農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
「農村生活」時評⑩ "郷土食の生まれと育ち"
先日、茨城大の中島紀一先生の主宰する「農村生活文化フォーラム」に参加して、筑波学院大学の古家晴美先生の「現代社会における"郷土食"についての一考察」を聞いて驚いた。この「郷土食」という言葉はなんと、かの戦時中米不足ため国策として廃棄物などを活用したいわゆる「代用食」が推奨されたが、これはいかにも語感が悪いのでその代わりに地域食材の再評価の側面を強調して登場したという。当然民俗学の用語ではなく、報告で指摘されて「広辞苑」を見たら、なるほど「郷土料理」はあるが「郷土食」はない。この言葉はいまでいう「長寿医療制度」のたぐいの行政用語か。私と生まれが同時期の、戦中"語"である。
古家報告によれば、その後「郷土食」は高度経済成長期をへて昭和50年代半ば(1980)に再び「ふるさとの味ブーム」として脚光をあびるという(食料センター刊・「昭和59年版食料白書―今日の郷土食」)。一世代か一世代半位経過して、再び顔を出したことになる。ここで報告者から学校給食現場に郷土食献立が強いられたという指摘があったが、いささかかかわりのあった者として、少し事情を記すと、そこにはパン主体の献立に米飯導入の働きかけがあったのである。つまりご飯に合う和風副食であればいいのだが、コメとともに地元農産物を活用してもらおうという狙いが、「郷土食献立」という思想にあらわれたことになる。
昨今の地元食文化再評価の機運は、かのブームからさらに2,30年ばかり、一世代分経過しているのかも知れない。この問題の解明のためにも、歴史的経過の問題は昭和前期を含め、すこし時間軸を長く取り、食物史は研究蓄積のある分野だけにさらに慎重な検討が望まれる。
「郷土食」となると、もうひとつは地域的な範囲の問題がある。報告では余り厳密な規定の中身には進まなかったが、少なくとも今の市町村範囲で考えるのは狭いだろう。地形的気象的条件からある範囲の特徴ある農業生産の展開が前提され、そこではかなり共通の食材が提供されるから、ある地域の食事の大体の型といくつかの加工食品が決まってくるのではないか。もちろん、歴史的に藩政時代の影響もあろうし、フォーラムの席上では問題が提起されただけで、時間切れで十分には議論できなかったが、帰りがけに出席メンバー同士で「盆地は共通の食文化だ」、「通婚圏と重なるのでは」などとにぎやかなことであった。
森川辰夫
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野山にはお宝がいっぱい!
土曜日の夕方、タケノコご飯を炊く用意をしておいて、用事でFさんを訪ね、その帰りがけに、コシアブラを採りに行く相談をしました。Fさんはフキも欲しいと言うので、山の田んぼへも行ってみる約束をして、その足でAさん宅へ行ったら、軒先の水を張ったバケツから、茹でタケノコをポリ袋に一杯入れてくださいました。帰ってくる途中、畦の刈った草を寄せているMさんの姿を見かけて、ちょっとおしゃべり。「そうそう、桜の塩漬けをあげようと思っとった」と、家に走りかえって持ってきたビン詰めの桜を貰って来ました。夕方、ちょっと歩いて来たら、あちこちで嬉しいいただき物です。
翌日曜日、義母が朝からフキを煮ています。裏の家で弘法様(毎年、その家の山に祀ってある弘法様を、近所の人たちを呼んで拝み、その後食事を振舞っていただくのです)があるので、そのおかずに一品添えるつもりのものです。別の鍋では、きゃらぶきも煮ています。そのお残りを、昼ご飯のおかずに食べました。
昼ご飯の後、前日いただいたタケノコを木の芽和えに準備をして、残りを炊き込みご飯用、中華炒め用に切って、それぞれザルに広げて干し、夕方取り込んでポリ袋に入れ、冷凍庫にしまいました。
