農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
「農村生活」時評29 "増沢発言に教えられる"
「(長野県の)農業は高齢者がやっているだけで、(日本農業の)自給率を上げていくと言っていますが、そんなに簡単な事ではない、と思っています。根本的に農業に対する考え方を変えなければだめだと思っています。農と人との関係ですが、このことについて、(農と人とくらし研究センターが)着目されたということは大変立派なことだと思います。少し私は生意気なことを申し上げて大変恐縮でございますが、日本には古来から、神道があり、儒教があり、仏教が入りました。そうしたものが人の道を教えられてきたわけでございますが、私は、そのことも大変立派で大切なことだと思いますが、私は農をやるということ、農の営み、自然や土の営みの中から生まれてくる思想が形成されてくる、農と土やそういう自然の中から形成されてくる思想が最も大切である、とこのように考えるわけであります」。
これは本センター「設立一周年記念イベント」(2009.6.20)における、岡谷市・増沢俊文さんのお話の末尾、まとめの部分での発言である(座談会「岡谷で農!を語ろう」の記録、13~14頁、本センター刊)。増沢さんは大著、「農民の生活」の著者ではあるが、農業者として昭和時代を一筋に生きてこられた方で、御自分の発言にはなにものにも制約されないし、世間に遠慮される事柄もないという、率直な方である。若いころからこういう性格だったのかもしれないが、80歳を越えられての発言には重みがある。最近こそ農業者自身の発言がマスメディアにも一般的になったが、かつては農協組合長とか生産組織代表などの立場のある人の発言ぐらいしか目にしなかった。一昔前までは普通の農家の、いわば社会的発言は少なかったといえる。ましてや私より年配の方々の個人的発言は貴重である。
しかしそのことよりもここでの課題は発言の中味である。増沢さんは「農の思想」という表現で止められているから、必ずしも中味は明示的ではないが、その位置付けは明確である。つまり神道、儒教、仏教よりも「農の思想」の方が基底的である、日本人にとっては「大切」である、という主張である。つまり近代において「農本主義」として研究されてきた独自思想よりも、もっと一般人に共有的な、常識的な深層の思考部分である。
こういう潜在的な考え方は農村地域にはいまなお広範に存在するが、日本の思想史研究のなかでは軽視されてきた。なによりも知識人に軽蔑されてきたから、歴史のどの時代でも表面化しなかったし、それは現代でも例外ではない。そもそも日本人に外来思想を受け売りするのが「知識人」の営業だから、商売敵はたたかねばやっていけないのだろう。日本思想史においてこの課題を正面から取り上げ、現代にいたる外来思想との関連で評価したのは、私の知るかぎり加藤周一である。加藤は「土着的世界観」という概念で、今日に至るまで日本人を支配している考え方の仕組みを解明した。増沢さんの主張はこの概念の提起と大いに関連するから、私としては気になった次第である。
増沢さんはこの発言のあと近代思想にも触れられているが、ここでは外したい。この中世以来の外来西洋思想の受け売り営業は、日本社会では現代でも大いに繁盛しているから論評の対象としての話題に事欠かないが、話をはっきりさせるために引用部分に即して、少々局面を限定したい。
増沢さんの「儒教」には「道教」も含むのではないかと思われるが、ともかく「仏教」と共に大陸からの外来思想である。ここにいう「神道」がいかなるものか、ご本人に伺ってみないと分からないが、明治政府の「国家神道」とは別の古来からの伝統的なものだとすると、それは加藤によればアニミズム、祖先崇拝、シャマニズムから成り立っている。これらの源流的な思想は変形しながらいまなお日本人の心情に生きているから、必ずしも「農」の思想とは無関係ではないだろう。
しかし、伝統的に日本人の思想を支配してきたとだれもが思っている神道、儒教、仏教という三大思想よりも、増沢さんは農業者として、農村に生活してきた人間としての実感から思想の源泉としての「農」を重視する。この増沢提起を私なりに極端に単純化していえば、日本列島においては自然環境に対応してその土地の耕土に対して適切な技術を駆使して働けば、どうにか安定した収穫物が得られるという経験則から生まれた、自然尊重、土地尊重を伴う労働観ではないか。そしてそれらを包括したものが営農観だと主張されていると感じた。これは観念的な抽象的な存在である神仏に依存しなくとも現世に豊かなくらしがあるという「現世主義(加藤)」であり、生産物の成果が自分の働きに対応しているという点で「現在主義(加藤)」に対応することになる。
