農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
「開発」・暮らし・文化人類学 No.0000-1 「開発」の概念の変化
「開発」という言葉をカッコでくくり,その意味を文化人類学的に学生諸君と考えていこうという意図で講義をはじめた。5年間続いた。事務の話では,講義は学生たちに好評で,抽選で受講者を決めていたとか。ある学生は,何度も抽選にはずれてしまう,何とかしてほしいといううれしい苦情もいただいた。講義の反応については,機会をあらためて書くことになるだろう。
さて,開発という言葉は,日本語では,ブルドーザーで土地の形状を変えて別の用途に用いる意味が強い。産業的な開発を中心に経済的な土地利用目的の改変である。高速道路網,空港・港湾整備,新幹線網など交通基盤の整備,テクノパークなど企業団地,学園都市,大規模住宅団地などが代表的なものである。農村地域では,大区画農場整備に灌漑排水など機械化に適用できるような整備があった。特に,東海道という日本の経済中枢を結び付けた新幹線は,瀬戸内海を西に走り,東京,横浜,名古屋,京都,神戸,福岡と昔,小学校や中学校の社会科でならった六大都市を結んで,確かに経済の基盤としての役割を果たしてきた。この計画は,開発の速度は落ちたもののさらに伸展しようとしている。経済がこうした大都市中心に展開するなかで現在では,地域格差の拡大が著しくなり,地方にとって地域経済の起爆剤としての新幹線信仰がいまだに強く,延伸に対する期待感が求められている。
こうした開発現象,経済の規模の拡大による生活の向上は,先進国の発展に関して主流であり,世界経済の基調は,依然として経済のパイを大きくすることに主眼が置かれている。
この講義を開始した90年代に入ると,世界の開発に対する論調は大きく変化をしてきた。「開発」の意味の変換である。国連開発局(UNDP)が提唱してきた「人間開発(Human Development)」という考え方は,その代表的なものである。英語での開発,デベロップメント development には,人間の能力の発展という意味も含まれており,そちらの意味のほうが強いようだ。その動きは,世界の主流とはならないまでも,発展途上国においては,大きく変化をもたらしてきた。
これまでの開発は,産業基盤や交通輸送基盤等,経済というパイを大きくするものが優先されていたが,格差は大きくなるばかりであり,貧困問題は深刻化する一方であった。その反省から,新しい開発,人間開発は経済基盤よりも優先しなくてはならないものとして,人間一人ひとりの能力の開発とその能力の活用に重きをおいた考え方だ。 言い換えると,これまでの開発が,人間を外側において社会基盤,経済基盤を対象にしてきたものを,人間を対象に変えて,個々の人びとの,能力発展の意味に変換しようとするものである。このような考え方は,貧困問題と同時に男女間格差の問題としても大きな課題となった。ジェンダーという問題である。
富田祥之亮
こうした開発現象,経済の規模の拡大による生活の向上は,先進国の発展に関して主流であり,世界経済の基調は,依然として経済のパイを大きくすることに主眼が置かれている。
この講義を開始した90年代に入ると,世界の開発に対する論調は大きく変化をしてきた。「開発」の意味の変換である。国連開発局(UNDP)が提唱してきた「人間開発(Human Development)」という考え方は,その代表的なものである。英語での開発,デベロップメント development には,人間の能力の発展という意味も含まれており,そちらの意味のほうが強いようだ。その動きは,世界の主流とはならないまでも,発展途上国においては,大きく変化をもたらしてきた。
