農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
環境保全のために川の草刈?
○○日の夜、寄り合いから帰ってきた家人が見せてくれたのは「農地・水・環境保全向上対策事業」のパンフレットでした。そして「24日の日曜日に別所(わが集落名)総出で川の草刈をやることになった、今日貰ってきた歯はそのためやで」と言います。
この事業は私がまだ勤めていた時に、19年度からの実施に向けて、地区を選定したり、事業内容を理解してもらうために、農林事務所のほうから農業改良普及センターへ依頼があって、何度も検討会をしていたものでした。「ははあ、いよいよ始まったのだな」と思いました。家人に「誰か、県とか市から来て説明した?」と聞いたら、「いや、K地区のTさんが来て説明しただけで、他には誰もおらん」と言うこと。「事業のことはどんな説明やった?」と聞いても「詳しいことはわからん、これ読んどけと言うことやった。そやけど、とにかく24日は朝8時から草刈や」。
24日は8時に草刈機を担いで家人が出て行きました。すぐに川のあちこちでブーンと草刈機のエンジンの音が響き始めました。その日は市の森林組合の総代会も9時から「健康の森」で行われることになっていて、草刈に出かけた家人に代わって、私が総代会に出席しました。行ってみるとO地区の総代さんが来ておられて、雑談されていましたが、そのうち「今朝はもう一仕事済ませてきた、部落中で川の草刈をやってきた」と言う話が聞こえてきました。O地区もわが集落と同じだったのでした。
総代会から帰ってきたら、目の前の川はすっかり草が刈り取られていました。葦や菖蒲やクレソンの草むらはきれいになくなって、川はすっかり丸坊主。今年はずいぶん蛍が増えてきたのに、その棲みかがなくなっていました。
市の環境経済部長はこの事業について「19年度は市内の5ヶ所の約123.3ヘクタールの農地をモデル地域とし、事業費約500万円を予定している。事業内容は畦畔や農地の草刈、水路の泥上げ、用排水路の点検補修、生物調査や花植えなど、地域が共同して環境保全を推進する事業としたい」(T市議会議員さんの議会活動だよりNo65より)と述べておられます。「環境保全のためなら、蛍やその他の昆虫や魚の棲みかとなる川の草を刈ることはないのに、なんで川の草刈やの」、家人にそう言うと「そういえばそうやな、ほんでもあの時は刃が貰えたで、みんな素直に草刈るんやと思ってしまったんやなあ、今から考えるとおかしいなあ」。棲みかを奪われた川での生物調査の結果がどのようなものであるか、大いに期待したいものです。
『ひぐらし記』No.16 2007.8.20 福田美津枝・発行 より転載
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楽農ぐらし
でも通信は今後もずっと今後も書いて行きたいのでタイトルを変えて、第一号として次回新たにスタートしたいと思います。
今後、渡辺がどんな風に暮らして行くのか、今まで同様に見続けていただきたいと思います。
しかし、酪農家でなくなった渡辺に関心はない、という方も多かろうと思います。特に酪農関係の方たちはそうだろうなと思うわけで、もう、通信を送らないでほしいと思われる方はぜひ遠慮なく、ご連絡下さい。(電話でもFAXでも葉書でも人を介してでも)
酪農家のみなさん、関係機関のみなさん、長い間本当にお世話になりました。何年か後に、「酪農はもうかってて、いいねぇ、私もやめんでがんばっとけば良かったァ」とくやしがるような酪農情勢になるといいですね。
渡辺ひろ子『私信 楽農ぐらし』NO.116(2007.6.15発行)より転載
自主独立農民という仕事
森まゆみさんの書いた本です。「佐藤忠吉と木次乳業をめぐる人々」という副題がついたこの本に私は偶然にも酪農をやめる決意をした直後に出会いました。
「草の匂いのする牛乳や山葡萄の香り高いワイン。健康な野菜にホンモノの卵。島根県木次は滋味に満ちている。めざすは地産地消」「次代に手渡す〝農〟がある」などの帯の言葉が示すように、島根県奥出雲の木次という小さな町で展開されている佐藤忠吉という85才の人がリーダーとなって造りあげて今も変貌展開を続けている地域として独立しているかのような経済の形態を示したノンフィクションです。
佐藤忠吉さんは酪農家で、でも日本人と牛乳の関係に早い時期に悩み、ホルスタインをやめてブラウンスイスという種を導入して山地放牧酪農を、そして、数人の共同出資で木次乳業という小さな乳業メーカーを立ち上げ、日本で一番早くパスチャライズ(低温殺菌)牛乳の販売を始めた人です。