世界中のどの民族もそれぞれの伝統的な世界観を持ち、そこに言語を含めてなんらかの外来思想が到来してさらに独自の思想風土を形成し、歴史的にその繰り返しを経て地球規模のやや普遍的ないくつかの思想に収斂してきているのが現代であろう。日本は大陸の隅というか、端にあって、海を越えてきた多様な外来思想を受容してきた。しかし表面的には抵抗なく受け入れたようで、仏教式葬儀はどこにもありクリスマスは日本中の子供に不可欠である。だが思想の底の部分では土着的世界観が強力で、儀礼的な部分は別として、外来思想の骨格部分を本当には受容してこなかったことを再考すべきである。
さらに私は日本ではどうして古代以来の独自の世界観の再生力が強いかという課題に当たる。それはまさに増沢発言にあるように列島全域において千年以上もかの「自然依存の営農方式」が農家によって維持され、再生産されてきたことにあるのではないか、と想定した。だが今は肝心のその底が抜けているというのが、増沢さんの憂農、憂国の訴えであろう。
森川辰夫
これは本センター「設立一周年記念イベント」(2009.6.20)における、岡谷市・増沢俊文さんのお話の末尾、まとめの部分での発言である(座談会「岡谷で農!を語ろう」の記録、13~14頁、本センター刊)。増沢さんは大著、「農民の生活」の著者ではあるが、農業者として昭和時代を一筋に生きてこられた方で、御自分の発言にはなにものにも制約されないし、世間に遠慮される事柄もないという、率直な方である。若いころからこういう性格だったのかもしれないが、80歳を越えられての発言には重みがある。最近こそ農業者自身の発言がマスメディアにも一般的になったが、かつては農協組合長とか生産組織代表などの立場のある人の発言ぐらいしか目にしなかった。一昔前までは普通の農家の、いわば社会的発言は少なかったといえる。ましてや私より年配の方々の個人的発言は貴重である。
しかしそのことよりもここでの課題は発言の中味である。増沢さんは「農の思想」という表現で止められているから、必ずしも中味は明示的ではないが、その位置付けは明確である。つまり神道、儒教、仏教よりも「農の思想」の方が基底的である、日本人にとっては「大切」である、という主張である。つまり近代において「農本主義」として研究されてきた独自思想よりも、もっと一般人に共有的な、常識的な深層の思考部分である。
こういう潜在的な考え方は農村地域にはいまなお広範に存在するが、日本の思想史研究のなかでは軽視されてきた。なによりも知識人に軽蔑されてきたから、歴史のどの時代でも表面化しなかったし、それは現代でも例外ではない。そもそも日本人に外来思想を受け売りするのが「知識人」の営業だから、商売敵はたたかねばやっていけないのだろう。日本思想史においてこの課題を正面から取り上げ、現代にいたる外来思想との関連で評価したのは、私の知るかぎり加藤周一である。加藤は「土着的世界観」という概念で、今日に至るまで日本人を支配している考え方の仕組みを解明した。増沢さんの主張はこの概念の提起と大いに関連するから、私としては気になった次第である。
増沢さんはこの発言のあと近代思想にも触れられているが、ここでは外したい。この中世以来の外来西洋思想の受け売り営業は、日本社会では現代でも大いに繁盛しているから論評の対象としての話題に事欠かないが、話をはっきりさせるために引用部分に即して、少々局面を限定したい。
増沢さんの「儒教」には「道教」も含むのではないかと思われるが、ともかく「仏教」と共に大陸からの外来思想である。ここにいう「神道」がいかなるものか、ご本人に伺ってみないと分からないが、明治政府の「国家神道」とは別の古来からの伝統的なものだとすると、それは加藤によればアニミズム、祖先崇拝、シャマニズムから成り立っている。これらの源流的な思想は変形しながらいまなお日本人の心情に生きているから、必ずしも「農」の思想とは無関係ではないだろう。
しかし、伝統的に日本人の思想を支配してきたとだれもが思っている神道、儒教、仏教という三大思想よりも、増沢さんは農業者として、農村に生活してきた人間としての実感から思想の源泉としての「農」を重視する。この増沢提起を私なりに極端に単純化していえば、日本列島においては自然環境に対応してその土地の耕土に対して適切な技術を駆使して働けば、どうにか安定した収穫物が得られるという経験則から生まれた、自然尊重、土地尊重を伴う労働観ではないか。そしてそれらを包括したものが営農観だと主張されていると感じた。これは観念的な抽象的な存在である神仏に依存しなくとも現世に豊かなくらしがあるという「現世主義(加藤)」であり、生産物の成果が自分の働きに対応しているという点で「現在主義(加藤)」に対応することになる。
世界中のどの民族もそれぞれの伝統的な世界観を持ち、そこに言語を含めてなんらかの外来思想が到来してさらに独自の思想風土を形成し、歴史的にその繰り返しを経て地球規模のやや普遍的ないくつかの思想に収斂してきているのが現代であろう。日本は大陸の隅というか、端にあって、海を越えてきた多様な外来思想を受容してきた。しかし表面的には抵抗なく受け入れたようで、仏教式葬儀はどこにもありクリスマスは日本中の子供に不可欠である。だが思想の底の部分では土着的世界観が強力で、儀礼的な部分は別として、外来思想の骨格部分を本当には受容してこなかったことを再考すべきである。
