農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
カテゴリー「■ 風倒木」の記事一覧
- 2024.05.17
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- 2007.08.13
「農村生活」時評②
- 2007.06.25
「農村生活」時評①
- 2007.06.25
コラム「風倒木」について
「農村生活」時評②
7、8月という季節はヨーロッパではバカンスらしい。異常気象のせいか、地球温暖化のひとつの姿か、ヨーロッパ各地の猛暑が伝えられるが、ただそのせいだけでなく、労働慣行というか冬の長い地域の社会全体として、夏のバカンスが定着しているのだろう。先日の外電によると、バカンスのためにパリの街が空っぽになり、その空間をアメリカからの観光客が埋めているという。そしてスーパーに慣れた人々が物珍しく、食料品や日用品を並べた市街地の路上のいちばを見物しているという。日本のテレビにおける諸外国紹介の番組でも、いちばが登場することが多い。外国を知るということは市民の暮らしを知るということであり、それにはいちばがもっともふさわしい。
スーパーや大型店が流通を支配していることは日本でも同じである。「流通革命」と称してアメリカ型の市場を目指して到達した姿が、今の日本である。その日本で昨今、農産物を中心に産直や素朴な路上販売、伝統的な自由市場、公設施設における生産者の直接販売などが盛んになった。いわば農業サイドの話題としては唯一といって良いほど、生彩をはなっている。この種の活動が一切、世間に知られず埋もれたままだったら、メディアもネタ不足で困っただろうが、他ならぬ行政も施策の目先を変えることができずに悩んだことだろう。
この分野の活動を支えている主役はいうまでもなく、農村女性である。今では表現の仕方としては評判が悪いが、もっと簡単に昔風にいえば、「農家主婦」の皆さん方のパワーの賜物である。もう少し、リアルに表現すれば、これらの活動の源泉は戦後の農村女性を組織した生活改善グループ活動であり、現在の主役たちは偉大な先輩の遺産を受け継いだ二代目、三代目たちである。そして初代から当代までを直接、指導し、この分野の農業生産と組織の両面にわたり基盤を築いてきた人間は、かつての生活改良普及員である。
男性方は主力の農業生産部門、米とか畜産の生産力向上に死力を尽くしてきた。この活動を家族経営の一員として支えてきた女性は、その外に自家菜園を作ったりささやかな加工品をつくったり、あまり物を販売したりして暮らしを支えてきた。これらは元々、何かに特化することもなく、生活本位の営みであった。それとても訓練なくして社会化することはできない。この地味な小規模な活動が経済社会の変動で、表に現われたが、もとより、実力のある人々で、当然の結果であった。
世間の一部には、戦後の日本の民主化を否定する風潮があるが、この社会が成し遂げた近代化は巨大な遺産である。親や先祖のことをバカにするのは子孫の特権かもしれないが、無知はいただけない。生活改善の仕事は広範囲で、活動の性格上あまり知られていないが、体験者が語ることも大事である。時節柄、戦争体験の継承のはなしを聞くが、わずか二〇年、三〇年前の出来事もはっきりさせておく必要がある。
森川辰夫
スーパーや大型店が流通を支配していることは日本でも同じである。「流通革命」と称してアメリカ型の市場を目指して到達した姿が、今の日本である。その日本で昨今、農産物を中心に産直や素朴な路上販売、伝統的な自由市場、公設施設における生産者の直接販売などが盛んになった。いわば農業サイドの話題としては唯一といって良いほど、生彩をはなっている。この種の活動が一切、世間に知られず埋もれたままだったら、メディアもネタ不足で困っただろうが、他ならぬ行政も施策の目先を変えることができずに悩んだことだろう。
