農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
「農村生活」時評15 "献立はどこへ?"
何か考えている時に、そのテーマに関連する情報に接すると有難いし、なによりも励まされるものである。昔の馴染みの研究者仲間では、お互い、役立ちそうな文献の紹介は日常のことだった。今のような文献検索のシステムが整備される前の話である。隠居生活の今は圧倒的な情報量のTVと新聞中心のくらしだが、乏しい読書の中にドキリとすることもある。この欄で「100」という数字にこだわった話を書いたが、すぐその2.3日後に、地域での読書会の関連で「民族、国民にとって自ら関わった戦争の総括には百年という歳月が必要」という歴史家・文芸評論家の対談を読んで驚いた。
かつて私は「農村生活研究」の手法の一つとして、農家食生活分析のために「献立型」というものを考えたことがある。農村生活にはいまなお多くの解決すべき課題があり、従って独自の研究領域があるはずだが、といっても必ずしも独自の研究手法が開発されてきた訳ではない。隣接する学問の手法を借りて、他人のやらない、いわば地味な問題をていねいに取り組むというのが、率直なところ、この分野の研究の大勢ではなかったか。もちろん私にとっても生活行動の類型化、生活時間、生活リズムなどの手法が独自の積りでも、どこかにルーツはある。この「献立型」のアイディアも出自は家政学であろう。ただ全国の多くの農家事例を対象に長期記録分析も含めていわば全面的に展開を試みたのは、前例がなかったから、ほとんど独自の手法だと思い込んでいた。しかし余程欠陥の多い手法で、その研究成果にもみるべきものがなかったようで、その後、全く関連研究が生まれなかった。それどころかそもそも評価の対象にもならなかった。私の生活時間研究や生活リズム論も不毛で後継者が皆無であることは同じだが、それでも当時研究者仲間で少しは話題になった記憶がある。しかしこの「献立型」はそれもなかった。
そのような経過から私はいろいろな場面で「献立」という言葉をみるとドキリとする。もちろん「型」という手法だけにこだわっている訳ではない。昭和30.40年代の農村生活分析に役立ったとしても、今日の状態は異なる。高度経済成長期を経て日本の食生活が「多様化」して、ついには崩壊しいわば「形無し」になったことが不幸の根源で、「献立」として捉えることさえ困難になっている現状が気になるからである。購入した冷凍餃子でも、単品ではなく「献立」の構成部分になっていれば救われるのだが。
評判のわるい、というより評判にならなかった私の「献立型」諸類型の基本型はごく当り前のもので、ご飯・味噌汁・主菜・副菜というものだが、これが「風倒木」⑭の大学学生食堂の夕食に「登場」して安心した。この献立はもともと高齢者施設の定番であるが、今はそこに色々な工夫と彩りがあってそれぞれ量はわずかでも献立としてはもっと立派なものになっている。
日本列島におけるあるべき食生活の姿を、歴史と風土をふまえて再構築しなければならない時点にきているが、食材としてはやはり米、やさい、魚(海も川も)が基本だろう。かつて私も単身赴任生活の時はこの組み合わせによる実に単純な食事だったし、いまでも孤老の方々の食が、そのようなものと聞く。しかし、当時の農家は丁寧に見ると必ずしもそれだけの、ただ貧しいと表現されるものではなく、かつての農家「献立型」は食材は限られていても、調理法の組み合わせとその毎日と季節変化で食卓は多彩な演出で彩られていたのである。
森川辰夫
そのような経過から私はいろいろな場面で「献立」という言葉をみるとドキリとする。もちろん「型」という手法だけにこだわっている訳ではない。昭和30.40年代の農村生活分析に役立ったとしても、今日の状態は異なる。高度経済成長期を経て日本の食生活が「多様化」して、ついには崩壊しいわば「形無し」になったことが不幸の根源で、「献立」として捉えることさえ困難になっている現状が気になるからである。購入した冷凍餃子でも、単品ではなく「献立」の構成部分になっていれば救われるのだが。
