農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
無農薬の本
「もし、病害虫が発生しても、あわてて農薬をまいたりしてはいけない。虫の害など農薬の害に比べれば問題ではない」と書いてありました。ちょっと笑ってしまいました。うーん、しかしねえ、人間の食う分がなくなって、スーパーで野菜買うはめになりそうなんですが・・。
ところで、前に書いた「ソラマメで豆板醤を作る」ってやつ、作りましたよ、どばっと1キロも。
ダッシュ村のホームページ見て、一日がかりで仕込んだけれど、ダッシュ村でも、夏場に表面にカビを発生させていたのでちょっと不安です。うまく出来たら少しずつみんなに味見してもろおうと思っているんだけど、どうなりますことやら。来年の春のお楽しみ・・。
渡辺ひろ子(元・酪農家)『私信 づれづれ草』NO.16(2009.5.30発行)より転載
PR
夏は来ぬ
でもまだ朝晩は肌寒くてコタツをしまうことが出来ずにいます。
ウグイスは、今もそこいら中でさえずり続けてうるさいくらいです。よくもまあ、小さな体であんな大きな声を出し続けられるものだと、感心します。
近所の池に、今年突然アメンボが大量発生です。最近、めっきり減ったといわれるアメンボです。なんで突然の大発生?と考えて、思い当たる理由が一つ。実は昨年末、ある事情で、この池は「池干し」されたのです。
それまで鯉やフナやブラックバスがたくさんいました。池干しで、全滅です。もしかしたら、今まで、アメンボは魚たちに食われていたのかも・・・と思うわけです。
真相はわかりません。池の水面に、雨が降り始めたか?と思うくらいアメンボの波紋が点在してゆれています。
そういえば、ミズスマシも最近みませんねえ。
渡辺ひろ子(元・酪農家)『私信 づれづれ草』NO.16(2009.5.30発行)より転載
りんご可愛いや
台風で落下したりんごとかいうなら、まだ「仕方ないか」とも思うけど、まともに木から収穫したりんごを、こともあろうに堆肥にしているなんて!
りんご農家さんの気持ちを思うと言葉がありません。
スーパーで、ちょっと小ぶりのりんごが14個入って一箱580円でした。全農あおもりと箱に書かれていまいした。青森からの運送費、箱代、スーパーの利益などを考えると、農家にいったいいくら収益があったのでしょう?そこから肥料代、農薬代なども引かれるのです。赤字間違いなしです。
かつて、輸入オレンジによって、みかん農家はみかんのたわわに実る木を泣く泣く伐りました。今度は、キウィやマンゴーによって、りんごの木を伐ることになるのでしょうか。
学生の頃、自治会室に泊まり込みでビラのガリ切り・印刷をして、朝、学生会館の前でビラ撒きをし終わって、眠い目をこすりながら、売店に行き、小さなチーズと紅玉という名の甘酸っぱいりんごを一つずつ買って食べるのが楽しみでした。とてもリッチな気分になれたものでした。
りんごが堆肥にされる時代になりました。我々が求めた豊かさの果てがこれです。りんご農家さん、貧乏な私が時々買うくらいじゃぁ、助けにならないでしょうけど、りんごの木、伐らないでがんばろうよ。
りんごは人を幸せにする果実だよ。
渡辺ひろ子(元・酪農家)『私信 づれづれ草』NO.15(2009.4.20発行)より転載
夏(6~8月)
山の春は息吹の中で、百姓の身は、稲の苗つくり・田植、畑作の段取り、春夏野菜の作付けなど忙しく過す、そして夏。
山の夏は、山々の緑が一段と濃くなってくる。身近に見える山の斜面の杉・檜の濃い緑は、圧迫感すら感じる。山の夏は、杉・檜の濃緑色に沈んでいると言っても良いくらいだ。
この時期、野良は、草との勝負である。草刈の日々という感じになる。このむらの中では、1日中、何処かで草刈の刈払機のエンジン音が響いている。
水田の畦畔率40%という我が家の水田は、米を作るより草を作るといってよいほど、法面の実面積は水張面積を超えている。水田では、田植前、出穂前そして稲刈り前の3回は最低の草刈回数である。さらに、畑の畦、果樹を植えた畑の下草の刈り取りがある。
