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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

カテゴリー「■ あわくらのくらし・百姓」の記事一覧

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部落(むら)の中が崩れはじめた(1995)

 田舎は、都市に比べて、農業生産という自然を相手に、多くの労力を必要とする生産の形から、日常の中で協同があり、様々なくらしの結びつきから、集落の中が、一つの纏りを持ち、影響しあう関係にあった。
 これを「むら」といっており、古くは10数戸から数10戸の単位で、庄屋一戸長の下にまとまっていた。これが、現在の部落という単位になっている。
 これが1960年代後半から基幹になる労働力の人達が農外就労の形で流出を始め、次第に通勤から離家就労に変わり、住民の数が減り、残った人達も日中は留守というようになった。
 むらの中で男子が顔を合わせるのは、葬祭のときだけというようになった。

小松展之
『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から
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活性化ということ(1994.4)

 何かというと活性化という言葉が使われる。中身が曖昧なままに。山村では、若者の定着ということもいわれる。一種の無いものねだりに思える。我が村で、若者の居場所とすると役場、農協、森林組合、郵便局、村公社それに若干の事業所とみてよい。
 戸数500戸の中から、何人の若者が働けるか、せいぜい100人というところか。そうすると、8割方は若い人の居ない家という事になる。やがて、空き家が目立つということになりかねない。村ではセカンドハウス構想を打ち出しているが、そうでなくて、高齢者定住対策をもっと進めてもよいと思う。
 京阪神地区を対象に、定年後の高齢者に呼び掛け、定住をはかれば、質の違った村の活性化が生まれよう。(あわくら通信第5号)

小松展之
『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から

隠居できない高齢者(1994.4)

mugi.jpg 世帯数20戸のこのむらで、私は世帯主の若い方から5番目である。60才を過ぎた世帯主が皆、頑張っている。みんな良く働く。山村が、独自の「くらし」のあった時代であれば、すでに、隠居して息子の監督、手伝い、子守、渉外が仕事であったものが、いまだに現役である。
 サラリーマンであれば、60才で定年、第2の人生といわれるが、それがない。セッセセッセと山の手入れをして、田畑の管理をして財産を守る。立派だと思うとともに、何故、こうまで身を粉にするように働くのかとも思う。サラリーマンであった人が、一定の年齢に達したら、今までの蓄積を基礎に生活するように、くらしにゆとりを持ってよいのではないか。跡取りは家を離れて働いているのであるが、子や孫に対する思いが、都市とは違っているように思う。(あわくら通信第5号)

小松展之
『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から

時代を先取りしたむら・・・高齢化社会(1993.3)

 村社会福祉協議会の資料によると、1992年10月で、この村の人々の65才以上の人の比率は25%(ちなみに、岡山県は15%、全国は12%)、このむらは39%である。これは、我が国の平均的状況からは30年以上も先行しているようである。
 事実、高齢者2人暮し、あるいは跡取りが既に60才代という家もある。働き手は阪神方面にでて家庭をもっている人が多く、岡山、広島方面よりは、大阪、神戸、姫路との交流の多いところである。
 むらで生まれ育って、都会へ出た人にとっては、このむらは[田舎]であるが、次世代(孫)になると、はたして、「田舎」でありうるか、難しいところであろう。
 私のように、新住民に近い状況で移り住んでみると、後継者が同居していない「むらのくらし」が目につく。親から子へと代々、引き継がれるのが当たり前であった田畑山林が、次世代まで継承されるのだろうか。山の頂まで植林された杉、桧の維持管理が可能なのだろうか。
 何か、従来からのむらのくらしを支えていた基準(座標)を変えて考えてみる必要が生まれているように思える。
 かつて、農業のために、お互いが協力(結)しあった時代は、過去になってしまっているが、当時の名残のような、いろいろなむらの行事が慣行として、細々と続けられている。
 時代とともに、個の暮らしが優先するようになり、むらの行事が慣行化したのであるが、改めて、むらの行事に新しい光をあてて、高齢者が50%を超えるようなこのむらに、新しい息吹を与える行事とする時期にあるように思う。(あわくら通信第4号)

小松展之
『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から

むらの昼間(1993.3)

 私の家は、このむらの中央部のむらをほぼ見渡せる高いところにある。ところが、春夏秋冬を通じて、昼間、戸外にほとんど人影を見ることがない。実に、ひっそりとしている。わずかに田植期と稲の収穫期に若干のザワメキを観ずる程度である。
 子供は、幼児2人、小学生2人、中学生3人、在宅高校生は居ない。成年男女は、皆、働きに出かけ、老人も体の動くかぎり、内職に精をだしている。
 稲は作っても、自給用の野菜、果樹は従来からのものを一通りは作付けするが、積極的に作ることはない。
 体の動く高齢者は、山の手入れにいく。洗濯ものが干してあるから、人のくらしがあるという感じで、正月お盆にも人々の賑わいという感じがない。(あわくら通信第4号)

