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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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農本主義のこと①

books3.jpg 「農本主義のこと」という、全く予期せぬメールを個人的にいただきました。PARC自由学校の「検証戦後史」コースを1年間いっしょに受講した浅輪雅夫さんからのメールです。それは、私と「農と人とくらし研究センター」に対する、重く鋭い問いかけです。私はこのような明確な形で自問したことはなく、十分に答えられるかわかりませんが、このコラムの場を借りて、お答えしていこうと思いつきました。以下は、いただいたメールの全文です。
片倉様
「検証戦後史」の会合では、心にしみるようなあなたの発言を、いつも楽しみにしています。
最近の談話の中で、あなたは農本主義と言う言葉を何度か口にされましたね。それに関連して、思いついたことを書きます。どうか御読み捨て下さい。
あなたの「農と人と暮らしを研究」する試みには、農本主義という思想が含まれているのでしょうか。私は、これまで一度も農本主義について考えたことがありませんが、農業という営みの不思議さには、いつも関心を持っていました。
私達の「検証戦後史」クラスは、いわば戦後の社会運動史、社会思想史と言った角度からの検証ではなかったかと思います。実に刺激的な話が多く、充実した時間を過ごしましたが、今思うと、戦後史の重大な転換の一つに、日本の農業の衰退があったと思うのに、そのことを戦後史での問題とする指摘はなかったのではないでしょうか。
農業の衰退は、経済的な文脈ではあちこちで語られていますが、それが社会思想に及ぼしている影響は、少なくとも今回の講座では話題にならなかったと思います。戦前、不景気が無防備な農村に皺を寄せ、農村の危機が、満州進出に代表される膨張政策に転化されて、世論は大東亜戦争を退っ引きならないものと思い込んだ、と言われます。ではその問題は、戦後どうなったのでしょうか。
戦後、農村の危機は、第二次、第三次産業の発展の中に吸収されたと、言えばそれで済むのでしょうか。吸収されたのは、農村の若年労働力だけではなくて、農業の営みが持っていた常識や道徳、いわば世界観も又吸収されてしまったのではないでしょうか。
農業は、農民の居住地域と切り離せないし、農村共同体の全体性を支えてきたと思います。農業が企業化されることは、全体性を崩すのでしょう。機械化、大規模化は必然的な流れであるとしても、農業の工業化、非地域化は、伝統的な意味での農業の消滅を意味するのではないでしょうか。それは、共同体を維持してきた農業経験が消滅するということではないでしょうか。
比喩的に言うと、そのことが、戦後の日本で、民族ナショナリズムに対する国家ナショナリズムの支配を容易にしているのではないでしょうか。地域に根差した連帯に代わって、国家制度に基づく統一が優先し、歴史の内面化による主体性の共有ではなく、政治的経済的規格に基づく組織化が進む、という事態があるのではないでしょうか。
私の全く知らない世界ですが、農業とは、本質的には効率の追求に適合しないのではないかと考えます。そう言う分野は、教育、医療、介護、行政など、幾らでもあると思います。そう言うものの一つである農業に本源的な価値を求める農本主義という思想は、例えばグローバリゼーションに対する歯止めになりはしないか、と言うことを考えます。大きく言うと、そこに、近代に対する効果的な批判の可能性があるのではないか、と思うのです。
勿論、農業は国家ナショナリズムへの抵抗力だなどと言うのではありません。ただ、農業には何かしら人間にとって根源的な喜びをもたらす性質があると思えてならないのです。農業と家族制度、農業と天皇制、農業と差別、などなど、あるいは既に語り尽くされたのかもしれませんが、今の時点で農本主義という観点を提起なさるあなたのお話を、もう少し伺える機会があればいいなと思っています。
言葉が上滑りしていて恐縮ですが、あなたのご努力への関心を申し上げたくて一筆致しました。
浅輪

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
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