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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

カテゴリー「■ 農」の記事一覧

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農本主義のこと⑤ 虫見板

mushi.jpg 宇根豊さんが講師の日は2008年10月15日で、初めてお目にかかれるのを楽しみにしていた。前もって近著『天地有情の農学』(2007年、コモンズ)を読んで臨んだ。
 この本に宇根さんの野心的な持論は余すところなく述べられていると思った。百姓のなかに息づく近代化への違和感をすくいとって抱きしめ、あらたな百姓学を提唱して、近代化を推し進めてきた戦後農政と近代農学に対抗すべきだというのである。戦いに赴く武士が携える刀は、宇根さんの場合はさながら虫見板(むしみばん)であろう。
 虫見板は、小学生が使う下敷きほどの大きさの板である。ただの黒い板だが、それによって、田んぼが害虫や益虫だけでなく、多くの虫たちを育んでいることがわかる。百姓も認識していなかった「ただの虫」たちである。虫見板のすごさは、多様性を測る一つのものさしを私たちが手に入れたことだと思う。生物の多様性への気づきは、昆虫や動物にとどまらず、作物以外は雑草とひとくくりにされる植物にも及んでいく。それは、農薬や化学肥料を是としてきた近代農業に異議を唱える一つの拠り所となる。
 私は一昨年から田舎で暮らすようになって、荒れ果てるまま放置されてきた畑の一枚を耕し始めた。まだ百姓などとはとても言えない仕事ぶりだが、草を手鎌で刈る作業が基本的には稲刈りと同じ行為だと感心し、畑にひとりでいても少しも寂しくないのは対話する相手がいるおかげだと気づいた。やっかいな雑草たちは、手ごわい話し相手でもある。
 宇根さんの本を読んで、百姓仕事のもつ多様性だけでなく、農村のくらしがもつ多様性を測る「虫見板」がほしいと思った。宇根さんたちが、赤トンボやオタマジャクシを、人の手が入っていたからこそ息づいていた「自然」の産物として数え上げたように、かつての自給自足のくらしに息づいていた多彩な手仕事の「豊かさ」を数え上げてみたいと思った。農婦たちがみな一様に身につけていたであろう衣食住の技の数々をである。一銭の稼ぎにならなくても、そのどれもが家族が生きていくうえで大切な仕事であったはずだ。自給だけでなく、「自足」するためにも多くの技と労を必要とした。だが、主婦も外に稼ぎに出るようになり、自給農業が専作に変わり、あるいは道具が機械に代わるにつれ、技と労もろとも、そうした手仕事の多くは失われた。失ってはじめて存在のかけがえのなさに気づくのだが、いったい私たちはどれだけの仕事を失ってきたのだろうか。
 そんなことをつらつらと考えながら、宇根さんの講座に出た。当日の宇根さんのレジメに「農本主義」の四文字を見つけて私は少し姿勢を正した。『天地有情の農学』には、終わりの方に松田喜一を引用して「九州を代表する農本主義者」と紹介している箇所があったが、それ以外に農本主義という文字はなかった。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
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農本主義のこと④ 農業の世界