評判のわるい、というより評判にならなかった私の「献立型」諸類型の基本型はごく当り前のもので、ご飯・味噌汁・主菜・副菜というものだが、これが「風倒木」⑭の大学学生食堂の夕食に「登場」して安心した。この献立はもともと高齢者施設の定番であるが、今はそこに色々な工夫と彩りがあってそれぞれ量はわずかでも献立としてはもっと立派なものになっている。
日本列島におけるあるべき食生活の姿を、歴史と風土をふまえて再構築しなければならない時点にきているが、食材としてはやはり米、やさい、魚(海も川も)が基本だろう。かつて私も単身赴任生活の時はこの組み合わせによる実に単純な食事だったし、いまでも孤老の方々の食が、そのようなものと聞く。しかし、当時の農家は丁寧に見ると必ずしもそれだけの、ただ貧しいと表現されるものではなく、かつての農家「献立型」は食材は限られていても、調理法の組み合わせとその毎日と季節変化で食卓は多彩な演出で彩られていたのである。
森川辰夫
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鳥・とり・トリ
おまけに、『とりぱん』というマンガも熱心に読んでます。『とりぱん』というのは「とりのなん子」(もちろんペンネーム)という人が週間マンガ雑誌「モーニング」に連載している4コママンガでコミックがすでに5~6巻出ています。
彼女は独身で岩手県盛岡市(たぶん)の田舎の実家の近所の庭付き一戸建てを借りて一人でくらしているらしい人です。
庭は全部菜園にして、野菜作りとマンガ創作の他は、ずっと鳥を眺めて暮らしている人です。庭に来る様々な鳥たちのためにエサ台をいろいろ手作りし、パンくずやリンゴ、ミカン、バナナなどを乗せて、それをついばみに来る鳥たちを観察してはメシのタネ(マンガ)にしているのです。
なんといううらやましい暮らしだ!
そこで私も、メシのタネには出来ないけれど、鳥を窓辺に呼び寄せる暮らしをしてみようじゃないか、と思いまして、とりあえず、居間の窓辺に茂っているビワの木に小さい板切れを取りつけて、古古古米くらいの古い玄米(虫発生)を盛ってみました。
二日目からスズメがやって来て米をつついています。多い時は、6~7羽が狭いエサ台で喧嘩しながら…。でも、毎日スズメしか来ないなぁ、と寂しく思っていたら、『とりぱん』の作者(北国在住)でも、5~10月の間はエサは置かない、野山にエサがいっぱいあるから、と書いてありました。なるほど。ということは、わが家に今、毎日来て米を食べ尽くすスズメたちって、甘やかしているってことになるのですね。ちょっと反省。
そのエサ台のスズメたちの写真を撮ろうとカメラを手元に用意して待っているのだけれど、ちょっとでも人間が動く気配がすると、パァッと飛びさってしまいます。何度も試みたけど未だに一枚の写真も撮れません。もっとご馳走やらないとダメなのかなぁ、などと思いつつ。
それから、毎朝6時頃から家の近くで高く大きな声でとてもバリエーション豊かな鳴き方をするスズメより大きめな鳥がいて、その鳴き声で目が覚めます。7時になるときまって山の方へ行ってしまうようで急に声が遠くなります。
CDの声の中から特定しようと思うけれど聴きわけられずにいます。そこで、テープに録音しました。今度、鳥のプロ○丸S子さんに会ったらテープを聴いてもらって鳥の名を特定してもらうつもりです。ヒマ人、と自分でも思うけど、名前を知りたいんだもん。
それからそれから、一度、エサ台の近くに「もず」(とおぼしき鳥)がちょっとだけ来ました。モズって「♪も~ずが枯れ木で鳴いていた~」という歌のイメージから冬の鳥と思っていたら夏鳥とありました。へえーっ。
というような毎日をのんべんだらりと送っています。
冬に向かって、鳥のエサ台を増築しようと思っています。
いろいろなお役目を退任して身軽になって、「隠居」の境地に入りつつあります。
郵便物も携帯の着信も減りました。
渡辺ひろ子『私信 づれづれ草』NO.10(2008.8.31発行)より転載
おだやかな表情のゆくえ(下)「先進」国の責任
