚の姿を見定めて、猛スピードで水に突っ込んで、足で魚を掴むのです。その、上空でのバサバサ立ち泳ぎが感動的です。
私はこの一月の間に4回もミサゴの狩りの場面を目撃しました。「鳥観の神様が私に降りて来た」とさえ思ってしまうくらいです。でも、それは「知らない」から「少し知っている」に変わったせいなのでしょうね。今まで、ミサゴという名も知らず、きっとトビだと思って見過ごしていたのでしょう。
どんな用事でどこに行くにもカメラを車に積んで出かけます。完全に病気です。
2週間ほど前にウグイスの初音を聞きました。今では毎日あちこちでウグイスのさえずりがすごいです。
春が来て、花が咲いて、鳥がさえずって、それはそれでステキなんだけど、ジョウビタキやツグミなどの冬鳥がいなくなる日が近いことでもあります。さびしいです。それに、暖かくなると虫(ハエや蚊、アブ、ハチ、ムカデなど)がわんさかと出て来るし、ヘビも嫌だし・・・。
私の鳥狂いは日毎に度を増しています。
人が集まる場でも、すぐに鳥の話題に行こうとするし、以前、孫の写真を持ち歩いて見せびらかしていたと同様に、今は、鳥の写真を持ち歩いて、さして興味のない人たちにまで「見る」ことを強要しているこの頃です。みんなから、「もう、病気やね」と言われてます。そして、鳥プロの○丸S子さんから「この病気に感染した人で、回復した人はいない」と言われてしまいました。
近ごろ、雨がとても多いです。たまに、雨がやんで、青空でも見えようものなら、何か鳥が見えないものかなぁ・・・と気もそぞろです。カメラ持って出かけます。一人で行くのだから、○丸さんみたいに山奥深く分け入って・・・なんてことはしません。私、とても臆病なのです。
あきらめきれずに、翌々日、再度挑戦。うろうろ、のろのろと危ない脇見運転を続けながら、もう、すっかり河口近くまで来てしまって、漁港近くになったあたりで、堤防のずっと向こうにちらっと中洲が見え、それに白いものが・・・。慌てて車を道脇に寄せ、双眼鏡で覗くと、いましたよ!広い河口付近の中央あたりに、細長く出来た中洲にクロツラヘラサギが5羽、寒風に首を縮めて身を寄せ合ってしゃがんでいました。カメラの望遠で覗くと、何とかくちばしも見えて、「見た!」記念にパチリ。
翌日、松下竜一さんの二人芝居の慰労会が中津であり、○丸さんたちに写真を見せたら、その日のうちに「見に行く!」となって・・・。ああ、みんな病気です。
それから、10日くらいして、税務署に青色申告をやめる手続きに行って、意外に早く終わったので、せっかく行橋まで出て来たんだから、と、また、例の中洲まで。すると!その中洲がすごいことになっていました。いろんな鳥たちが大集合の大にぎわい。もちろんクロツラヘラサギもまだいました。でも一番目立っていたこの日のスターはウミウです。真っ黒い大きな鳥が一斉に首を伸ばして海の方を見ている図が何ともカッコイイーッ!
他にもアオサギや何種類ものカモたちが群れていて、もう、写真撮りまくりです。
そして、何と、クロツラヘラサギが全羽パァーッと飛び立って、中洲上空をゆっくりと旋回して見せてくれたのです。「私が主役なのを忘れちゃ困るよ」といった風に。大感激ーッ!