これまでの開発は,産業基盤や交通輸送基盤等,経済というパイを大きくするものが優先されていたが,格差は大きくなるばかりであり,貧困問題は深刻化する一方であった。その反省から,新しい開発,人間開発は経済基盤よりも優先しなくてはならないものとして,人間一人ひとりの能力の開発とその能力の活用に重きをおいた考え方だ。 言い換えると,これまでの開発が,人間を外側において社会基盤,経済基盤を対象にしてきたものを,人間を対象に変えて,個々の人びとの,能力発展の意味に変換しようとするものである。このような考え方は,貧困問題と同時に男女間格差の問題としても大きな課題となった。ジェンダーという問題である。
富田祥之亮
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原野に戻る田んぼ
山奥の田んぼを耕作している頃は、まだ義父も元気で、稲刈りや脱穀の頃には小さかった子供たちと一緒に、義父の運転するテイラーの後に付けてあった荷車に乗って、この田んぼまでを行き来していました。ゆっくり走るテイラーの荷台から、他の家の仕事の様子や、周りの山の木々、アケビの実や野菊の咲く様子などを眺めながら、ゴトゴトとオオバコなどが生えている道を行くのは楽しいものでした。
ところがびっくり。この日、山の果樹園へ向かう道には雑草がみっしり生えて、車の轍すら見られません。左側の山の木の枝や、丈高い雑草は道へ張り出し、右側は生い茂っている草で畦か田んぼかわからないくらい。すでに雑木の生えている田んぼもあります。軽トラックはまるで原野の中を走っていくのです。
休日のたびに山の果樹園へ手入れや収穫に行き、その先の山でしいたけを採り、耕作放棄の田んぼやその畦の草刈に来ている家人は、その日も、行く先を阻むように生い茂っている他所の家の田んぼの畦の藪を刈り払いに行ったのでした。
この洞の田んぼを作っていた家々は、わが家も含めてすべて、ここを休耕田にしてしまいました。両側に山が迫り、その山の手入れをしなくなって、生えている木がどんどん大きくなり、田んぼがますます日陰になってきました。その上イノシシの出現です。それに加えて転作面積が増えたため、いっせいに条件の悪いこの洞の田んぼを作らなくなりました。それでも、畦草を刈り、田んぼを起こすなど、手入れはされていました。しかし、手入れをしていた人たちが亡くなったり年をとったりして、どのうちも年々手入れが行き届かなくなり、すこしずつ原野になっていきました。わが家の田んぼ近くの、いつも軽トラックを停める場所はSさんの山があって、そこは下草が刈ってあり、その奥の田んぼに通じる道も草が刈られていました。原野の中のオアシスのようでした。
家人曰く「Sさんがやれんようになれば荒れるやろう、息子はそこまでやらんからなあ、あそこの、道のうえに山の木がせり出してきとるところがあるやろ?あの枝を伐って欲しいと持ち主のTさんに頼みに行ったら、わしはやれんで息子にそう言っとくと言っとったけど、息子はぜんぜんやってくれへん。無理もないけどなあ」。
確かにSさん、Tさんの世代は小さい時から持ち山の仕事を親についてみようみまねでやってきたからできたし、草も刈らず、枝も払わずにいて、人に迷惑をかけるようなことはしてはいけないと言う心持が大いにあったのだろう(このことはいつも義父母から言い聞かされてきた)と思いますが、その次の世代はすでに山仕事の経験はなく、今の自分の暮らしに追われている時期で、百姓仕事は田んぼ作りが精一杯、その田んぼ作りもしなくなった人もいます。村の決まりも言い習わしも途絶えてしまっています。
われに返って見渡せば、わが家の田んぼも畦も草ぼうぼうです。亡くなった義父が「田んぼだけは荒らすな」と言っていたことを、家人は今のところ守って田んぼの中も畔も定期的に草刈をしていますが、この夏の暑さは草刈どころではなく、サボっていたためです。何よりもまず、わが家から原野解消をしなければならないのでした。
『ひぐらし記』No.17 2007.9.30 福田美津枝・発行 より転載
イノシシ出没 田んぼを守れ!
