農・人・くらし
NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム
稲との関わり
稲を作るということを、種を播いて刈り取りをして米にして食べると単純に云うことはできない。その過程での一定の手順、即ち栽培管理が必要である。
私は、このむらで生まれ百姓の息子として国民学校初等科終了まで暮らしたので、一通りのことは子供なりに見ており、苗取り田植などを手伝ってきた。
学生として、農学を学び、社会人として農林省農業技術研究所において稲作収量の成立過程の解析研究の一端に関わることで稲体の生育・発育についての知見を得ることができ、富山県の農協の現場で地区の様々な立地条件での稲の収量を高める技術対策に講じ、更に、埼玉県農協連の技術担当職員として県内の稲作安定と収量500kgどり対策等で現場技術に関わってきた。
こうして、社会生活の出発から60歳で中国山地の「あわくら」で百姓を始めるまで何らかの形で稲と関わってきた。百姓をすること、稲を作ることには何の不安も躊躇もなかった。稲作技術について知識としては十分に会得しているという自覚があった。
しかしながら、百姓として自らが苗を作り、田植をし、生育管理をして、収穫・調整そして食べるということは、全く初仕事であった。
この様な経緯の中で1990年「あわくら」での私の稲作は始まった。
小松展之
『あわくら通信』第35号(2009.10.10発行)より転載
私は、このむらで生まれ百姓の息子として国民学校初等科終了まで暮らしたので、一通りのことは子供なりに見ており、苗取り田植などを手伝ってきた。
学生として、農学を学び、社会人として農林省農業技術研究所において稲作収量の成立過程の解析研究の一端に関わることで稲体の生育・発育についての知見を得ることができ、富山県の農協の現場で地区の様々な立地条件での稲の収量を高める技術対策に講じ、更に、埼玉県農協連の技術担当職員として県内の稲作安定と収量500kgどり対策等で現場技術に関わってきた。
こうして、社会生活の出発から60歳で中国山地の「あわくら」で百姓を始めるまで何らかの形で稲と関わってきた。百姓をすること、稲を作ることには何の不安も躊躇もなかった。稲作技術について知識としては十分に会得しているという自覚があった。
しかしながら、百姓として自らが苗を作り、田植をし、生育管理をして、収穫・調整そして食べるということは、全く初仕事であった。
この様な経緯の中で1990年「あわくら」での私の稲作は始まった。
小松展之
『あわくら通信』第35号(2009.10.10発行)より転載
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