冷蔵庫には、クサギを水で戻したものがあって、夕方、クサギご飯を炊きました。前の日はタケノコご飯と、味のついたご飯ものが続くけど、「ええい誰かに食べて貰えばいいや」と、いつもどおりたくさん炊きました。
その時、玄関で呼ぶ声がします。Uさんがイタドリを一抱えして立っています。「去年一緒に採りに行った山へ、今、イタドリを採りに行ってきたからおすそ分け!」「ちょうどよかった、もうすぐ炊きあがるクサギご飯をお返しに」と届けることにして、行きつけの美容院の大先生も田舎のご出身だから懐かしいかなと、クサギご飯を少し届け、その晩の食事は、クサギご飯、タケノコの木の芽和え、フキの煮物ときゃらぶき、山菜尽くしのご馳走でした。片付けの後、イタドリの皮を剥き、ポリ袋に入れ、塩をたくさんまぶして冷蔵庫へ。こうして塩漬けにしておいて、食べる時に塩抜きをして、炒めて煮付けることを、昨年、Aさんに教えていただきました。その夜には、Uさんから「今イタドリのあく抜きを終えて、キンピラにするところ」というメールが入りました。
翌日、夕食の支度をしていたところ、裏のオバサンが2つの袋を抱えて裏口へ。「親戚からこんなものをようけ(たくさん)貰ったで、食べんさい」と、コシアブラとコゴミです。珍しいものをこんなにようけ!!これで、コシアブラのご飯が炊けそう。コゴミは、オバサンは胡麻和えにしたそうだけど、マヨネ-ズでもいいし、てんぷらもいい。
台所には、この日、みょうがたけも採ってきてあって、しいたけとタケノコの吸い物に入れました。夕食の後、杉の葉を採ってきて、わらびの上に被せ、熱い湯をたくさんかけて押し蓋をして、アク抜きに。コシアブラは洗ってザルに揚げ、コゴミは硬い軸を折り取って、これもザルに。台所中、山菜だらけです。
3年ほど前、山が竹藪になってしまうからと、義母が竹を総て根絶してしまってから、タケノコが食べられなくなるのかと寂しく思っていましたが、その時期になると、あちこちから声をかけてくださって、十分いただきます。フキは柿の木の下に毎年生えてきて、みょうがたけも生えて、その少し前にはうどもあって、春先の野菜がなくなるころにはこうしたもので助けられます。昨年はイタドリやクサギの食べ方を教えてもらい、今年はさらにコゴミや、コシアブラなど珍しいものに恵まれました。
小麦や大豆製品が値上がりしています。スーパーに行けば、あれもこれも高くなったものばかりのようですが、米を炊いて、野山にあるものに目を向ければ、難なく夕飯が仕上がります。その代わり、袋を破けばすぐ調理できるものではなく、手をかけなければなりません。
季節のものを食べたいあまりに、昔からやってきたことを続けるために、野や山へ山菜を採りに行って、手間をかけて、自分で食べることをまかなおうとしている人たちに恵まれ、手間をかける時間にも恵まれた暮らしが愉しく、面白いものだと思う毎日です。
『ひぐらし記』No.21 2008.5.1 福田美津枝・発行 より転載
農人研設立報告へのお礼状
片倉さんのお書きになった総会の様子や設立の経緯を読ませていただきました。片倉さん、吉野さん、諸藤さんとお三人に賛同する皆さんの、くらしの原点を見据えた強い思いに私も大変共感しました。見失われがちですが今の時代だからこそ大切にしなければならないことを追及する、農と人とくらし研究センターの姿勢がよく理解できました。
私のくらしに対する考え方は、子育てを通じて大分変わりました。日常の出来事の一つ一つが常に動いているものなのだと生々しく感じるようになりました。そのような日常の積み重ねの一部としてセンターにかかわらせていただくことは、自分自身の成長にも結びつくのだと感じています。日常を懸命に生きている一人ひとりの集まりから農と人とくらしのあり方を考える、そういったところに研究センターの存在意義があるのだとすれば、私がメンバーに入れていただく資格(意味)もあるのかなあと考えています。