さらに私は日本ではどうして古代以来の独自の世界観の再生力が強いかという課題に当たる。それはまさに増沢発言にあるように列島全域において千年以上もかの「自然依存の営農方式」が農家によって維持され、再生産されてきたことにあるのではないか、と想定した。だが今は肝心のその底が抜けているというのが、増沢さんの憂農、憂国の訴えであろう。
森川辰夫
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「秋」終えて
「秋」というのは収穫の秋、その中で「稲の収穫」のことを言います。それで言えば、我が家も「秋」は終わりました。正確には、3反の半分はJA出荷なので、JAの大型コンバインが来て、あっという間に刈り取って、カントリーエレベーターに持って行き、残りの半分は近所の小さなコンバイン持ちの方に刈り取ってもらい、それを遠縁の家に運んで、今、乾燥・籾擦り中なので、「終えてもらいました」という事です。
この冬には、公民館講座で「背中蓑作り」を行う予定なので、その材料であるわらを確保しなければなりませんでした。コンバインで刈ってもらうと、わらそのままの長さでは確保できないので、近所の人に刈ってもらう田んぼのくろ刈りをしたわらを、切断しないで、そのままに残して脱穀をしてもらいました。くろ刈りしたわらを縛ってから、脱穀にかけたのですが、すでに何年か前からコンバインのお世話になっているので、縛り方を忘れてしまっていました。ようやく思い出して縛ったのですが、ゆるくて、脱穀の間にほどけてしまったものもありました。
わらを干さなければならないのですが、はざがないので、そのまま田んぼの畦に載せておきましたが、2日後に雨模様、あわてて納屋に取り入れて広げる…。
コンバインは便利ですが、わらの確保は大変。鎌で刈り取り、はざにかけ、1つ1つ脱穀して、米と同時にわらも産物として確保する。そのわらで生活品を作り出す、他に梳きこむ、畑の野菜作りに使う(敷きわら、豆類の手など)、そして畳屋さんや酪農家に売る。そんな仕事を、昔は嫌でたまらなかったですが(嫁に来た頃)、今は懐かしく、貴重な仕事として再現したくなりました。
さつま芋は、大味で、あまりおいしくはないかと思いますが、食べていただければ嬉しいです。
じゃが芋は、我が家も春先に芽を出させてしまうくらい、毎年作っています。今年は、皮が赤くて、中身が黄色いじゃが芋を少し作りましたら、もう8月の末から芽が出てきました。それで、その芽の部分を切り取って、畑に植えましたら、芽が出て、葉が出て、10センチくらいに育っています。秋じゃがとして収穫できるかと、今、楽しみにしているところです。
これからは、里芋も掘らなければなりません。「稲の秋」は終わっても、「収穫の秋」はまだまだ続きます。新米農婦は、今日も畑へ出かけ、腰をさすりつつ、慣れない鍬をふるいます。
福田美津枝
新米農婦のサツマイモ堀
鎌でつるを切りはらって、備中ぐわで掘っていきます。ところが、そんな鍬を日ごろ持ったことがない私には、鍬を振り上げるだけで精いっぱい。狙いをつけて振りおろすのですが、よろよろなので、狙いが外れてグシャッ。肝心の芋の上に鍬がおろされるのです。結局、満足に掘り上げたものはほとんどなく、半分にちぎれているものや、ちぎれていなくても鍬の先がかすったものばかり。それでも小さな芋もちぎれた芋も、掘り起こしたものは1つ残らずかごに入れて持ち帰り、早速洗って茹でました。
この芋がおいしいこと、おいしいこと。鍬を使った腹ペコの分を差し置いてもおいしく、昼ご飯に戻ってきた母もおいしいとたくさん食べました。
芋を掘ったら分けてほしいと頼まれたUさんに、いい芋少しを届け、茹でた芋で味見をしてもらいました。今度は上手に掘り上げて、たくさん差し上げます。さつま芋作りは、鍬使いが一番大切だと言うことが身にしみました。
福田美津枝, 『日々の暮らし日々の食べ物』より転載
「農村生活」時評28 "入浴という生活リズム"
あるテレビ番組で関西在住の作家がひとつの思考停止の例として、あの阪神・淡路大震災時に揺すられている間はパニックになって何も考えられなかったという話をしていた。昨今、話題の避難方法の話しではなく、これを聞いて私はこの方の指摘したこととは局面が異なるが、ここ十年か二十年来か、日本の社会全体が揺すられてしまい、いわば震源に近い人ほど思考停止になっている状態ではないかと思った。世間には暴論、極論、曲論が横行して中々、正論というか、まともな話が通じない状況で、いわゆる知識人が発言を控える言論界の空気が危険だと思っていたが、社会的基盤のひとつの側面としてこういうこともあるのだろう。
