農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
「農村生活」時評③
現役を引退すると、同年輩者同士には遠慮がなくなるが、働いている世代にはあまり意見をいわないようになる。年寄りのみるところでは、いまの世間の姿は尋常ではなく、青壮年の方々は職場をはじめ、色々な局面で我々の経験しなかったような苦労をされているように見えるからである。
日本農村生活学会では、過去50年にわたるシンポジュウムの積み重ねを総括する作業を進めておられるが、私に「農村高齢者問題」の部分の作業をやれと依頼があった。そこであらためてこれまでの経過を眺める機会があった。
この問題はいうまでもなく、生活普及の分野で手がけられたのがそもそもの始まりだが、生活研究分野でも10年ぐらいか、遅れて着手された経過がある。それでもこのテーマについて一定のまとまりが得られた時点で討議しようと大会シンポジウムが開催されたわけだが、研究として先駆的ともいえるし、未熟だったともいえる。その当事者がふりかえるのはいささかはばかりがあるが、当時の研究上の到達点を今日の視点から評価すると、大きな前提として社会保障の面で年金制度も介護方式もかなり整備されるだろう、という予測は甘かったといわざるを得ない。一口でいえば、こんな悪い世の中になるとは思わなかったのである。
しかしこのシンポで農村高齢者固有の課題として、年齢(これはひとつの指標で健康状態などの身体的条件をふくむ)、家族状況、営農の3条件を主要な側面と考えること、その上で高齢者自身の「自立のありかた」を追究したことは先見的であったと考えられる。この中味は現代の条件に則して再検討されるならば今日の研究視点にも活きると思うが、それは現役世代の課題であろう。
先駆的?に農村高齢者研究をやってきて、当時は大変後ろ向きの研究だと職場の偉い人に呼び出されて叱られたが、「百歳万歳」「新老人」の時代となり、印象深い思い出のひとつだ。いまとなればその調査研究の知見は加齢中の私自身の血肉になったことは大変多いし、書いた論文・雑文よりもそれが一番の成果かも知れない。
ある文献に老人の日常生活のすすめとして、三カキすなわち、汗カキ・恥カキ・文章カキというのがあった。これは私向きだと思い、ここ数年心がけてきた。汗カキとは体を動かせであり、恥カキも人前に出ろということであろう。「風倒木」のように文章を書くということはすぐ恥カキに重なり、私の場合はバランスを失う恐れがある。そこで発表しない自分だけの文章をせっせと書くようにしている。それも使用済みの裏紙を使用しているので、誠に無害である。
森川辰夫
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NPO法人 農と人とくらし研究センター
農山漁村のくらしの豊かさとは何でしょうか。くらしを成り立たせるための、自然に働きかけるさまざまな営みや人と人の間の結びつきの中にあるのではないでしょうか。
農山漁村のくらしの形は、時代の流れによって、大きく姿を変えてきました。その間に、農山漁村の人々は何を獲得し、何を失ったのか。また、変わらずに続いているものは何なのでしょうか。農と人とくらし研究センターは、次世代に残さなければならない価値あるものは何かを明らかにするとともに、次世代に伝える方法を探したいと考え、設立されました。
国内および海外の農山漁村での調査研究、情報発信をおこなうとともに、人が集い学びあう場をつくることを通して、農山漁村の人々のくらしと社会に寄与することを目的とします。
NPO法人 農と人とくらし研究センター設立趣旨書(2007年9月20日)より
「開発」・暮らし・文化人類学 No.0000
この面接授業では、開発という用語を「」でくくり、一般的な開発の定義とは、異なる意味を受講生諸君と一緒に考えようとしたものである。授業では、放送大学という性格から、年齢の異なる、様々な経験をもった方々が授業を受けていただいた。中には、国際NGOで現在も活躍されている方、国際協力機構の専門家、青年海外協力隊員だった方、省庁の国際協力担当だった方々などがおられて、授業での討論は、熱の入った議論となり、しばしば、講義をする私が、受講生の議論に説明できないことがあったりした。