この分野の活動を支えている主役はいうまでもなく、農村女性である。今では表現の仕方としては評判が悪いが、もっと簡単に昔風にいえば、「農家主婦」の皆さん方のパワーの賜物である。もう少し、リアルに表現すれば、これらの活動の源泉は戦後の農村女性を組織した生活改善グループ活動であり、現在の主役たちは偉大な先輩の遺産を受け継いだ二代目、三代目たちである。そして初代から当代までを直接、指導し、この分野の農業生産と組織の両面にわたり基盤を築いてきた人間は、かつての生活改良普及員である。
男性方は主力の農業生産部門、米とか畜産の生産力向上に死力を尽くしてきた。この活動を家族経営の一員として支えてきた女性は、その外に自家菜園を作ったりささやかな加工品をつくったり、あまり物を販売したりして暮らしを支えてきた。これらは元々、何かに特化することもなく、生活本位の営みであった。それとても訓練なくして社会化することはできない。この地味な小規模な活動が経済社会の変動で、表に現われたが、もとより、実力のある人々で、当然の結果であった。
世間の一部には、戦後の日本の民主化を否定する風潮があるが、この社会が成し遂げた近代化は巨大な遺産である。親や先祖のことをバカにするのは子孫の特権かもしれないが、無知はいただけない。生活改善の仕事は広範囲で、活動の性格上あまり知られていないが、体験者が語ることも大事である。時節柄、戦争体験の継承のはなしを聞くが、わずか二〇年、三〇年前の出来事もはっきりさせておく必要がある。
森川辰夫
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「農村生活」時評①
6月初めの頃か、新幹線新横浜駅で人身事故のあった日、私の住む街の近くのJRで夕刻やはり、人身事故があった。首都圏の鉄道では毎日のように同じことがあって、最早ニュースではないのだろう。私はそれがごく近くの場所だったので、その事情はわからないなりに心が痛んだ。
こういう世相のなかでいわゆる「美しい国」というのはいかにも白々しいと思っていたら、なんと農水省も「美しいふるさとづくり事業」を進めると聞いた。もう、2、30年も前だろう、山村の過疎化が社会問題になり、現役時代には「限界集落」ということばの嵐のなかでなんとか再生を願ってきたが、とうとうこちらが限界人間になってしまった。
高齢者ならぬ、昔の表現でいえば〝もうろくじじい"は世間の隅で大人しくしているのが「期待される人間像」だが、昨今のあまりにひどい世間のようすに、貴重な機会を頂いたので、私の守備範囲の分野について、数々の妄言を書く、いや打つことにしました。
昭和という時代の終わりの頃、「果実日本」誌に「21世紀型の農村生活像」という連載記事を2年間書かせてもらった。21世紀までには十年以上あったので、それまでにはこういうむらのくらしにしたいし、なるだろうというかなり本気の文章をかいた積りである。その文章を、また恥知らずにも何年か後に単行本に納めて出版したのだから、中味が少しでも農村の現場で実現してもらわないと困る立場にある。
むらのくらしの現実についての研究が浅薄だったことはいうまでもないが、それにしても農業・農村の厳しさは予測を超えるし、もっと深刻なのは社会全体の崩れ方のすさまじさではないか。いうまでもなく、むらのくらしは世間の動向と無縁ではない。以前から農村高齢者がつつましいくらしに努めて、作ったコメや野菜だけでなく、僅かな年金をも貯めて都会に住む、すでに働いている息子や娘の家族に仕送りする事例はあったが、それが日本列島における社会一般の姿になるとは思わなかった。21世紀の幕開けをこのような姿で迎えることを予測できた研究者がいたら脱帽したい。
村人を対象にして生活課題を研究することは現役の方々にお任せして、私はこれまでむらや暮らしのなかで学んできたことを、農村だけでなく社会全体に生かす途を考えてみたい。私はすでにあたかも「風倒木」の様な状態にあるが、その上に生える幼木の種子が飛んでくることを期待してしばらく発信していきたい。
森川辰夫