なんとかの一つ覚えだが、私は40年以上「生活リズム」という課題を追いかけ、農村の暮らしについての研究手法としての側面も提案してきた。人間は地球に暮らしている限り全ての生物と同じく、生物リズムに支配されている。それを基礎に近代人は社会に合わせて生活リズムの型を身に付けてきたが、それを具体的にいかに自分の型として自覚するかどうかが、この世間で落ち着いて暮らすためのひとつの大事な別れ道である。生活リズムというと夏休みの子どもの健康的な時間の過ごし方のような受け取り方が一般だが、実は仕事や情報に追われた社会人が落ち着くための生活作法である。
さて、この生活リズムには多様な中味があるが、私にはあまり注目されないが"入浴"という生活行動上のポイントが気になっていた。世間では調べたわけではないが夕食後、就寝までの間に入浴するのがごく普通だろう。もちろん高齢者施設では入浴について独自の時間設定があるが、通勤時間のある勤め人の家庭では大体こうなるだろう。
私が半世紀前に農協に勤めていた時、農家の長屋門の一室を借りて寄宿したが、その農家ではお祖父さんが夕方になると風呂をわかし、担い手世代が農作業から帰ってくるとまず入浴して着替えていた。そこは温暖な土地で年中、屋外の仕事があったからこの生活パターンはいつもごく自然に続けられていたように思い出す。その後農村調査マンに転じ、多くの農家の労働状態を圃場に、屋敷内にと追いかけて測定して歩いた。そのなかで、入浴は体の生理からいえば労働と同じ活動状態で、気分的あるいは生活時間分類上は休息状態であるという二重の性格を持ち、生活リズムからいうと労働と休養という二大生活行動上の接点に位置しており、極めて重要なポイントだ、ということに思い当たった。
この農家の生活リズムの型を社会条件の異なる現代生活に再生させることは、将来究極の職住接近社会でも出来なければ無理だろうと考えていたが、ある新聞にこんな体験記が載っていた。働いているお母さんが夕方、保育所から子どもを引き取りすぐ、夕食の準備にかかるが、昼間お母さんと離れていた子どもがまとわりついて家事の邪魔になって仕方がない。そこで友人の助言で、帰宅すると、ともかくすぐ一緒に入浴して固く抱きしめてあげるようにしたという。すると子どもも落ち着いてくれたので、かえって夕食の準備が手際よくできるようになったという。もちろんこの入浴が働くお母さんの気分一新に役立ったことはいうまでもない。この記事を読んで現代社会において、新しく生活リズムを創造していく最前線の工夫ということを教えられた。
日々の生活リズムを刻むのはなんといっても、24時間での睡眠時間の考え方である。
現代日本人は現役世代が世界で一番、睡眠時間を削って生活している「トップランナー」である。バリバリ活動していて誠に合理的に見えるが、私には実はそれが健康を阻害しているように見える。医学的なことはまったく知らないが、世間でよく話題になるうつ病発生のひとつの基盤になっているような気がする。
次は活動時間をどう過ごすかが課題となる。普通の人は職場の労働時間とその時刻がすべてを決めるが、物書きのような自分で時間を配分できる人はどうか。著名人は死後、日記でも刊行されないと具体的な生活については判らないが、これまた別の新聞記事によると「つまり、一日というものが厳として存在し、それが24時間しかない、と。この"単位"のなかで、つねにノリにいたる道を築かねばならない。これは生活のリズムの、組み立てだ。そして、リズムを刻むのは、つねに食だ(古川日出男:作家の口福、朝日09.6.6)」とある。また、稀な例だろうが、朝の入浴が執筆仕事の始まりというシナリオ作家の話も聞いたことがある。
かつて私が仕事していた青森・津軽地域は、その頃も今も若者の就職先に乏しく気象条件にも恵まれていなかったが、弘前市内にも周辺にも銭湯のような温泉の多い所だった。私は休日に路線バスを利用して足場の良いところへ入りに行く程度だったが、大学の同僚にいつも出勤前に車を駆って毎日のように違う所に入浴してくる先生がいた。秋らしくなると津軽の紅葉とともに、近在の人々が入る気楽な温泉の佇まいと、いかにも自分の生活のペースを大事にしていた彼のことを思い出す。
なんとかの一つ覚えだが、私は40年以上「生活リズム」という課題を追いかけ、農村の暮らしについての研究手法としての側面も提案してきた。人間は地球に暮らしている限り全ての生物と同じく、生物リズムに支配されている。それを基礎に近代人は社会に合わせて生活リズムの型を身に付けてきたが、それを具体的にいかに自分の型として自覚するかどうかが、この世間で落ち着いて暮らすためのひとつの大事な別れ道である。生活リズムというと夏休みの子どもの健康的な時間の過ごし方のような受け取り方が一般だが、実は仕事や情報に追われた社会人が落ち着くための生活作法である。