水牛は耕耘機に取って代わった。村を歩くと、耕耘機のエンジンを使ってポンプで灌漑用水路から田に水をくみ上げている場面に出くわした。なるほど耕耘機には水牛にはないこうした便利な使い方もあるのだ。耕耘機やトラクターは目にしたが、水田は区画整理されているわけではなく、田植え機やコンバインも普及していない。田植えや稲刈りは、人を雇ったり、隣近所の共同作業で行われているという。たまたま共同で苗取りを行っている人々を見かけた。多くの村人と子供が参加した植林の現場に立ち会う機会もあった。村にはまだ多くの人が暮らしていて、暮らしには人手を必要とする作業が残
これから農村開発に携わる途上国からの研修生たちには、生活の様々な問題点の改善に取り組むのはもちろんだが、それだけを考えるのではなく、地域社会がもつ旧来の技術や制度や文化の良い点にも目を向けてほしいと思っている。良い点が何かを住民に問いかけて、それを自覚的に残す取り組みも必要で、そうしたことへの支援も考えてほしい。
日本の戦後の農村がたどった道を今から振り返ると、生活の向上をめざす努力の過程で、期せずして、暮らしの中に息づいていた多くの知恵や技や人々のつながりも一緒に、ブルドーザーのように根こそぎ変えてしまった、という思いがつのる。それは近代化に向けて歩みだした社会がみな辿る必然であり、途上国を支援する先進国の私たちは、とどのつまりは近代化の道を促進する役割を演じているにすぎない、と言ってしまえばそれまでだが、やはり失ったものを惜しむ思いが私には強く、なんとかしたいと思う。
私のこうした意図が研修生にどれほど届いたかは定かでない。ましてや、都市にあこがれる村の少女たちに、私が彼女たちの村を見て抱いた感情は理解できないだろう。私はといえば、家畜が家族の一員のように扱われている暮らしを懐かしみ、人々が共同で汗を流す姿をうらやみ、手入れの行き届いた田畑が織り成す風景を美しいと眺め、農の営みに沿った暮らしがもつ時間の流れののどかさを感じ取っていたのである。
近代化によって何を失う可能性があるかを、私たちは経験から予見することができる。失ったものは二度と取り戻すことはできないが、失ったものを惜しみ、そのかけがえのない価値を思い知る特権を有している。それが先進国の「先進」たる所以である。同じ後悔を繰り返えさせないことは、時代を先取りしている者の側の責任である。それは開発を支援することと同じくらい重い。
都市への強いあこがれを絵にした村の若者たちが、失われた水牛や遊びを描いた年寄りグループの絵を、どのような思いで見つめたのか。いかにも賢そうな少女たちは、この先どんな一生を送り、どんな表情をして、あの老女たちと同じ歳をむかえるのだろうか。タイの山村で出会った年老いた女性たちのおだやかな笑顔は、その一生が彼女たちにとって幸せなものであったことを私たちに語りかけているように思えた。
片倉和人
オバサン化
先日、畜産女性ネットワーク福岡の総会があり、帰りの特急が行橋駅に4時1分前に到着するのにしか乗れないことが行く前からわかったので、家に帰って着替えていたら4時からの仕事(Y牧場でのパート)に大幅に遅れる、とあせりました。で、車に仕事着一式、長靴を乗せて、行橋駅前の駐車場(有料。ただし、24時間で450円。安い!)に置いて電車に。帰りの特急が到着するやいなや、駐車場へ猛ダッシュ。そのまま出発して、何と、Y牧場までの20分ほどの間に車を走らせながら、そして赤信号で止まるちょっとの時間を使って、ジャジャーンと「お着替え」を完了したのでありま~す。対向車の視線を気にしながら、事故を起こさないように注意しながら、ブラウス脱いで仕事用ポロシャツを着て、ズボンも脱いで、仕事ズボンに片足ずつ脚を入れて「エイヤッ」と腰まで引き上げて、スニーカー脱いで、長靴履いて…。
一時的には下半身は下着だけ状態なわけで、こんな時に警察サンの一斉検問なんぞで止められでもしたら、りっぱに『ヘンタイ』だよなぁ、と思いつつ。
ああ、オバサンだよなぁ。オバサンってすごいよなぁ。羞恥心なんて、どこかへ放置してきたお陰で、お仕事はほんの少し遅れただけで済みました。
オバサン化万歳!