一方的な期待ばかりを書いた気もしますが、わくわくしていることをまずはお伝えできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
2007.10.12 西山未真
弘法さま
4月21日は組全体の弘法さまの日で、当番に当たった3軒が元方になって、昼ごはんを作り、各家から女が1人ずつ来て弘法さまにお参りをして、ご飯を食べて半日過ごします。実際には21日の近くの日曜日に行います。その元が、今年は我が家に当たりました。両隣と3軒で用意をします。10年ほど前から、お日待ち(組の寄り合い)の食事はパックの弁当をとったり、料理屋へ出かけることになってきましたが、4月と12月の弘法さまの日の「お日待ち」だけは、元方がすべて、ご飯もおかずも料理することになっています。
4月は毎年タケノコご飯と清まし汁、ひじきの煮付け、サラダ、漬物の献立です。前日に買い物をしておき、朝から公民館で、ご飯を炊いたり、おかずを作ったりして、12時に食事が始められるようにします。
その日、11時半頃から、女衆が集まりだし、12時には揃いました。以前は、最初に弘法さまの前で般若心経を唱えましたが、最近は食事が先だそうで、今年も長老にお伺いすると、「はよう、ぬくというちによばれたほうがええで」とおっしゃり、食事になりました。24軒のうち、用事などで来られないうちもあるので、20軒と、元方の男衆3人も合わせても、タケノコご飯一升五合で済むとは、なんとも少食になったものです。
食事が済むと、飯台を片付けて、弘法さまの前で、みんなが声を合わせて般若心経を唱え、その後にはお茶菓子や果物を出して雑談になります。昔はこうして夕方まで公民館で過ごしたものですが、最近は若い人も増えてきて、それぞれ用事があるので、一人帰り二人帰りするうちに、それではお開きにしようかと長老がおっしゃって、3時頃には終わりました。
家ではまだ義母がこうした弘法さまの集まりには出ているので、私は元方が来た時だけ出て行きます。久しぶりの弘法さまの元方を勤めましたが、早く終わってほっとしたものの、こういう行事もだんだん簡素になって来たなあと寂しくもありました。
『ひぐらし記』No.21 2008.5.1 福田美津枝・発行 より転載
敗北宣言
私、酪農を廃業しました。6月5日に牛たちをすべて処分(酪農家に買い取ってもらえる牛は買ってもらい、買い手のつかない牛は屠畜場へ)しました。一頭も残さずすっぱりと手放して、酪農家としての私は終わりました。
「楽農ぐらし」の中でこの事態を予想させるようなグチが急増していたと思いますが、グチグチ言いながら、でもまだ何とかこの仕事にしがみついていたいという思いがありました。
体力的にはまだまだ5年や10年は…とも思っていました。
実は「やめる」と決断したのは5月20日過ぎてからのことです。
5月20日に4月分の乳代の計算書が出ます。それを見た途端に切れかかってそれでも辛うじてつながっていた気持ちの糸がプツンと切れました。
半年ずっと赤字でした。赤字の額自体は大きな金額ではないけれど、それでも一ヵ月休みなく働いて、貯金を下ろして持って行かなければならないなんて、いくらなんでも働く意味がない。
これから夏乳といって、夏場は乳価が少し上がるので秋まで待って廃業したら…という忠告もありました。でも、夏乳といっても以前のような価格は望めない現状だし、それで機械の一つでも壊れたら、もうアウトです。
それに何より気持ちが途切れてしまったのが大きいわけで、こういう気持ちになった時に決断する方が後で後悔しなくてすむだろうと思いました。
「やめてどうするん?」という問いには「やめんでどうするん?」と答えて、後はさっさと事を進めて、きれいさっぱり「終わり」ました。
酪農を始めて丁度30年です。先の見通しなど何もない廃業です。退職金もなく失業保険もない自営業の末路は哀れで、これからどうやって老母を養いながら自活していけばいいのか、考えると暗くなるので、とりあえず少しの間、ぼんやりと日を過ごすつもりです。まぁ、一年くらいはかろうじて食える蓄えが残っているうちでの廃業だったので…。