文化人類学は、人間の営みを意味する「文化」を地球上のあらゆる地域、民族、生業形態などをもとに比較研究する学問である。文化は、文化人類学では「生活様式」 way of life あるいは design for living という用語で説明される。
地球上には、多様な環境の中で、様々な人びとが暮らしており、そこでの暮らし方は、環境、伝統などに依存してはいるものの“よりよい暮らし”を求めて今日を築いてきた。
このコーナーでは、筆者が歩いてきたわずかな、地球上の人びとの暮らしから学んだことがら、“よりよい暮らし”とはなどをテーマに1枚、あるいは数枚の写真、あるいはつたない私の描いたスケッチなどをもとにフィールドノート、講義ノートをもとに書き記すことにする。
富田祥之亮
「農村生活」時評②
スーパーや大型店が流通を支配していることは日本でも同じである。「流通革命」と称してアメリカ型の市場を目指して到達した姿が、今の日本である。その日本で昨今、農産物を中心に産直や素朴な路上販売、伝統的な自由市場、公設施設における生産者の直接販売などが盛んになった。いわば農業サイドの話題としては唯一といって良いほど、生彩をはなっている。この種の活動が一切、世間に知られず埋もれたままだったら、メディアもネタ不足で困っただろうが、他ならぬ行政も施策の目先を変えることができずに悩んだことだろう。
この分野の活動を支えている主役はいうまでもなく、農村女性である。今では表現の仕方としては評判が悪いが、もっと簡単に昔風にいえば、「農家主婦」の皆さん方のパワーの賜物である。もう少し、リアルに表現すれば、これらの活動の源泉は戦後の農村女性を組織した生活改善グループ活動であり、現在の主役たちは偉大な先輩の遺産を受け継いだ二代目、三代目たちである。そして初代から当代までを直接、指導し、この分野の農業生産と組織の両面にわたり基盤を築いてきた人間は、かつての生活改良普及員である。
男性方は主力の農業生産部門、米とか畜産の生産力向上に死力を尽くしてきた。この活動を家族経営の一員として支えてきた女性は、その外に自家菜園を作ったりささやかな加工品をつくったり、あまり物を販売したりして暮らしを支えてきた。これらは元々、何かに特化することもなく、生活本位の営みであった。それとても訓練なくして社会化することはできない。この地味な小規模な活動が経済社会の変動で、表に現われたが、もとより、実力のある人々で、当然の結果であった。
世間の一部には、戦後の日本の民主化を否定する風潮があるが、この社会が成し遂げた近代化は巨大な遺産である。親や先祖のことをバカにするのは子孫の特権かもしれないが、無知はいただけない。生活改善の仕事は広範囲で、活動の性格上あまり知られていないが、体験者が語ることも大事である。時節柄、戦争体験の継承のはなしを聞くが、わずか二〇年、三〇年前の出来事もはっきりさせておく必要がある。
森川辰夫
都会で大豆を・・・
- 2007/07/25 (Wed)
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農業を学び、研究する日々を送ってきた。外部者として関わるだけではモノ足らず、狭いベランダや庭で小さな畑をしたり、生ごみを堆肥化したりしてきた。少し足を伸ばし、小田原の「あしがら農の会」という有機農業グループでの農作業や味噌造りなどにも参加したりしているが、いかんせん遠いため、予定を調整し、一日がかりで行かなければならないし、そう頻繁にも通えない。農的暮らしには程遠い。それならば、いっそ農村に住めばどうか、と言われてしまえば、言葉もないが、諸般の事情でそうもいかない。
それに、このような時代にこそ、都市に農をもってくる必要があるとも思うのだ。子どもらに、食べものを獲得することの大変さを実感させたい。生命のたくましさ、そしてはかなさを知ること、自然の恵みを味わうと同時に、その自然が思うとおりにならないということを身を以って知ることのできる機会が、都市では決定的に少ない。
ここ数年、空き地を通り過ぎるごとに、ここで何か作れたら、と強く思うようになってきた。そのきっかけは、区の社会福祉協議会が、道路予定地を使って始めた市民農園への参加であった。その市民農園は、堆肥の投入に百万単位のお金をかけたというのに、いつまで経っても道路ができないことに業を煮やした地主が建物を建てるからということで、3年で取りやめとなった。とても残念だったが、こんなやり方があるのか、と感心し、これならほかのところでもできるかも、と思った。
