農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
- 2025.04.19
[PR]
- 2012.09.11
バラ満開
- 2012.06.25
鳥日記(2011.5)
- 2012.06.04
M君、酪農廃業
- 2012.05.27
農地の除染
- 2012.04.24
毛虫
- 2012.04.16
バラ園か藪か
- 2011.06.27
(2011.5.31)
- 2011.05.23
小さな苗木
バラ満開
1年前は藪でした。小さな手鍬一本で、竹、クズ、ヤブガラシ、ギシギシなどの根を掘り、大きな石もたくさん掘り出し、半年かけて草一本ない畑にしました。
次女は薬剤師として岡山で働いていたのですが、うつを患って、いろいろあって家に連れ戻し、もう4年あまり引きこもり状態でした。去年の春、突然、「バラ園を造る」と開墾を始め、毎日、ほぼ一日中外で作業をするようになり、近所のおばさんたちとも親しく会話できるようになり、バラが咲き始めた5月、ついに就職しました。
祖母の最後を看取ったこともあって、ヘルパー2級の資格を取る気になり、4月に講座に通い、資格を取りました。しかし、就職となると薬剤師の経歴がけっこう重く、「なぜ、高給がとれるのに、薬剤師の仕事をしないのか」と不審がられたり、また、介護施設はどこも「夜勤」があって、「夜勤は無理」という次女の望むようなパート勤務は簡単に見つかりません。
そんな時、有光さんのお仲間の安部住職が理事長をされている犀川学園という知的障害者施設にお世話になることになり、「夜勤は無理」と言いつつ夜勤も何とかやっています。
毎日、帰宅するともうぐったりで、バラの手入れどころではなくなってしまったけれど、一ヶ月続いたので、ちょっと希望もてるかなぁ、とハラハラしながら話聞き役に徹しています。
バラの花がら摘みや消毒や草取りも娘に代わって私がやります。「仕事がザツ」と文句言われながらやっています。
満開のバラに囲まれて、道を通る近所の人たちに「きれいねえ」とか言われたりしたかったのだろうけど、でも、社会人として再出発できたことの方がどれだけ娘の人生にとって大事なことか、と思うのです。給料は薬剤師の頃の3分の1くらいだけど、でも、前を向いて歩いてくれれば、それだけでいい、と思うのです。
「バラ園」造りがとてもいいリハビリになったのだなぁと、炎天下でしゃがみこんで竹やクズの根と格闘していた去年の次女の姿を思い出しています。
ところで、老人介護施設や障がい者施設などの職員の仕事というのは、肉体的・精神的に本当に重労働なのに、給料が低すぎると思います。福祉国家とは名ばかりで、高速道路造ったり軍艦や戦闘機を買ったりする方に税金をつぎ込んで、福祉の現場で働く人たちは家族を養えないような低賃金のままです。彼らを支えているのは使命感なのでしょうか。
それに甘えている「政治」に、私たちはもっと怒るべきです。民主党の「モノから人へ」なんて、うそっぱちじゃねえか!
渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.43(2012.5.31発行)より転載
鳥日記(2011.5)
よく疲れないものだと感心します。よくノドがつぶれないものだと感心します。あれはメスへのラブコールなのでしょうか。縄張り宣言なのでしょうか。いずれにしても、オスという生き物は大変です。
いつも同じ距離から同じ時間に撮るので、似たような写真ばかりになり、娘からバカにされます。でも、毎日「今日は出ているかな?」「おっ、いた!」とついついカメラを取り出すわけで、同じ大きさ、同じアングルのウサギちゃん写真がどんどん増えていくばかりです。
しかしまあ、このウサギちゃん、車がガンガン通る道路に面した田んぼでのんびりお食事の毎日って、警戒心なさすぎじゃないの?
渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.35(2011.5.31発行)より転載
M君、酪農廃業
船迫という地区はかつては酪農がとても盛んな集落で、私がここに来て酪農を始めた頃は、船迫全戸で60戸くらいの集落の中に酪農家が11戸もありました。あれから35年、今回のM君廃業で最後の1戸が消えました。
築城は当時からレタスの特産地で、牛飼いの我々はレタス農家の庭先を回ってレタスの外葉を回収して(もちろんタダ)牛に食わせて乳を搾っていました。冬場の半年はレタスと稲わらだけで粗飼料は十分でした。脂肪率3.0の時代の話です。レタス農家に「牛飼いはええなぁ。タダの物食わせて乳でもうけて、おまけにクソまで金にする」と言われていました。
時代は変わり、乳脂肪率が3.5だの3.6だのと誰の意向か知らないけど、どんどん引き上げられ、レタスで牛飼いは出来なくなりました。輸入乾草で牛を飼うのが常識のようになり、みるみる収支残高は減っていきました。円高・円安などというどうにもならない情勢に振り回される不安定な経営が農家を疲弊させ、精神を荒廃させて行きました。
今、ホルスタインの乳脂肪率はほぼ4.0以上です。牛自体がそういうものに「品種改良」されてしまって、元には戻せないらしいです。それが経営安定につながるのではなく、経営基盤を弱らせ、収入を減らし、廃業や倒産を促進しているとしたら、それは「改良」とは言えないのでは?