世間の人が低温殺菌に関心も知識もない時代に全国を自ら回って販路を作り、工場を拡張し、牛乳のみならずチーズ工場も作り、小さいながら地元にも認められる優良企業に育てています。
そして、彼の好奇心は牛乳に留まらず、また彼の回りにいろんな人びとが集まって来る中で、葡萄園が出来、ワイナリーが出来、地元大豆の豆腐屋が出来、卵屋が出来、古民家を移築して研修施設が出来、こだわり野菜の農家が増え、焼酎や日本酒も造り…という風に、木次の町の小さな経済はグローバル化に突き進んで行く日本の経済から独立して独自の広がりをゆっくりと重ねているのです。
佐藤忠吉さんの語る言葉はどれもこれも「う~ん」とうならされるものばかりなのだけど、特に私がうなったのは次の言葉です。
「町づくりだの村おこし、地域の活性化とさわいでおりますが、地域は活性化する必要はない。むしろ鎮静化すべきだと思うとります。」
私が以前から言って来た「進歩発展はもうやめよう」という言葉に通じるものがあるという気がします。
また彼は言います。
「20アールの土地があったら、完全自給できます。何が起きても、国がなくなっても、その土地があれば食える。こうでもしない限り、貨幣経済からは自由になれません。」
う~ん、これもすごい!
「私は政府の政策は無視する。研究する必要もない。現場を知らんもんが、農民でないもんが、机の上で計画をたててうまくいくはずがない。お上が決めたことがえらい、という権威主義とは縁をもちたくない」
う~ん、う~ん、すごい!すごい!
政府の政策に振り回されて、ついに振り落とされてしまった私はうなるしかないです。
つらい決断をした直後の私は呻くようにこの本をよみました。
私は佐藤忠吉さんのように地域を動かして行く力量も人望も財力もないので、今更彼の生き方のマネなど出来ないけれど、でも、自分自身の中で「自主独立農民」という生き方を探ってみるのは出来るんじゃないか、と思い始めています。
田んぼは1ヘクタール近くあって、耕作は他人にまかせているけれど、食べる米に不自由しないし、50アールの畑もあるから、まず荒れ放題になっている畑地を少しづつ、ちゃんとした畑にして行って、とりあえず自分の食べるものは極力自分で作ることを目ざそうと思います。
そうして、余ったものを直売所などで販売する。決して「売る」ために単一作物をダーッと作るなんて愚は繰り返すまいと思うのです。
貨幣経済からの自由。政策からの自由。
そういう農業を自分の暮らしの小さな腕で囲える範囲の中だけで確立して行こうと思うのです。
「自主独立農民」として一人きりで立って行きたいと思うのです。
で、今、放置していた家庭菜園の部分に手をつけ始めたところなのだけれど、3年近くの放置の結果、木や竹が生い茂り、伸びた草が絡まり、倒木が横たわり、苦戦しています。ぼちぼちやります。
政策に振り回され、数字に追い回された酪農人生30年から開放されたのだ、と思えば、廃業を前向きにとらえることが出来ます。
渡辺ひろ子『私信 楽農ぐらし』NO.116(2007.6.15発行)より転載
「草の匂いのする牛乳や山葡萄の香り高いワイン。健康な野菜にホンモノの卵。島根県木次は滋味に満ちている。めざすは地産地消」「次代に手渡す〝農〟がある」などの帯の言葉が示すように、島根県奥出雲の木次という小さな町で展開されている佐藤忠吉という85才の人がリーダーとなって造りあげて今も変貌展開を続けている地域として独立しているかのような経済の形態を示したノンフィクションです。
世間の人が低温殺菌に関心も知識もない時代に全国を自ら回って販路を作り、工場を拡張し、牛乳のみならずチーズ工場も作り、小さいながら地元にも認められる優良企業に育てています。
そして、彼の好奇心は牛乳に留まらず、また彼の回りにいろんな人びとが集まって来る中で、葡萄園が出来、ワイナリーが出来、地元大豆の豆腐屋が出来、卵屋が出来、古民家を移築して研修施設が出来、こだわり野菜の農家が増え、焼酎や日本酒も造り…という風に、木次の町の小さな経済はグローバル化に突き進んで行く日本の経済から独立して独自の広がりをゆっくりと重ねているのです。
佐藤忠吉さんの語る言葉はどれもこれも「う~ん」とうならされるものばかりなのだけど、特に私がうなったのは次の言葉です。
「町づくりだの村おこし、地域の活性化とさわいでおりますが、地域は活性化する必要はない。むしろ鎮静化すべきだと思うとります。」
私が以前から言って来た「進歩発展はもうやめよう」という言葉に通じるものがあるという気がします。
また彼は言います。
「20アールの土地があったら、完全自給できます。何が起きても、国がなくなっても、その土地があれば食える。こうでもしない限り、貨幣経済からは自由になれません。」
う~ん、これもすごい!