本当はこんな形で酪農人生を終わりにしたくはなかったです。とても悔しいです。
日本の農業政策が小規模農家をつぶしてしまうという強い意思をもってしまった中で、女ひとりの零細酪農家は真っ先にへたってしまったわけで、実に実に悔しいです。
ガランとした牛舎。さて、この牛舎の処分をどうするか、今、苦慮しています。
このままにしていると固定資産税がずっとかかるわけで、だれか倉庫としてでも借りてくれないかと思うけれど、借り手買い手がなければ解体しなければなりません。解体するなら、クズ鉄が高騰している今がチャンスで、鉄の値が下がったら、解体費用がまた莫大なものになるよ、と脅かされます。
まだしっかりした大きな鉄骨の40頭牛舎なので、解体してしまうのはもったいないのだけどねぇ。
牛舎の他にも、酪農にしか使わない機械などいくつかあって、その処分も考えなくてはいけないし、雑務がまだまだたくさんあります。
しかし、まぁ、牛がいた頃に比べたら目茶苦茶にヒマで、しかも、生活の時間が全然違ってしまって、困っています。
特に夜が問題で、なにしろ、深夜に風呂に入って、それから晩ご飯食べて、寝るのが2時3時という暮らしを30年続けてきたのです。
それが突然、まだ外が明るいうちに風呂に入り、7時頃に晩ご飯です。調子が狂って、どうもまだうまく生活のリズムが作れません。
渡辺ひろ子『私信 楽農ぐらし』NO.116(2007.6.15発行)より転載
コラム「づれづれ草」について
北九州で農業にたずさわる渡辺ひろ子さんの個人紙『私信 づれづれ草』からの転載です。2007年6月、30年続けた酪農に自ら終止符を打ったとのことですが、農業にはこれからもかかわっていくと、日々の思いを気丈に綴っています。
挿絵も渡辺さんが描いています。
声で伝える食への思い
この時間には、AさんやSさんなどふるさとレポーターの方が何人かおられて、それぞれが、お話をされていました。Sさんとは市の「女性議会」でご一緒した縁で親しくなり、SさんからオフトークのIさんに紹介されたことにより、私も出させていただくことになったのでした。
1回ごとに、Iさんとの会話方式で、その季節の野菜を取り上げ、それにまつわることや、自分で実際作る料理、行事にまつわる食べ物や、地域に伝わる食べ方なども含め、誰でも作っていただけるようにと心がけて話しました。
最初は緊張して、自分でも聞けるような会話ではなく恥ずかしいものでしたが、Iさんの巧みな誘導により、少しずつ慣れてきました。地元で、JA支店とか、市の連絡所とかで出会った人が、「放送聞いてるよ」とか「あの料理作ってみたよ」などと声をかけてくださると、恥ずかしくもあり、また、いい加減な話をしないようにと戒めることにもなりました。
わが家にも有線放送は流れてきて、私の放送が始まると、あわててボリュームを落とすのですが(なぜか恥ずかしくて、家族には聞かせられない、別に都合の悪いことをいっているのではないけど)、その後に市内のお悔やみの放送が始まるので、義母はボリュームを上げ、わざわざテレビまで消してしまいます。それで、その時間帯は、ボリュームの上げ下げが激しくなります。あるときは、放送の直後に親戚から「今あんたの放送を聞いたよ」と電話が来て、その返事もしどろもどろになったことがあります。私を知っている人に聞かれることが、こんなに恥ずかしく嫌なんて、到底芸能人や有名人にはなれないです(なる気もないけど)。
2週間に1度の収録は楽しいときでした。収録後にIさんとする雑談のなかに、本当は伝えたい、深い内容もあったのです。マイクに向かっては話せないお話も。しかし時々、話す内容がまとまらず、うめきながら収録に向かったこともあります。どうしても話すことが浮かばなく、1度だけ、その日になってキャンセルしました(Iさん あの時はごめんなさい)。
