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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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「農村生活」時評⑥ "果樹女性の活躍の姿を読んで"

 農業界における女性の活躍の話はごく一般的になったが、それらは必ずしも評価が定着している訳ではない。それどころか大本の「男女共同参画」そのものについて、色々な社会現場では様々な逆風が荒れているらしい。女性の地位向上の潮流がやっと、いわゆる「草の根保守主義」のところまでに届いたのかもしれない。ともかく、われらの農業・農村の世界では今、現実に女性の果たしている役割を正当に評価して、さらにもっと伸び伸びと活躍できるように支援を強める必要があるだろう。
kaju.jpg 「果実日本」誌・2月号(2008 VOL.63)に「果樹園で活躍する女性たち」という特集が載っている。この雑誌は長年にわたり、「果樹園芸界」における女性パワーの紹介に努めてきたが、この号にも多様な立場の、年齢も幅広い方々の生産から流通にわたる領域における生き生きとした活躍の姿が展開されている。これはいわば一つの業界の話しではあるが、農産物として「果物」は日本の四季を象徴する彩り豊な存在でもあり、その担い手としての女性の姿は地域農業としても、それなりに興味深いものがある。
 「特集」はまず、農水省の女性対策室の担当者による政策の紹介から始まり、①熊本・植木の果樹生産女性組織「春果風」・みかん、②長野・宮田の果樹農家主婦・りんご、③福岡・田主丸の果樹農家主婦・ぶどう、④愛知・一宮の母と娘の果樹経営・いちじく、⑤福井・あわらの果樹農家主婦・なし、くり、ブルーベリー、⑥石川・加賀の「小塩辻梨づくり婦人部」の事例が普及・自治体担当者から報告されている。このように必ずしも果樹大産地の事例ではなく、年配者中心あるいは若手の組織や個人経営も様々で、親しみやすい内容になっている。いかにもあちこちの産地で「女性が活躍している」ことが分かる。
 これらの事例はそれぞれに個性があり、だれもが一読者の立場でそこから何か示唆なり情報なりを読み取るものだろう。ところが私は10年以上昔になるが、「果実日本」編集部にお節介な注文をつけ、「特集に行政の緒言はいいが、研究者には結語を書かせて欲しい」と頼み、「特集」の最後に「新しい農村婦人像」という文章を書かせてもらった前科がある。これはいかにも評判が悪かったと見え、その後二度と「結語」は頼まれなかったが、2月号を開いてふと、その時の思いがよみがえった。
 これらの事例をみると、果樹経営の面ではやはり女性が主役となり、「直売」と「加工」という新領域を積極的に開拓していることが最大の特徴だろう。これはいかにも生産技術向上に専念してきた男性陣が苦手としてきたところである。この事例では個別経営でも果樹組織でもそこを経営発展の突破口としている点は、大きく評価されるべきだろう。さらにこの活動を基礎に、それぞれの地域における学校をまきこんだ「食育」に展開していることは、経営面ですぐにプラスということはないだろうが、やや広域の範囲での果樹生産の社会的認知というか、地位向上に計り知れない効果があろう。消費拡大のひとつのポイント・「果物好きのこども」を育てることはこういう地味な取組みが王道で、特別な妙案があるわけではあるまい。
 かつて私は女性の農業経営における地位向上の目安として、経営主の手助けだけをいわれてやるのをいわば「労務者」的段階だ、生産技術を身に付ける仕事するやや自立した「技術者」的段階をその次におき、そして経営主との共同であたる「経営者」的段階という三段階を考え、家族協定につなげた。しかしこれらの事例に登場する女性たちは、最早、わが業界の範囲を越えて地域における「教育者」であり、地域における新しいネットワークの「組織者」として登場しているのかも知れない。