こういう世相のなかでいわゆる「美しい国」というのはいかにも白々しいと思っていたら、なんと農水省も「美しいふるさとづくり事業」を進めると聞いた。もう、2、30年も前だろう、山村の過疎化が社会問題になり、現役時代には「限界集落」ということばの嵐のなかでなんとか再生を願ってきたが、とうとうこちらが限界人間になってしまった。
高齢者ならぬ、昔の表現でいえば〝もうろくじじい"は世間の隅で大人しくしているのが「期待される人間像」だが、昨今のあまりにひどい世間のようすに、貴重な機会を頂いたので、私の守備範囲の分野について、数々の妄言を書く、いや打つことにしました。
昭和という時代の終わりの頃、「果実日本」誌に「21世紀型の農村生活像」という連載記事を2年間書かせてもらった。21世紀までには十年以上あったので、それまでにはこういうむらのくらしにしたいし、なるだろうというかなり本気の文章をかいた積りである。その文章を、また恥知らずにも何年か後に単行本に納めて出版したのだから、中味が少しでも農村の現場で実現してもらわないと困る立場にある。
むらのくらしの現実についての研究が浅薄だったことはいうまでもないが、それにしても農業・農村の厳しさは予測を超えるし、もっと深刻なのは社会全体の崩れ方のすさまじさではないか。いうまでもなく、むらのくらしは世間の動向と無縁ではない。以前から農村高齢者がつつましいくらしに努めて、作ったコメや野菜だけでなく、僅かな年金をも貯めて都会に住む、すでに働いている息子や娘の家族に仕送りする事例はあったが、それが日本列島における社会一般の姿になるとは思わなかった。21世紀の幕開けをこのような姿で迎えることを予測できた研究者がいたら脱帽したい。
村人を対象にして生活課題を研究することは現役の方々にお任せして、私はこれまでむらや暮らしのなかで学んできたことを、農村だけでなく社会全体に生かす途を考えてみたい。私はすでにあたかも「風倒木」の様な状態にあるが、その上に生える幼木の種子が飛んでくることを期待してしばらく発信していきたい。
森川辰夫
コラム「風倒木」について
半世紀近くにわたり農村を歩き、農家主婦の方々の話を聞いて、大量のレポートを書いてきた。自分勝手にまとめたものが多く、「論文」でもなく「聞き書き」でもない、不徹底な代物ばかりで不評のまま現役を退いた。ところが「農村生活研究」分野が消滅する危機に際し、有志による新センターが発足することになり、OBも発言の機会が与えられました。本人は将に倒木状態ですが、ここに茸が生え、成分が分解されて、森の糧となればありがたいと短文をよせることとした。森川辰夫
森川 辰夫(もりかわ よしお)
1936(昭11)年、東京生まれ。小・中・高と過ごし、東京教育大学農学部で菱沼達也に師事。農業改良普及員資格をとり秋田県を受験するが不合格。千葉県農協中央会に就職して、当時の営農指導員育成の仕事を担当。1960年以降、菱沼研究室の助手として勉強のし直しで、成田分室の仕事を担当。この頃は農業労働がテーマで、農村生活研究会に幾度か報告する。大学移転問題の最中、農業技術研究所農村生活科に転勤。生活時間・農家食生活問題に移行し、中国農業試験場ではさらにむら問題もやらされる羽目に。しかしこの時、研究サイドと普及サイドの交流のため、研究室発行の月刊誌「むらのくらし」をつくり、近畿以西の全普及所に送る活動を展開した。東北農業試験場では「農家生活リズム論」をまとめた。つくばの農研センターでは農村高齢者問題に着手し農業総合研究所でも継続したが、まとまらず。プロジェクトとしても実らなかった。再び東北農試に勤めたが「生活者の創る農とくらし」を作っただけになる。農水省退職し(1993.9)、弘前大へ移る。この間の仕事としては、「集落移転後の二十年」「これまでの普及 これからの普及」がある。2001.3に現役を辞めて、100%の年金生活者となる。茨城大の中島紀一教授の勧めで、「農村の暮らしに生活の原型を求める」を書き、話合いをやる(2002.7 刊行)。
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