その上、屋敷周りである。山村の屋敷は傾斜地にあるので道路に面している所は石垣を組んであるが、他の部分は、裾のところだけ土留めの石垣だけで掘り切りである。年に3回は全面的に草を刈らなくてはならない。
こうして、夏の6・7・8月は、常時、何処かで草を刈っているという感じになる。その上、水田では、稗との戦いがある。無農薬稲作ということで除草剤を使わない稲作は、田植をしてから30日以内に2~3回の稗取りの八反返を掛ける。それでも残った稗は、稗が穂を出す前に、手取りで1株1株抜いて回る。結構畦畔に山積みになる。勿論、畑の野菜の中の草取りもある。
この時期、朝夕の田んぼの見回りは日課である。朝、用水口を開けて2時間ほど水を入れて閉める。棚田で水持ちが悪く、しかも用水温が真夏でも12度ぐらいと低いので、短時間に湛水して水口を止める。こうして、7月下旬から8月上旬は稲の出穂期で、この年の稲作はあらまし終わったという感じになる。
夏野菜:キュウリ・トマト・ナスは、5月はじめに定植、収穫がはじまる。キュウリ・トマトは、無農薬のため、雨よけ栽培でないと病気で収穫皆無になる。キュウリは、第1作目の開花が始まる頃、第2作の種を蒔く、第2作の開花が始まる時、第3作の種を蒔く、こうして4作ぐらいつくり、秋まで収穫する。
キュウリは生食以外全て塩漬けにする。これはもっぱら妻久枝の仕事になる。盛期には毎日毎日の塩漬けで、彼女が悲鳴を上げるぐらいになる。しかしこれは、彼女の大切な仕事で、秋に、全て粕漬け(奈良漬)にして歳暮に友人知人へ送る。
夏は、妻久枝にとって大仕事が、蕗の伽羅ぶきの仕上げ、梅干つくりがある。帰農した当初は、親戚などから生梅を求めたが、梅の苗木を植え、育成した結果、150kgも獲れ、全量を梅干にした。
こうした夏は、春からの野良仕事の重なりで、毎年腰痛症を起こし、1週間ぐらい寝込んでいる。これは毎年の行事みたいになっている。
この時期はこのむらの出事が多い。道普請(道路愛護日)、川普請(河川愛護日)、お滝様夏祭り、愛宕様、そして夏休みの子供向けヒラメ(山女)掴み取り大会がある。これらは、日ごろ顔を会わせることが少なくなったこのむらの人たちの交流の場にもなっている。
夏の終わりは、お盆である。8月に入ると墓地の掃除をして、墓に花(しきみ)を山から採ってきて供える。かつては、山の採草地や水田脇にオミナエシ、キキョウ、カルカヤなど盆花が自生していたが、今は、山は植林、水田は基盤整備で面影はない。こうしてお盆の3日が過ぎると、急に、秋めいた風が吹くようになる。そして、秋野菜の種まきがはじまる。
山の夏は、山々の緑が一段と濃くなってくる。身近に見える山の斜面の杉・檜の濃い緑は、圧迫感すら感じる。山の夏は、杉・檜の濃緑色に沈んでいると言っても良いくらいだ。
この時期、野良は、草との勝負である。草刈の日々という感じになる。このむらの中では、1日中、何処かで草刈の刈払機のエンジン音が響いている。
水田の畦畔率40%という我が家の水田は、米を作るより草を作るといってよいほど、法面の実面積は水張面積を超えている。水田では、田植前、出穂前そして稲刈り前の3回は最低の草刈回数である。さらに、畑の畦、果樹を植えた畑の下草の刈り取りがある。
その上、屋敷周りである。山村の屋敷は傾斜地にあるので道路に面している所は石垣を組んであるが、他の部分は、裾のところだけ土留めの石垣だけで掘り切りである。年に3回は全面的に草を刈らなくてはならない。
こうして、夏の6・7・8月は、常時、何処かで草を刈っているという感じになる。その上、水田では、稗との戦いがある。無農薬稲作ということで除草剤を使わない稲作は、田植をしてから30日以内に2~3回の稗取りの八反返を掛ける。それでも残った稗は、稗が穂を出す前に、手取りで1株1株抜いて回る。結構畦畔に山積みになる。勿論、畑の野菜の中の草取りもある。
この時期、朝夕の田んぼの見回りは日課である。朝、用水口を開けて2時間ほど水を入れて閉める。棚田で水持ちが悪く、しかも用水温が真夏でも12度ぐらいと低いので、短時間に湛水して水口を止める。こうして、7月下旬から8月上旬は稲の出穂期で、この年の稲作はあらまし終わったという感じになる。