roses.jpg 仕事のお礼にいただいたバラの花束を、家に持ち帰らずに、PARC自由学校の受講仲間の浅輪雅夫さんにさしあげた。いただいた花が美しすぎて、わが家には飾るに似つかわしい場所が見当たらないからである。さしあげた花のお礼に、「農業の世界」というタイトルのメールをいただいた。
 浅輪さんとは、昨年受講した「検証戦後史」クラスに引き続いて、今年は「どうする日本の食と農」という講座でご一緒した。そのクラスも残りわずかとなった。
 「片倉様
 狭い我が家が、昨夜から華やいでいます。頂いた沢山の花を、あっちの部屋こっちの隅と幾つかに分けて置いたら、その中でも一輪挿しに投げ込んだ一本の花の凛とした美しさが鮮やかです。有難うございました。
 昨夜の森能文さんの話は、徹底的な各論の話で、これまでの総論に向けた切り口の話とは全く別の現実に、なるほどと思いました。どなたかの質問に答えて、「農民はコンクリート畦畔でなければ受け入れない」と言い切っていました。これまで十回ほど聞いてきた講座の殆どが、農業近代化への批判でしたから、森さんの指摘を私は重く受け止めました。
 今日、『天地有情の農学』を読み終えました。宇根さんはいよいよ近代批判に徹底してきているようですね。これは農学と言うよりも思想運動そのものではないでしょうか。宇根さん自身は、これを新しい農学と位置づけていて、その更に先に百姓学を予想しているようですが、これは、金勘定を離れた農業と言うことになるのでしょうか。
 農業を産業の一つと考えないとしたら、そういう非経済的な存在は、無形文化財の一つになるかも知れません。菅野芳秀さんが言った「トキが来る、トキになる」(最後の時が来るぞ、その時俺たちは朱鷺のような人工繁殖で生き残る存在になっているだろう)という巧みな自嘲が思い出されます。
 宇根さんが提唱する天地有情の農学は、そうならないために、アカトンボを含む日本の原風景という無形の価値を、農業の生産物の一つとして経済的価値に取り込むことを主張するわけです。そうすれば農業の生産性は一挙に向上します。今や炭酸ガス排出権という無形の物が交換価値を持って市場を形成する時代ですから、原風景の維持を貨幣で表現することだって荒唐無稽とは言い切れませんね。それならむしろ、原風景本位制という通貨制度まで踏み込むべきではないでしょうか。そうすることで初めてコンクリート畦畔を駆逐することが可能になるのではないでしょうか。
 これは立派な革命です。先日宇根さんが農本主義と口走ったのは、そう言う革命思想を想定していたのではないでしょうか。
 こういう総論に対して、「それは農民には対して説得力を持たないよ」と森さんは言ったのだと思います。ガンディーのような偉大な現実主義政治家ですら、経済主義的な近代化を押し返すことが出来なかったのだから、お伽噺みたいな原風景本位主義など吹けば飛ぶようなものだと思います。
 だからこそ、私はそこに惹かれます。都会者の感傷、プチブル的な趣味で終わるかもしれないことを覚悟して、今暫くそう言う考え方にこだわってみたいと思います。
 花のお礼のついでに、余計なおしゃべりをしました。
                                     浅輪」
 
片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)