渡辺ひろ子『私信 づれづれ草』NO.10(2008.8.31発行)より転載
おだやかな表情のゆくえ(中)若者のビジョンが示すもの
1日目は、初めて顔を合わせた研修生と村人が互いに打ち解けあえるように、ウォームアップの楽しい活動(アクティビティー)に多くの時間を割いた。村人だけでなく、外国人である研修生たちも、初対面の不安を抱いていたからである。すぐに会場は笑い声と笑顔に包まれた。この雰囲気を作り出した時点で私の任務は半分以上終わったようなものだった。
2日目は一日費やして環境点検マップをつくる活動にあてた。午前中は参加者が4つのグループに分かれて、別々のルートに沿って村内を歩いて環境点検を行い、将来に残したい良い点と改善したい問題点を見つけてもらった。用意された昼食をとった後、午後はその結果を地図に落とし込む作業を行った。日中はじっとしていても汗が吹き出る蒸し暑さで、参加者は床にへたりこんで思い思いの格好で作業にあたった。
3日目の午前中は、地区の共有地で植林を行う環境イベントに参加を要請されていた。私たちは、村の有力者が土地を寄贈したという山麓まで車で運ばれて、総勢300人を数える村人や学校の生徒たちに混じって、この地に自生する何種類もの樹木を、草地と化した山肌に植える作業に汗を流した。村人との共同作業は楽しかったが、そのために多くの時間と体力を使った。この日が最終日なので、残り半日でワークショップを締めくくらなければならなかった。
午後の参加者は、仕事のないお年寄りと、月曜日にもかかわらず学校側の配慮で参加が許された女生徒だけで、前の日まで参加していた壮年の男女の顔がいくつか欠けていた。お年寄りのグループと学校の生徒たちのグループに分けることにした。2グループずつ4つのグループを作り、それぞれ共同で一枚の絵を描いてもらうことにした。当初予定していた身体を動かす演劇や、頭を使って行う知的な作業は、暑すぎて酷に思えた。
お年寄りたちのグループには、過去の暮らしの中にはあったが、今はなくなって残念に思っていることを絵にしてもらった。彼らが描いた絵には、水牛とともに田を耕作する姿や寺の境内で鬼ごっこをして遊ぶ子どもたちの様子があった。水牛は耕耘機にとってかわって姿を消し、子どもたちが昔のように寺の境内でいっしょに遊ぶことも少なくなったという。タイの山里の村にも確実に近代化の波は訪れているようだった。ちなみに、鬼ごっこと勝手に訳したが、タイでは日本の鬼にあたるのは虎だという。
他方、若者たちのグループには、構想図(コンセプション・マップ)と称して、村の地図の上に将来の姿(ビジョン)を描いてもらった。利発そうな女生徒たちが描いた村のビジョンには、高層ビルや飛行機、新幹線も登場していた。それは現代の都市の姿そのもので、もし彼女たちの憧れをそのまま表現しているのなら、彼女たちは早晩この草深い村をあとにするだろうと思った。若者たちが描いたビジョンが暗示するのは、このタイの山村もまた日本の過疎の村と同じような道をたどるということなのか。「経済成長」の結果、日本のように山村から人々の姿が消えてしまうことのないことを祈った。
片倉和人
「農村生活」時評14 "食にどうせまるか"
食のあり方についての文章を書こうとしたら、今度の「事故米問題」がドンドン広がっていく。これまで世間で横行する「食品偽装」の主役はいつも民間業者だったが、今度は農林水産省が主役のひとり、いや悪役ないしは脚本家に近い芝居のようである。私なぞ組織の末端にいただけだが農水省OBの立場から、刻々伝えられるニュースに落ち着かない日々で、ここで食のテーマをとりあげるのはいかにも白々しい。しかしこの欄で研究集会の報告をするのは昨年に続きひとつの義務なので、話題提供者の素晴らしい活動の一端を紹介したい。
