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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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坑口をひらく(後編)

 PARC(アジア太平洋資料センター)の小池菜採さんが企画したこのツアーに私が参加したのは、若かりし日に影響を受けた谷川雁が大正行動隊と闘争を組んだ地を一度みておきたかったからである。森崎和江著『闘いとエロス』を1冊だけ鞄に入れて出かけた。現地集合は飯塚だったが、少し早めに筑豊入りし、大正炭鉱があった中間市に途中下車した。ひとりでふらっと立ち寄っただけでは、どこに炭鉱があったのかすらわからない。とりあえず歴史民俗資料館を覗いてみた。大正鉱業中鶴炭坑の簡単な説明とともに、坑内で使われた道具類と石炭が展示されていた。石炭を見るのは久しぶりだった。小学校の教室の、だるまストーブで燃える石炭の匂いを思い出した。炭鉱の闇を凝縮しているかのように、石炭は黒光りしていた。
 ツアーの案内役の横川輝雄さんは69歳。大学生のとき、新聞部員として、大正炭鉱の炭住に一緒に生活していた森崎和江さんと谷川雁を訪ね、原稿を依頼したことがあるという。そこで、売血で飢えをしのぎ、ぶよぶよに朽ちた畳の炭住にくらす失業者を目の当たりにした。高校教師になってしばらくしてから自ら志すようにして筑豊に赴任した。修学旅行に行っても、どこから来たと聞かれ、筑豊だと率直に明かせない子どもたち。筑豊の、田川の、炭鉱にしっかりと眼を向ける教育に力を注いだ。死ぬまで付き合いがあったという上野英信の志を継いでいた。上野をして筆をとらしめたもの、それは「むなしく朽ちはててゆく坑夫たちの歯をくいしばった沈黙であり、・・・組織されずにたおれてゆく坑夫たちのにぎりしめた拳である。危機の波にのって石炭産業は退いてゆく。しかし、坑夫たちはその無限の深みの底にいる。そこへもぐり、彼らの眼をもたぬ魚のような魂のなかに入ってゆかねばならぬ。」(『追われゆく抗夫たち』1960年、岩波新書)
 旅の終わりに、お世話になった横川さんに、参加者が一人ひとり感想を述べる機会があった。「炭坑夫の誇りを取り戻すために、もう一度石炭を掘ることはできないのだろうか」と私は自問の言葉を口にした。石炭産業と同じように、かつて一時代を画した蚕糸業の跡地に私は暮らしている。かつて300を数えた製糸工場は、1工場のみ今も奇跡的に糸を繰っている。しかし、養蚕は、岡谷で最後の農家が蚕を飼うのをやめて25年がたつ。なんとか養蚕を復活できないかと、ちょうど考えていたので、石炭の場合はどうなんだろうとの思いつきからだった。
 横川さんは、感心してくれたのか、「50年もほったらかしで再興は難しいが、炭鉱をもう一度興してみよう」と答えてくださった。筑豊のヤマが相次いで閉山してすでに半世紀がたつ。炭鉱と養蚕とでは復活の困難さの違いは歴然である。大それたことを口にしてしまったと自分の軽率さを後悔した。
 旅から帰って、水也(みずや)という名の叔父のことを母にたずねた。たしか母の次兄は炭鉱で亡くなったと聞いていたからである。「みずにい」は終戦後まもなく仕事がなくて常磐炭田に働きに行き若くして亡くなったと、封印された記憶の底からしぼり出すように母は語った。落盤事故での圧死だった。もう少ししたら景気も良くなったから炭鉱に働きに行くこともなかったのに、と悔やんだ。次兄に続き、4歳のとき死別した母親のことを語り、母親代わりだった姉も相次いで結核で亡くしたことに及んで、言葉に詰まって絶句した。埋め戻された坑口がこじ開けられ、半世紀の時を経て現れた暗闇をみつめかえすような目をしていた。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
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