森川辰夫
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農本主義のこと①

books3.jpg 「農本主義のこと」という、全く予期せぬメールを個人的にいただきました。PARC自由学校の「検証戦後史」コースを1年間いっしょに受講した浅輪雅夫さんからのメールです。それは、私と「農と人とくらし研究センター」に対する、重く鋭い問いかけです。私はこのような明確な形で自問したことはなく、十分に答えられるかわかりませんが、このコラムの場を借りて、お答えしていこうと思いつきました。以下は、いただいたメールの全文です。
片倉様
「検証戦後史」の会合では、心にしみるようなあなたの発言を、いつも楽しみにしています。
最近の談話の中で、あなたは農本主義と言う言葉を何度か口にされましたね。それに関連して、思いついたことを書きます。どうか御読み捨て下さい。
あなたの「農と人と暮らしを研究」する試みには、農本主義という思想が含まれているのでしょうか。私は、これまで一度も農本主義について考えたことがありませんが、農業という営みの不思議さには、いつも関心を持っていました。
私達の「検証戦後史」クラスは、いわば戦後の社会運動史、社会思想史と言った角度からの検証ではなかったかと思います。実に刺激的な話が多く、充実した時間を過ごしましたが、今思うと、戦後史の重大な転換の一つに、日本の農業の衰退があったと思うのに、そのことを戦後史での問題とする指摘はなかったのではないでしょうか。
農業の衰退は、経済的な文脈ではあちこちで語られていますが、それが社会思想に及ぼしている影響は、少なくとも今回の講座では話題にならなかったと思います。戦前、不景気が無防備な農村に皺を寄せ、農村の危機が、満州進出に代表される膨張政策に転化されて、世論は大東亜戦争を退っ引きならないものと思い込んだ、と言われます。ではその問題は、戦後どうなったのでしょうか。
戦後、農村の危機は、第二次、第三次産業の発展の中に吸収されたと、言えばそれで済むのでしょうか。吸収されたのは、農村の若年労働力だけではなくて、農業の営みが持っていた常識や道徳、いわば世界観も又吸収されてしまったのではないでしょうか。
農業は、農民の居住地域と切り離せないし、農村共同体の全体性を支えてきたと思います。農業が企業化されることは、全体性を崩すのでしょう。機械化、大規模化は必然的な流れであるとしても、農業の工業化、非地域化は、伝統的な意味での農業の消滅を意味するのではないでしょうか。それは、共同体を維持してきた農業経験が消滅するということではないでしょうか。
比喩的に言うと、そのことが、戦後の日本で、民族ナショナリズムに対する国家ナショナリズムの支配を容易にしているのではないでしょうか。地域に根差した連帯に代わって、国家制度に基づく統一が優先し、歴史の内面化による主体性の共有ではなく、政治的経済的規格に基づく組織化が進む、という事態があるのではないでしょうか。
私の全く知らない世界ですが、農業とは、本質的には効率の追求に適合しないのではないかと考えます。そう言う分野は、教育、医療、介護、行政など、幾らでもあると思います。そう言うものの一つである農業に本源的な価値を求める農本主義という思想は、例えばグローバリゼーションに対する歯止めになりはしないか、と言うことを考えます。大きく言うと、そこに、近代に対する効果的な批判の可能性があるのではないか、と思うのです。
勿論、農業は国家ナショナリズムへの抵抗力だなどと言うのではありません。ただ、農業には何かしら人間にとって根源的な喜びをもたらす性質があると思えてならないのです。農業と家族制度、農業と天皇制、農業と差別、などなど、あるいは既に語り尽くされたのかもしれませんが、今の時点で農本主義という観点を提起なさるあなたのお話を、もう少し伺える機会があればいいなと思っています。
言葉が上滑りしていて恐縮ですが、あなたのご努力への関心を申し上げたくて一筆致しました。
浅輪

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)

こんにちは

suisen.jpg 福井の井上です。
 12月に入って、北陸特有の時雨模様が続いております。でも、関東などの乾いた冬よりも私にとっては過ごしやすく、心が落ち着く季節です。

 先日、私の所属する事務所では、普及外部評価が実施されました。
 これは、平成10年度から始められたもので、初めは普及のシンパづくりもねらいでしたが、現在三巡目ともなると、発表者になった普及員の資料づくり・発表力をつける場とはなるものの、準備すること自体、なにやらおっくうになってきております。

 外部評価のもとになっているものが、普及計画ですが、農業改良助長法にも裏付けられているように、普及指導員に課せられた仕事への意思表明であり、農家と普及指導員(関係機関も含む)との約束です。そして、市町の地域計画に(これは、農家・農業者、農業団体、勤労者、中小商工関係者、大企業、公共機関にかかるモロモロのことが複雑に絡み合って作り出されるものですが)結びつくものです。

 昭和40年代に出版されたものだと思うのですが、「これからの普及」を論じたものに、栽培や農家生活にかかる技術指導と地域のコーディネイトをする役割が書かれており、特に地域コーディネイト力が大切と記されておりました。

 この頃から生活担当を中心に、地域コーディネイトといった仕事がなされ、様々な情報収集・活用力、そして関係する様々な機関、そして地域の人々、それらを結びつけて、地域の課題解決を図ってきた・図ろうとしてきました。このコーディネイト力は各人のもつ「勘」も大きな要素ですが。