もう一つのきっかけは、もう70をとうに越えた私の母である。千葉の田舎育ちの母は、小さいときから鋤をふるい家業の農業を助けてきた。結婚し、町場に引っ越してきたあとも、庭で畑仕事に励んでいた。20年以上前に、電車と徒歩で1時間弱ほどのところにある住宅地の一角を購入したのだが、そこには何も建てず、大豆作りをしている。宅地を購入した頃には、周辺には緑がたくさん残っていたが、今では回りにどんどん家が建ち、ぽつんと残った緑地となっている。近くに住んでいないので、苗を抜かれたり、といった嫌な思いは時折するようだが、月に1回程度の畑の手入れに、嬉々として出かけている。
収穫した豆は枝豆にしたり、味噌を作ったりしている。肥料も与えず、農薬もまかず、水遣りもしないが、これまで10年以上連作を続けながらも、収穫もまずまず、失敗したことは無いと言う。
まず考えたのが、現在、道路拡張予定のために、建物が壊され、どんどん空き地が増えている外苑東通り沿いである。道路建設が始まるには、まだ10年くらいはかかるだろう。そこで、空き地の管理者である都の道路課に、このような空き地を畑として利用することは可能か、問い合わせてみた。しかし、「土ぼこりなどが舞ったり、ごみを放られたりして、近隣から苦情が来るだろうから、むずかしい」、といわれた。次に、その空き地がある町会の集まりに顔を出してみたが、これもまた反応は良くなかった。結局、空き地には次々にアスファルトが貼られ、ごみを投げ入れられないように、と金網の柵が立てられた。
次に考えたのが、私有の空き地である。所有者は不在なため、連絡方法が見つかりにくいが、幸い、よく通る公園の真向かいの空き地の所有者の連絡先を知ることができ、電話をしてみた。すると、あやしい業者と疑われたようで、にべもなく断られた。「家を建てる予定がありますので」、と言われたが、その後何年経ってもその気配はなく、草ぼうぼうのその土地を通り過ぎるたびに、「ああ、もったいないなあ」と心の中でため息をつく。
このような空き地で、地域の子どもらを中心に、大人も手伝って農業をしてみたらどうだろう。土でどろんこになるだけでも良い。みみずや虫や、いろいろなものと出会うことができるだろう。空き地が、人の集まる場所になる。それだけでも楽しい。
いつ返すことになるかわからない土地なので、お金をかけてはもったいない。大豆は、窒素固定できるので、やせた土地にも育つだろう。サツマイモも肥えた土地ではつるぼけするので、良いかも知れない。でも、大豆の方が、収穫後、味噌造りという加工につながる楽しみがある。もちろん一部はゆでて枝豆で食べるのも楽しいだろう。
都会の空き地で大豆を作り、味噌を作る。その味は格別だろう。できては消える都会の空き地を利用し、ゲリラのように大豆を作る。すぐ身近にぽかっとできた畑に、近所の人はびっくりしつつ、のぞきに来るだろう。ごみなどを捨てられるかもしれないが、それもまた経験だ。収穫物を取られてしまうのは、さすがにたまらないが・・・。
こんなことを考え、何年かが過ぎた。しかし、まだその実現のめぼしは全く立っていない。都会では、土地は資産であり、また固定資産税というお金のかかるものでもある。こんな酔狂な提案に乗るような人はいないかもしれない。でも、町という空間を構成する要素でもある。ドイツなどで街づくりの話しを聞くと、土地は個人のものでありながら、個人だけのものではない。街づくりの計画の中に、個人の土地の利用法も組み込まれている。所有者にとっては不自由なことだろうが、それを受け入れる公共の精神があるのだろう。せめて、空き地を遊ばせておく間だけでも、町を楽しいものにするために利用できるようなシステムが作れないものか。最近、規制緩和で建設が相次ぐ、周りの景色をさえぎるように聳え立つマンションを見ると、ため息がでる。周りの家は日陰になるし、風の通り道も変わるだろう。自分だけ良ければ、と体を張って主張しているかのようだ。
今のところ、めどは立たない。それでも、やりたい。誰か、新宿区近辺で(近辺じゃなくても・・・)、"うちの空き地を"という方がいらしたら、ぜひご一報下さい。
吉野馨子(農と人とくらし研究センター研究員)
言いつづけるには元気がいる(後編)
- 2007/07/10 (Tue)