それ以外の田んぼにはまだイノシシが来ていなかったので、安心して稲を作っていましたが、昨年秋、その次に奥の田んぼに、刈り取り間際に入られました。その周りには数枚の田んぼがあったのに、なぜかうちの田んぼだけでした。その田んぼのすぐ上は山が張り出してきているところだったのです。
今年は人家の近くの田んぼにも、早くからイノシシが入ったと言う情報が届きました。昨年入られたうちの田んぼにすぐ近くの、Tさんの早いコシヒカリの田んぼは、刈り取り間際にイノシシに入られました。Tさんもこの頃のイノシシ情報により、山側の畔にはビニールシートを張り巡らしていたのですが、川側の畔は無防備だったため、そこから入られました。
そこでわが家も昨年入られた5aの田んぼに3万円余りを投資して電柵を取り付けました。ホームセンターで資材を買い(JAは取り寄せるのに時間がかかったので)休日に家人と2人で半日がかりです。昼間は大丈夫だろうと、夜だけ電気が流れるようにセットしました。単2の乾電池8個で、驚くほど強い電流が流れます(実験済み、ふと肩が触れたら強い衝撃が来ました。心臓びっくり)。9月末にJAのコンバインで刈り取ってもらうまで無事、投資効果が現れてヤレヤレでしたが、電柵の代金分約2俵分の増収は勿論ありません。イノシシ被害の減収を防いだということでした。
わが家の前に川が流れ、その向こうに小さな田んぼが10枚ほど広がって、その先に、先日わが家に来た若い人たちが"トトロの山"だといった小さな山があります。その山際のIさんの田んぼの1つがつい最近、イノシシにやられました。トトロの山から出てきたようです。10枚の田んぼの周囲3方は川を挟んで、わが家始め人家が取り囲んでいるので、よもやこんなところまでと無防備だったのです。このイノシシの出現には近所一帯が大きな衝撃を受けました。いよいよここまで来たのかと。
Iさんは弟妹家族も呼んで一家総出で荒らされた田んぼの稲を手で刈り取り、残った田んぼの周りをトタン板で囲みました。見渡せば、電柵やアミ、ビニールシート、トタン板など、その家々の工夫によりイノシシ対策がされている田んぼが、今年はずいぶん広がりました。それだけイノシシが行動範囲を広げ、生活圏を拡大してきました。これからますますこの範囲は広がるのか、田んぼを守る苦労も広がります。
『ひぐらし記』No.17 2007.9.30 福田美津枝・発行 より転載
くさぎを知る会 ありがたい好評・思わぬ反響
8月20日に、かねてから計画していた「くさぎを知る会」を開きました。今年の5月末、Aさんに習ってくさぎ採りをし、茹でて干す作業をしてから、くさぎのことをいろいろ調べたり、人に聞いたりしてきました。そのことをまた、何人かに話すうちに、興味を持ってくださる方も増え、そんなことなら一度に伝えたほうがいいと思ってAさんに相談し、Mさんにも呼びかけてくださって、3人で開くことになりました。
そのことをミニコミ誌編集長のUさんに伝えたところ、早速ミニコミ誌やご本人のブログに載せてくださるという呼びかけ効果絶大で、当日40人近くの方が来てくださいました。その中には美濃加茂市の伝承料理の会の方10人ほどと、以前にくさぎのことをお話ししたら、関心を持ってくださった地元小学校の校長先生方も来てくださいました。
Aさんから、ご主人の好物であったためにくさぎを作り続けてきたこと、正眼寺開祖様からの教え、正眼寺が修行としてのくさぎづくり、寺のくさぎ料理「常山・じょうざん」のもてなし、くさぎを作ることの意味などが話され、Tさんからはお父さんから伝えられたくさぎご飯のことや、それを通しての正眼寺老師様との思い出などが話されました。私は日本食生活全集(農文協発行)に書かれてあった全国のくさぎ食用の様子や、くさぎという植物の説明、染色材としての使い方などをお話しました。
そのあとで、Mさんが炊いた常山(くさぎと大豆の煮物)やくさぎご飯の試食をしていただきました。地元伊深の方も大勢来てくださいましたが、くさぎご飯は初めてのよう。伊深以外の方は勿論くさぎを食べたことが初めてでした。
試食の後、自由な話し合いの場にしました。校長先生は理科の先生なので、くさぎの植物としてのお話をしていただきました。夏に花の咲くくさぎには、アゲハの仲間が寄ってくるそうです。その時に資料として配った掘文子(画家)さんのくさぎに寄せる文は、校長先生から教えていただいたものでした。伝承料理の会からは、地元に伝わるものを取り上げて話し合う場を持ったことを評価していただきましたし、ラジオで聞いたというくさぎ雑炊のご紹介や、くさぎを干して保存するのでなく、冷凍したらどうかなどという提案もありました。小学校の先生は学校でも総合学習などで子供たちと一緒にくさぎづくりをしたいと言っていただきました。嬉しいことでした。