農本主義のこと③ 岩崎正弥著『農本思想の社会史 生活と国体の交錯』

tuchi.jpg 岩崎正弥さんとは大学院時代に同じ研究室で同じテーマを抱えてともに学びあった仲である。実の兄弟の身体が同じ食べ物によって形作られているのなら、同じ知識を分かち合って過ごした私たちの思考の一部は、きっと同じものからできているはずである。
 『農本思想の社会史 生活と国体の交錯』(京都大学学術出版会、1997年)は、日露戦後から敗戦までの「農を機軸にすえた社会思想」を対象として、その歴史的・現代的意味を考察した学術書である。この本には、私も途中まで一緒に歩んだ道程が書き込まれている。まずそのことに感謝するとともに、私が研究室を去った後、岩崎さんが一人で歩いた困難な道程の長さを実感し、ただただ頭の下がる思いがした。彼が切り開いた部分がいかに大きいかを確認する意味で、読後の私の断想を少し書き連ねておく。
 戦後に書かれたかのような稀有な社会批評紙『ディナミック』。戦争中にこの個人紙を発行し続けた石川三四郎が、どのような生き方を通して、戦前戦中と戦後とが連続する地平を築きえたのか。デモクラシーを民主主義ではなく「土民生活」と訳し、帰農して文字どおり「土民生活」を生涯貫き通し、絶対的価値たる「自然」をそこに見出して依拠した、とその謎を解き明かしている。
 「社稷自治」という魅力的だが難解な権藤成卿の思想の核心を、弟子の松沢保和さんが発する聞き取りにくい言葉に辛抱強く耳を傾け続けることを通して、私たちにも容易に理解がとどくように、「民衆相互の契約」などと、分かりやすく説く。私なら、中国起源の発想で日本農村には受容の基盤をもたない、と文化相対主義で切ってしまいかねないところを、日本現代史研究の実証的方法も尊重して、自治農民協議会の飯米闘争などの実際の運動の展開と照らし合わせて論証している。
 このように思想が社会に影響を及ぼすと同時に廃れていく様を、思想の送り手側だけでなく受容する人たちの側にも立って、その帰結までしっかりと見とどける。農本連盟の岡本利吉は、一種の「新しき村」といえる「部落生活団体」を基盤にした協同社会を構想したが、岡本が主催した農村青年共働学校で学んだ人々を丹念に訪ね歩いて、岡本の実践の軌跡を明らかにするとともに、その理念に感化されて運動に参加した白山秀雄の生活と精神の遍歴もたどり、つまり一農村青年の目の高さから、さらに掘り下げている。
 同時代にそれぞれ独自の光を放っていたこうした巨星たちを、農本思想という天空に配して、一つの星座を描く。異彩を放つ革新派だけでなく、必要なら国体の枠内で農村自治を唱えた山崎延吉のような地味な保守体制派の位置づけもきちんとなされている。また、一つの星座のなかに位置づけると、たとえば、「家稷農乗」など特異な造語で行と場の独自の百姓哲学を説いた江渡狄嶺も理解が容易になる。石川の帰農生活や権藤の自治観念あるいは岡本の地域構想との異同を見比べることができるからである。だが、星座を描くには天空に座標が必要で、直接表に現れていないが、背後に潜む著者の問題意識は現代思想に通じている。
 私たちの日常生活の身体感覚にまで入り込んでいる現代の権力支配の仕組みを、ミシェル・フーコーがその発生の場にさかのぼって圧倒的な史料をつきつけながら語ったように、戦争(総力戦体制)と歩を一にして「保健衛生」が農村生活の中に入り込んできた過程を、戦時下の農村厚生運動の資料と証言を発掘して実証し、同時にそこに、行(心身鍛錬)を柱にした戦時下の農民道場の「訓育」にも通じる、自発性を喚起する新しい管理型の権力のあり方を観るという、たぶん全く前例のない力技に挑んでいる。
 ところで、農本思想家たちが歩いた道程を丹念にたどることによって、岩崎さん自身はいったいどんな地点にたどりついたのだろうか。その一つは、階層や世代や地域を場合によっては横断する、ゆるやかながらも共有された「生活世界」の存在であり、思想や運動の分析を「生活世界」の変容から捉えなおす視点であるという。まだ問題提起の域を出ないと自ら認めているが、それは農本思想研究の一つの到達点である。私たちの命と直にかかわる「生活世界」は、国家や経済の価値では捉えられない部分を今なお内に深く秘めているはずである。
 岩崎さんが切り開いたフロンティアに立って、新たな「生活世界」の創造に向けて、思考と実践を通して一歩でも前に歩を進められたらと、私はいま思い始めている。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)