「私は政府の政策は無視する。研究する必要もない。現場を知らんもんが、農民でないもんが、机の上で計画をたててうまくいくはずがない。お上が決めたことがえらい、という権威主義とは縁をもちたくない」
う~ん、う~ん、すごい!すごい!
政府の政策に振り回されて、ついに振り落とされてしまった私はうなるしかないです。
つらい決断をした直後の私は呻くようにこの本をよみました。
私は佐藤忠吉さんのように地域を動かして行く力量も人望も財力もないので、今更彼の生き方のマネなど出来ないけれど、でも、自分自身の中で「自主独立農民」という生き方を探ってみるのは出来るんじゃないか、と思い始めています。
田んぼは1ヘクタール近くあって、耕作は他人にまかせているけれど、食べる米に不自由しないし、50アールの畑もあるから、まず荒れ放題になっている畑地を少しづつ、ちゃんとした畑にして行って、とりあえず自分の食べるものは極力自分で作ることを目ざそうと思います。
そうして、余ったものを直売所などで販売する。決して「売る」ために単一作物をダーッと作るなんて愚は繰り返すまいと思うのです。
貨幣経済からの自由。政策からの自由。
そういう農業を自分の暮らしの小さな腕で囲える範囲の中だけで確立して行こうと思うのです。
「自主独立農民」として一人きりで立って行きたいと思うのです。
で、今、放置していた家庭菜園の部分に手をつけ始めたところなのだけれど、3年近くの放置の結果、木や竹が生い茂り、伸びた草が絡まり、倒木が横たわり、苦戦しています。ぼちぼちやります。
政策に振り回され、数字に追い回された酪農人生30年から開放されたのだ、と思えば、廃業を前向きにとらえることが出来ます。
渡辺ひろ子『私信 楽農ぐらし』NO.116(2007.6.15発行)より転載
「農村生活」時評11 "緊急事態下の生活をまもる"
「農と人とくらし研究センター」の総会と設立イベントの最中、岩手・宮城内陸地震のニュースが飛び込んできた。昼すぎの時点ではもとより事態がよく判らなかったが、かなりの地震だということはすぐに理解できた。私の住んでいる茨城南部地域はよく、ドンと感じる地震が起こり、やや慣れているが、話の様子で今度は規模が違うようだと感じる。新潟・中越地震のときはたまたま入院中で、ベッドでおとなしく夕方の配膳を待っていた時であり、今もその時の印象が鮮やかだ。この頃、世界でも日本でも地震が多いのではないか。
今度の被害地は岩手と宮城の県境地帯で、そこの被害者も出ているがすぐ西は山形、秋田である。ここは東北地方のいわば背骨にあたり、栗駒山、温泉の観光が主力だが、農業も盛んである。直接の調査対象地ではないが、この麓の稲作生産組織に行ったことがあり、高原の開拓地の大根生産の話を聞いた記憶がある。この災害の様子がテレビ、新聞で連日のように伝えられるので、どうしても阪神・淡路大震災のことを思い出すことになる。
この災害は規模の大きさや近代的な人口密集地での生活破壊として、その後の日本社会に多大の影響を及ぼした。私は当時、教員養成の仕事をしていたので、新一年生対象の生活論的な授業の中で、ただの一コマだけだが、この災害をテーマにして地震対策とともに被害から立ち上がる具体的課題をとりあげた経験がある。ただ一般的に児童・生徒を守る地震対策というのではなく、学校は災害時に住民の避難所として利用されることも多いので、先生候補者にはある程度の問題意識を持っていてもらいたかったのである。同時期に私はいわゆる戦後開拓地における生活建設の歴史をレポートにまとめていて、もとより局面は異なるが、緊急事態下での命のつなぎ方、人間生活ということを考えさせられた。
阪神の時はまず、各地で大変な火災も起きたが、本震がおさまりどうにか安全な空間にのがれた人に必要だったのは"水"であった。そしてケガをされた方には薬が、ついで冬の早朝であり体に羽織るものが、おにぎり、パンなどの軽い口に入れるものが、その日のうちに落ち着ける避難場所という順番ではなかったか。
開拓地の場合には予期せぬ災害と異なり、それなりの覚悟の上だから、やや時間的なゆとりはあってもまず大事なのは水源の確保であった。これが定まらないと住まいの場所がきまらない。簡単な衣類と当座の食べ物は持参したことであろうが、その蓄えのあるうちに雨露をしのぐ仮小屋の建設が当時の緊急課題であった。そこには阪神の時も大問題になったがトイレの確保がついてまわることになる。