こうして2時間はあっという間に過ぎ、最後にAさんが「正眼寺の開祖様に教えていただき、650年ずっと伝えてきた伊深のくさぎが途絶えようとしています。大切な伊深のくさぎを今の時代に合う方法で守り、伝えたいと思います」と締めくくり、くさぎを知る会の考えを皆さんにお伝えしていただきました。
U編集長の配慮で、岐阜新聞から取材に来てくださったので、翌々日の朝刊の岐阜版(地域の中濃版ではなく)に大きく載せていただけました。その新聞記事をもとに、ちょうど1ヵ月後の9月20日、岐阜ラジオの生放送にも10分間出ました。若い女性レポーターが取材に来られ、Aさんと私にインタビューされました。でも、これはお昼過ぎの番組なので、聞いてくださった方は少ないのではないかと思います。
このような、メディアの反響だけでなく、もっと嬉しい反響も次々いただきました。会を開いた頃はくさぎには、赤い萼に白い花、ユリのような香りの花が咲き、やがて赤い萼に青い実がなる頃なので、「くさぎがどこにあるかわかるようになりました、来年はそこへ採りに行こうと思います」などとおっしゃってくださる方も何人かあります。私も方々へ出かけるたびについ、そこにくさぎがあるか探しています。
「紀州ではくさぎ料理が仏事に欠かせないと言うところがあります」「くさぎの実を染料にするときには萼と実を別々にすることもあります」と教えてくださる方もあり、「くさぎの会は次はいつですか」などとも聞かれます。また、Aさんはご主人のアドバイスにより、くさぎの新しい干し方を試しておられます。
まず、伊深にくさぎ料理があること、それを皆さんに伝えようと思って開いた会ですが、皆さんのこうした声にお応えしながら、くさぎの会を進めていき、現代の暮らしにあった方法でくさぎを伝えていこうと思います。
『ひぐらし記』No.17 2007.9.30 福田美津枝・発行 より転載
そのことをミニコミ誌編集長のUさんに伝えたところ、早速ミニコミ誌やご本人のブログに載せてくださるという呼びかけ効果絶大で、当日40人近くの方が来てくださいました。その中には美濃加茂市の伝承料理の会の方10人ほどと、以前にくさぎのことをお話ししたら、関心を持ってくださった地元小学校の校長先生方も来てくださいました。
Aさんから、ご主人の好物であったためにくさぎを作り続けてきたこと、正眼寺開祖様からの教え、正眼寺が修行としてのくさぎづくり、寺のくさぎ料理「常山・じょうざん」のもてなし、くさぎを作ることの意味などが話され、Tさんからはお父さんから伝えられたくさぎご飯のことや、それを通しての正眼寺老師様との思い出などが話されました。私は日本食生活全集(農文協発行)に書かれてあった全国のくさぎ食用の様子や、くさぎという植物の説明、染色材としての使い方などをお話しました。
そのあとで、Mさんが炊いた常山(くさぎと大豆の煮物)やくさぎご飯の試食をしていただきました。地元伊深の方も大勢来てくださいましたが、くさぎご飯は初めてのよう。伊深以外の方は勿論くさぎを食べたことが初めてでした。
試食の後、自由な話し合いの場にしました。校長先生は理科の先生なので、くさぎの植物としてのお話をしていただきました。夏に花の咲くくさぎには、アゲハの仲間が寄ってくるそうです。その時に資料として配った掘文子(画家)さんのくさぎに寄せる文は、校長先生から教えていただいたものでした。伝承料理の会からは、地元に伝わるものを取り上げて話し合う場を持ったことを評価していただきましたし、ラジオで聞いたというくさぎ雑炊のご紹介や、くさぎを干して保存するのでなく、冷凍したらどうかなどという提案もありました。小学校の先生は学校でも総合学習などで子供たちと一緒にくさぎづくりをしたいと言っていただきました。嬉しいことでした。
こうして2時間はあっという間に過ぎ、最後にAさんが「正眼寺の開祖様に教えていただき、650年ずっと伝えてきた伊深のくさぎが途絶えようとしています。大切な伊深のくさぎを今の時代に合う方法で守り、伝えたいと思います」と締めくくり、くさぎを知る会の考えを皆さんにお伝えしていただきました。