農本主義のこと② 農本思想研究会の開催通知

books2.jpg 実は私は、愛知大学の岩崎正弥さんから、第二回農本思想研究会の開催通知とともに、「私の農本思想論」を考えておいてください、というメッセージを受け取っていた。
 農本思想研究会は、昨(2007)年6月10日に名古屋で初めて全国から7人ほどが顔を合わせて発足した。きっかけは、その道の大御所たる近畿大学の綱沢満昭さんから岩崎さんへ届けられた一枚の年賀状。結成を強く促す内容で、理由は最近よく農本思想の現代的意義を問われるからだという。それを受けて岩崎さんが中心となり、心当たりの同好の研究者に呼びかけて実現した。来る2008年2月23日に東京で第二回の会合がもたれるが、私にとってこの研究会は、母がいそいそと地元の短歌のサークルへ通うような、そんな気安い気持ちで参加できる小さいけれど大切な集まりである。
 浅輪さんからの思いがけない問いかけもあり、10年も前にいただいていた岩崎正弥著『農本思想の社会史 生活と国体の交錯』(京都大学学術出版会、1997年)をこのたびはじめて読み通した。
 この本を著者からいただいたとき、私は遠くフィリピンのボホール島に暮らし始めており、農村生活改善に関する国際協力の仕事に没頭していた。かの地では農業は生活の基盤そのもので、「農本主義」のように農業をことさら尊ぶこともなく、また「卑農思想」のように貶めることもない世界に身を置いていた。それよりもなによりも、日本の8月が年間通して続くような気候の中で、思想的なものへの関心自体を失っていた。
 日本に帰って調査研究者の生活に戻ったが、時間を売る勤め人の身であり、外から課された問題をかかえ、期限に迫られて報告書を作成する仕事に明け暮れてきた。私は大学で学問とは自問自答であると教わった。だから、考えるとは、内なる問いに対して惜しげもなく時間を湯水のように使うものだという思いがあり、「政治は現在に賭けるが、教育は未来に賭ける。学問は永遠に賭ける」ものだ、という竹内好の言葉を心に念じてきた。だから逆に、仕事に差し障りのでるような、内なる問いかけを迫る本は無意識にでも遠ざけざるをえなかったのかもしれない。本当は怠惰以外の何物でもないが、敢えて言い訳をすればそういうことになる。
 いま読み終えて、私には岩崎さんの本を批評する資格がない、とあらためて思う。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)

農本主義のこと①

books3.jpg 「農本主義のこと」という、全く予期せぬメールを個人的にいただきました。PARC自由学校の「検証戦後史」コースを1年間いっしょに受講した浅輪雅夫さんからのメールです。それは、私と「農と人とくらし研究センター」に対する、重く鋭い問いかけです。私はこのような明確な形で自問したことはなく、十分に答えられるかわかりませんが、このコラムの場を借りて、お答えしていこうと思いつきました。以下は、いただいたメールの全文です。
片倉様
「検証戦後史」の会合では、心にしみるようなあなたの発言を、いつも楽しみにしています。