キュウリは生食以外全て塩漬けにする。これはもっぱら妻久枝の仕事になる。盛期には毎日毎日の塩漬けで、彼女が悲鳴を上げるぐらいになる。しかしこれは、彼女の大切な仕事で、秋に、全て粕漬け(奈良漬)にして歳暮に友人知人へ送る。
夏は、妻久枝にとって大仕事が、蕗の伽羅ぶきの仕上げ、梅干つくりがある。帰農した当初は、親戚などから生梅を求めたが、梅の苗木を植え、育成した結果、150kgも獲れ、全量を梅干にした。
こうした夏は、春からの野良仕事の重なりで、毎年腰痛症を起こし、1週間ぐらい寝込んでいる。これは毎年の行事みたいになっている。
この時期はこのむらの出事が多い。道普請(道路愛護日)、川普請(河川愛護日)、お滝様夏祭り、愛宕様、そして夏休みの子供向けヒラメ(山女)掴み取り大会がある。これらは、日ごろ顔を会わせることが少なくなったこのむらの人たちの交流の場にもなっている。
夏の終わりは、お盆である。8月に入ると墓地の掃除をして、墓に花(しきみ)を山から採ってきて供える。かつては、山の採草地や水田脇にオミナエシ、キキョウ、カルカヤなど盆花が自生していたが、今は、山は植林、水田は基盤整備で面影はない。こうしてお盆の3日が過ぎると、急に、秋めいた風が吹くようになる。そして、秋野菜の種まきがはじまる。
小松展之『あわくら通信』第34号(2008.5.21発行)より転載
「農村生活」時評23 ""衣食住"の再登場"
いまから十数年前だが、私は農水省の東北農業試験場という職場から隣県にある弘前大学へ転出した。年齢のこともあり、かねてより上司に「話があったらなるべく出たほうが良い」といわれていたので、もとより先方の教授会の議決によるものだが、すぐ、この話に乗った経過がある。だが大学といっても行き先が教育学部の家政教室であった。周囲は何も知らないから農学部だと思い込んでいたので、家政というのに驚いたらしい。しかもそのことを送別会の席上紹介した人物が「ご当人は向こうでセーターを編みます」とやって会場の笑いを取ったので、私はいささか憮然とした思いであった。
これが家庭科というものに対する世間の一般的なイメージの表現である。最近のことだが、ある視聴率の高いテレビ番組で、著名なキャスターが「家庭科というのがまだ学校にあるのですか」と質問している場面をみたことがある。読み書き・ソロバンの他に英語もやらなければならないから、邪魔だというわけである。いまの小・中学校の家庭科教育には多くの批判があるが、若者が一人暮らしを始めると、いかにその教育が身に付いていないかが、自他共にリアルにわかるのである。
なんでもこなさなければならない再就職のポストとはいえ、私にはいくらなんでも実際の衣食住の講義や指導はできない。入学早々の新一年生対象の前期には主として家族問題や原論的な講義を試みたが、直面した問題は何が生活にとっての原論か、という古くからの課題である。その頃教員養成課程では「日本国憲法」が必修だったので、憲法25条の生存権を柱にした思い出がある。昨今の憲法論議であらためてこの条文が話題になっているが、授業の狙いとしては間違ってはいなかったと思う。その頃学生による「授業評価」の走りで、学部2位になったこともあるから、ある程度こちらの気持ちが通じたのではないか。
だが、それまでの30年近い研究者生活の「時代」では、世間は止めどない衣食住ばなれ、日常生活軽視の歳月であった。私が中学で家庭科を習った当時のような窮乏生活を脱し、ともかくあまり苦労せずになんとなく暮らせるようになり、暮らしのまわりに面白い事柄が増えたから、人々の関心がそちらに移っていったのである。なんとも荒っぽい表現だが、その後一世代分経過して、やや消費を追いかける暮らしにも疲れ、それにも飽きがきたようである。また昨今の世界情勢で、この日本でも世間の空気が変わってきているらしい。だが、ではその「閉塞感」の出口となると様々な提言があるようである。