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日本では「顔の見える商品」と称して生産者の顔写真が貼られた農産物が売られている。なぜそんなことをするのか。視察先のアメリカの農業女性にそう指摘されて、はじめてそのおかしさに気づいたと、参加者の一人が話をした。顔写真のステッカーを作るにはお金がいるし、貼る手間もかかり、食べるときは剥がさなければならない。地産地消とは本来どういうことを指すのか。顔の見える商品とは、近所で採れて、食べる人が作る現場を見知っている農産物をいうのではないか。勘違いは消費者だけでなく、生産者も同罪かもしれない、と。
広告会社に高いお金を払って、牛乳に全く関係のない人に作ってもらうより、自分たち生産者の中から標語(キャッチコピー)を募集した方がきっといいものができるにちがいない。牛乳の宣伝方法についてのこの提案は、その日のみなの議論を集約していた。
消費者との関係をめぐるやりとりを聞いていて、ある書評の一節が私の頭をよぎった。「そもそも情報は伝わらない・・・刺激を受けて『変容』するだけなの」だと、基礎情報学の第一人者が近著(西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』岩波新書)に記しているという。生産者の思いどおりに消費者に分かってもらうことはそう簡単なことではない。そう考えだすとどうしても悲観的な方向に思いは傾いていく。
帰り際に知り合いの酪農経営主と挨拶を交わした。「生産者が言いつづけるほかないのよ」、きっぱりと力強い言葉が彼女から返ってきた。なるほど彼女は、消費者や農政に対して自分の考えを語れる知性や経験だけでなく、言いつづける元気をあわせもっている。新しい知見だけでなく、なにがしかの元気を、私も彼女からもらって会場を後にした。
片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
言いつづけるには元気がいる(前編)
- 2007/07/10 (Tue)
- ■ 農 |
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「全国畜産縦断いきいきネットワーク」という畜種を超えて畜産にたずさわる女性たちの集まりが、2007年7月4日、東京の虎ノ門パストラルを会場に開かれた。4年ほど前に畜産女性起業の調査をしたことがあり、そのときインタビューさせていただいた見知った顔も幾人かみえる。3回目を迎える今年の大会に、全国から集まった畜産経営をいとなむ女性たちは55人で、残りの半数は事務局の社団法人中央畜産会や農水省・畜産団体関係の方々であった。
5つの分科会の一つに私も加えてもらった。「山羊を飼いたいと思っている」と一言いったら、「うちにいるから、あげるよ」と幾人もから声がかかった。子猫でもくれるように、こともなげにいう。さすがは畜産女性たちの集まりだと感心した。
その分科会で「牛乳に相談」というTVコマーシャルが話題になった。生産者の目からみると、あれでは何を言っているかわからない、という。どうやら牛乳の消費拡大のために、酪農生産者の全国組織が広告会社に作らせたものらしい。それは都会の若年層を狙ったものだから仕方ない一面もあるが、そこに生産者の思いはかけらも含まれていない。
牛乳で育ったという若い参加者は、自分は酪農家であると同時に、消費者の一人として畜産について語りたいといい、肉用牛生産にたずさわる女性は、レストランもやっていて、消費者と結びついていることが大切だと感じているという。議論は、消費者の多くが農畜産物の生産の実態を知らなかったり、関心をもっていなかったりすることが問題で、どうしたらその状況を変えられるのだろうか、という方向に絞られていった。
片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
二つの雑誌(下) 出会い
- 2007/06/27 (Wed)
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中村さんの言葉を借りれば、私は中村さんと16年前にすでに出会っていたが、鶴見俊輔さんとは、今回はじめて出会うことができた。