そんなことも、もう思い出になるようです。オフトークの機械が老朽化したのをきっかけに、有線放送を終わりにするという通知が、先日、わが家にも届きました。せっかく慣れてきたのに残念ですが、1年間聞いていただけたことに感謝しています。「高校生の娘がよく聴いていて、あの料理を作ってなどといいます」などとおっしゃってくださった方々など、うれしい言葉をいただいて終わりにしますが、また何かの方法で、オフトークで伝えてきたことを継続していきたいと思っています。
『ひぐらし記』No.20 2008.3.10 福田美津枝・発行 より転載
5月の行事と食べもの
端午の節句 5月5日
長男が生まれた初節句に、実家から幟が届き、親戚からは祝いのこいのぼりや武者人形をいただいた。数年は幟やこいのぼりを4月中頃から庭に立て、座敷に武者人形を飾っていたが、だんだん省略して、今では武者人形2体を飾るだけになってしまった。
お供えは粽や柏餅。菓子屋さんの店頭に並ぶと買いに行ってお供えする。5日には五目寿司か小豆ご飯を炊いてお供えするという簡単なこと。それでも今年は米の粉を練って小豆あんを包んで蒸したぶんたこを作って、柏餅の代わりとしてお供えした。
田植えぼち
母の弁によると、昔は田植えになると、毎晩毎晩米の粉を練って、小豆のあんこを煮て田植えぼちを作り、朝早くそれを蒸してこびるに食べるためにまわし(準備)をした。ぼちを包むものはススキの葉か、面倒な時は包まないでススキの葉を敷いてその上に載せて蒸したとか。みょうがの葉で包んだところも、がんど(サルトリイバラ、山帰来)の葉で包んだところもある。私が来た30年ほど前にはもう行われていなかった。すでに田植え機があり、田植えは戸々で行っていた。今年は田植え後、家人が朴の葉を取ってきたので、朴の葉包みの田植えぼちを、田植えが終わってから作って食べた。
田植え終いの祝い
田植えが終わって、2度ほど田んぼの中を回って補植をすると、田植え終いのお祝いをする。残った苗の根を洗い、親指と人差し指で握ったくらいの束を根元のすぐ上で束ねたものを3つ作り、その3つをあわせて真ん中あたりで括って、大きな束を作る。米にゆでた黒豆を入れて豆ご飯を炊き、茶碗に盛る。その2つをお盆に載せ、恵比寿様にお供えをし、仏様と神様にも豆ご飯をお供えして、田植えが無事終わったことを感謝し、病害虫にやられずに豊作を迎えることを祈る。
福田美津枝
お供えは粽や柏餅。菓子屋さんの店頭に並ぶと買いに行ってお供えする。5日には五目寿司か小豆ご飯を炊いてお供えするという簡単なこと。それでも今年は米の粉を練って小豆あんを包んで蒸したぶんたこを作って、柏餅の代わりとしてお供えした。
田植えぼち
母の弁によると、昔は田植えになると、毎晩毎晩米の粉を練って、小豆のあんこを煮て田植えぼちを作り、朝早くそれを蒸してこびるに食べるためにまわし(準備)をした。ぼちを包むものはススキの葉か、面倒な時は包まないでススキの葉を敷いてその上に載せて蒸したとか。みょうがの葉で包んだところも、がんど(サルトリイバラ、山帰来)の葉で包んだところもある。私が来た30年ほど前にはもう行われていなかった。すでに田植え機があり、田植えは戸々で行っていた。今年は田植え後、家人が朴の葉を取ってきたので、朴の葉包みの田植えぼちを、田植えが終わってから作って食べた。
田植え終いの祝い
田植えが終わって、2度ほど田んぼの中を回って補植をすると、田植え終いのお祝いをする。残った苗の根を洗い、親指と人差し指で握ったくらいの束を根元のすぐ上で束ねたものを3つ作り、その3つをあわせて真ん中あたりで括って、大きな束を作る。米にゆでた黒豆を入れて豆ご飯を炊き、茶碗に盛る。その2つをお盆に載せ、恵比寿様にお供えをし、仏様と神様にも豆ご飯をお供えして、田植えが無事終わったことを感謝し、病害虫にやられずに豊作を迎えることを祈る。
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