U編集長の配慮で、岐阜新聞から取材に来てくださったので、翌々日の朝刊の岐阜版(地域の中濃版ではなく)に大きく載せていただけました。その新聞記事をもとに、ちょうど1ヵ月後の9月20日、岐阜ラジオの生放送にも10分間出ました。若い女性レポーターが取材に来られ、Aさんと私にインタビューされました。でも、これはお昼過ぎの番組なので、聞いてくださった方は少ないのではないかと思います。
「紀州ではくさぎ料理が仏事に欠かせないと言うところがあります」「くさぎの実を染料にするときには萼と実を別々にすることもあります」と教えてくださる方もあり、「くさぎの会は次はいつですか」などとも聞かれます。また、Aさんはご主人のアドバイスにより、くさぎの新しい干し方を試しておられます。
まず、伊深にくさぎ料理があること、それを皆さんに伝えようと思って開いた会ですが、皆さんのこうした声にお応えしながら、くさぎの会を進めていき、現代の暮らしにあった方法でくさぎを伝えていこうと思います。
『ひぐらし記』No.17 2007.9.30 福田美津枝・発行 より転載
くさぎを知る会
このひぐらし記や、それを転載していただいたUさんのミニコミ誌「おはようございます」によって、くさぎのことを尋ねる方が多くありました。くさぎのことをさらに調べた結果や、伊深でのくさぎの活用をもっと知っていただきたくて、AさんやM子さんに相談して、勉強会を開くことにしました。チラシを作って配り、ミニコミ誌でも紹介していただき、準備を進めています(チラシや紹介記事を添えてあります)。
『ひぐらし記』No.16 2007.8.20 福田美津枝・発行 より転載
『ひぐらし記』No.16 2007.8.20 福田美津枝・発行 より転載
「農村生活」時評④
今年のテーマは、「次代に伝えるべきもの-農村の仕事と暮しの中から-」で、デザイン会社経営者でスローフード宮城会長の深野せつ子氏の「エコな暮らしと伝統料理」という基調講演、「郷土の伝承活動に取り組んで」をみやぎの食を伝える会代表の佐藤れい子氏と「農家レストランを開業して」を「もろや」店主の萱場市子氏が事例報告されました。
深野講演は農には無縁だった仙台市民がいかにして農とその基盤である自然を発見したか、今年11月、メキシコで開かれるスローフード世界大会の目指す目標についてのお話だったが、こういう都市民の動向・意見が農林水産業の死命を決するというか、再生方向を示すことを痛感した。氏は農業は金額など経済的指標で測れないといわれたが、その日の朝、日経紙上で「GDPでわずか1%しかない農林水産業」という記事を見たばかりなので、とりわけこの発言が印象深かった。この席上、宮城県元経営専技の東海林さんから「図書」(平成6年)の、黒岩徹「スローライフ・秘法七」というコピーをもらい、そこでお話とあわせて読み、すこしづつですが地球人の生活意識が変わってきているように思いました。単なる理念だけの認識ではなく、私たちの生活内容で変化しなければ今の事態は動きません。
佐藤報告はみやぎの郷土食の記録「ごっつぉうさん」の編集・出版の経過と次世代への引継ぎ活動のあらましでしたが、元生改が中心の会のメンバー自身が、食育として小学生などに楽しく調理を教える活動の紹介が印象的でした。この子らの親世代はなにかと忙しく、伝統の話や生活技術は入りにくいが、いわば世代を越えるところに妙味があるようです。萱場報告は自家産食材はいうまでもなく、自宅と庭を活用した文字どうりの「農家」レストランの実践の話でしたが、その技術は“4Hクラブ・生活改善グループの活動による”と、さらりといわれたので、私は討議の時間にそのあたりをしつこく伺いました。
萱場さんがまだ、子育て真っ最中の時、お義母さんが病に倒れたのでうまく生活技術を受け継げなかったそうです。その時、御夫君が勉強しなさいと学習の場に送り出してくれ、その仲間との交流が今の運営の基礎だ、ということでした。経営主と息子が野菜生産を担当し、その生産物をレストランに活用するというのが、経営の基本ですが、都市近郊という立地を活かした野菜の宅配活動も大事な経営の柱だそうです。その宅配グループは生改グループの発展した姿ということがこの経営の背景のポイントでしょう。もちろん今も現役の普及員さんと結びついている訳ですが、やはり、20年以上の歴史のある生活面での組織化ということが、時代をこえて課題ではないでしょうか。
森川辰夫
農と人とくらし研究センターの設立
私は生活改良普及員として、30数年間、農家の暮らし向上や農村女性の活動を支援する仕事に携わってきました。この時に何かと教えや方向を示していただいたのが、(社)農村生活研究センターというところでした。しかし、行政改革や農政施策の見直しなどの影響を受けて、このセンターがなくなってしまいました。普及員を辞めた後でも、農村で暮らす一人となった身にも、真に豊かな農村の暮らし、農業者としてのあり方を研究し提示されるものがなくなったことはとても残念に思っていました。
