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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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栗原幸夫さんへの手紙

 私は二十代のとき、自分が体験したことがない戦争やファシズムについて考える機会があり、戦後と戦中の間にはどうしても越えられない断絶があるのではないか、と感じてきました。沖縄戦や満蒙開拓団の集団自決の出来事を知ったとき、頭で理解するだけでは何か足りないのではないか。「生」に価値をおく戦後の私たちの世界からは、戦中の日本は「死」の共同体とでも呼ぶほかない、閉ざされた別の世界に見えるのではないか。戦争を潜り抜けた世代は、二つの世界に身をおき、一身にして二生を生きているのではないか、そう考えてきました。
 そのとき以来、私は戦争の時代を体験した父親に聞いてみたいことがありました。半年だけ軍隊にいたことのある父は、人を殺したことがあるだろうかと。でも、それを聞けないまま三十年近くたちました。幸いにも、父は八十四歳でまだ健在です。
 2009年11月16日PARCの戦後史自主クラスにおいて、栗原さんは、たぶん私の発言を意識して、経験と体験は違うとおっしゃってくれたのだと思います。体験は個人的・直接肉体的なものだが、経験は他人に伝えられるように継承化・論理化されたもので、だから、体験がなくても想像力があれば経験することはできるのだと。
watage.jpg その後、ブログに掲載していただいた「彼方からの手紙」を読み、坂口安吾の天皇制論を知り、その卓抜さに目が開かれました。私はきっとこの理解を一生忘れることはないと思います。続いて「惰性化した日常の外へ」も読みました。池田浩士の歴史に向き合う姿勢について述べている箇所で、次の文章に出会いました。
 ナチズムとか「大東亜戦争」のような出来事を、その結果が誰の目にも明らかになった後から批判し否定するのは容易だが、「われわれにとって重要なのは、そのような『事後の視線』から過去の出来事を断罪することではない。わたしたちは検事や裁判官のように『裁く者』ではないのだ。むしろ歴史の共犯者としての被告あるいは被告になりうる者なのである。・・・被告だけが生活者であり行動する者なのだ。・・・被告だけが自分の行為の責任を問われる資格を持っている。」
 父に対して口に出してどうしても問う気になれなかった理由が、この文章を読んで分かりました。「人を殺すことは、いけないことだ」という戦後の価値観から断罪しているようで、気が引けたのです。そして同時に、この文章を読んで、全く別な気分に自分がなっているのに気づきました。すぐに父に向かって、口を開きました。「戦争は殺し合いだけど、オヤジさんは軍隊にいたとき、人を殺さなければならない、ということがあったのか」と。なんのためらいもなく直截に聞くことができました。三十年の自縛が解けた瞬間でした。私には、私もまた「歴史の共犯者としての被告あるいは被告になりうる者」なのだ、という想像力が欠けていたのです。答えは、私が予期していた通りのものでした。お礼を一言いいたくて、筆を取りました。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
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