最近の談話の中で、あなたは農本主義と言う言葉を何度か口にされましたね。それに関連して、思いついたことを書きます。どうか御読み捨て下さい。
あなたの「農と人と暮らしを研究」する試みには、農本主義という思想が含まれているのでしょうか。私は、これまで一度も農本主義について考えたことがありませんが、農業という営みの不思議さには、いつも関心を持っていました。
私達の「検証戦後史」クラスは、いわば戦後の社会運動史、社会思想史と言った角度からの検証ではなかったかと思います。実に刺激的な話が多く、充実した時間を過ごしましたが、今思うと、戦後史の重大な転換の一つに、日本の農業の衰退があったと思うのに、そのことを戦後史での問題とする指摘はなかったのではないでしょうか。
農業の衰退は、経済的な文脈ではあちこちで語られていますが、それが社会思想に及ぼしている影響は、少なくとも今回の講座では話題にならなかったと思います。戦前、不景気が無防備な農村に皺を寄せ、農村の危機が、満州進出に代表される膨張政策に転化されて、世論は大東亜戦争を退っ引きならないものと思い込んだ、と言われます。ではその問題は、戦後どうなったのでしょうか。
戦後、農村の危機は、第二次、第三次産業の発展の中に吸収されたと、言えばそれで済むのでしょうか。吸収されたのは、農村の若年労働力だけではなくて、農業の営みが持っていた常識や道徳、いわば世界観も又吸収されてしまったのではないでしょうか。
農業は、農民の居住地域と切り離せないし、農村共同体の全体性を支えてきたと思います。農業が企業化されることは、全体性を崩すのでしょう。機械化、大規模化は必然的な流れであるとしても、農業の工業化、非地域化は、伝統的な意味での農業の消滅を意味するのではないでしょうか。それは、共同体を維持してきた農業経験が消滅するということではないでしょうか。
比喩的に言うと、そのことが、戦後の日本で、民族ナショナリズムに対する国家ナショナリズムの支配を容易にしているのではないでしょうか。地域に根差した連帯に代わって、国家制度に基づく統一が優先し、歴史の内面化による主体性の共有ではなく、政治的経済的規格に基づく組織化が進む、という事態があるのではないでしょうか。
私の全く知らない世界ですが、農業とは、本質的には効率の追求に適合しないのではないかと考えます。そう言う分野は、教育、医療、介護、行政など、幾らでもあると思います。そう言うものの一つである農業に本源的な価値を求める農本主義という思想は、例えばグローバリゼーションに対する歯止めになりはしないか、と言うことを考えます。大きく言うと、そこに、近代に対する効果的な批判の可能性があるのではないか、と思うのです。
勿論、農業は国家ナショナリズムへの抵抗力だなどと言うのではありません。ただ、農業には何かしら人間にとって根源的な喜びをもたらす性質があると思えてならないのです。農業と家族制度、農業と天皇制、農業と差別、などなど、あるいは既に語り尽くされたのかもしれませんが、今の時点で農本主義という観点を提起なさるあなたのお話を、もう少し伺える機会があればいいなと思っています。
言葉が上滑りしていて恐縮ですが、あなたのご努力への関心を申し上げたくて一筆致しました。
浅輪