帰り道、ちょっと上流で、ミサゴの狩りの様子も見つけてこれもバッチリ撮れました。ミサゴというのはトビに似ているけど、頭部と腹側が白く、尾羽根がきれいな扇形に開くカッコイイ鳥です。川や池で魚を獲るのですが、その時、上空に静止して立ち泳ぎのように翼をバサバサしながら、はるか下方の水中の魚の姿を見定めて、猛スピードで水に突っ込んで、足で魚を掴むのです。その、上空でのバサバサ立ち泳ぎが感動的です。
私はこの一月の間に4回もミサゴの狩りの場面を目撃しました。「鳥観の神様が私に降りて来た」とさえ思ってしまうくらいです。でも、それは「知らない」から「少し知っている」に変わったせいなのでしょうね。今まで、ミサゴという名も知らず、きっとトビだと思って見過ごしていたのでしょう。
どんな用事でどこに行くにもカメラを車に積んで出かけます。完全に病気です。
渡辺ひろ子(元・酪農家)『私信 づれづれ草』NO.14(2009.3.1発行)より転載
「農村生活」時評19 "再び地域経済・自給圏構想を"
もう10年以上前の、その弘前にいた頃の出来事だが、津軽全域からの参加者のいる会合で私の話にえらい勢いで発言した人がいてびっくりしたことがある。もとより頼りない話の中身に反発したのだろうが、その方の語調というか、口調というか個性的な津軽弁にも参った記憶がある。そのあと会合関係者にその発言について意見を聞いたら、皆がなぜか話題にしない。「おかしいな」と思ったら、この発言者の地域には、昔から独特の語調があって、地元津軽の人は慣れているらしい。ただそのことを口にすると、なにか差別につながるような恐れがあり、その場の関係者は皆、公務員だったから避けたということのようだった。外部から見るとおなじ津軽でも風土・景観ばかりではなく、地域には文化的個性があり、難解で有名な津軽弁にも文字だけでは表現できない個性的な口調があるらしい。
現今のアメリカの金融危機に際して、世間には多くの発言があふれているが、かねてからこの事態を予想して警告を発してきた評論家・内橋克人氏の発言は、特に重要である。今は病み上がりらしくあまりメディアに登場しないが、TV番組でこの危機を脱する方策を問われて、氏の持論である「共生経済」論を説かれ、食、エネルギー、ケアなどの地域経済圏の構築を述べられた。私はこのごく短い発言を聞いて、20年も25年も前に国土庁の地域定住圏の関連で故吉田喜一郎さんたちと今で言うところの地産地消の、「地域定食圏」構想を提唱したことを思い出した。今の農村地域をみると、定食圏構想にあった産直センターのようなもの、農村食堂のようなものは盛んになったが、いずれも広域的な範囲が営業圏になっており、グローバル化全盛のこの歳月、枠組みとしての「地域圏」の実体もイメージも定着しなかったようである。今日の社会でこれらの提案のような人間本位の「地域」を構築することはすなわち、今の支配的な「社会システム」を創りかえることだから、もとより簡単なことではない。
農と食のあり方の課題は各論となると難問山積とはいえ、少しずつ関係者にかつ地域社会にも見えてきたようである。また全国民的な関心事、福祉問題は全く国の政策そのものの責任だが、それを実施するのは給付金とおなじく自治体単位になっている。しかも福祉事業をいわゆるビジネスにして展開しても、そのケアの人手はどうしても地域自給となるだろう。内橋氏が今日的に共生経済の中身でケアを重視するゆえんである。この福祉活動は農業よりも公共的な側面が強い世界である。日本では社会が崩されて「国」が公共的な世界を代表しているが、人々の暮らしにとっては自治体は基本的な「地域」である。それが「平成大合併」で住民感覚上広域となり、いわば暮らしから距離をおくようになったことが残念でたまらない。暮らしの中で日々、住民自身が身近に地域を学習しなければあるべき「地域経済圏」などは、空中楼閣にすぎない。その意味でかの「大合併」は地域づくり運動には大きな打撃だった。社会環境が変わったら改めて分町分村を考えるべきだと思うが、それよりも地元で農産物を食べる、小規模な福祉の助け合いシステムをつくるといった、暮らしを創る活動の方が現実的だろう。この先、そういう活動が地元の若者の雇用と結びつけば、展望は一気に開けるのだが。
森川辰夫
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