9月はじめ、仙台市・東北福祉大学ステーションキャンパスにおいて「東北農村生活研究フォーラム・2008セミナー」が亘理農業改良普及センターの河野あけねさんのご尽力で「生産者と消費者を結ぶ~毎日の暮らしに"地産地消"を!」をテーマとして開催された。宮城県農業実践大学校の菅原美代子さんがコーディネーターをつとめ、生産者・消費者・それをつなぐ場の三者の個性的な報告があった。生産者としての洞口とも子さんは重要文化財である「洞口家住宅」を活用して「たてのいえ」という農家レストランと「旬の情報館」という直売所をつくり、名取市内の女性農業者の直売グループを組織して地元量販店に直売コーナーを設け、あわせて「なとり産直ネットワーク」を展開している。つまり今日の農業者として可能な限り消費者との多様な接点をつくり、日々、仙台近郊の都市住民に直接はたらきかけている。そこから提起された課題は、生産者だけではできない、市民へのつなぎ役、両者をむすぶ活動への期待であった。
消費者として登場したのは異色であるが、会場である大学の学生食堂の運営にあたる(株)団塊世代・活動センターの伊藤敏男さんで、この4月にオープンしたばかりだそうだが、ここを拠点とした活動展開の主としてこれからの展望を語られた。この引退中の世代をつかむという今日的な組織づくり、JRと直結した、かつ、市民に開放する大学キャンパスの設計とその活用のあり方、大学生の食育への試み(本集会直後、朝日新聞・9月8日付け、「食育で生活改善」として紹介された)など多面的な展開の可能性には魅力一杯である。さて“つなぐ場”の栗原和子さんは仙台市繁華街に仙台味噌を中心に全国組織「良い食品づくりの会」の食品を提供する老舗店舗、佐々重の社員で、県産大豆によるミソづくり活動、「会」組織の担当者である。その立場から最近の消費者の動向が語られたが、このお店はやや、レベルの高いお客さんが対象のようである。しかしそこからも、今日の消費者の姿が見えてくる。
つまり、みなさんの強調されたのは、普通の市民は食品にたいして特別の誤解とか偏見があるのではなくて、ごく当り前の食品知識に乏しくて食生活のイメージが貧しいことが、根底にあるということであった。もちろん大勢ではないが、ある人々は例えば、菜っ葉のことは知っていてもほうれん草と小松菜の違いはわからない、大衆魚のいわしとあじの区別がつかないということであった。ごく普通の献立を毎日つくる、当り前の食事を準備する生活のコツを身につけることに今の課題があるらしい。生産者も農産物のひと包みごとにレシピをつけるなど努力しているが、こういう消費者を相手にするにはさらに一工夫がいるのかも知れない。
話題提供のなかにあったが、私の知っている範囲の普通の学生食堂は昼食が主体だが、東北福祉大・学食は夕食にも工夫して、「お袋の味」の再現、ご飯・味噌汁・主菜・副菜の献立を用意しているという。学生はその献立を携帯で写し、「ちゃんと食事している」と親に送信して安心させているという。
森川辰夫