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)

都会で大豆を・・・

daizu.jpg 子どもと手をつなぎ、私の住む町を歩いていると、ところどころ、空き地に出会う。「あれっ、ここの家、壊したんだね」などと言いながら通り過ぎる。たいていは新しく家が建てられるか、アスファルトで固められ、駐車場へと変貌するのだが、そのまま置かれている空き地もたまにある。
 農業を学び、研究する日々を送ってきた。外部者として関わるだけではモノ足らず、狭いベランダや庭で小さな畑をしたり、生ごみを堆肥化したりしてきた。少し足を伸ばし、小田原の「あしがら農の会」という有機農業グループでの農作業や味噌造りなどにも参加したりしているが、いかんせん遠いため、予定を調整し、一日がかりで行かなければならないし、そう頻繁にも通えない。農的暮らしには程遠い。それならば、いっそ農村に住めばどうか、と言われてしまえば、言葉もないが、諸般の事情でそうもいかない。
 それに、このような時代にこそ、都市に農をもってくる必要があるとも思うのだ。子どもらに、食べものを獲得することの大変さを実感させたい。生命のたくましさ、そしてはかなさを知ること、自然の恵みを味わうと同時に、その自然が思うとおりにならないということを身を以って知ることのできる機会が、都市では決定的に少ない。
 ここ数年、空き地を通り過ぎるごとに、ここで何か作れたら、と強く思うようになってきた。そのきっかけは、区の社会福祉協議会が、道路予定地を使って始めた市民農園への参加であった。その市民農園は、堆肥の投入に百万単位のお金をかけたというのに、いつまで経っても道路ができないことに業を煮やした地主が建物を建てるからということで、3年で取りやめとなった。とても残念だったが、こんなやり方があるのか、と感心し、これならほかのところでもできるかも、と思った。
 もう一つのきっかけは、もう70をとうに越えた私の母である。千葉の田舎育ちの母は、小さいときから鋤をふるい家業の農業を助けてきた。結婚し、町場に引っ越してきたあとも、庭で畑仕事に励んでいた。20年以上前に、電車と徒歩で1時間弱ほどのところにある住宅地の一角を購入したのだが、そこには何も建てず、大豆作りをしている。宅地を購入した頃には、周辺には緑がたくさん残っていたが、今では回りにどんどん家が建ち、ぽつんと残った緑地となっている。近くに住んでいないので、苗を抜かれたり、といった嫌な思いは時折するようだが、月に1回程度の畑の手入れに、嬉々として出かけている。
 収穫した豆は枝豆にしたり、味噌を作ったりしている。肥料も与えず、農薬もまかず、水遣りもしないが、これまで10年以上連作を続けながらも、収穫もまずまず、失敗したことは無いと言う。
 まず考えたのが、現在、道路拡張予定のために、建物が壊され、どんどん空き地が増えている外苑東通り沿いである。道路建設が始まるには、まだ10年くらいはかかるだろう。そこで、空き地の管理者である都の道路課に、このような空き地を畑として利用することは可能か、問い合わせてみた。しかし、「土ぼこりなどが舞ったり、ごみを放られたりして、近隣から苦情が来るだろうから、むずかしい」、といわれた。次に、その空き地がある町会の集まりに顔を出してみたが、これもまた反応は良くなかった。結局、空き地には次々にアスファルトが貼られ、ごみを投げ入れられないように、と金網の柵が立てられた。
 次に考えたのが、私有の空き地である。所有者は不在なため、連絡方法が見つかりにくいが、幸い、よく通る公園の真向かいの空き地の所有者の連絡先を知ることができ、電話をしてみた。すると、あやしい業者と疑われたようで、にべもなく断られた。「家を建てる予定がありますので」、と言われたが、その後何年経ってもその気配はなく、草ぼうぼうのその土地を通り過ぎるたびに、「ああ、もったいないなあ」と心の中でため息をつく。
 このような空き地で、地域の子どもらを中心に、大人も手伝って農業をしてみたらどうだろう。土でどろんこになるだけでも良い。みみずや虫や、いろいろなものと出会うことができるだろう。空き地が、人の集まる場所になる。それだけでも楽しい。
 いつ返すことになるかわからない土地なので、お金をかけてはもったいない。大豆は、窒素固定できるので、やせた土地にも育つだろう。サツマイモも肥えた土地ではつるぼけするので、良いかも知れない。でも、大豆の方が、収穫後、味噌造りという加工につながる楽しみがある。もちろん一部はゆでて枝豆で食べるのも楽しいだろう。
 都会の空き地で大豆を作り、味噌を作る。その味は格別だろう。できては消える都会の空き地を利用し、ゲリラのように大豆を作る。すぐ身近にぽかっとできた畑に、近所の人はびっくりしつつ、のぞきに来るだろう。ごみなどを捨てられるかもしれないが、それもまた経験だ。収穫物を取られてしまうのは、さすがにたまらないが・・・。
 こんなことを考え、何年かが過ぎた。しかし、まだその実現のめぼしは全く立っていない。都会では、土地は資産であり、また固定資産税というお金のかかるものでもある。こんな酔狂な提案に乗るような人はいないかもしれない。でも、町という空間を構成する要素でもある。ドイツなどで街づくりの話しを聞くと、土地は個人のものでありながら、個人だけのものではない。街づくりの計画の中に、個人の土地の利用法も組み込まれている。所有者にとっては不自由なことだろうが、それを受け入れる公共の精神があるのだろう。せめて、空き地を遊ばせておく間だけでも、町を楽しいものにするために利用できるようなシステムが作れないものか。最近、規制緩和で建設が相次ぐ、周りの景色をさえぎるように聳え立つマンションを見ると、ため息がでる。周りの家は日陰になるし、風の通り道も変わるだろう。自分だけ良ければ、と体を張って主張しているかのようだ。
 今のところ、めどは立たない。それでも、やりたい。誰か、新宿区近辺で(近辺じゃなくても・・・)、"うちの空き地を"という方がいらしたら、ぜひご一報下さい。

吉野馨子(農と人とくらし研究センター研究員)