私の授業ではリュックに入る程度のボトルの水、保存食、防水用具、きずグスリ、着替え・軍手などの災害対策用品を用意して詰めて行き、教壇上に並べて学生に見せたが、そこではあまり反応も効果もなかったようだ。「稀にしか起きない出来事で生活を語るとは、なんと際物好きの教師だ」と思ったかも知れない。しかし不幸にして、その後日本でも世界でも連続して震災が起きている。今度の地震のことで、彼等のうちでもし学校現場にいたら何かを思い出している者もいるかも知れない。
今の日本人にはあまりピンとこないかもしれないが、世界中にあふれている「難民」の姿を映像で見るにつけ、乳幼児を中心とした不幸を最少限度に止めるために日本として、もっとできることがあるのではないか。そのためにも緊急事態下の救急的な生活システムの構築という問題は、いまなお生活研究の一課題だと思われる。国際的にも災害社会学という分野が活躍しているようだが、そこにもう少し具体的で、生々しい課題を任務とする生活研究の成果と手法が参加すべきではないか。
森川辰夫
この災害は規模の大きさや近代的な人口密集地での生活破壊として、その後の日本社会に多大の影響を及ぼした。私は当時、教員養成の仕事をしていたので、新一年生対象の生活論的な授業の中で、ただの一コマだけだが、この災害をテーマにして地震対策とともに被害から立ち上がる具体的課題をとりあげた経験がある。ただ一般的に児童・生徒を守る地震対策というのではなく、学校は災害時に住民の避難所として利用されることも多いので、先生候補者にはある程度の問題意識を持っていてもらいたかったのである。同時期に私はいわゆる戦後開拓地における生活建設の歴史をレポートにまとめていて、もとより局面は異なるが、緊急事態下での命のつなぎ方、人間生活ということを考えさせられた。
阪神の時はまず、各地で大変な火災も起きたが、本震がおさまりどうにか安全な空間にのがれた人に必要だったのは"水"であった。そしてケガをされた方には薬が、ついで冬の早朝であり体に羽織るものが、おにぎり、パンなどの軽い口に入れるものが、その日のうちに落ち着ける避難場所という順番ではなかったか。
開拓地の場合には予期せぬ災害と異なり、それなりの覚悟の上だから、やや時間的なゆとりはあってもまず大事なのは水源の確保であった。これが定まらないと住まいの場所がきまらない。簡単な衣類と当座の食べ物は持参したことであろうが、その蓄えのあるうちに雨露をしのぐ仮小屋の建設が当時の緊急課題であった。そこには阪神の時も大問題になったがトイレの確保がついてまわることになる。
私の授業ではリュックに入る程度のボトルの水、保存食、防水用具、きずグスリ、着替え・軍手などの災害対策用品を用意して詰めて行き、教壇上に並べて学生に見せたが、そこではあまり反応も効果もなかったようだ。「稀にしか起きない出来事で生活を語るとは、なんと際物好きの教師だ」と思ったかも知れない。しかし不幸にして、その後日本でも世界でも連続して震災が起きている。今度の地震のことで、彼等のうちでもし学校現場にいたら何かを思い出している者もいるかも知れない。
今の日本人にはあまりピンとこないかもしれないが、世界中にあふれている「難民」の姿を映像で見るにつけ、乳幼児を中心とした不幸を最少限度に止めるために日本として、もっとできることがあるのではないか。そのためにも緊急事態下の救急的な生活システムの構築という問題は、いまなお生活研究の一課題だと思われる。国際的にも災害社会学という分野が活躍しているようだが、そこにもう少し具体的で、生々しい課題を任務とする生活研究の成果と手法が参加すべきではないか。
森川辰夫
日替わりスープを楽しむ・たまねぎの季節
たまねぎは味噌汁の実や済まし汁の実にもおいしいもので、ちょっとおかずが足りない時にはたくさん入れておかず代わりにもなりますが、飽きてきたら洋風や中華風にもいかがでしょうか。
だしの代わりにコンソメスープの素を入れて塩・こしょうで味付け。ベーコンやにんじんのせん切りを加えてもよし。じゃが芋を入れて牛乳やクリームシチューの素を入れればボリュームのあるシチュー。カレールウならカレーシチューに。マカロニとトマトを入れてケチャップやトマトソースでイタリアン。しいたけとともに中華スープの素を入れてかたくり粉で閉じれば中華風にと、たまねぎに何かをプラスして調味料を代えるだけで、日替わりのスープが楽しめます。