基礎情報学が専門という西垣通東大教授の「金融市場の数字より衣食住の細部に深い価値を見いだし、充足感を味わう」という提言(朝日・4.9)に、我田引水で狭い了見によるものだが、大いに共感した。昔から、そしていまも「自給」のことを強調するのは、私なりにこの細部にこだわることへの具体策である。西垣提案はそのこだわりを気のあった仲間と一緒にやれというところにミソがある。この同じことを私の「仲間」に話しても信用されないが、「情報学」の権威のある人がいうと世間に普及するのではないかと期待したい。現代生活にとってはこのテレビ、新聞をはじめ「情報」のことや車などの移動問題などが大問題だが、そのまた基礎にある古くからの土台部分にもっと丁寧に付き合おうという提案である。その土台部分に暮らしの精神というか生活理念というか、人々の心情の核のようなものが含まれているようである。最近心の病というか、それほど大げさでなくとも軽い症状のようなものに悩む人が多いように思う。私にはその克服課題とも、この衣食住問題が繋がるような気がする。
さてこのところ衣食住のことばかり気にしていたら、菊池寛作の「俊寛」をラジオ朗読で聞く機会があった。南海の島に流された俊寛が魚をとり畑を耕して、自分の小屋を建てる生活自立過程の物語をテーマにしていて面白かった。あの歌舞伎の悲劇の主人公とはえらい違いで、いわば生活者としての俊寛である。
これが家庭科というものに対する世間の一般的なイメージの表現である。最近のことだが、ある視聴率の高いテレビ番組で、著名なキャスターが「家庭科というのがまだ学校にあるのですか」と質問している場面をみたことがある。読み書き・ソロバンの他に英語もやらなければならないから、邪魔だというわけである。いまの小・中学校の家庭科教育には多くの批判があるが、若者が一人暮らしを始めると、いかにその教育が身に付いていないかが、自他共にリアルにわかるのである。
なんでもこなさなければならない再就職のポストとはいえ、私にはいくらなんでも実際の衣食住の講義や指導はできない。入学早々の新一年生対象の前期には主として家族問題や原論的な講義を試みたが、直面した問題は何が生活にとっての原論か、という古くからの課題である。その頃教員養成課程では「日本国憲法」が必修だったので、憲法25条の生存権を柱にした思い出がある。昨今の憲法論議であらためてこの条文が話題になっているが、授業の狙いとしては間違ってはいなかったと思う。その頃学生による「授業評価」の走りで、学部2位になったこともあるから、ある程度こちらの気持ちが通じたのではないか。
だが、それまでの30年近い研究者生活の「時代」では、世間は止めどない衣食住ばなれ、日常生活軽視の歳月であった。私が中学で家庭科を習った当時のような窮乏生活を脱し、ともかくあまり苦労せずになんとなく暮らせるようになり、暮らしのまわりに面白い事柄が増えたから、人々の関心がそちらに移っていったのである。なんとも荒っぽい表現だが、その後一世代分経過して、やや消費を追いかける暮らしにも疲れ、それにも飽きがきたようである。また昨今の世界情勢で、この日本でも世間の空気が変わってきているらしい。だが、ではその「閉塞感」の出口となると様々な提言があるようである。
さてこのところ衣食住のことばかり気にしていたら、菊池寛作の「俊寛」をラジオ朗読で聞く機会があった。南海の島に流された俊寛が魚をとり畑を耕して、自分の小屋を建てる生活自立過程の物語をテーマにしていて面白かった。あの歌舞伎の悲劇の主人公とはえらい違いで、いわば生活者としての俊寛である。
森川辰夫
楽しみは
楽しみは 今年生まれた熊鷹の 餌ねだる声 聞き分けしとき三丸 祥子
中津の「鳥プロ ○丸S子さん」として再三登場してきた三丸祥子さんの作品です。短歌ですが、これは『独楽吟』といって、「楽しみは」で始まって「……の時」で終わる形の独特の短歌なのです。
福井の「歴史のみえるまちづくり財団」という団体の主催する「第十四回平成独楽吟」に応募したこの作品が「福井新聞社賞」を受賞したのです!!