私が半世紀前に農協に勤めていた時、農家の長屋門の一室を借りて寄宿したが、その農家ではお祖父さんが夕方になると風呂をわかし、担い手世代が農作業から帰ってくるとまず入浴して着替えていた。そこは温暖な土地で年中、屋外の仕事があったからこの生活パターンはいつもごく自然に続けられていたように思い出す。その後農村調査マンに転じ、多くの農家の労働状態を圃場に、屋敷内にと追いかけて測定して歩いた。そのなかで、入浴は体の生理からいえば労働と同じ活動状態で、気分的あるいは生活時間分類上は休息状態であるという二重の性格を持ち、生活リズムからいうと労働と休養という二大生活行動上の接点に位置しており、極めて重要なポイントだ、ということに思い当たった。
この農家の生活リズムの型を社会条件の異なる現代生活に再生させることは、将来究極の職住接近社会でも出来なければ無理だろうと考えていたが、ある新聞にこんな体験記が載っていた。働いているお母さんが夕方、保育所から子どもを引き取りすぐ、夕食の準備にかかるが、昼間お母さんと離れていた子どもがまとわりついて家事の邪魔になって仕方がない。そこで友人の助言で、帰宅すると、ともかくすぐ一緒に入浴して固く抱きしめてあげるようにしたという。すると子どもも落ち着いてくれたので、かえって夕食の準備が手際よくできるようになったという。もちろんこの入浴が働くお母さんの気分一新に役立ったことはいうまでもない。この記事を読んで現代社会において、新しく生活リズムを創造していく最前線の工夫ということを教えられた。
日々の生活リズムを刻むのはなんといっても、24時間での睡眠時間の考え方である。
現代日本人は現役世代が世界で一番、睡眠時間を削って生活している「トップランナー」である。バリバリ活動していて誠に合理的に見えるが、私には実はそれが健康を阻害しているように見える。医学的なことはまったく知らないが、世間でよく話題になるうつ病発生のひとつの基盤になっているような気がする。
次は活動時間をどう過ごすかが課題となる。普通の人は職場の労働時間とその時刻がすべてを決めるが、物書きのような自分で時間を配分できる人はどうか。著名人は死後、日記でも刊行されないと具体的な生活については判らないが、これまた別の新聞記事によると「つまり、一日というものが厳として存在し、それが24時間しかない、と。この"単位"のなかで、つねにノリにいたる道を築かねばならない。これは生活のリズムの、組み立てだ。そして、リズムを刻むのは、つねに食だ(古川日出男:作家の口福、朝日09.6.6)」とある。また、稀な例だろうが、朝の入浴が執筆仕事の始まりというシナリオ作家の話も聞いたことがある。
かつて私が仕事していた青森・津軽地域は、その頃も今も若者の就職先に乏しく気象条件にも恵まれていなかったが、弘前市内にも周辺にも銭湯のような温泉の多い所だった。私は休日に路線バスを利用して足場の良いところへ入りに行く程度だったが、大学の同僚にいつも出勤前に車を駆って毎日のように違う所に入浴してくる先生がいた。秋らしくなると津軽の紅葉とともに、近在の人々が入る気楽な温泉の佇まいと、いかにも自分の生活のペースを大事にしていた彼のことを思い出す。
森川辰夫
赤だつ芋育てて、美味の酢炒り
9月のある日、いよいよだつに鎌を入れました。「赤だつの酢炒り」を作るためです。まだ発育途中のだつを切るのは忍びない気がしましたが、このために作ったのだからと思い切り、10数本刈り取りました。
うちへ持ち帰って皮をむき、5センチくらいの長さに切って塩をしたのち、水気が出てきた頃良く揉み、水で洗ってから、念のため、もう1度塩をして揉み込みました。以前、この塩もみが足らなかったので、エグ味が残ったことがあったからです。鍋に油を熱し、よく絞った赤だつを入れ、炒めます。砂糖、塩、酢を入れるのですが、私はらっきょうを漬けた酢を酢のものに使っているので、そのらっきょう酢を入れ、さらに梅干しを食べ終わった後に残る梅酢も少し入れました。どす黒かった赤だつが、パーっと鮮やかな赤色になりました。あとは砂糖も塩も酢もそれぞれ足しながら、塩梅して出来上がり。自分で育てた赤だつの酢炒りは、また格別の味でした。
うちへ持ち帰って皮をむき、5センチくらいの長さに切って塩をしたのち、水気が出てきた頃良く揉み、水で洗ってから、念のため、もう1度塩をして揉み込みました。以前、この塩もみが足らなかったので、エグ味が残ったことがあったからです。鍋に油を熱し、よく絞った赤だつを入れ、炒めます。砂糖、塩、酢を入れるのですが、私はらっきょうを漬けた酢を酢のものに使っているので、そのらっきょう酢を入れ、さらに梅干しを食べ終わった後に残る梅酢も少し入れました。どす黒かった赤だつが、パーっと鮮やかな赤色になりました。あとは砂糖も塩も酢もそれぞれ足しながら、塩梅して出来上がり。自分で育てた赤だつの酢炒りは、また格別の味でした。
福田美津枝, 『日々の暮らし日々の食べ物』より転載
※ 赤だつ(あかだつ)
岐阜県
自家用につくられてきた赤ズイキをとるさといも
■分類:いも類
■食べたい料理:酢炒り(炒め煮)・漬物・乾燥だつの煮物
■調査地:岐阜県 中濃地域
■調査団体:岐阜―食を考えるみんなの会参考: 『故郷に残したい食材』 (社)農山漁村文化協会
「農村生活」時評27 "農と食の結びつき一考"