福田美津枝
『日々の暮らし・日々の食べもの 26』より転載
無職の自分
無職というのは想像以上にこたえます。
「あんたは何者か?」と問われた時、何も答えることが出来ない、自分が何者なのかが「ない」という気がして、とても心もとない感じなのです。アイデンティティの喪失とでも言うのでしょうか。なんとなくお腹のあたりがスカスカした感じです。
こういうのは廃業を決めた時点で予想していませんでした。
人間にとって「仕事」というのは「自分の証明」みたいな意味も持っているのですね。新しい発見でした。
じっくりとこれからの暮らし向きのことを考えて、次の「仕事」の形を作ることを通して、新たな自分を確立して行かなければ…と思います。
30年、自営業やってきたので、今更「お勤め」はツライと思うし、第一「勤め口」もこの歳では見つからないだろうし、それに、出来れば農業から離れたくないとも思っています。
でも、私は今、農業者であることさえ出来ない立場です。とりあえず早急に元夫との間に小作契約を結ばなければ農業をやれません。田畑はかなりあるのだけれど、名義がすべて元夫になっているのです。農地30アール以上所有(小作でもよい)していないと農業者として認められないので。
まず農業者として復活して、そしてどんな農業をやるのか、少しづつ積み上げて行くつもりです。
というわけで、現在の私は無職です。
スカスカの無色の無職です。
渡辺ひろ子『私信 楽農ぐらし』NO.116(2007.6.15発行)より転載
涙笹のかご編み
涙笹のかご、これもクサギと同様、わが地、伊深だけに伝わるものです。
通称「おかめ笹」といわれる笹があります。笹の茎が1本、スーッと伸び、竹のように枝が出なくて、その茎に丸みを帯びた葉がぎっしりつきます。涙笹は、その葉の先が白っぽくなっている笹で、昔は伊深の地を流れる川岸などにたくさん自生していました。
なぜ、葉の先が白く枯れたようになっているかといえば、伊深には、正眼寺という、臨済宗妙心寺派の修験道場のお寺があります。昔、その開祖様である慧玄さんが、天皇に招かれて京へ戻られる時に、伊深の民も別れを惜しみましたが、慧玄さんと一緒に田を起こしたり、遠い関への買い物につき随っていた牛が、別れを惜しんで涙を流した、その涙が傍らにあった笹の葉にかかって、それ以来、その笹の葉の先が白くなった、それをいつの間にか牛の「涙笹」と言うようになったという言い伝えがあります。
そして、伊深では、昔から、この笹を採ってきて、野菜や茶碗などを伏せる籠を編んで、普段の暮らしに使ってきました。わが家にも、お蔵に8個ばかり、このかごがあります。少し前までは、法事や葬式、その他いろいろな人寄りの時には、このかごを出してきて、茶碗や鉢を洗ってふせたり、野菜や芋などを洗って、水を切ったりすることに使っていました。軽いし、大きいし、目が粗いので水切れが良く、重宝したものです。
ところが、最近では、家での人寄りがなくなって、結婚式どころか、法事も葬式も外で行うようになり、このような大きなかごを使うことはめったにありません。いつの間にか、そういうかごがあることも忘れてしまっていました。
昨年の夏頃から、伊深に伝わる食べもの「クサギ」の復活を考えるようになり、クサギを知る会を開いたり、地区の文化祭で展示したりすることが始めてきました。そんな相談事をしているときに、「涙笹のかご」のことが話題になりました。これも伊深に伝わる大事な文化だから、私たちがまず習って、作り方を覚えようではないかということになり、近くのHさんに教えていただくことになりました。Hさんは、かご編みの名人で、昔から実にたくさんのかごを編んできた人でした。
1回目は2月の中頃、午前中に笹を取ってきて葉をむしりとり、用意をして、午後からHさんに教えていただきました。その後もまた2~3回集まって、教えていただいたことを思い出しながら編んでみましたが、もう一度、Hさんにしっかり教えて貰おうということになりました。