消費者として登場したのは異色であるが、会場である大学の学生食堂の運営にあたる(株)団塊世代・活動センターの伊藤敏男さんで、この4月にオープンしたばかりだそうだが、ここを拠点とした活動展開の主としてこれからの展望を語られた。この引退中の世代をつかむという今日的な組織づくり、JRと直結した、かつ、市民に開放する大学キャンパスの設計とその活用のあり方、大学生の食育への試み(本集会直後、朝日新聞・9月8日付け、「食育で生活改善」として紹介された)など多面的な展開の可能性には魅力一杯である。さて“つなぐ場”の栗原和子さんは仙台市繁華街に仙台味噌を中心に全国組織「良い食品づくりの会」の食品を提供する老舗店舗、佐々重の社員で、県産大豆によるミソづくり活動、「会」組織の担当者である。その立場から最近の消費者の動向が語られたが、このお店はやや、レベルの高いお客さんが対象のようである。しかしそこからも、今日の消費者の姿が見えてくる。
つまり、みなさんの強調されたのは、普通の市民は食品にたいして特別の誤解とか偏見があるのではなくて、ごく当り前の食品知識に乏しくて食生活のイメージが貧しいことが、根底にあるということであった。もちろん大勢ではないが、ある人々は例えば、菜っ葉のことは知っていてもほうれん草と小松菜の違いはわからない、大衆魚のいわしとあじの区別がつかないということであった。ごく普通の献立を毎日つくる、当り前の食事を準備する生活のコツを身につけることに今の課題があるらしい。生産者も農産物のひと包みごとにレシピをつけるなど努力しているが、こういう消費者を相手にするにはさらに一工夫がいるのかも知れない。
話題提供のなかにあったが、私の知っている範囲の普通の学生食堂は昼食が主体だが、東北福祉大・学食は夕食にも工夫して、「お袋の味」の再現、ご飯・味噌汁・主菜・副菜の献立を用意しているという。学生はその献立を携帯で写し、「ちゃんと食事している」と親に送信して安心させているという。
森川辰夫
おだやかな表情のゆくえ(上)タイ国の農村を一日歩く
タイ国北部ピサノローク県の山麓にあるバンドン地区の村に、昨年(2007年)8月、私はほとんど何の予備知識もないまま立っていた。二日後にここでJICA(国際協力機構)研修生たちが村人とともに「環境・地域資源点検マップ調査」を実施することになっており、準備のために私は一足先に現地入りした。タイの農村を訪れるのは初めてで、数年前に隣国ラオスの村で生活改善のワークショップを行った経験が唯一の頼りだった。
11名の研修生は、アフリカやアジアの国からJICA集団研修「持続的農村開発」コースに参加している行政官やNGO職員たちである。修士号の取得を目指して、筑波大学大学院で11ヶ月にわたって学び、その間、カセサート大学の協力でタイ国において3週間のインターンシッププログラムが組まれている。研修生たちはチェンマイを訪問した後に、ピサノロークに到着することになっていた。私の役目は、現地演習の指導に当たることであった。研修生たちが日本で学んだ住民参加型むらづくりの方法をタイの農村の現場で実際に使ってみるという試みだった。
歩いて二時間くらいの点検ルートを定めるために、炎天下の村を一日かけて歩き回った。案内役をつめてくれたのは、ピサノロークの農地改革事務所(ALRO)の職員とバンドン地区の村のリーダーたち。タイ語の通訳をつとめてくれた英語のわかる地元大学生メイさんを含め、みなとても協力的だった。この地を実習現場に選び、地元の協力者を手配しておいてくれたカセサート大学農学部のタワンサックさんに感謝した。
立派な家の庭先には決まって、雨水を貯めるコンクリート製の水瓶と衛星放送を受信する黒いパラボラアンテナが、大きさを競うように並んで置かれていた。水瓶は、ユニセフの国際援助で普及したものだそうで、水瓶を使って「なまず」を養殖している家もあった。養殖はJICAのプロジェクトで紹介したとのことだった。山から引かれた水道設備がある区域もあり、料金も高くないそうだが、飲料水はもっぱら水瓶の雨水を使っているという説明だった。