言いつづけるには元気がいる(後編)

cow.jpg ある参加者の話によれば、いま話題の牛ひき肉偽装事件をひきおこした食肉加工卸売会社の社長は「安売りに飛びつく消費者も悪い」と言ったらしい。彼がやったことは許しがたいが、その言い分には一理あり、さらに自分たちの身をふりかえって「消費者に何も言ってこなかった生産者も悪い」と反省の弁を語る人もいた。質の良いものはそれなりにコストがかかっている。安いものは疑ってかからなければならない、と消費者にちゃんと伝えてきただろうか、と。
 日本では「顔の見える商品」と称して生産者の顔写真が貼られた農産物が売られている。なぜそんなことをするのか。視察先のアメリカの農業女性にそう指摘されて、はじめてそのおかしさに気づいたと、参加者の一人が話をした。顔写真のステッカーを作るにはお金がいるし、貼る手間もかかり、食べるときは剥がさなければならない。地産地消とは本来どういうことを指すのか。顔の見える商品とは、近所で採れて、食べる人が作る現場を見知っている農産物をいうのではないか。勘違いは消費者だけでなく、生産者も同罪かもしれない、と。
 広告会社に高いお金を払って、牛乳に全く関係のない人に作ってもらうより、自分たち生産者の中から標語(キャッチコピー)を募集した方がきっといいものができるにちがいない。牛乳の宣伝方法についてのこの提案は、その日のみなの議論を集約していた。
 消費者との関係をめぐるやりとりを聞いていて、ある書評の一節が私の頭をよぎった。「そもそも情報は伝わらない・・・刺激を受けて『変容』するだけなの」だと、基礎情報学の第一人者が近著(西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』岩波新書)に記しているという。生産者の思いどおりに消費者に分かってもらうことはそう簡単なことではない。そう考えだすとどうしても悲観的な方向に思いは傾いていく。
 帰り際に知り合いの酪農経営主と挨拶を交わした。「生産者が言いつづけるほかないのよ」、きっぱりと力強い言葉が彼女から返ってきた。なるほど彼女は、消費者や農政に対して自分の考えを語れる知性や経験だけでなく、言いつづける元気をあわせもっている。新しい知見だけでなく、なにがしかの元気を、私も彼女からもらって会場を後にした。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)

言いつづけるには元気がいる(前編)

milk.jpg 同じ畜産の仲間から、元気をもらうために、万難を排してここに来ているのだ、と女性たちの多くが口にした。その言葉から、家族や地域のなかで、彼女たちが置かれているであろう、容易でない立場が伝わってくる。忙しい夫や家族をなんとか説得し、同じ苦労を語り合える仲間を求め、あるいは地域の仲間の声を届けるために、この会合に参加しているのである。加えて、畜産経営をとりまく環境は、輸入飼料の高騰やFTA(自由貿易協定)による輸入畜産品の拡大予測もあり、ますます厳しくなるばかりである。
 「全国畜産縦断いきいきネットワーク」という畜種を超えて畜産にたずさわる女性たちの集まりが、2007年7月4日、東京の虎ノ門パストラルを会場に開かれた。4年ほど前に畜産女性起業の調査をしたことがあり、そのときインタビューさせていただいた見知った顔も幾人かみえる。3回目を迎える今年の大会に、全国から集まった畜産経営をいとなむ女性たちは55人で、残りの半数は事務局の社団法人中央畜産会や農水省・畜産団体関係の方々であった。
 5つの分科会の一つに私も加えてもらった。「山羊を飼いたいと思っている」と一言いったら、「うちにいるから、あげるよ」と幾人もから声がかかった。子猫でもくれるように、こともなげにいう。さすがは畜産女性たちの集まりだと感心した。
 その分科会で「牛乳に相談」というTVコマーシャルが話題になった。生産者の目からみると、あれでは何を言っているかわからない、という。どうやら牛乳の消費拡大のために、酪農生産者の全国組織が広告会社に作らせたものらしい。それは都会の若年層を狙ったものだから仕方ない一面もあるが、そこに生産者の思いはかけらも含まれていない。
 牛乳で育ったという若い参加者は、自分は酪農家であると同時に、消費者の一人として畜産について語りたいといい、肉用牛生産にたずさわる女性は、レストランもやっていて、消費者と結びついていることが大切だと感じているという。議論は、消費者の多くが農畜産物の生産の実態を知らなかったり、関心をもっていなかったりすることが問題で、どうしたらその状況を変えられるのだろうか、という方向に絞られていった。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)

農と人とくらし研究センター

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