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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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二つの雑誌(中) 終刊号

 2日の午後は、鶴見俊輔さんから話を聞いた。白内障の手術後で体調が心配されたが、鶴見さんは思ったより元気な様子で、「私が考える戦後の岐路」という与えられた題目にとらわれることなく、現代史の問題をたてるときには自分を含んでいることが大切であると言って、個人史を中心に語られ、最後は、用意してきたという雑誌『朝鮮人』の話で締めくくった。在日朝鮮人の強制送還の装置だった大村収容所が役割を終えたのは、残念ながら、市民運動の成果というより、必要がなくなったからで、韓国が豊かになり、収容される韓国・朝鮮人がいなくなったからだという。
 雑誌『朝鮮人』は、1969年7月「任錫均氏を支援する会」の機関紙として創刊された。創刊直後、内紛により会は解散し、第2号から故飯沼二郎さんが主催する個人誌となった。任氏は韓国で政治運動を行い、死刑の宣告を受けて日本に逃げてきた人で、会は日本政府が密入国者として彼を本国に強制送還するのを阻止するために結成された。当時、朝鮮人をめぐる日本人の市民運動はまだ皆無の時代で、この運動を通して、飯沼さんは「見えなかった人々が見えてきた」と述懐している。当時飯沼さんは今の私と同じ51歳、鶴見さんは47歳だった。ちなみに、西洋農業経済史に関する飯沼さんの講義を、私は大学生のときに受けた記憶がある。この雑誌に「大村収容所を廃止するために」という副題をつけることを提案したのは鶴見さんである。
 21年間続いた『朝鮮人』の終刊号で、「終刊の辞」を飯沼二郎さんは次のように結んでいる。
 はじめから私は、二〇号まで出すといいふらしていた。私には、もともと意志薄弱なところがあり、個人雑誌を出しても、おそらく二、三号で止めてしまうにちがいないと思われたので、そのような自分を縛る意味で二〇号まで出すといいふらしたのである。そして二〇号に達したとき、私はその「公約」に従って二〇号で廃刊にしようとした。しかし、実は、そのことが、大村収容所を廃止するという本当の「公約」からの違反であることに気づかなかった。
 その提案者である鶴見さんは、大村収容所が廃止されるまで出しつづけるということで、二一号以後の発行を引き受けられた。その生存中に廃止にならなければ、息子さんが発行をつづけるということであった。そして遂に今日、その廃止をみとどけて『朝鮮人』を廃刊ということになったのである。これこそ真に「公約」の履行であり、鶴見さんに較べて、自分の不誠実さを、いやというほど思い知らされている。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)
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