仙台圏は百万人の都市でかつ、全国有数の生産力の高い、豊かな農村地域に囲まれている。松島という江戸時代からの観光地もひかえ、都市近郊農業が発達してきた。しかし東北地方随一の都市圏が拡大して産地の移動、変貌も著しい。名取市は仙台市の南に位置し、いまでは都市開発の最前線だが伝統的に農業も盛んな、いわば問題の接点にある課題の多い地域である。もとより食と農の結びつき方には地域性を反映した多様な試みがあって良いが、ここの取り組みも精彩を放つ。
発足以来、早5年目となる「東北農村生活研究フォーラム」が「生産者と消費者を結ぶ~"農"の現場で"宝"さがし!」をテーマにして名取市で、この夏の終わりに開催された。「フォーラム」当日の日程は名取市の産直グループの大型スーパーの店先の朝市(土曜・朝8時)と店内・直売コーナーの見学から始まり、二つの集落の2戸の産直農家の圃場見学、農家レストラン(重要文化財・洞口家住宅)での昼食と見学、および参加者の討論という充実した内容であった。
この現場で生産と消費の結びつきを考えるのが集会の課題で、かつ小論の中味だが、様々な事情が背景にあるので単なる見学では感想以上のものは生み出せない。しかし私の目に映った精彩のいくつかについて書き連ねたい。そのひとつはいまでは全国何処でもみかける姿だが、女性グループの活躍の様子である。それは素晴らしいが、手のかかる野菜をつくり出荷、出店して宅配までやれば大変な忙しさであろう。もちろんどの農家でも男性が一緒に働いているのだが、見学対象が産直グループで、伺った勉強する側もほとんど女性ばかりで遠慮されたか、日程の中ではまったく男性に会わなかった。半世紀前には農家調査で生活や営農のことについて女性の意見を聞くのに苦労したが、今回は男性をつかまえられなかった。ここでの農と食を結びつける活動をさらに発展させるには、という課題についてみんなで話し合った。やれそうなことがいくつも提起されたが、私はやはり都市側か行政側から支援というか、仲立ちする人がいないと、農家男性の意見は聞いていないが、これ以上に農家が働く労力負担は無理ではないかと思った。
現地見学で圃場めぐりをさせてもらったが、野菜を見て歩きながらこの散歩こそ、いまの都市住民が新鮮な農産物とともに求めているものではないかと感じた。そしてこの散歩活動の延長先に、社会的に求められている今日的な援農システムも展望できるのではないか。江戸中期、250年まえの建築物とうかがったが、豪壮な洞口家住宅の説明を聞いて、これがここの農村散歩の目玉にほかならないと痛感した。どこの農村でも農業生産が展開されていれば都会人の散歩には癒しの効果はあるが、ここではこの建物が散歩の終点になる。しかもこの重要文化財の値打ちのなかに、このでは集落の各戸がそれぞれ堀でめぐらされていることが含まれているという。この各戸の堀は車時代の道路拡張でかなり埋め立てられているが、まだ名残が何箇所もあるようである。この景観を住宅とともに保存し、仙台空港アクセス鉄道沿線として開発の進むこの地域にこそ、歴史的な宝として生かすことは、この圏域に住む現代人の役目のように思う。産直グループ応援だけでもなく農業支援だけでもなく、自分の地域づくりそのものとして、仙台圏の広範な市民の参加がえられる課題ではないか。この話し合いの中で私だけかもしれないが、この思いつきにわくわくして発言した。
この集まりに参加して外の訪問者を受け入れてくださった女性グループには、個別にはいくつもあり、それらは構成メンバーが少しずつ重なり合っているらしい。その様子を立ち話で断片的に耳にして、ある意味ではこれこそ現代的な組織化方式のように感じた。つまり(イ)という目的のためにAというグループをつくるが、その活動を継続しつつ新しく(ロ)という目的のために別にBというグループをつくるためにAから何人か参加して新しいメンバーも加わって組織する。特定の集団になにもかも負わせるのではなく、ひとつのグループはひとつの目的を追求する。新しく仕事ができれば新しいメンバーで組織する。しかし経験の継承や発展のために幾人かはそちらにも加入するらしい。そうやって重層的に活動と組織を発展させてきたようである。
こういう重層的な組織は中心メンバーは忙しいかもしれないが、地域で厚みのある活動が推進できる素晴らしいやり方ではないか。多面的な課題が地域にある以上、それを突破するにはこういう重厚な活動体こそふさわしい。
森川辰夫
この現場で生産と消費の結びつきを考えるのが集会の課題で、かつ小論の中味だが、様々な事情が背景にあるので単なる見学では感想以上のものは生み出せない。しかし私の目に映った精彩のいくつかについて書き連ねたい。そのひとつはいまでは全国何処でもみかける姿だが、女性グループの活躍の様子である。それは素晴らしいが、手のかかる野菜をつくり出荷、出店して宅配までやれば大変な忙しさであろう。もちろんどの農家でも男性が一緒に働いているのだが、見学対象が産直グループで、伺った勉強する側もほとんど女性ばかりで遠慮されたか、日程の中ではまったく男性に会わなかった。半世紀前には農家調査で生活や営農のことについて女性の意見を聞くのに苦労したが、今回は男性をつかまえられなかった。ここでの農と食を結びつける活動をさらに発展させるには、という課題についてみんなで話し合った。やれそうなことがいくつも提起されたが、私はやはり都市側か行政側から支援というか、仲立ちする人がいないと、農家男性の意見は聞いていないが、これ以上に農家が働く労力負担は無理ではないかと思った。