糸取りや製茶を共同で行っている場面に出くわした。一軒の家の庭先で女性たちが数人集まって黄金色の繭を釜で煮て生糸をつむぐ作業を行っていた。この村では養蚕は行っていなくて、繭は他所から購入しているとのことだった。糸を取った後のさなぎの入った洗面器から、二、三個つまみ食いさせてもらった。口に入れて噛むと薄い外皮がぷちっと破れた。中はねっとりと液体状で、昆虫特有のたんぱく質の味がした。製茶の作業場では、携帯用のガスコンロを使って何かの葉を炒っていた。お茶を入れてもらって試飲してみたが、味は日本のお茶とはどこか違うようだった。


たった一日見て回っただけだが、この山麓の村の暮らしぶりは、私が知っているフィリピンやラオスの村と比べて、総じて豊かな印象を受けた。この地の人びとがどんな歴史を辿ってきたのか、私は全く無知である。長生きしても険しい表情の人が少なくない日本と比べて、歳をとった女性たちの表情や物腰がとても穏やかに見えた。ういういしい少女の面影をそのまま残しているように思えた。
片倉和人
11名の研修生は、アフリカやアジアの国からJICA集団研修「持続的農村開発」コースに参加している行政官やNGO職員たちである。修士号の取得を目指して、筑波大学大学院で11ヶ月にわたって学び、その間、カセサート大学の協力でタイ国において3週間のインターンシッププログラムが組まれている。研修生たちはチェンマイを訪問した後に、ピサノロークに到着することになっていた。私の役目は、現地演習の指導に当たることであった。研修生たちが日本で学んだ住民参加型むらづくりの方法をタイの農村の現場で実際に使ってみるという試みだった。
歩いて二時間くらいの点検ルートを定めるために、炎天下の村を一日かけて歩き回った。案内役をつめてくれたのは、ピサノロークの農地改革事務所(ALRO)の職員とバンドン地区の村のリーダーたち。タイ語の通訳をつとめてくれた英語のわかる地元大学生メイさんを含め、みなとても協力的だった。この地を実習現場に選び、地元の協力者を手配しておいてくれたカセサート大学農学部のタワンサックさんに感謝した。
立派な家の庭先には決まって、雨水を貯めるコンクリート製の水瓶と衛星放送を受信する黒いパラボラアンテナが、大きさを競うように並んで置かれていた。水瓶は、ユニセフの国際援助で普及したものだそうで、水瓶を使って「なまず」を養殖している家もあった。養殖はJICAのプロジェクトで紹介したとのことだった。山から引かれた水道設備がある区域もあり、料金も高くないそうだが、飲料水はもっぱら水瓶の雨水を使っているという説明だった。
糸取りや製茶を共同で行っている場面に出くわした。一軒の家の庭先で女性たちが数人集まって黄金色の繭を釜で煮て生糸をつむぐ作業を行っていた。この村では養蚕は行っていなくて、繭は他所から購入しているとのことだった。糸を取った後のさなぎの入った洗面器から、二、三個つまみ食いさせてもらった。口に入れて噛むと薄い外皮がぷちっと破れた。中はねっとりと液体状で、昆虫特有のたんぱく質の味がした。製茶の作業場では、携帯用のガスコンロを使って何かの葉を炒っていた。お茶を入れてもらって試飲してみたが、味は日本のお茶とはどこか違うようだった。
片倉和人
松下竜一さんの演劇・始動
斉藤さんと洋子さん、とても話がはずんでいたから、きっといい芝居になると思います。楽しみです。
渡辺ひろ子『私信 づれづれ草』NO.9(2008.7.31発行)より転載
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