 しかし、時の移ろいは、そうした地域づくりにかかる取組みに対しては、普及の成果とされるものでなく、時として、普及の関わりは明確にされないものとなりましたし、技術にかかる取組みは有料化していけばよいではないかという議論にふりまわされようになりました。

 また、JAの営農指導員に力を貸し、栽培技術指導といった対外的には極めて理解しやすい仕事以外は評価されにくくなりました。

 県内で一番の農業生産額を(他県に比べたらさほどでもないのですけれど)誇るような現在の勤務地では特に地域づくりは農業関係との関わりは薄いものとなっているように感じられます。とても大切なことなのに…。
 だれにどう評価されても(されなくても)自分のもてる能力で日々、勤めていくしかありません。

 ただ、一人一人の力量は必要ですが、普及員が持てる個性のみで仕事をする時代ではなくなりました。組織で事にあたっていくしかない時代になっています。
 民主的な組織でかつ強いリーダーシップのとれる管理職のもと、対外的に仕事を進めていくこと、これにつきるのでしょう。

 「つくば」から帰福してから、現実の社会に立ちかえり、ふとつぶやく愚痴でした。
 ちなみに今回の外部評価委員長は福井県立大学 北川太一准教授でした。

H19.12.6

井上照美

「開発」・暮らし・文化人類学 No.0000-2 ジェンダーと「開発」

shigoto.jpg ジェンダーという考え方は,第3回世界女性会議ナイロビ大会(1985)で登場した。経済活動に女性の参加を促すと同時に地位向上を実現しようと1975年メキシコ大会を第1回として世界的な行動綱領が採択されていった。女性が開発過程に参加しだすと,多くの問題が生じた。日々の生活をどのように,誰が担うのかという問題である。
 アフリカのケニアの首都,ナイロビはその会場であり,ジェンダーの概念が世界の女性たち,共通のテーマとしてはじめてとりあげられたところである。
 経済活動に女性が参加することの重要性が第1回メキシコシティ大会(1975)で採択され,WID(ウィド)という概念が提唱された。WIDは,Women In Developmentの略字で「開発への女性の参加」を意味するものであった。しかし,こうした活動が広まると家事や育児を誰がするのか,という問題が生じた。当初は,就学し始めた,特に女子児童にしわ寄せとなった。家事と小さな子供の世話をするために女子児童が学校を休み,同時に女性の過重労働の問題が深刻になった。家事・育児に男性の参加が大きくとりあげられるようになった。
 この問題において多くの地域では,家事・子供の世話という問題に対して,家族員以外の女性を雇うことで実現してきた。また,一方でアフリカ各地では経済力のある男性は,これまで複数の配偶者をもつこと(複婚 polygamy)を支えてきたが,家事・育児の軽減のために複婚,つまり,一夫多妻制を固定化することも見られるようになった。アフリカばかりではなく,南アジアのネパールの山間部で,ある中年女性は,「経済力がついたので夫は2番目の妻を迎えることができた。これで,宗教活動や地域のボランティア活動ができるようになった」,というのである。このように婚姻の慣習の問題にも開発の影響が起きてきた。
 家事・子供の世話に雇用で対処しようとする方式は,西欧で発達してきた対処方法であり,女性の開発への参加が重要視されて多くの地域で浸透してゆき,女性の社会的地位を向上させていった。スリランカ政府の女性局で,局長以下,多くのスタッフ(ほとんどが女性)に「皆さんの家庭の家事・育児は,どうなさっているのか」とたずねたことがある。経済力のある上級官吏は,3~4人,局の雑務を担当するものでも1人の家事担当を雇っていた。
 確かに,この方法は,女性が社会的に高い地位を確保するのに大きく貢献した。人間開発の年次報告では,人間開発の状況がどこまで伸展したかの数値的指標が用いられている。これを人間開発指標,Human Development Indicators (HDI)という。この指標に付随して各種の指標が用意されており,その中で女性の地位向上の総合指標,「ジェンダー開発指標」Gender Development Indicators (GDI)がある。年次別にGDIの変化を見ると,日本の順位が世界の中で,後退するように見える。これは,多くの国々でのGDIの向上,改善の速度が速いのである。