稲わらとレタスの外葉、いわば産業廃棄物の有効利用で営んでいた酪農。それは収入の過多という意味とは別の「豊かさ」を示していたように思います。
日本の酪農の将来がどうなろうと、私の知ったこっちゃないけれど、かつて一緒に汗を流した仲間たちが次々と借金返済不能で倒産廃業に追い込まれていくのを見るのはつらいし、こんな風に農家を押しつぶして平気な国が栄え続けるはずがない!と腹が立つのです。
渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.41(2012.2.29発行)より転載
農地の除染
いったん放射性物質が大量に降り注いでしまった以上、汚染された土壌を取り除く以外に方法はないのでしょう。仕方のないことだと思います。
でも、「汚染された土を削り取る」ということがなにを意味するのか、私たちはもう一度よく考えてみるべきだと思います。田畑の土というのは、単に無機物と有機物の混合物ではないのです。親やその親やそのまた親や何代もの農民たちの血と汗と涙を重ねて出来上がった、いわば歴史そのものだと思うのです。
本紙の前身である「楽農ぐらし」に以前書いたことなのですが、かつて酪農の大先輩だったおばちゃんが、田んぼの基盤整備工事の後でこう話してくれました。「基盤整備の工事でうちの田んぼの上土が○○の田んぼに行ってしまった。取られてしまった。悔しい。あの田んぼには牛の堆肥をせっせと入れてきた。車も行かん狭いあぜ道をリヤカーで運んだ。雨や雪でぬかるんだ時にはソリに乗せて引いて行った。そうやって堆肥で肥やした大事な土がみんな他所の田に乗ってしまった。○○に取られてしまった。悔しい。わしゃ、○○に〈西から風が吹いてきたら、わしの恨みの風と思え!〉と言ってやった。」
基盤整備工事というのは、あちこちに散らばっている小さな変則的な形の田を出来るだけそれぞれ一ヶ所に集約して四角にして農作業がし易いようにする事業です。だから、自分の田が元の位置に必ずしもなるわけではないのです。このおばちゃんの丹精込めた田のあった位置は○○さんに割り当てられる結果になったのです。仕方のないことですが、おばちゃんのいう「悔しさ」は分かるような気がしました。
農民にとっての田畑の土はそういう重い意味を持っているものです。歴史です。文化です。いのちの連なりです。
そういうものを放射能で汚したのだということを、東電も政治家も役人も財界人も、ちゃんと認識しなくてはいけないと思うのです。汚染された土を取り除けば、それでいいという問題ではないということを、金で補償すればいいという問題ではないということを、ちゃんと思い知らねばならないと思うのです。
ヤツ等はそんなこと少しも分かろうとしていない!
せっかく脱原発が見えてきたというのに、世論を「やっぱり原発は必要だ」という方向に引き戻す口実が出来たようで、ヤバイです。
一家に一冊、松下竜一さんの『暗闇の思想』を!
『私信 づれづれ草』NO.40(2012.1.16発行)より転載
毛虫
医者は見るなり「チャドクガです」
帰って図鑑を見ると「ツバキ・サザンカに付く」とありました。朝顔のそばにサザンカの木があります。おそるおそる近づいてみると、一箇所に毛虫の塊りが…。うおっ、おぞましや!
