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農・人・くらし

NPO法人 農と人とくらし研究センター コラム

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くらし様々

patch.jpg このむらでの春夏秋冬を繰り返して年月を重ねて16年をくらしてきた。山のくらしの四季は鮮烈で強烈であった。その鮮烈さも年月の繰り返しの中で馴染んで融けこんで当たり前の日常となった。こうして山の人間になるのである。
 それでも、初春の満作、こぶし、山桜に始まる山の四季は何者にも代え難い宝であった。そうしたなかで、くらしの中心は百姓である。
 農業に係わる仕事で定年を迎えながら、自らが百姓をするのは還暦を迎えてはじめてであった。春3月に水稲の苗づくりから始まり田植え、生育管理、収穫調整という稲つくりは、丹念に記録を積み上げて稲作ノートは15冊になった。6年を経過した1996年から稲作技術設定をおこない、レンゲ稲作に到達した。
 堆肥の散布に始まったが、畑の4分の1程度は常時空けておかないと適期に作付けできないことを経験則で学び、1995年頃には夏期に27品目、冬期に13品目程度に絞って、それだけの自給で旬を十分楽しめるようになった。堆肥と鶏糞による土づくりは、年間、堆肥を10a当たり20~30t入れ、自然の循環系の中での農業生産として試行錯誤を繰り返し、それなりの到達点に達した。稲作・野菜作については、章をあらためて詳述したい。
 百姓仕事の裏方は草刈である。山の農地は、棚田、段々畑で畦畔率が40%にもなり、田畑で作物を作るより畦畔の草刈管理のほうが重労働で時間も多くとられるような百姓になる。定年帰農の百姓にとっては晴耕雨読は夢のまた夢であった。
 雨の日は、体力回復の休養日以外の何者でもなかった。夢中になって仕事をして腕に金属疲労をおこし、リュウマチ症かと思い病院で外科にかかったこともあり、夏6月と秋11月に腰痛症を起こすのが例年のこととなった。2003年秋に起こした腰痛症は、座骨神経痛になり4ヶ月もの闘病となった。私にとって、74歳の年齢は百姓くらしの限界を悟らせる仕掛けとなった。
 百姓のくらしは、自らが作物を作って、自らが食べるということであるが、作物を食べ物に変えるのは妻久枝の役割であった。それを農産加工といった。
 当初は手当たり次第といってもよかった。蕗の薹、ワラビ、ゼンマイ、山椒の若芽、蕗、山椒の実、ぐみ、梅、キュウリ、ナス、紫蘇の実、栗、イチジク、柚子、冬イチゴ等々これらは、佃煮、粕漬、砂糖煮、漬物、ジャム、果実酒に変わるのである。やがてりんごも加わる。これらは自家産、山野採取であるが当初は近所から貰うもの、購入するものもあった。
 それでも、味、好み、体力などから絞られてきて、農産加工品として定着し、友人たちにも贈って喜ばれた品は、伽羅蕗、梅干、キュウリ粕漬、栗の渋皮煮、イチジク酢砂糖煮、柚子ジャムなどであった。
 こうした山の谷間での百姓のくらしは、体力勝負ではあるが、春夏秋冬を通じて十分に楽しめる日々が過せた。それは1989年11月16日から2005年3月8日までの15年4ヶ月22日であった。
 こうした中で、百姓のくらしから、村(地域)へとくらしの範囲が広がっていった。
 村選挙管理委員長、村財政改革審議会長、村区長会長、村社協評議員、村障害者計画策定委員、村老連副会長等を受けるなかで地域との関わりを深めていったが、この村で10年を過ぎても地域との距離は中々埋まらなかった。これは、日々のくらしの基準:座標の原点の違いにあるようであった。
 妻久枝は1990年の生活協同組合の村(地域)運営委員長をうけ、村内各地の人達、美作地域ブロックの人達との交流があり、地域に溶け込むのが早かった。これらの中から、パッチワークサークルが生まれ、毎年秋の村の文化祭に、仲間で作品を展示して、会場を彩り好評を得ていた。

小松展之『あわくら通信』第34号(2008.5.21発行)より転載
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