現地見学で圃場めぐりをさせてもらったが、野菜を見て歩きながらこの散歩こそ、いまの都市住民が新鮮な農産物とともに求めているものではないかと感じた。そしてこの散歩活動の延長先に、社会的に求められている今日的な援農システムも展望できるのではないか。江戸中期、250年まえの建築物とうかがったが、豪壮な洞口家住宅の説明を聞いて、これがここの農村散歩の目玉にほかならないと痛感した。どこの農村でも農業生産が展開されていれば都会人の散歩には癒しの効果はあるが、ここではこの建物が散歩の終点になる。しかもこの重要文化財の値打ちのなかに、このでは集落の各戸がそれぞれ堀でめぐらされていることが含まれているという。この各戸の堀は車時代の道路拡張でかなり埋め立てられているが、まだ名残が何箇所もあるようである。この景観を住宅とともに保存し、仙台空港アクセス鉄道沿線として開発の進むこの地域にこそ、歴史的な宝として生かすことは、この圏域に住む現代人の役目のように思う。産直グループ応援だけでもなく農業支援だけでもなく、自分の地域づくりそのものとして、仙台圏の広範な市民の参加がえられる課題ではないか。この話し合いの中で私だけかもしれないが、この思いつきにわくわくして発言した。
この集まりに参加して外の訪問者を受け入れてくださった女性グループには、個別にはいくつもあり、それらは構成メンバーが少しずつ重なり合っているらしい。その様子を立ち話で断片的に耳にして、ある意味ではこれこそ現代的な組織化方式のように感じた。つまり(イ)という目的のためにAというグループをつくるが、その活動を継続しつつ新しく(ロ)という目的のために別にBというグループをつくるためにAから何人か参加して新しいメンバーも加わって組織する。特定の集団になにもかも負わせるのではなく、ひとつのグループはひとつの目的を追求する。新しく仕事ができれば新しいメンバーで組織する。しかし経験の継承や発展のために幾人かはそちらにも加入するらしい。そうやって重層的に活動と組織を発展させてきたようである。
こういう重層的な組織は中心メンバーは忙しいかもしれないが、地域で厚みのある活動が推進できる素晴らしいやり方ではないか。多面的な課題が地域にある以上、それを突破するにはこういう重厚な活動体こそふさわしい。
森川辰夫
農本主義のこと⑥ 近代化への対抗原理(上)
- 2009/09/06 (Sun)
- ■ 農 |
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宇根豊さんの話しぶりは文章に劣らず凄みがあった。題目は「近代化を超える・天地有情の農学か百姓学か」だった。だが、所定の時間では、用意されたレジメの半分ほどしか触れられず、「農本主義の挫折と再生」という項目には至らなかった。農本主義についてどういう話をするつもりだったのか。また農業改良普及員の仕事を宇根さん自身はどう思っていたのか。この二点について質問した。
天地有情の農学の出発点は、宇根さんが福岡県の農業改良普及員だった1978年28歳のとき始めた減農薬運動にさかのぼる。戦後の農業改良普及事業には、農民を上から指導する旧来の農政や農学の流れと、アメリカ流の、農民といっしょになって改良にとりくむ流れとがあり、両者がせめぎあっていた時期があったという。減農薬運動は、単に農薬を減らす運動ではなく、農薬をふるかふらないかを百姓が決める。自分の田んぼの一枚一枚について虫見板で病害虫の発生状況を調べた上で判断する。農薬を散布する時期まで農政や農協が決めて指導するのと対照的に、農民の主体性をはぐくむ取り組みであり、普及事業が農民といっしょになってすすめた最後の実践ではなかったかという。
宇根さんは49歳で普及員を辞めて就農し、「農と自然の研究所」を設立した。現在、会員900人を擁するNPO法人だが、来年(2009年)が10年目なので規約により解散する予定という。この仕事に区切りがついたら、農本主義の研究に没入したい、のだそうだ。予期せぬ言葉だった。そして農本主義者としてまず口にしたのが茨城県水戸の橘孝三郎(1893-1974)の名前だった。その名前を私は複雑な思いで聞いた。
宇根さんが農本主義に共感するのは、近代化を徹底的に問うている点である。農本主義には近代化に対する強い嫌悪感が潜んでいるという。昭和維新は天皇親政による一種の「革命」を目指したが、そのなかで提唱された農本主義は重要な概念を指摘した。明治以降、工業ばかり重視してきた国家に対して、農業は生命を対象とした営みゆえに、工業と同じ産業とみなすことはできない。農業こそ国の本である、と異を唱えた。