早速、殺虫剤を買いに行きました。「最大4メートル飛ぶ」と書かれているスプレーを買いました。出来るだけ近づきたくないと思って。でも、実際には、1メートルくらいしか飛ばない感じで、よくよくかけようと50センチくらいまで近づいて散布。翌日見に行ったら毛虫はいないようだったので、薬が効いたのでしょう。
私も娘も、毛虫を見て「きゃーっ」と叫ぶほどではないのですが、毒蛾の幼虫って怖いですねぇ。今後は気をつけよう。
もう一つ毛虫の話。プランターに植えていたパンジーの葉を数匹の毛虫がぼりぼり食い漁っています。黒に赤いトゲトゲのケバイ毛虫です。図鑑で調べたら「ツマグロヒョウモン」というよくみかけるきれいな蝶の幼虫でした。きれいな蝶だから許してやろう、と食い漁るままにしていたら、そのうちの2匹がサナギになりました。きらきら光る点々が付いたサナギです。先日、そのうちの一つが羽化するところを娘が見つけました。もう一つはまだサナギのままです。今度は私も立ち会いたいと思って、日に何度も見ています。
渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.36(2011.7.4発行)より転載
バラ園か藪か
ここはもともとが竹藪だった土地なので、耕作しないと、あっという間に藪に戻って行きます。切っても切っても、草と竹がどんどん茂ってきて、気力が萎えまして「見ないことにしよう」と2年ほど放置していました。(その結果、どういう状態になっているかは、とても言葉では言えません)
うちの次女はこころの病で仕事も辞めて自宅療養3年目です。その次女が最近、ガーデニングなどを少々やり始めまして、特にバラに熱中しています。家の表の花壇は限られたスペースしかないので、余り多くのバラを植えられません。そこで目をつけたのが、藪と化しつつある裏の土地です。道路に近い一角を「開墾」し始めました。
次女はトラクターも草刈機も使えません。クワも使ったことがありません。貝堀りの熊手をもうちょっと頑丈にしたような道具で、地面にへばりついて、こつこつと開墾しています。竹・クズ・ヤブガラシなどの密生していた所を私が草刈機で切りました。その後をこつこつ掘って、根を掘り出しています。冬がバラの植え替えにいい時期だから、それまでに何度か出た芽を掘り出し、また出た芽を掘り出しするのだと張り切っています。
ここがたくさんのバラが咲き乱れる花園になるまで、彼女の気持ちが折れずにいてくれれば、家でごろごろしているより、ずっと健康的でいいのですが…。
「ここがバラ園になっても、人に見えないから、竹や草を切ってよ」とせっつかれて、私も草刈機を背負う日が増えています。
さてさて、ここがバラの花園になるか、竹藪が我が家の軒先まで迫り来るか、数年後のお楽しみというところです。
ところで、娘がコツコツ開墾しているのを近所のおいちゃん・おばちゃんたちが見て「おねえちゃん、がんばりよるねぇ。バラがいっぱい咲くのを楽しみにしとるよ」と言ってくれるのはいいのだけれど、その後に続けて「でも、気をつけりよ。この場所はあんた方がここを買ってブルで押した時に、マムシの巣があって、バケツいっぱいのマムシが捕れたんやけぇ」と誰も彼もが「忠告」して下さるので、娘はかなりびびっています。
40年近く前のことなのに、みんなよく覚えているんですねぇ。
渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.36(2011.7.4発行)より転載
(2011.5.31)
みなさん、お寒うございます。6月に言う挨拶でもないと思いつつ、でもやっぱり、寒いですよねぇ。
台風2号、沖縄の映像はすごかったですねぇ。人が道路をびゅーっと滑って、ガンとモノにぶち当たったり。台風慣れしている沖縄の人も驚く強風だったようです。アメリカの竜巻もすごいし、何だか最近、自然の猛威の前に人間の存在の小ささを思い知らされる事象が続いています。「人間よ、もう少し謙虚になれーっ」と天が吠えている気がします。
ところで、福島の原発事故、ひどいですねぇ。あとからあとから隠されていたものが小出しに出てきて、事態が事故発生当初から相当深刻なものだったこと、東電も政府もそれを認識しながら隠蔽し、出来れば隠したままコトを終息させたいとあがいていたことなどが明白になりつつあります。その間に多くの作業員や住民が大量の放射能を被爆させられていたのですよねぇ、これってもう犯罪ですよ。事故直後に東京の亀戸で福島原発の建屋と同じレベルの放射能を計測した、なんてことが2ヶ月も経って公表されるって、どういう国なの?
農産物などに関して「風評被害」という言い方がされます。あたかも「実害はないのに、消費者が過剰反応して売れない」かのような言い方ですが、現実問題としてどこの野菜にどれほどの放射性物質が付着しているか分からない今の状況を「絶対安全」なんて言えないでしょう。
5月30日の朝日新聞の俳壇に福島市の人の句で「春の牛 空気を食べて 被爆した」というのが載っていました。
すべて、東電と政府が身を切って賠償すべきです。会社の資産も役員の資産や給与もみんな吐き出させるべきだし、国も政党助成金や防衛費やらもゼロにして原発事故被災者救済に当てるのが当然だろ? 東電リストラで役員報酬を半分にカットした結果、それでも社長は日当換算で20万円とかいうウワサ。マジ? 日当1万円に釣られて日雇いのおいちゃんたちが福島原発に連れて行かれているというのに…。東電役員たち、お前らが現場に行け! 建屋に入って作業しろ! 原発推進してきた政治家たちも、原発安全のお墨付きを与え続けた学者も裁判官もみんな現場に行って、作業しろ! 責任とれ!