さすが、わが鳥師匠!!
それで今回より勝手に実名で願うことにしました。三丸さんは、鳥プロの上に、植物プロであり(実際に、職業訓練校に通って、庭師の資格を取り、仕事にしていた時期もあったから、これは本当に「プロ」です)、虫(蝶やとんぼ)も好きだし、俳句も短歌も詠むとてもすてきな人です。草の根の会のメンバーです。今は熊鷹に夢中です。
3月15日に福井市で授賞式があって、福井まで行ってきて、「来年はみんなで作品応募して、誰か賞を貰ったら、みんなで福井に行こうよ」と言っています。
三丸さん、おめでとう。
ところで、この『独楽吟』なる短歌の形、私は今まで知りませんでした。
「橘 曙覧(たちばな あけみ)」という江戸時代末期の福井の歌人がいて、あ、「あけみ」と言っても男の人です。
この人、生涯に千二百首以上の短歌を残したらしいのですが、とくに『独楽吟』と題した「楽しみは」で始まり「……の時」で終わる連作52首が秀逸なのです。
彼はとても貧乏で、その貧乏な暮らしの中で、日々、小さな喜びや楽しみを見つけて短歌に詠んだのが独楽吟です。
例えば
たのしみは まれに魚烹て 児等皆が うましうましと いひて食ふ時
たのしみは 昼寝せしまに 庭ぬらし ふりたる雨を さめてしる時
たのしみは 常に見なれぬ 鳥の来て 軒遠からぬ 樹に鳴きしとき
というようなのが橘 曙覧の作品です。
彼のことは、福井でもずっと忘れられた存在になっていたそうです。それがにわかに注目されるようになり、福井の町起こしの柱の一つになって来たのには意外なエピソードがあったのです。
1994年、天皇皇后が訪米した時、歓迎式典で当時の大統領クリントンが歓迎スピーチの最後を独楽吟の一首でしめくくったのだそうです。
たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし花の 咲けるを見る時
もちろん、クリントン自身が橘曙覧を知っていたわけじゃなくて、ホワイトハウスのスピーチ起草室の一人が書いた原稿なのですが、彼はハーバード大学でライシャワー教授に学び、ライシャワーから『日本文学選集』(ドナルド・キーン編)を教えられていたので、その中に入っていた独楽吟8首を思い出して、大統領スピーチの原稿に引用したのです、とさ。
日本人からほとんど忘れ去られていた橘曙覧がアメリカから逆輸入のような形で脚光を浴びることになったわけです。
さて、橘曙覧という人は、裕福な商家に生まれながら、生家を出て、定職をもたず、国学者・歌人として生き、藩主からの士官の誘いも断って、極貧の暮らしを選び57歳で死んでいるのですが、彼の独楽吟にも出て来るように、ちゃんと結婚して子どもも6人(うち3人は幼児期に病死)もうけているのです。極貧の自由人にして家庭人でもあった。妻がえらかった、というべきかも…。
「足るを知る」くらし。少しは私もその境地に近づきつつあるかなぁ、と思うのですが、う~ん、まだまだ家の中にモノはあふれているし、スーパーやコンビニにもしょっちゅう行くし…。
まだまだですなぁ。
「楽しみは………の時」と、一日一首へたな独楽吟を詠むことで「足るを知る」暮らしに到達出来るのかもしれないなぁ。
渡辺ひろ子(元・酪農家)『私信 づれづれ草』NO.15(2009.4.20発行)より転載
