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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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坑口をひらく(前編)

 「筑豊の中の闇を根拠地に」という副題がついた旅に参加して、はじめて北九州・筑豊炭鉱の地を訪れた。2009年10月の3日間、横川輝雄さんの案内によりバスで炭鉱跡をみてまわった。横川さんは筑豊で24年間地理を教えていた元高校教師である。車窓から、まわりに水田をたずさえてゆったりと流れる遠賀川がみえる。のどかな風景をみて、かつて修学旅行で訪れた飛鳥の地を思いだした。国のまほろばの趣を呈している。
 しかし、遠賀川の水は真っ黒で、その川の中で遊んだと、子どものころを振りかえって韓国籍の李京植さんは語った。李さんは昭和16年の太平洋戦争の開始後に父母と兄とともに慶尚北道から3歳で海を渡ってきた。話を聞かなければ、全く想像できなかった。地下採掘は地表陥没などの鉱害をもたらし、炭鉱は農業にも大きなダメージを与えた。今の田畑は、復旧工事を経て取り戻された姿なのだろう。農民から炭鉱労働者になった人も少なくないと思うが、炭鉱夫を差別したのは主にその土地の農業にたずさわる人たちだったという。
 石炭から石油への転換により、最盛期に300を数えた筑豊の炭坑は相次いで閉山した。「エネルギー革命」の名のもと、政策として炭鉱はつぶされたのだ。ガスや水が出て危険だからと、通産省は、坑口から70m埋め戻すことを義務付けたという。その時から、すでに半世紀がたつ。炭鉱の跡地は今は原野に戻ったり、住宅地に変わっていて、かつてそこに炭鉱があったことさえ容易にうかがえない。かつての地名が、バス停の名前にしか残っていない所もあった。ボタ山も緑に覆われ、教えてもらわないとそれと気づかない。わずかに残る炭住や炭鉱の痕跡を訪ねてまわった。炭鉱の跡地や公園の片隅に人知れず碑がたっている。炭鉱跡をまわるツアーは、さながら慰霊碑をめぐる巡礼の旅のようだった。
 昭和35年、豪雨で川底が抜け坑道に水が入り67名が水没。遺体が今も1900mの地底に眠る上尊鉱業豊州炭鉱の「慰霊碑」。台風で倒れて伐採された切り株の横に「朝鮮民主主義人民共和国帰国者記念樹」と刻まれた小さな石碑。1959年12月、古河鉱業大峰炭鉱に強制連行された人たちが、帰国事業で北朝鮮へ帰る際に日本に残る同胞のために朝日友好親善を願って役場の前に植樹した。旧三井鉱山田川伊田坑跡の石炭記念公園内には、3つの碑が建っている。日本に徴用・強制連行され、二度と故国の地を踏むことなく逝った同胞を悼む「韓国人徴用犠牲者慰霊碑」。15年戦争末期、強制連行され炭鉱で亡くなった「強制連行中国人殉難者 鎮魂の碑」。その隣に「田川地区 炭鉱殉職者慰霊之碑」。
 昭和20年9月17日、敗戦直後に襲った枕崎台風。その日、停電の坑内に電気のスイッチを切るために入った朝鮮人少年が昇降せず、心配して相次いで入坑した日本人も戻らなかった「真岡炭鉱第三抗 殉職者慰霊之碑」。昭和56年の建立時に不詳だった少年の名が判明し、3人の日本人名の横に今年(2009年)新たに刻まれた。姜相求という強制連行された韓国人の少年だった。大正3年に起きた日本最大の炭鉱事故。ガス爆発では消火のため坑内に水を入れる。死者667人。その数はカンテラの数で推定、実際はもっと多いはずという三菱鉱業「方城炭坑罹災者招魂之碑」。その隣に、昭和7年に従業員たちが建てた子供を抱く「観世音菩薩」像。先山、後山として夫婦で作業していた犠牲者も多く、孤児70人を数えたという。
 昭和45年の閉山までに520人の犠牲者を出したと印される平成6年建立の明治鉱業「赤池炭鉱殉職者鎮魂碑」。先の大戦で日本の捕虜となり、この地で亡くなった連合軍捕虜をまつった「十字架の塔」。日本炭鉱が連合軍の戦犯調査委員到着前に慌てて造った塔で、日炭高松炭鉱にはオランダ人800人、イギリス人250人、アメリカ人70人が送られてきたという。1987年に公民館前に再建された「謝恩碑」と「俵口和一郎頌徳碑」。昭和10年、露天掘りが終わるのを機に、貝島大之浦炭鉱の朝鮮人労働者たちが会社の待遇に感謝して建立したとされる。坑長個人を称えるなら、会社側にも建てろ、との圧力があったのだろう。彼らの心の内を想えば、この碑もまた、謝恩碑というより、慰霊碑にみえる。大之浦炭鉱があった町はずれの谷合にたつ炭鉱犠牲者「復権の塔」。塔の完成に奔放したという牧師の服部団次郎さんは、筑豊は本土の中の沖縄であり、この塔は沖縄のひめゆりの塔と対に思える、と書いている。炭坑施設が跡形もなく消える中、消防所裏に移転された狛犬の台座に刻まれている明治鉱業「平山鉱業所職員労務員一同」の文字。ガス探知のために坑内で命を絶った小鳥たちを供養する「小鳥塚」。
 多くの慰霊碑の前に立った。炭坑事故で亡くなった日本人、朝鮮人、中国人、連合軍捕虜たち。差別は炭鉱にも及んだ。被差別部落の出身者は大手の炭鉱では雇ってもらえず、より条件の悪い中小の炭鉱での労働を強いられ、また立場の弱い部落の地に坑口が築かれたという。だが、反面、炭鉱労働者には、過去を問わないルールがあり、お互い分け合い助け合うという一面もあった。地上では喧嘩をしても、地下では死をともにする仲だったからだ。
 ほとんどすべての坑口は埋め戻されている。しかし、今でも目にすることができる坑口が、かろうじて1本だけ民家の庭の片隅に残っていた。地下水を利用するという目的で、許可を得て家族が総出で排気坑を掘り返したのだという。その坑口から斜坑を数メートル下ると、すぐそこまで水がついていた。横川さんは問いかける。炭鉱の闇を想像してみてください。星明りすら届かない本当の闇がどんなものかを。
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(左:坑夫 右:坑口)

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
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農と人とくらし研究センター

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