富田祥之亮

くさぎの展示

kusagi3.jpg 11月4日、町の文化祭にくさぎの展示をしました。その前にくさぎの実でハンカチや半襟を染めたところ、その色がいいから文化祭に飾ったらと言われ、それならば、くさぎの料理「常山」も展示して見て貰おうと言うことになり、B紙に説明を書き、M子さんに常山を煮て貰い、くさぎご飯も炊いて「くさぎを食べましょう」のパンフレットも用意して展示しました。市の教育長や市議会議員さんが目を止め、常山やくさぎご飯を試食されたそうですが、パンフレットは20枚ほどしか出ていません。60半ばのZさんが来て常山を食べ「子供の頃、おじいと行った正眼寺で食べた味やなあ、懐かしいなあ」とおっしゃる。「くさぎはそんな頃から途切れているのだ」と気落ちしていたら「その人にくさぎを思い起こさせたから、展示の効果はあったよ」とUさんに慰められました。持つべきものは前向きに励ます友です。

『ひぐらし記』No.18 2007.11.20 福田美津枝・発行 より転載

干し物いろいろ

 米の収穫が終わって、ほっとするまもなく、いろいろな仕事がやってきました、そうでなくても、秋は何かと忙しい時なのです。秋は日が短いのに、なぜか干し物が多くて、それを出したり入れたり、そんなことで毎日あわただしく過ぎて行きます。

ハブ茶
 夏、くさぎご飯を教えいただいたTさんにねだったハブ茶(えびすぐさ)。軽トラックで株ごと届けてくださったものを莢?ぎして、竹箕で干しています。昔、在所で祖母が作っていました。煎ってお茶にして飲みます。懐かしい味がするかな?

しいたけ
 山においてある原木から採って来たしいたけ。うちでは食べ飽きているので、近所・友人に配り、その残りを細かく刻んで干しました。今のしいたけは大きく(大人の手のひら以上)、雨上がりのものなので、そのままではなかなか乾きません。

kaki.jpg干し柿
 今年は山の果樹園の蜂屋柿(渋柿)が大豊作でした(昨年は1つも生らなかった)。近所・友人・親戚・職場(家人)に届けた残り約180個を剥きました。干し柿作れというばかりで、干し竿も作ってくれない家人を恨みながら、玉ねぎ干し竿を占領し、離れ二階の褄に竿が渡してあるのを見つけ、はしごをかけて干しました。怖かった。

柿の皮
 干し柿に剥いた皮も、干して風呂に入れるといいというので干しました。

しろだつ
 しろだつ(はすだつ・軸を食べる緑の軸の里芋)を知人がたくさん届けてくださいました。酢炒りにして食べましたが、干しておいて煮て食べたかったので、ねだって、もう一抱えいただきました。皮を剥いて竹笊で干しています。水で戻して、油揚げや烏賊と炒め煮にして食べるつもりです。

唐辛子
 引っこ抜いた胡椒の株についていた赤い実を採って、笊で干しています。辛味のない胡椒だったので、唐辛子になるかわからないですが、料理の彩には使えるかなと思って。観光地の朝市なんかで売っているように、藁で上手に編めたら風情があっていいけど。

漬物・佃煮
 「あぜみち文庫」で借りた「冷蔵庫で食品を腐らす日本人」(魚柄仁之助著朝日選書)を読んでわが身を振り返り、冷蔵庫の中から出てきた漬物・佃煮の類を細かく刻んで(捨てないところがいじましい)、竹笊に広げてからからに干しました。ジャーのご飯を食べる時に混ぜたり、炒飯に入れて隠し味にと涙ぐましいリメイク奮闘。

 このほかにもまだ義母が種採り用のピーマン、ササげ、なた豆、オクラなどを干し、大豆も筵数枚を広げて干しています。朝の家事を終えて、干し物を庭に拡げ、3時頃になるとバタバタと干し物を片付けるのが、最近の仕事です。もう少したったら、大根干しもするつもりです。 