「農村生活」時評22 "ひとつのマニュアル"
この施設は都市圏に隣接しており大学演習林としては荒廃していたのを、林学占有ではなく生物学研究者のための研究フィールドとして造成し、あわせて苫小牧市民を中心とした都市住民にも親しまれる樹木園的研究拠点に再生させた、あるいは再生させつつある事例である。私は林学の出身ではないが農林業関係の「実習」ならなんでもやらせられた学科なので、学生時代の貴重なある夏、一週間の演習林実習の経験がある。しかしここで森林そのものについて語りたいのではない。この研究林を創った主役の石城謙吉氏の「森林と人間―ある都市近郊林の物語」(岩波新書)を友人から借りて読んでいたら、鋭い「マニュアル」批判の文章にぶつかった。石城氏とこの演習林の直面した課題は正に前例のない事業で、出来合いのマニュアルが林学にも世間にも存在するわけは無い。それは旭山動物園の有名な新展示方式への挑戦でも同じことである。
しかし世間は今、これまでのどの世に比しても画一的なマニュアル全盛時代で、いつもなら私も、氏の具体的で迫力のある指摘を同感するだけで、ただ読み過ごしたであろう。だがこの春、私は自分の仕事に近い分野のひとつのマニュアル本の編集に参加して、難産の末の発刊をホッとして喜んだばかりだった。その人間にとっては、「森林と人間」のひとつひとつの指摘が胸に刺さる思いである。現場では分野の違いも少しはあろうが、一般的にいって確かに良く出来たマニュアルほどそこの人間は頭を使わなくなるかも知れない。そして現場の工夫なくただ機械的な、官僚的な進め方をやれば、そこの現場が荒廃し、結果としてマニュアルの破綻となるだろう。
この欠陥を補うものはその使用書を使う人間の、その目的に対する理念のあり方、担当する事業、活動に対する本当の熱意、やる気の高さというか、活用する構えではないか。私たちの共同して作り上げたマニュアル本は、その点を考慮して前半部分にこれを手にした当人への理念的呼びかけを重視したが、まさにその点についてのスポンサーの理解が得られずに大幅に削除されたので、この考えは必ずしも徹底しなかった。だからできたものには、現場から大いに批判を受けたいと思う。この「森林と人間」のおかげで、想定されるマニュアル批判に対して、少し心の準備ができた。
石城氏の本は森林の歴史、人間による伐採の経過、日本と北海道の森林経営の歴史を踏まえて、今日の森林のありかた、特に都市近郊林をつくる意義を説くにいたる、マニュアルではないひとつの科学論であるが、「新書」という体裁でもあり、よく読めば市民向けの「都市近郊林の造り方」の高度なマニュアル本でもある。そうなると単なるマニュアル本と科学本との差は、一体なんであろうか。ただ単に物事への処し方を判りやすく説明したものと、ひとつの科学思想を説く啓蒙書の違いか。
森川辰夫
ブログ内検索
最新記事
(07/30)
(07/08)
(06/20)
(06/06)
(05/28)
(04/16)
(02/25)
(01/18)
(12/30)
(12/14)
(11/10)
(10/27)
(10/16)
(10/07)
(10/01)
(09/22)
(09/11)
(07/12)
(06/25)
(06/04)
(05/27)
(05/14)
(04/24)
(04/16)
(03/31)