小松展之
『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から

先達会ができたこと

 このむらは、中国山地稜線下の谷筋の小さな集落で、戸数21戸、平均水田面積43aと規模も小さく、全戸が兼業農家である。1960年代から青壮年は姫路、阪神まで働きに出るようになり、昼間は高齢者、子供という暮らしぶりになってから久しかった。
 1989年に定年帰農した目には、昼間のこのむらは、実に静かで、静寂そのものであった。高齢者率が40%になろうとしていた。こんな中で、日々、気になっていたのはSさん、Kさん、Oさんのことであった。3人とも90歳前後、夫々、連れあいを亡くし、家族とは同居であったが、孤独という感じであった。
 Sさんは、2年前に奥さんを亡くし、息子夫婦、孫が、朝、仕事、学校に出かけると、昼間は全くの1人ぐらし、夕方になると、庭先に1人ポツンと座っているのが目についていた。
 Kさんは、40年近く前にご亭主を亡くし、長男は成人して結婚していたが、残された子供達を育て、このむら1番の山持ちとして山林、田畑の管理をしてきており、80歳を過ぎても、毎日、朝から晩、暗くなるまで野良仕事をする働き者のおばあさんである。野良で会うと、よく話し掛けて、孤独な感じであった。
 Oさんは、若い時から働き者で、持ち山の植林・下刈り・枝打ち等の育成管理をしてきたが、晩年足が不自由になり、歩けなくなったが、それでも、手押し車で畑に出て仕事をしていた。働けなくなってからは、手押し車で散歩して、会う人と良く話しをした。何となく、人恋しい感じであった。
 高齢者の多いこのむらで、昼間の一人暮らしは、精神的に不安と孤独感を強くしているように見えた。この様な時に、村教育委員会が、1991年から各地区に生涯学習推進委員を選任して、事業として生涯学習を進めようとしていた。
 1994年に、このむら(地区)の推進委員に選任されて、前述のような高齢者の多いこのむらの状況から、生涯学習活動と老人会活動を結び付けようと、1994年11月に開催された老人会の総会で生涯学習の意義と老人会の活動で目指すものについて提案、話し合いの結果、定例的な会合を持とうということになった。
 老人会として、この会合のあり方を協議した結果、次のような運営をしようということになった。
 ① 会合は、毎月15日、午前10時から午後3時まで。
 ② 場所は、このむらの公会堂。
 ③ お互いの話し合いの場として、年齢制限しないで、集まりたい人が自由に集る。
 ④ 世話役は老人会役員であるが、当面、運営実務は、生涯学習推進委員が担当する。
 こうした動きの中から発足した集まりが「先達会」であった。

小松展之
『これからの「むら」への試み』(2010年3月30日発行)から

あわくら通信読者様

 「あわくら」を離れて5年が経ちました。
 私たち夫婦共、年なりの健康を保って、思いのままくらせたという限りにおいては、この5年間、平穏な日々であったと思っています。
 あわくらの15年を「むら私論」として整理する日課は、カタツムリの歩みですが続けております。
 自らが傘寿を迎えると、高齢者問題は切実な課題として目の前を去来します。昨年から、近所の高齢者同士の集まりを持ったりしております。この様な中で「あわくら」での高齢者にかかわる小さな試みの部分を小冊子にしました。
 高齢者自らが行動を起こすことの難しさの呟きです。
江南にて 小松展之


まえがき
 私は、1989年11月から2005年3月までの15年4ヶ月を岡山の山村「あわくら」でくらしました。このむらで米を作り、野菜を育て、それを食べるという自給自足のくらし、そしてむらとの付き合いをしてきました。
 田舎くらしでは、日々のくらしの中で地域との付き合いを大事にしなければなりません。農作物を作って食べるという百姓のくらしは、快適なものです。そして、一歩、外に目を向けるとむらの様々なくらしがあります。この、むらの様々なくらしのあり様が田舎くらしなのです。
 私は、田舎くらしをする中で、私自身が「被験者」として実験材料となり、そして、また観察者としてくらしたようで、その体験を「あわくら通信」として発行してきました。
 今、埼玉の「江南」でくらすようになって、あわくら16年の被験者としての体験を「むら私論 第1部」として記録し、あわくら通信(第14~32号)として発行しました。
 このなかで、「限界集落」といわれる高齢者むらにくらして、高齢者のあり様を、体験の中での一つとして試みた事項を纏めた章(あわくら通信第23~26)を小冊子にしました。
 この体験は、このむらにくらす被験者にとっての実証材料です。その内側にいて自らの問題として、高齢高齢者としてどうくらすか、高齢高齢者にとっては、1年1年がどのようなものであるか、厳しい現実があります。
 私が関わり、お付き合いした方々は、5年後の今日、今おられるのは御二人だけで、夫々、高齢者施設でくらしておられます。私自身が、高齢高齢者の1人になって1年1年をどう生きるか、残された年月を考えるようになっております。

2010年2月 小松展之

小松展之『これからの「むら」への試み』(2010年3月30日発行)から

むらのつきあい(1990.2)

ie.jpg 「むら」は永代の付き合いが基盤であり、この点が「まち」の付き合いとの大きな違いである。ところが、これに経済的な利害がからむと意外と難しくなるようだ。 当地では、外から帰村または移住して「むら」に入るとき、20~50万円位加入金を支払って、さらに5年位付き合って1人前というところもあるようで、「むら」を守るということが当初の考えであったのであろうが、今は、世も移り変わってきており、経済的利害が大きく働いているのではないかと思われる。「むら」で永代の付き合いの感覚が薄くなり、経済優先が強くなると「くらし」はますます大変になろう。(あわくら通信第1号)
 「むら」は永代の付き合いが、くらしの基盤ですが、これがだんだん難しくなるのかなと思います。
 わが大字には20戸あって、当主が60才以上の家が11戸、50才以下が3戸、若者在住1戸という具合です。20戸の家の殆どの後継者、あるいは次の後継者(孫)は、ふる里を知らないで育っているわけです。
 むらに生まれ育ってこそ「ふる里」と考えると、10~20年という期間を単位としてみると「むら」は根幹から様変わりするように思います。「むら」の維持に従来と違った基準が必要になりそうです。(あわくら通信第2号)

小松展之
『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から

農と人とくらし研究センター

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