かごを編む笹は新しい笹です。古いものだと編んでいるうち、使っているうちに折れてしまうのです。最初に教えて貰った時、採ってきた笹が古いものも多くて、使い物にならない笹がたくさんありました。それで、新しい芽が出る前に古い笹を刈り取っておけば、そこに生えるものはすべて新しい笹になると考えて、草刈機で刈り取って貰い、その刈り取ったものを使って、もう一度教えていただくことにしました(その時に、新聞店のUさんが来て写真を取り、内容を新聞社に伝えてくださって記事になりました。メールで送っている方には届きません。すみません)。
かごを編む時期は、笹が水を吸い上げなくなった11月から3月初めです。その頃を待って、本格的に作り出し、技術を覚えてしまいたいと思っています。
『ひぐらし記』No.21 2008.5.1 福田美津枝・発行 より転載
通称「おかめ笹」といわれる笹があります。笹の茎が1本、スーッと伸び、竹のように枝が出なくて、その茎に丸みを帯びた葉がぎっしりつきます。涙笹は、その葉の先が白っぽくなっている笹で、昔は伊深の地を流れる川岸などにたくさん自生していました。
なぜ、葉の先が白く枯れたようになっているかといえば、伊深には、正眼寺という、臨済宗妙心寺派の修験道場のお寺があります。昔、その開祖様である慧玄さんが、天皇に招かれて京へ戻られる時に、伊深の民も別れを惜しみましたが、慧玄さんと一緒に田を起こしたり、遠い関への買い物につき随っていた牛が、別れを惜しんで涙を流した、その涙が傍らにあった笹の葉にかかって、それ以来、その笹の葉の先が白くなった、それをいつの間にか牛の「涙笹」と言うようになったという言い伝えがあります。
そして、伊深では、昔から、この笹を採ってきて、野菜や茶碗などを伏せる籠を編んで、普段の暮らしに使ってきました。わが家にも、お蔵に8個ばかり、このかごがあります。少し前までは、法事や葬式、その他いろいろな人寄りの時には、このかごを出してきて、茶碗や鉢を洗ってふせたり、野菜や芋などを洗って、水を切ったりすることに使っていました。軽いし、大きいし、目が粗いので水切れが良く、重宝したものです。
ところが、最近では、家での人寄りがなくなって、結婚式どころか、法事も葬式も外で行うようになり、このような大きなかごを使うことはめったにありません。いつの間にか、そういうかごがあることも忘れてしまっていました。
1回目は2月の中頃、午前中に笹を取ってきて葉をむしりとり、用意をして、午後からHさんに教えていただきました。その後もまた2~3回集まって、教えていただいたことを思い出しながら編んでみましたが、もう一度、Hさんにしっかり教えて貰おうということになりました。
かごを編む笹は新しい笹です。古いものだと編んでいるうち、使っているうちに折れてしまうのです。最初に教えて貰った時、採ってきた笹が古いものも多くて、使い物にならない笹がたくさんありました。それで、新しい芽が出る前に古い笹を刈り取っておけば、そこに生えるものはすべて新しい笹になると考えて、草刈機で刈り取って貰い、その刈り取ったものを使って、もう一度教えていただくことにしました(その時に、新聞店のUさんが来て写真を取り、内容を新聞社に伝えてくださって記事になりました。メールで送っている方には届きません。すみません)。
かごを編む時期は、笹が水を吸い上げなくなった11月から3月初めです。その頃を待って、本格的に作り出し、技術を覚えてしまいたいと思っています。
『ひぐらし記』No.21 2008.5.1 福田美津枝・発行 より転載
歩いています
私のケイタイに歩数計がついていて、朝晩の牛舎の仕事だけで毎日1万7~8千歩カウントしていました。牛飼いやめたらきっと2~3千歩程度になるだろうと思って、毎朝1万歩歩くことにしました。これが結構大変で、1万歩歩くのに1時間半かかります。一生懸命歩いて1時間半です。車の少ない道を選んでも朝は通行量がかなり多くて、排気ガス浴びながら歩いています。健康にいいのか悪いのか…。
以前、車で通行中にウォーキングの人を見かけると「ヒマ人が!歩くヒマがあるなら仕事をしろよ!」と思っていました。今、私がヒマ人です。
梅雨入りしました。雨の中を雨具を着てまで歩くのはみっともない気がしてイヤです。雨の日が続いたら、運動不足で足腰弱るだろうし、デブになるだろうし、困ったなぁ。
渡辺ひろ子『私信 楽農ぐらし』NO.116(2007.6.15発行)より転載
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