鶴見さんは「上野千鶴子が私の戦争責任を厳しく問い詰めたように、何を聞いてくれてもかまわない」と言って話を終えた。聴衆は20人強で、私が質問の口火を切った。
京都に住んでいたときに何度か講演を聞いたこと、著作を読んでその思想に個人的にとても共鳴したこと、とくに、言うこと(思想)と実際にやること(行為)がかけ離れていない点が大切であることを学んだことを、まずお伝えした。そして、影響の一例として、戦争責任の取り方について、鶴見さんたちの「坊主の会」を真似して、15年間、8月になると丸坊主にしていた自分の体験を披露した。父が日本軍の兵士だったので、私にも何がしかの戦争責任があると感じていたからである。長い前置きをした後、「鶴見先生が他の戦後の日本の知識人と違って私に魅力的に見えたのは、今日のお話のなかで先生は自分の偏見としてUSAを信用していないと繰り返していたが、そのアメリカのプラグマティズムに由来しているのではないか。先生はご自身ではどう思っていますか」と問うた。
鶴見さんは、しばし沈黙した後、「ありがとう」と一言いって、私の質問には直接答えず別のエピソードをいくつか披露された。以後、誰の質問に対しても、直答することなく、関連のありそうな話題や体験談を提供することを繰り返した。講演と質問は三時間に及んだ。会が終わって参加者の一人が私に、「鶴見さんはとても嬉しそうな顔をしていたから、あなたの発言は核心を突いていたのだと思う」と教えてくれた。残念ながら、私は鶴見さんの表情の変化に気づく余裕はなかった。
鶴見さんは、戦後まもなくの著書『アメリカ哲学』の中で、プラグマティズムをあえて訳せば「行為主義」がいいと書いている。私は、鶴見さんが米国から学んだプラグマティズムの思想が戦後の「生活改善運動」のなかにも潜んでいたと思っている。それは米国が育んだ思想の中で最も良質なものである。もしその思想を、生活改善の脈絡の側に手繰り寄せることができるのなら、両者の関係を明らかにして後世に伝えたいと思う。
片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
鶴見さんは「上野千鶴子が私の戦争責任を厳しく問い詰めたように、何を聞いてくれてもかまわない」と言って話を終えた。聴衆は20人強で、私が質問の口火を切った。
京都に住んでいたときに何度か講演を聞いたこと、著作を読んでその思想に個人的にとても共鳴したこと、とくに、言うこと(思想)と実際にやること(行為)がかけ離れていない点が大切であることを学んだことを、まずお伝えした。そして、影響の一例として、戦争責任の取り方について、鶴見さんたちの「坊主の会」を真似して、15年間、8月になると丸坊主にしていた自分の体験を披露した。父が日本軍の兵士だったので、私にも何がしかの戦争責任があると感じていたからである。長い前置きをした後、「鶴見先生が他の戦後の日本の知識人と違って私に魅力的に見えたのは、今日のお話のなかで先生は自分の偏見としてUSAを信用していないと繰り返していたが、そのアメリカのプラグマティズムに由来しているのではないか。先生はご自身ではどう思っていますか」と問うた。
鶴見さんは、しばし沈黙した後、「ありがとう」と一言いって、私の質問には直接答えず別のエピソードをいくつか披露された。以後、誰の質問に対しても、直答することなく、関連のありそうな話題や体験談を提供することを繰り返した。講演と質問は三時間に及んだ。会が終わって参加者の一人が私に、「鶴見さんはとても嬉しそうな顔をしていたから、あなたの発言は核心を突いていたのだと思う」と教えてくれた。残念ながら、私は鶴見さんの表情の変化に気づく余裕はなかった。
鶴見さんは、戦後まもなくの著書『アメリカ哲学』の中で、プラグマティズムをあえて訳せば「行為主義」がいいと書いている。私は、鶴見さんが米国から学んだプラグマティズムの思想が戦後の「生活改善運動」のなかにも潜んでいたと思っている。それは米国が育んだ思想の中で最も良質なものである。もしその思想を、生活改善の脈絡の側に手繰り寄せることができるのなら、両者の関係を明らかにして後世に伝えたいと思う。
片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
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