ところが、今年になって、そのセンターにおられた研究員の方々が、新しく「農村の暮らしの中で、次世代に残さなければならない価値あるものを明らかにし、次世代に伝える方法を探すため」に、特定非営利活動法人「農と人とくらし研究センター」を設立され、9月8日に長野県岡谷市で設立総会が行われました。
メンバーの方々は農村生活を研究されておられる研究者の方がほとんどですが、設立趣旨に沿った活動をされるためには、農村で暮らしたり、農村のことをよく知っている人たちが一緒に行うことがとても大切だと思います。センターではすでにホームページも立ち上げて、センターの仕事を皆さんに知っていただき、参加や協力していただくように呼びかけています。現在、普及指導員としてご活躍中の方々は勿論のこと、農村に暮らしたり、農業に携わっている方々や、農村に住んでいなくても、農業をしていなくても、自らの暮らしを、農業・農村とのかかわりの中で豊かにしていきたいと思うことがあれば、ぜひ、ホームページを見ていただいたり、直接センターの会員になっていただけるように願い、ご紹介します。
農と人とくらし研究センターのホームページアドレスは http://www.rircl.jp/
ところが、今年になって、そのセンターにおられた研究員の方々が、新しく「農村の暮らしの中で、次世代に残さなければならない価値あるものを明らかにし、次世代に伝える方法を探すため」に、特定非営利活動法人「農と人とくらし研究センター」を設立され、9月8日に長野県岡谷市で設立総会が行われました。
メンバーの方々は農村生活を研究されておられる研究者の方がほとんどですが、設立趣旨に沿った活動をされるためには、農村で暮らしたり、農村のことをよく知っている人たちが一緒に行うことがとても大切だと思います。センターではすでにホームページも立ち上げて、センターの仕事を皆さんに知っていただき、参加や協力していただくように呼びかけています。現在、普及指導員としてご活躍中の方々は勿論のこと、農村に暮らしたり、農業に携わっている方々や、農村に住んでいなくても、農業をしていなくても、自らの暮らしを、農業・農村とのかかわりの中で豊かにしていきたいと思うことがあれば、ぜひ、ホームページを見ていただいたり、直接センターの会員になっていただけるように願い、ご紹介します。
農と人とくらし研究センターのホームページアドレスは http://www.rircl.jp/
特定非営利活動法人農と人とくらし研究センター 設立趣旨書
農山漁村の暮らしの豊かさとは何でしょうか。暮らしを成り立たせるための、自然に働きかけるさまざまな営みや人と人の間の結びつきの中にあるのではないでしょうか。
農山漁村の暮らしの形は、時代の流れによって、大きく姿を変えてきました。その間に、農山漁村の人々は何を獲得し、何を失ったのか。また、変わらずに続いているものは何なのでしょうか。農と人とくらし研究センターは次世代に残さなければならない価値あるものは何かを明らかにするとともに、次世代に伝える方法を探したいと考え設立されました。
国内及び海外の農山漁村での調査研究、情報発信を行うとともに、人が集い学びあう場を作ることを通して、農山漁村の人々の暮らしと社会に寄与することを目的とします。
(9月8日農と人とくらし研究センター設立総会における設立趣旨書より)
『ひぐらし記』No.17 2007.9.30 福田美津枝・発行 より転載
おばあさんの味に孫も大満足・じゃが芋の煮付け
昨夜の帰りは遅かったので、夕食は外で済ませていましたが、久しぶりのじゃが芋の煮付だったので、1つつまみ食いをしました。甘辛く味が良くしみておいしい。
朝ごはんの時母が、「昨日はじゃが芋を煮たら○○(次男)が、『今日のじゃが芋はうまい、おばあさん合格や』といって鉢に3つ残しただけで食べてしまった」と嬉しそうに話しました。いつも私が煮るものは塩分も砂糖も控えめなので、甘辛く濃い味のじゃが芋は私にもおいしいものでした。おかずを作ってくれた母にも、おいしく食べてくれた次男にも感謝したじゃが芋のおかずでした。
福田美津枝 『日々の暮らし・日々の食べもの 22』より転載
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