ひるがえって近年の有機農業に目を向けると、それがさらなる広がりをみせるかどうかは、安心・安全な食べものの生産に甘んじるだけでなく、近代化されない価値をきちんと定義できるかどうかにかかっているという。もはや農業は近代化の尺度だけでは測れない。それと異なった尺度を、社会共通な尺度として見出してゆかねばなるまい、と。
片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
天地有情の農学の出発点は、宇根さんが福岡県の農業改良普及員だった1978年28歳のとき始めた減農薬運動にさかのぼる。戦後の農業改良普及事業には、農民を上から指導する旧来の農政や農学の流れと、アメリカ流の、農民といっしょになって改良にとりくむ流れとがあり、両者がせめぎあっていた時期があったという。減農薬運動は、単に農薬を減らす運動ではなく、農薬をふるかふらないかを百姓が決める。自分の田んぼの一枚一枚について虫見板で病害虫の発生状況を調べた上で判断する。農薬を散布する時期まで農政や農協が決めて指導するのと対照的に、農民の主体性をはぐくむ取り組みであり、普及事業が農民といっしょになってすすめた最後の実践ではなかったかという。
宇根さんは49歳で普及員を辞めて就農し、「農と自然の研究所」を設立した。現在、会員900人を擁するNPO法人だが、来年(2009年)が10年目なので規約により解散する予定という。この仕事に区切りがついたら、農本主義の研究に没入したい、のだそうだ。予期せぬ言葉だった。そして農本主義者としてまず口にしたのが茨城県水戸の橘孝三郎(1893-1974)の名前だった。その名前を私は複雑な思いで聞いた。
宇根さんが農本主義に共感するのは、近代化を徹底的に問うている点である。農本主義には近代化に対する強い嫌悪感が潜んでいるという。昭和維新は天皇親政による一種の「革命」を目指したが、そのなかで提唱された農本主義は重要な概念を指摘した。明治以降、工業ばかり重視してきた国家に対して、農業は生命を対象とした営みゆえに、工業と同じ産業とみなすことはできない。農業こそ国の本である、と異を唱えた。
ひるがえって近年の有機農業に目を向けると、それがさらなる広がりをみせるかどうかは、安心・安全な食べものの生産に甘んじるだけでなく、近代化されない価値をきちんと定義できるかどうかにかかっているという。もはや農業は近代化の尺度だけでは測れない。それと異なった尺度を、社会共通な尺度として見出してゆかねばなるまい、と。
片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
秋(9~11月)
このむらの稲刈りは、9月上旬が殆どで、誰かが刈り始めると競うようにアッという間に田んぼから稲が消える。我が家は、少しでも稔実を良くしようと稲穂を眺めながら刈り取りを決めていた。例年9月中旬である。ただ微妙な点は、この時期は秋雨と台風である。1992年から2003年までの間に、台風は上旬に2回、中旬に3回来ている。このむらの人たちは、例年の天候を睨んで稲刈りを決めているようだ。
私の少年期は、稲刈りは10月、ハサ干、脱穀、籾干と12月に入り、籾摺りは冬の師走の仕事であった。籾摺りはこのむらの青年団の請負仕事で、石油発動機の籾摺機を1軒1軒持ち回って仕事をしていた。石油発動機のトントンと言う単調な響きが懐かしい。この頃、周囲の山々に初雪が降った。
こうして、秋は、稲の収穫、秋冬野菜の播種、定植が一段落するころ、山々が秋の色を見せ始める。山の紅葉は標高500m位を境にその色の鮮やかさが違う。我が家は、標高300mのところにある。屋敷地に山から採ってきて植えた幼木のモミジ、コマユミ、アブラチャン、クロモジも育って秋の色を見せるが、その年の夏の天気によって色合いが違う。
しかし山々の秋は見事である。檜、杉の濃緑に囲まれた中にある欅が秋の午後の陽に映える黄色の葉色など日本画の世界である。この時期、周辺の山々をドライブして回るのが年の行事であった。
我が家の秋の行事に、毎年90kgから120kgを精米して、新米を親戚、友人に贈ることである。1年間無事に百姓ができたという報告であった。そして、木枯らしが吹いて山が鳴り始める頃、夏に漬け込んだキュウリの粕漬(奈良漬)の本漬けがある。これも妻久枝の貴重な年行事の一つである。
谷底のこのむらに秋の終わりに山が鳴り始める。木の葉が谷一面、吹雪のように舞う。木々が一挙に裸になる。すごい霜が降りる。分厚い氷が張る。家の硝子戸の結露が氷の結晶になって花が咲いたように見える。こうして、冬を迎える。
小松展之『あわくら通信』第34号(2008.5.21発行)より転載
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