というような威勢のいい言葉も、しかし、危険な原発を止める力を持ち得なかった私たち自身へと撥ね返ってくるのです。原発が危険なものだということを「知らなかった」という人たちの罪も小さくはないと思います。知らないことの罪をいいかげんに自覚すべきでしょう。
左掲の新聞記事(※)、象徴的だなあ、とため息とともに読みました。多くの人達ががんばってがんばって築き上げ、一歩一歩前に進めてきた「もの」や「こと」が原発事故によって砕かれてしまいました。がんばってきた「生意気な嫁」たちは今、避難した先で身を小さく暮らしているのでしょうね。みんなで村に帰れる日が来るといいのですが…。
チェルノブイリのあの荒涼とした「村の跡」が飯舘村の25年後の姿でないことを祈る思いでいます。
※2011.5.19 朝日新聞記事より「生意気な嫁」を育てた村 浜田陽太郎
原発事故による計画避難が始まった福島県飯舘村で22年前、「若妻の翼」という村の単独事業が始まった。
40歳代までの女性に、10日間、欧州旅行をしてもらう。
日程は、わざと農繁期の秋に組まれた。その方が、家族にとって、ふだんは黙々と働く「お嫁さん」のありがたさが身にしみる。
行く方も、家族の了解を得るハードルが高い。自己負担の10万円も安くはない。それでも行くには、「家族円満が保てないのでは」という、引っ込み思案のカラを何枚も破らねばならない。
旅から戻ると、今度は「嫁が生意気になった」という評判が立つ。「少し指導して下さい」という投書が役場に届いたこともある。
しかし、村長や担当者は動じない。なぜなら、「せっかくカラを破りだした女性を自粛させては、税金をドブに捨てるに等しい」からだ。
5年で91人が訪欧した事業を、酪農家兼公民館長として支えたのが、現村長の菅野典雄さん(64)だ。そのエッセーに経緯が詳しい。
「男女平等を嫌う」「頭たたき、足ひっぱりが常識」。こんな田舎の現状を直視した菅野さんは、危機感を持つ。
「言いたいことを言い、したいことができる女性を増やすのが特効薬」と見定めて、事業に取り組んだ。
飯舘村はいま1人の女性が生涯に産む子どもの平均が1.85人で県内一だ。「女を不幸にして、男だけが幸せになれない」という時代認識がカギだったと思う。
2005年に日本が人口減少に転じたことを取材しながら、「少子化が始まった30年前から、こうなるのは予想されていたのに、なぜ有効な手が打てないのか」という疑問を抱いていた。
これに対する納得のいく答えを、飯舘村の「若妻の翼」に見る思いだ。要するに、現実から目を背けず、対策を立てるかどうかなのだ。
原発でも同じような構図が見える。「危険だし、事故は起きうる」という事実に目をつむり、必要な対策を怠ってきた。現実を見ようとせず、「安全神話」に慣らされてきた。私も、その一人である。
いま、放射能禍が「生意気な嫁」を大切にしてきた飯舘村を襲っている。美しい田園風景は何も変わらないだけに、罪深さはかえって際立つ。でも、丁寧に紡がれた共同体は、きっとまとまりを保ってくれるに違いない。(社会保障社説担当)
渡辺ひろ子(元・酪農家)
『私信 づれづれ草』NO.35(2011.5.31発行)より転載
小さな苗木
帰ってすぐに、素焼きの植木鉢に植えてせっせと水やりをしました。秋になると葉を落とし、マッチ棒状になり、それも枯れてしまったように見えました。あ~あ、やっぱりダメだったか…。なにしろ、ゴムの木だって、サボテンだって枯らしてしまった過去の実績を持つ私です。すっかり、あきらめていました。
ところがどっこい、ルイさんの石はルイさんの意志と同じに強くて、その石の強さが、傍らに芽吹いた雑木にも受け継がれていたかのように、春の日差しを受けると、小さな若芽を吹いたのです。
ルイさんが「おひさしぶり!」と言っているみたいで、うれしい!
ルイさん、枯らさないようにちゃんと水やりするからね。きっと大きな木に育ってよ。
『私信 づれづれ草』NO.34(2011.4.27発行)より転載