『ひぐらし記』No.18 2007.11.20 福田美津枝・発行 より転載

米のことあれこれ-新米の話-

 大方の野菜を自給しているわが家では、採れたての新鮮なものを食べていますが、米についてはまったく違います。兼業農家に嫁に来た私は、新鮮な野菜を食べられて満足でしたが、新米はなかなか食べられませんでした。勤め人で、何もかも買っていた実家では、秋になると安い標準米ながら、新米を食べました。
kome2.jpg ところが、このうちでは、秋に新米がとれてもすぐには食べないで、年末になるとやっと義母が新米をついて(精米して)、大歳の年越しに新米ご飯を始めて炊き、正月三が日は新米のご飯でしたが、その後はもとの古米になるのでした。義母は「ここらはどこの家でもそうや、ふだんに新米を食べるところはどっこもあらへん」というので、そんなもんかなと思いましたが、こういうことでは、本当においしい米の時がなく、もはや新米といわれなくなってから、やっと「新米」に切り替わるのでした。
 それは「もしかの時に米がないようなことでは面目ない」と言って、家族が食べる1年分以上に米を備蓄してきたからでした。もしかの時はそんなにあるわけがないので、新米がとれても、たくさん残った備蓄米を先に食べなければ、どんどん古米になっていきます。「秋の収穫が終わる頃に米がまったくないようなことは面目ない」「いざ金がいるという時にも米があれば金に換えられる」とも言いました。
 ずっとそれを守ってきたので、今日現在、まだ古古米(17年産の米)を食べています。すなわち、17年にはたくさんの備蓄米を残していたのです。昨年(18年)秋に、新米を冷蔵庫に入れようにも、17年産米がたくさん残っていて入りきれません。そこで家人と相談して、米を売ることにしました。案の定、義母が反対しました。「もし私が死んだら、葬式で人寄りがあるから米は要る」という(とても死にそうにない元気な義母)のを、「今じゃ人寄りがあってもそんなに米は食べん、もし足らなんだらいつでもどこでも買えるから」。「金に困る時に米を売って金にできる」というので「米を売ったくらいの金はいつでもどこでも借りられる」などと説得して、とにかく1年分の家族の食べる分だけを残すことにしました。しかし、古米は買い手がないので、18年産の新米を売って、古米を残したのでした。
 それからの1年は古米でした。普段から古米を食べなれているのでしたが、さすがに春先からはまずくなって、米屋で餅米を買ってきては、毎回少しずつ混ぜて炊いてきました。義母も家人もこんな努力は知らず「やっぱり古米でもそう悪いことはないな」とか「冷蔵庫やで、味がそう落ちん」などと満足げに食べています。その古米もあと僅かでお終いです。これから、晴れて新米がおいしく食べられます。ばんざい!

『ひぐらし記』No.18 2007.11.20 福田美津枝・発行 より転載

「農村生活」時評⑤ "生活に迫ることはできたか-学会の印象あれこれ-"

hakari.jpg 11月20・21日、つくば研究交流センターで開催された「第55回日本農村生活研究大会」に参加して、全日程につきあったがここでは一般報告についての印象を記したい。
 一番印象的なことは、私の時代と異なり、皆さんが映像で語るということだった。もちろん、昔からスライド使用はあったが、それは写真とか図の説明に必要なものであり、私などはもっぱら語りという古典的なスタイルに終始した。今から思えば発表の中身より語り口にたよっていたのかも知れない。しかし語りの芸は「生活」の表現方法としては存在理由があるように思う。それが一体何なのかということはうまくいえないが、生活者の心情ついて更にはその研究をしている発表者の思いの部分はなかなか映像には写せないのではないか。もちろん映像作品としては「木村伊兵衛・秋田」とか、最近では「宮本常一・写真」などがあるが、そういう世界ではなく私たちが課題としている農村生活の現実の解明という過程における人間の姿の描写である。
 発表のもうひとつの側面は新しい研究手法の採用が印象的だった。脳の動きまで電子的に捉える手法が提起されたが、これっを使えばさっきの心情問題にも迫れるかもしれない。夜の「情報交流会」で発表者と語り合ったが、この種のデータはそれをどう読むか、解釈するかが問題で、結局は研究者が調査時、計測時の多様な条件とおかれた状況でその数値を判断することになる。だから研究者の見方、ひいては農村生活についての見識が問われることになるのである。新しい手法、新しいアプローチへの挑戦は不可欠だが、その背景には生活への思いがないと、研究にはならない。
 その一方で古典的な聞き取り、アンケートなどによる報告も多い。これはまさに今、私たちがいつも頼っている手法だが、そこに開発された電子的計測にも負けないような新しい手法としての深化の方向はないだろうか。聞き取り現場において、そこでの課題についての「話のやりとり」の過程において、聞いているこちらだけ納得するのでなく、聞かれている側も改めて考えることになり、お互いがその話題について理解を深め合うということか。これは間違いなく自分自身の課題である。
 生活原論分野としては「ワーク・ライフ・バランス論」が提起された。これについてはうまく議論ができなかった。現場からの提起で、研究方法論の側面もあり、いかにも大問題なので機会を改めて寸評ではなくしっかりと考えたい。

森川辰夫

農と人とくらし研究センター

Research Institute for
Rural Community and Life
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